旧石器時代(BC11000年以前)
この時代、米子平野の大部分は未だ海中か湿地帯
前期旧石器時代
 (約200万年前-約10万年前)
この時代には、日本列島に人類は住んでいなかったと推測されている。
列島が大陸と陸続きになった時期は、およそ63万年前、43万年前、18万年前、2万年前の4回が想定されている。
中期旧石器時代
 (約9ないし7.5万年前~約3.5万年前)
ヴュルム氷期(ウィスコンシン氷期)
およそ7万年前にはじまり1万6千年前に終了した一番新しい氷期。
この氷期時代には、海水面は今より120m低かったと推測されている。
後期旧石器時代
 (約3.5万年前-BC約11000)
BC
35000頃
この時代から、日本列島に人類が住んだ遺跡や遺物が多く発見されている。
BC
30000頃
日本各地で石器の製造がさかんとなる。
BC
18000頃
氷河期が最盛期をむかえ、海面が下降。日本列島は北と西で大陸と地続きとなり、日本海は大きな湖となる。
BC
16000頃
ウルム氷河期の終焉 海水面は今より120m以上低かったと推測されている。
以後海進が進む。
BC
11000頃
ヤンガードリアス期 最終氷期が終わって後氷期に移行する時に大きな「寒の戻り」がおこり一時的に氷期のような寒冷な気候になった。この時期はヤンガードリアス期と呼ばれている。


縄文時代(BC11000年-BC300年)
縄文草創期 (BC11000-8000)
BC
11000頃
縄文海進の始まり 温暖化が進行し、氷河が溶けて海水面が上昇し、海が陸地に進入してきた。
BC
8500
東日本ではじめて押圧縄文・回転縄文の土器が作られ、以後定着する。
縄文早期 (BC8000-4000)
縄文海進 はじめの頃は、現在よりも気温2度ほど低く、海水面も30メートルほど低かった。
その後、海水面の高さが戻る。
BC
8500
土偶 長野県・茅野市・尖石(とがりいし)遺跡 「縄文ビーナス」(土偶)が作られる。
BC
4300
鬼界カルデラ 南九州の海底火山 「鬼界カルデラ」 が大噴火を起こし、火山灰が日本の気候に影響をおよぼす。
BC
4100頃
縄文海進の最高期 海抜5m-6mに海水面上昇。
縄文前期 (BC4000-3000)
BC
4000頃
縄文海退の始まり はじめの頃、縄文海進のピークを迎える。海面は今より3~5メートル高かった。気温も現在より2度程度高く、以後海水面は低下。
BC
3500頃
三内丸山遺跡 縄文時代前期中頃から中期末葉(BC3500年~BC2000年頃)の大規模集落跡。
縄文中期 (BC3000-2000)
海岸線ほぼ現在に近くなる。陸稲稲作開始。
BC
2600
硬玉 新潟県糸魚川市・長者ケ原遺跡 新潟県西部から富山県東部の姫(ひめ)川を中心とした地域で、硬玉(硬度のたかい翡翠)を大量加工するムラがあらわれ、各地に供給するようになる。
縄文後期 (BC2000-1000)
大型貝塚。内陸地域にも貝塚が出来ていた。
BC1600頃 殷王朝 最終的に紀元前11世紀に周に滅ぼされた。
(しょう)とも言われる。
BC1500頃 青銅器 中国大陸で青銅器の使用が始まる。
BC1100頃 周(西周)建国
(殷の滅亡)
殷の末期、地方豪族であった周の武帝は父文帝の時代に得た人材太公望の働きにより勢力をたくわえていた。周の武帝、牧野(ぼくや)の戦いに勝利して殷を滅ぼす。
縄文晩期 (BC1000-800)
気温2度前後低下。海面も低下。
BC1000頃 朝鮮半島で農耕社会が形成される。
BC
800
遮光器土偶 秋田県・仙北町・星の宮遺跡 青森県・木造町・亀ケ岡遺跡 遮光器土偶が作られる。西日本の以後、土器から縄文が消える。


弥生時代(BC300頃-AD300頃
弥生早期 (BC800年-BC500年頃)
BC770 春秋時代 中国では、異民族の侵入により周の力がおとろえ、群雄自割拠の時代となる。
BC770年、周の幽王が犬戎に殺され洛邑(成周)へ都を移してから、晋が三国(韓、魏、趙)に分裂したBC403年まで。
  BC473 呉 滅亡 越が呉を滅ぼす。(呉:BC585-BC473)
BC403 戦国時代 戦国の七雄が現れる。(秦・楚・斉・燕・趙・魏・韓)
乱れた世を憂えて孔子、孟子など諸氏百家が輩出。
  BC334 越 滅亡 楚が越を滅ぼす。(越:BC600頃-BC334)
弥生前期(BC500年頃-BC200年頃)
BC
300年頃
目久美遺跡 米子市目久美町(米子駅裏)付近の加茂川沿いで水田耕作。
BC221 秦、中国統一 秦の始皇帝が中国を統一。
BC219 徐福伝説 始皇帝、方士の徐福に命じて東海のかなたにあるとされる不老不死の仙薬を探させる。
弥生中期(BC200-AD50頃)
BC
200年頃
池上曽根遺跡 大阪府和泉市、池上曽根遺跡周辺に人が暮らし始める。
以後環壕集落を形成。
AD150年頃、池上曽根遺跡衰退。
BC
200年頃
吉野ヶ里遺跡 佐賀県吉野ヶ里に人が暮らし始める。
  AD100年頃、環壕集落が作られる。
  AD100年頃、吉野ヶ里最盛期。(約60ha )
  AD250年頃、吉野ヶ里衰退。
BC206 秦、滅亡 陳勝・呉広の乱が広まり、秦滅亡。
BC202 前漢成立 劉邦が漢王朝を樹立。
BC
100年頃
唐古・鍵遺跡 奈良県磯城郡、唐古・鍵遺跡周辺に人が暮らし始める。
以後環壕集落を形成。(約20ha)
AD150年頃、唐古・鍵遺跡は衰退するが、まき向遺跡周辺に移行したものと考えられています。
BC108
楽浪郡設置 7代皇帝、武帝(劉徹)が朝鮮半島西部にあった衛氏朝鮮を滅ぼし,現在の平壌付近に楽浪郡を設置。
BC97頃
史記編纂 司馬遷が史記を編纂。
BC27 ローマ帝国成立
AD0年頃 妻木晩田黎明期 妻木晩田に人が暮らし始める
青木遺跡 米子市永江、青木に人が暮らし始める。
新、建国 前漢の外戚であった王莽が前漢最後の皇太子の孺子嬰より禅譲を受けて「新」を立てた。
25 後漢成立 光武帝が後漢を樹立。
中期末   角田遺跡  淀江町稲吉角田遺跡から絵画のある大壺が発見され、この時代のもの考えられている。
絵画:銅鐸、倉庫、高殿の建築物、構造船。


弥生後期(AD50頃-AD200頃)
57年 光武帝 没  光武帝死去。
57年 金印受領 倭の奴国王、後漢の光武帝より金印受領.。
107年 倭面土国王「帥升」 倭面土国王「帥升」等、後漢「安帝」に遣使し、生口(せいこう:奴隷)を献ずる。【後漢書東夷伝より】
122年 素戔嗚尊誕生? 原田常治氏の神社伝承史学からの説。真偽は全く不明。
150年 妻木晩田最盛期 妻木晩田の人口増加
総面積170haに及ぶ日本最大級の環壕集落・遺跡群。
中でも、仙谷1号墳は、1辺約15m、高さ2mの最大の四隅突出型墳丘墓。
150年 出雲王朝発展期 この頃、出雲に四隅突出型墳丘墓が広まる。
出雲地方の発展期とも考えられています。
150年 まき向遺跡 奈良県櫻井市、まき向遺跡周辺に村落が形成される。
  200年代中半頃最盛期を迎える。(約400ha)
  200年代後半に衰退するが。大和政権の母胎と考えられている。
154年 天照大神誕生? 原田常治氏の神社伝承史学からの説。真偽は全く不明。
158年 皆既日蝕 有史以来初の皆既日食
180年 倭国大乱 倭国大乱の時期には諸説在り。
  ①【後漢書東夷伝】より:147年-189年
  ②【梁書】より:178年-183年
  山陰式土器 大乱の時期より鼓型器台と故障される山陰式土器が普及。
184 黄巾党の乱 中国で大規模な民衆の反乱。
199年 劉備挙兵 劉備が徐州にて曹操へ反乱を起こす。


弥生終期(200-250頃-300頃)
200年 吉野ヶ里遺跡 国内最大級の環壕集落へと発展し、大規模なV字形の外環壕によって囲まれ、さらに特別な空間である2つの内郭(北内郭・南内郭)をもつようになります。
特に北内郭では大型の建物が登場し、吉野ヶ里の最盛期にあたる。
208 赤壁の戦い 長江の赤壁において起こった曹操軍と孫権・劉備連合軍の間の戦い。
曹操が大敗を喫する。
220 後漢滅亡 この後、魏・呉・蜀の三国時代となる
239年 卑弥呼、魏へ朝献 6月 卑弥呼が魏への朝貢を求め、正使難升米、次使都市牛利らを帯方郡に派遣する。
239年 卑弥呼、金印受領 12月 卑弥呼が「親魏倭王」の称号と金印・紫綬・銅鏡(三角縁神獣鏡)100枚をなどを授与される。
243年 卑弥呼が魏へ8名の使者を派遣して生口などを献上。
247年 邪馬台国と狗奴国の間に戦争。
248年 卑弥呼死去 248年9月5日、有史以来2回目の皆既日食。
この直後に何らかな形(殺害?)で卑弥呼は死亡したと考えられています。
250年 妻木晩田衰退 妻木晩田衰退
麦木晩田の衰退にも248年の皆既日蝕が関係していたのかも知れません。
終末期   畿内式土器 畿内式土器が米子に流入(米子城址遺跡から発見
260年 箸墓古墳 最古の古墳と言われる箸墓が作られる。司馬炎が三国を滅ぼし、晋を興して武帝を名乗る。
265 「西晋」、建国
266年 「壱与」西晋に遣使 卑弥呼の後継女王、「壱与」が西晋に遣使する。
初代:神武天皇即位 父= 母=
2代:綏靖天皇即位 父=  母=
3代:安寧天皇即位 父=  母=
4代:懿徳天皇即位 父=  母=
5代:孝昭天皇即位 父=  母=
6代:孝安天皇即位 父=  母=
7代:孝霊天皇即位 父=  母=
皇子=彦五十狭芹彦命(ひこいさせりひこのみこと=吉備津彦) 
皇女=倭迹迹日百襲媛命(やまとととびももそひめのみこと)
8代:孝元天皇即位 父= 母=
皇子=大彦命(おおびこのみこと)、四道将軍の一人
9代:開化天皇即位 父= 母=


古墳時代(AD260-300年頃-600年頃)
300年台 大和朝廷成立・発展AD300年頃に、大和朝廷の基盤が出来たと考えられている。
307年 10代 崇神天皇 実在したといわれる最初の天皇。崩年318年?。
父= 
母=
有力氏族 物部
開化10年  生誕。
開化28年  立太子。
開化60年   
      開化天皇崩御に伴い翌年即位。
崇神3年
  9月  三輪山西麓の瑞籬宮(みずかきのみや)に遷都。
崇神6年(紀元前92年)
  疫病を鎮めるべく、宮中に祀られていた天照大神と倭大国魂神(大和大国魂神)を皇居の外に移す。
崇神7年2月、大物主神、倭迹迹日百襲姫命に乗り移り託宣する。
 11月 大田田根子(大物主神の子とも子孫ともいう)を大物主神を祭る神主とする。
      (これは現在の大神神社に相当し、三輪山を御神体としている)
      市磯長尾市(いちしのながおち)を倭大国魂神を祭る神主とした。
      疫病は終息し、五穀豊穣となる。
崇神10年
  9月 四道将軍の派遣
      大彦命を北陸道に、武渟川別を東海道に、吉備津彦を西道に、丹波道主命を丹波(山陰道)に
      将軍として遣わし、従わないものを討伐させた
      しかし、大彦命だけは異変を察知して和珥坂(わにのさか、奈良県天理市)から引き返た。
      倭迹迹日百襲姫命の予言から武埴安彦(孝元天皇の皇子)の叛意を知る。
      武埴安彦は山背から、その妻吾田媛は大坂からともに都を襲撃しようとした。
      天皇は五十狭芹彦命(吉備津彦命)の軍を遣わして吾田媛勢を迎え討ち、一方の安彦勢には、
      大彦命と彦国葺(ひこくにぶく、和珥氏の祖)を差し向かわせ、これを打ち破った。
 10月 畿内は平穏となり、四道将軍が再び出発。
崇神11年
  4月 四道将軍が地方の賊軍を平定させて帰参、その有様を奏上した。
崇神48年
  1月 豊城命(豊城入彦命)と活目命(垂仁天皇)を呼び、どちらを皇太子にするかについて決断した。
  4月 弟の活目命を皇太子とし、豊城命に東国を治めさせた。
崇神60年
  7月 飯入根(いいいりね)が出雲の神宝を献上。
      兄の出雲振根が飯入根を謀殺するが、朝廷に誅殺される。
崇神68年
 12月 120歳で崩御。

   
316 「西晋」、滅亡
317 「東晋」、建国
346 「百済」、建国
320年頃 11代 垂仁天皇 父= 
母=
有力氏族=物部十千根
垂仁3年 
新羅王子の天日槍(あめのひほこ)が神宝を奉じて来朝。
垂仁7年
野見宿禰(のみのすくね)が当麻蹴速(たいまのけはや)と相撲をとり蹴殺す(相撲節会の起源説話)。
垂仁25年
天照大神の祭祀を皇女の倭姫命に託す。
倭姫は菟田(うだ。奈良県宇陀郡)・近江・美濃を経て伊勢国に至る。
五十鈴川の辺に祠を建てて、伊勢神宮を興したという。

340年頃 12代 景行天皇 父= 
母=
皇子=大和武尊。
幼名を小碓命(おうすのみこと)といい,兄の大碓命(おおうすのみこと)とは双子の兄弟とも言われていいる。
有力氏族=武内宿禰
垂仁37年
  1月 立太子。
景行元年
  7月に即位
翌2年
  3月3日に播磨稲日大郎姫を皇后に立てる。
景行4年
      美濃国に行幸し、泳宮(くくりのみや、岐阜県可児市)に滞在。
      八坂入媛命を妃とする。
景行12年
  8月 熊襲が背いたので、これを征伐すべく、天皇自ら西下。
      周防国の娑麼(さば、防府市)で神夏磯媛から賊の情報を得て誅殺した。
      筑紫(九州)に入り、豊前国京都郡(福岡県行橋市)に行宮(かりみや)を設ける。
      豊後国の碩田(おおきた)で土蜘蛛を誅す。
 11月 日向国に入る。
      熊襲梟帥(くまそたける)をその娘に殺させ、翌年夏に熊襲平定を遂げた。
      日向高屋宮(宮崎県西都市か)に留まること6年。
景行18年
  3月 都へ向け出立。
     
景行19年
  9月 還御した(なお、この天皇親征について、古事記には一切記されていない)。
景行25年
  7月 武内宿禰を遣わして、北陸・東方諸国を視察させる。
景行27年
  8月 熊襲が再叛。
 10月 日本武尊を遣わして、熊襲を征討させる。首長の川上梟帥を謀殺し、翌年に復命。
景行40年
 10月 日本武尊に蝦夷征討を命じる。
      尊は途中、伊勢神宮で叔母の倭姫命(やまとひめのみこと)より草薙剣を授かった。
      陸奥国に入り、戦わずして蝦夷を平定する。
      日高見国から新治(茨城県真壁郡)・甲斐国酒折宮・信濃国を経て尾張国に戻る。
      宮簀媛(みやずひめ)と結婚。
      その後近江国に出向くが、胆吹山の荒神に祟られて身体不調になる。
景行43年
      そのまま伊勢国に入るが、能褒野(のぼの、三重県亀山市)で病篤くなり崩御した。
      白鳥陵に葬られた。
景行60年
 11月 景行天皇崩御、143歳。古事記では137歳。

350年 大和朝廷全国統一 このころ、大和朝廷が国内をほぼ統一する。
大和朝廷は、大王(おおきみ)を中心とした豪族の連合政権。
氏と姓にもとづく政治→氏姓制度
350年 出雲王朝衰退 出雲地方の衰退。
この頃より前方後方墳が普及し、出雲特有の四隅突出型墳丘墓が衰退す。
大和政権が出雲を勢力下に置き始めたと考えられている。
356 新羅建国 朝鮮半島で新羅が建国。
360年頃 13代 成務天皇 父= 
母=
有力氏族=武内宿禰
景行天皇51年  立太子
成務元年    
 正月 即位。
成務3年
  月 武内宿禰を大臣とした。
成務5年
  9月 諸国に令して、地方行政機構の整備を図った。
     行政区画として国 郡(くにこおり)・県邑(あがたむら)を定めた。
     それぞれに造長(くにのみやつこ)・稲置(いなぎ)等を任命した。
     山河を隔にして国県を分かち、阡陌(南北東西の道)に随って邑里(むら)を定めた。
成務60年
  6月 崩御。107歳(古事記では95歳)

大八木足尼 波伯国造に大八木足尼を定める。
372年 七支刀 百済王が倭国に七支刀を送った。
375 ゲルマン民族大移動 ゲルマン民族がローマへ移動。
380年頃 14代 仲哀天皇 父= 
母=
有力氏族=武内宿禰
成務48年 3月(178年)に31歳で立太子。

仲哀元年 
  1月 13年の皇太子期間を経て、即位。

仲哀2年
  1月 仲哀天皇は氣長足姫尊(成務天皇40年(170年)誕生)を皇后(神功皇后)とする。
仲哀8年
   月 熊襲討伐のため神功皇后とともに筑紫に赴いた。
      仲哀天皇は、神懸りした神功皇后から住吉大神のお告げを受けた。
      それは西海の宝の国(新羅のこと)を授けるという神託であった。
      しかし、仲哀天皇は、これを信じず住吉大神を非難した。
仲哀9年
  2月 そのため神の怒りに触れ、仲哀天皇は2月に急死してしまった。
      遺体は武内宿禰により海路穴門を通って豊浦宮で殯された。

381年? 神功皇后摂政 父=息長宿禰王(おきながのすくねのみこ、開化天皇玄孫)   
母=葛城高顙媛(かずらきのたかぬかひめ)-天日矛末裔
有力氏族=武内宿禰
仲哀9年
三韓征伐
夫の仲哀天皇の急死後、住吉大神の神託により、お腹に子供(のちの応神天皇)を妊娠したまま海を渡って朝鮮半島に出兵して新羅の国を攻め、新羅は戦わずして降服して朝貢を誓い、高句麗・百済も朝貢を約したという。
渡海の際は、お腹に月延石や鎮懐石と呼ばれる石をあててさらしを巻き、冷やすことによって出産を遅らせたとされる。
その帰路、筑紫の宇美で応神天皇を出産し、壱岐市の湯ノ本温泉で産湯をつかわせた。
また志免でお紙目を代えた。

神功元年(=辛巳(かのとみ)=261or321or381?)
3月  
  日本書紀によれば、摂政として201年から269年まで政事を執りおこなった。
  異母兄にあたる香坂皇子、忍熊皇子が畿内にて反乱を起こして戦いを挑んだ。、
  神功皇后軍は武内宿禰や武振熊命の働きによりこれを平定した。
神功5年
3月  
  新羅王の質、微叱旱岐(みしこち)の見張りとして襲津彦を新羅に使わす。
  対馬にて新羅王の使者に騙され微叱旱岐に逃げられた。
  怒った襲津彦が蹈鞴津(たたらつ)から草羅城(くさわらのさし)を攻撃して捕虜を連れ帰った。
神功62年
  襲津彦を遣わして新羅を撃たせる。
神功69年 
崩御

391年 倭国朝鮮出兵 倭国が朝鮮に出兵する 【好太王の碑文より】
香坂皇子、忍熊皇子の反乱 応神天皇の異母兄にあたる香坂皇子、忍熊皇子が畿内にて反乱を起こした。神功皇后軍は武内宿禰や武振熊命の働きによりこれを平定した。
394年 15代 応神天皇 父=仲哀天皇 
母=神功皇后
有力氏族=武内宿禰
12月 
神功皇后の三韓征伐の帰途に宇瀰(うみ、福岡県糟屋郡宇美町)で生まれたとされる。
神功3年  
     立太子。
応神元年  
     71歳で即位。
応神5年
  諸国に令して、海人及び山守を定む。
応神11年
  剣池・軽池(かるのいけ)・鹿垣池(ししかきのいけ)・厩坂池(うまやさかのいけ)を作る。
応神14年
  弓月君(ゆつきのきみ)が百済から来て、天皇に奏上した。
  百済の民人を連れて帰化したいけれども新羅が邪魔をして加羅から海を渡ってくることができない。
  天皇は襲津彦を加羅に遣わして百済の民を連れ帰るように命令する。
  しかし、三年なんの音沙汰もなくなった。
応神16年
8月 
  天皇は平群木菟宿禰(へぐりのつくのすくね)・的戸田宿禰(いくはのとだのすくね)に命令。
  襲津彦が帰ってこないのはきっと新羅が邪魔をしているのに違いない。
  加羅に赴いて襲津彦を助けろ」といって、加羅に兵を派遣した。
  新羅の王はその軍勢に怖じけづいて逃げ帰った。
  そして襲津彦はやっと弓月氏の民を連れて帰国した。
応神20年
9月 
倭の漢直の祖阿知使主(あちのおみ)、其の子都加使主、並びに己が党類十七県を率て、来帰。
多くの渡来人があったことを伝えている。
応神41年
崩御。111歳。古事記では130歳。

395 ローマ帝国分裂 ローマが西ローマ帝国、東ローマ(ビザンツ)帝国に分裂。


400年代 倭の五王の時代
16代仁徳天皇に始まり、倭の五王が大和の中心となる。この頃から河内、大和に巨大古墳が造られる。
400年 福市遺跡 米子市福市周辺に集落が作られる。
400年 吉備の古墳群 吉備地方に巨大な前方後円墳が造られる。
   400年代前半:造山古墳(全長350m、全国第4位)
   400年代中頃:作山古墳(全長286m、全国第9位)
   400年代後半:両宮山古墳(全長192m)
420 「東晋」、滅亡 以後、五胡十六国時代になる。
421年 倭王「讃」 倭王「讃」が、宋に使者を送る。
倭の五王の時代
  1.讃(さん)王    2.珍(ちん)王  
  3.済(せい)王   4.興(こう)王  5.武(ぶ )王
427年 16代 仁徳天皇 父= 
母=
有力氏族=武内宿禰
仁徳11年
     新羅人朝貢。
仁徳13年
  9月 茨田屯倉(まむたのみやけ)を設立した。
 10月 和珥池(わにのいけ、奈良市?)、横野堤(よこののつつみ、大阪市生野区)を築造した。
仁徳41年
  3月 紀角宿禰を百済へ遣わし、初めて国郡の境を分け、郷土の産物を記録した。
仁徳53年
     新羅不朝貢
仁徳87年(399年)
     崩御。142歳。

432年 17代 履中天皇 父= 
母=
仁徳天皇87年
  1月 仁徳天皇崩御。
      住吉仲皇子が皇位を奪おうとして叛するが、弟の瑞歯別皇子(後の反正天皇)に命じてこれを誅殺。
履中天皇元年
  2月 即位。
履中2年
      蘇我満智、・物部伊莒弗(いこふつ)・平群木菟(つく)・円大使主(つぶらのおおおみ)らを国政参画。
履中4年
  8月 諸国に国史(ふみひと)と呼ばれる書記官を設置し、国内の情勢を報告させた。
履中6年
  1月 蔵職(くらのつかさ)と蔵部を興す(『古語拾遺』には内蔵を興すとある)
  3月 病気のため稚桜宮で崩御した。『書紀』に70歳、『古事記』に64歳、『神皇正統記』に67歳。

437年 18代 反正天皇 父=仁徳天皇(第三皇子)   
母=磐之媛命(いわのひめのみこと)・・・・葛城襲津彦の娘
皇后=津野媛(つのひめ)・・・大宅臣の祖木事の娘
履中元年    
     父仁徳天皇の崩後、叛乱を起こした同母兄の住吉仲皇子を誅殺した。
履中2年
     立太子。
履中6年
     履中天皇崩御。
反正元年
  1月 即位。兄弟継承はここに始まる。
 10月 河内丹比を都とする。天下太平であり、何事もなく在位5年。
反正5年
  1月 崩御。

438年 倭王「珍」即位 『讃』死す。
弟の『珍』が王位に立ち、宋に朝貢する。安東将軍・倭国王の称号を賜る。  【宋書より】
19代 允恭天皇 父=仁徳天皇(第四皇子)   
母=磐之媛(いわのひめ)-葛城襲津彦の娘
皇后=忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ)・・・・稚渟毛二派皇子の娘
有力氏族=物部大前
反正5年(410年)
  1月 反正天皇が皇太子を定めずして崩御した。
     群臣達が相談して雄朝津間稚子宿禰尊(おあさづまわくごのすくねのみこと)を天皇(大王)に推挙する。
     尊は病気を理由に再三辞退して空位が続いた。
允恭天皇元年(412年)
 12月 忍坂大中姫の強い要請を受け即位。
允恭3年(413年)
  8月 新羅から医者を招聘、天皇の病気を治療する。
允恭4年(415年)
  9月 諸氏族の氏姓の乱れを正すため、飛鳥甘樫丘にて盟神探湯(くがたち)を実施する。
允恭5年(416年)
  7月 玉田宿禰(葛城襲津彦の孫)の叛意が露顕、これを誅殺する。
允恭7年(418年)
 12月 皇后の妹・衣通郎姫を入内させるが、皇后の不興を買い、藤原宮(奈良県橿原市)に住まわせる。
允恭8年(419年)
  2月 衣通郎姫が皇后の嫉妬を理由に茅渟宮(ちぬのみや、大阪府泉佐野市)へ移る。
     天皇は遊猟にかこつけて郎姫の許に行幸を続けた。
允恭10年(421年)
     皇后に諌められ、その後の茅渟行幸は稀になった。
允恭24年(435年
  6月 皇太子の木梨軽皇子と同母妹の軽大娘皇女の近親相姦が発覚。軽大娘皇女を伊予に配流(→衣通姫伝説)。
允恭42年(453年)
  1月 崩御。新羅王はこれを悲しみ、弔使を送る。
      『古事記』『旧事紀』に78歳、『愚管抄』『神皇正統記』に80歳、
      北野本『日本書紀』に81歳(一本68歳)とする

443年 倭王「済」即位 『珍』死す。 『済』が王位に立ち、宋に朝貢する。 【宋書より】
『済』は第19代允恭天皇説が有力。
454年 20代 安康天皇

雄略天皇の同母兄。
父=允恭天皇(第二皇子)  
母=忍坂大中姫(おしさかのおおなかつのひめ)。
皇后=中磯皇女(なかしのひめみこ、中蒂姫命)・・・・履中天皇の皇女
有力氏族=葛城円大臣
允恭42年(453年)
  1月 允恭天皇崩御。
      皇太子の木梨軽皇子(きなしのかるのみこ)には近親相姦の前科が有ったために群臣は皆従わず。
      弟の穴穂皇子の側に付いた。
      軽皇子は穴穂皇子を討ち殺そうとして兵を集めるが、群臣が離反
      不利な現況を悲嘆して、物部大前宿禰(もののべのおおまえのすくね)の家に潜んだ。
      穴穂皇子が率いる兵に包囲され、大前宿禰の計らいで戦は避けられたが、軽皇子は自裁した。
      (尚、『古事記』では伊余湯に流罪となったと記される)。
 12月 皇位を践祚した。

安康元年(454年)
      根使主の讒言を信じて大草香皇子(仁徳天皇の皇子)を誅殺。

安康2年(455年)
      その妃であった中蒂姫を皇后に立てた。

安康3年(456年)
  8月 天皇は中蒂姫の連れ子眉輪王(まよわのおおきみ)により暗殺された
      『古事記』『旧事紀』に享年56、『帝王編年記』に享年54と伝えられる。

462年 倭王「興」即位 『済』死す。子の『興』が王位に立ち、宋に朝貢する。 【宋書より】
『興』は第20代安康天皇説が有力。
471年 稲荷山鉄剣碑文 碑文の内容から、この頃雄略天皇の時代には、関東から熊本まで大和朝廷の権力が及んでいたと考えられる。
471年 21代 雄略天皇

安康天皇の同母弟
父=允恭天皇(第5皇子)  
母=忍坂大中姫
皇后=草香幡梭姫皇女(くさかのはたびひめのひめみこ)・・・・仁徳天皇の皇女
有力氏族=物部目 平群真鳥
475 百済の漢城陥落 高句麗が百済を攻め首都・漢城は落城し、蓋鹵王が戦死した。
478年 備氏の乱
(雄略7年)
吉備上道(かみつみち)臣田狭(吉備田狭)が新羅と結託して朝廷に反乱を起こす。
吉備下道臣前津屋(きびのしもつみちのおみさきつや)を討伐。
吉備上道臣田狭(きびのかみつみちのおみたさ)を討伐して吉備政権の弱体化を進めた。
478年 倭王「武」即位 『興』死す。 弟の『武』が王位に立ち、宋に朝貢する。 【宋書】(以後朝貢途絶える)
  『武』は、第21代雄略天皇説が有力。
22代 清寧天皇 父=雄略天皇(第三皇子) 母=葛城韓媛(かつらぎのからひめ)
皇后=無し
有力氏族=大伴室屋 平群真鳥
479年 雄略23年(479年)
8月 雄略天皇崩御。
吉備氏の母を持つ星川皇子が大蔵を占拠、権勢を縦にした。
そのため、大伴室屋・東漢直掬らにこれを焼き殺させる。
480年 清寧元年(480年) 正月
清寧天皇即位。
481年 清寧2年(481年) 市辺押磐皇子の子である億計王(仁賢天皇)・弘計王(顕宗天皇)の兄弟を播磨で発見。使者を立てて明石に迎えさせる。
482年 清寧3年(482年) 2王を宮中に迎え入れ、億計王を立太子に、弘計王を皇子とした
484年 清寧5年(484年) 正月 崩御。『水鏡』で41歳、『神皇正統記』で39歳。
23代 顕宗天皇 父= 
母=
安康天皇3年(456年)
     父が雄略天皇に殺されると、兄の億計王(後の仁賢天皇)と共に逃亡して身を隠した。
     丹波国与謝郡に行き、後に播磨国明石に住む。
     兄弟共、縮見屯倉首(しじみのみやけのおびと)に使役され、長い間牛馬の飼育に携わっていた。
清寧2年(481年)
 11月 弘計王自ら新室の宴の席で、歌と唱え言に託して王族の身分を明かした。
     子がなかった清寧天皇はこれを喜んで迎えを遣わした。
清寧3年(482年)
  4月 清寧天皇は、兄王を皇太子に、弘計王を皇子とした
484年 清寧5年(484年) 清寧が崩御した後、皇太子の億計弟の弘計に皇位(王位)を譲ろうとする。
弘計はこれを拒否。
皇位の相譲が続き、その間は飯豊青皇女が執政した。
結果的に兄の説得に折れる形で弟弘計が即位。
485年 顕宗元年(485年) 即位 正月 弘計が即位する。
487年 顕宗3年(487年) 崩御 4月 崩御。『古事記』に38歳(ただし治世8年という)、『一代要記』に48歳。

24代 仁賢天皇 父= 母=
仁賢元年(488年)
  1月 即位した。
仁賢3年(490年)
  2月 石上部(いそのかみべ)舎人を置いた。
仁賢5年(492年)
     佐伯造(さえきのみやつこ)を置いた。
仁賢6年(493年)
  9月 高麗(こま)へ日鷹吉士(ひたかのきし)を遣わし、皮の工匠などの手工業者を招いたとされる。
      仁賢天皇の時代は国中が良く治まったと評された。
仁賢7年(494年)
  1月 皇子の小泊瀬稚鷦鷯尊を皇太子に定めた。
仁賢11年(498年)
  8月 崩御。『水鏡』に50歳、『帝王編年記』には51歳とある

25代 武烈天皇 父=仁賢天皇   
母=春日大娘皇女・・・・雄略天皇の娘
皇后=春日娘子(かすがのいらつめ)
仁賢7年(494年)
 正月 立太子。
仁賢11年(498年)
     10歳の皇太子は、物部麁鹿火(あらかい)の娘・影媛(かげひめ)との婚約を試みる。
     しかし、影媛は既に真鳥大臣の子・鮪(しび)と通じていた。
     鮪との歌合戦に敗れた太子は、大伴金村をして鮪を乃楽山(ならやま)に誅殺させた。
武烈元年(499年) 
 11月 真鳥大臣をも討伐させた。
 12月 即位して、泊瀬列城に都を定め、大伴金村を大連(おおむらじ)とした.。
武烈2年(500年)
  9月 11歳の天皇は、妊婦の腹を割いて胎児を見る。
     この年以降、猟奇性を帯びた愚行を行ったとされる。
     天下の飢えを忘れ、日夜問わず宮人と酒食に溺れた。
武烈8年(506年)
 12月 後嗣なく崩御した。
     『扶桑略記』『水鏡』などには18歳で崩御とある。また『天書』に61歳とある。
498年 平群真鳥誅殺 武烈天皇の命を受けた大伴金村により、真鳥(まとり)とその子の鮪(しび)が誅殺された。
500年代 豪族の台頭
500年 淀江福岡古墳群 米子市淀江町福岡に、淀江福岡古墳群が作られる。
507年 26代 継体天皇 応神天皇5世の孫。大伴氏がこれを支援。
父=彦主人王(ひこうしのおおきみ)、
母=垂仁天皇7世孫の振媛(ふりひめ)。 
有力氏族=物部麁鹿火 大伴金村
推定生年『古事記』には485年、『日本書紀』には450年。
推定没年:『古事記』には(527年5月26日、『日本書紀』には531年3月10日または534年とされる。
何らかの政変によって継体天皇自身が殺害された説あり。

512年 四県割譲 大連大伴金村が、百済へ任那の四県を割譲し、新羅の反発を買う。
527年 磐井の反乱 筑紫国造磐井の乱を物部あらかびが鎮圧
6月 ヤマト政権の近江毛野は6万人の兵を率いて、新羅に奪われた南加羅・喙己呑を回復するため、任那へ向かって出発。
磐井は挙兵し、火の国(肥前国・肥後国)と豊の国(豊前国・豊後国)を制圧するとともに、倭国と朝鮮半島とを結ぶ海路を封鎖して朝鮮半島諸国からの朝貢船を誘い込み、近江毛野軍の進軍をはばんで交戦。
8月 麁鹿火が将軍に任命された。
11月 磐井軍と麁鹿火率いるヤマト政権軍が、筑紫三井郡にて交戦し、激しい戦闘の結果、磐井軍は敗北。
531年 辛亥の変 欽明天皇(蘇我氏支持)と安閑・宣化天皇(大伴・物部氏支持)の二朝対立。
大伴氏失脚し、以後、物部氏が権力の中枢を握る。
531年 27代 安閑天皇 父=継体天皇  
母=尾張目子媛(おわりのめのこひめ)
有力氏族=物部尾興 物部麁鹿火 
安閑・宣化朝と欽明朝の二朝並立の可能性あり。屯倉の大量設置。
532 伽耶国滅亡 伽耶諸国の一つ伽耶が滅亡
533年 28代 宣化天皇 父=継体天皇 
母=尾張目子媛(おわりのめのこひめ)
有力氏族=尾興麁鹿火 大友金村 蘇我稲目
大伴金村に命じて新羅に攻められている任那に援軍を送った
535年 29代 欽明天皇 父=継体天皇 
母=仁賢天皇の皇女、手白香皇女(たしらかのひめみこ)
皇子女=用明、崇峻 推古、穴穂部間人皇女
有力氏族=大伴金村 蘇我稲目
538年 仏教伝来 百済から仏教が伝わる(552年の説もある)
538 大伽耶滅亡 百済の聖王は都を熊津から泗沘(現・忠清南道扶余郡)へ南遷した。
540年 大伴金村失脚 新羅が任那地方を併合するという事件により、物部尾輿などから外交政策の失敗(先の任那4県割譲など)を糾弾され失脚して隠居。
これにより物部氏と蘇我氏の二極体制ができあがる。
545年 帝紀・旧辞 欽明朝の前後に、帝紀・旧辞の編纂が始まる。
550年 淀江石馬谷古墳 淀江石馬谷古墳が作られる
福岡県八女市の岩戸山古墳は石馬・石人など多数の石製樹物を持つ古墳として宣伝さ れ、筑紫君磐井の墳墓かとされている。
この古墳と共通する石馬・石人などが上淀廃寺に近接した石馬谷(いしうまだに) 古墳に見られる。
550年 淀江岩屋古墳 淀江岩屋古墳が作られる。
550年 宗像古墳群 米子市宗像に、宗像古墳群が作られる。
554 百済聖王戦死 聖王は倭国との同盟を強固にすべく諸博士や仏像・経典などを送ったが、554年には新羅との戦いで戦死する。
562年 任那滅亡 新羅が任那を滅ぼす。新羅に討伐軍を送るが、敵の罠にかかってしまい退却。
572年 30代 敏達天皇 父=欽明(第二皇子) 
母=宣化天皇の皇女・皇后石姫皇女
有力氏族=物部守屋 蘇我馬子
581 隋建国 楊堅が隋を建国し、都を長安に定めた。
585年 31代 用明天皇 蘇我稲目の孫
父=欽明(第四皇子) 母=蘇我稲目の娘の堅塩媛(きたしひめ)
有力氏族=物部守屋 蘇我馬子
587年 穴穂部皇子暗殺 馬子は崇峻を推挙、物部守屋は、穴穂部皇子(あなほべのみこ)を即位させようとはかるが穴穂部皇子は蘇我馬子によって暗殺。
587年 丁未の変 蘇我馬子との争いにより物部守屋死亡。これにより物部氏衰退。
588年 32代 崇峻天皇 父=欽明 母=蘇我稲目の女、小姉君(おあねのきみ)
蘇我馬子
588年 飛鳥寺造立開始 588年から造立が始まり、596年完成。蘇我氏の氏寺。


飛鳥時代(592年-710年)
600年頃 中央集権制の萌芽
豪族の連合政権(氏姓制度)から、朝廷(天皇家と蘇我氏)を中心とした中央集権制が進む。
592年 崇峻天皇暗殺 蘇我馬子が、東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)を使い暗殺。
592年 33代 推古天皇
(額田部皇女)
父=欽明天皇 
母=大臣蘇我稲目の女、堅塩媛(きたしひめ)
有力氏族=蘇我馬子 蘇我蝦夷
飛鳥寺
593年 聖徳太子摂政 (厩戸うまやど皇子) 父=用明 母=穴穂部間人皇女
593年 四天王寺造立開始 日本仏教の祖とされる聖徳太子建立の寺
594年 仏教興隆の詔
595年 僧慧慈が渡来 高句麗の僧慧慈が渡来し、太子の師となる。
603年 官位一二階 氏姓制度の崩壊の兆しとなる。
604年 憲法一七条 聖徳太子が憲法一七条を制定。
607年 法隆寺創建 聖徳太子が法隆寺を創建。
607年 遣隋使 聖徳太子が小野妹子を隋に派遣。
608年 斐世清来日 小野妹子、隋使「斐世清を伴い帰国。斐世清、大王「足利思彦」に謁見。
610 イスラム教 ムハンマド(モハメット)がイスラム教を開く。
618 隋滅亡、唐建国 李渕が唐を建国し、高祖となった。
620年 国記、天皇記 聖徳太子、蘇我馬子が「国記」、「天皇記」の編纂を行う。
622年 聖徳太子死去 聖徳太子死去、49歳。没年には異論も在り。
626年 蘇我馬子死去 奈良県「石舞台」に埋葬される。
629年 34代 舒明天皇
(田村皇子)
蘇我氏の血を引かない天皇。 
父=押坂彦人(おしさかのひこひとの)大兄皇子 
母=糠手姫皇女(ぬかでひめのひめみこ) 
皇后=
有力氏族=蘇我蝦夷
630年 第一回遣唐使 犬上御太鋤らを唐に派遣
631年 百済王子「豊璋」来日 百済王子「豊璋」、人質として来日。
642年 35代 皇極天皇
 
   (寶女王)
はじめ高向王と結婚して、漢皇子を産んだ。630年舒明天皇の皇后となる。
父=茅渟王(敏達天皇の孫) 
母=吉備姫王
有力氏族=蘇我蝦夷
643年 上宮王家滅亡 蘇我入鹿に襲撃された山背大兄王が斑鳩の宮で自殺。
これにより聖徳太子の血筋が完全に途絶えた。
 645年 大化改新 中大兄皇子藤原鎌足が蘇我入鹿を暗殺(乙巳の変
直後に蘇我蝦夷自殺。この時、国記、天皇記焼失。
645年 36代 孝徳天皇 (軽皇子) 父=茅渟王(敏達天皇の孫) 母=吉備姫王
皇極天皇(斉明天皇)の同母弟。天智天皇の叔父にあたる。
有力氏族=中臣鎌足  巨勢徳陀古
645年 中大兄皇子立太子
645年 難波京遷都 都を難波長柄豊碕に遷した。
646年 改新之詔 阿倍内麻呂(阿倍倉梯麻呂)を左大臣に、蘇我石川麻呂を右大臣にした。中臣鎌子(藤原鎌足)を内臣とした。僧旻と高向玄理を国博士とした。
中大兄皇子立太子。
647年 渟足柵(ぬたりさく)設置 北方の蝦夷対策として(新潟県新潟市中央区沼垂町の付近)渟足柵設置
648年 磐舟(いわふね)柵設置 北方の蝦夷対策として(新潟県村上市岩船の辺り)磐舟柵設置
649年   蘇我倉山田石川麻呂山田寺で自害 異母弟の日向に石川麻呂が謀反を起こそうとしていると密告され、孝徳天皇により派遣された穂積咋が兵を率いて山田寺を包囲したため、長男の興志ら妻子と共に山田寺で自害した。なお、この事件は中大兄皇子と中臣鎌足の陰謀であったとされている。
652年 班田収受の法 租・庸・調の新しい税制の開始。公地公民制の始まり。
   口分田
   租:田1段につき稲2束2把(収穫量の3%~10%に相当)
   庸:京へ上っての労役
   調:繊維製品の納入が基本
   兵役:防人
653年 孝徳天皇 皇太子(中大兄)に難波宮に置き去りにされた。
655年 37代 斉明天皇 (寶女王) 父=茅渟王(ちぬのおおきみ、敏達天皇の孫) 母=吉備姫王
高向王と結婚、
有力氏族=巨勢徳陀古
658年 4月 阿倍野比羅夫蝦夷征討 水軍180隻を率いて蝦夷を討つ。
658年 11月 有間皇子の変 有間皇子(父=孝徳天皇) 母=阿倍内麻呂の娘・小足媛
斉明天皇と中大兄皇子打倒の計画を練ったが、蘇我赤兄の密告により絞首刑となった。
659年 阿倍野比羅夫蝦夷征討 再び蝦夷を討って、後方羊蹄(しりべし)に至り、郡領を任命して帰った。後方羊蹄は、北海道の羊蹄山のこととも津軽ともいう。
659年 出雲大社修築 37代斉明天皇の命により出雲大社の神殿を修築。
「この歳、出雲国造 名をもらせり、に命じて、神の宮を修り厳よそはしむ」(『日本書紀』)
この時の出雲国造は意宇郡熊野大社にいたとされ、神之宮すなわち出雲大社とは熊野大社であるとする説も有る。
しかし出雲大社とは、国造の常駐していた熊野神社(大社)の事であるという説もあり。
令義解(833年)の記述より、この頃の出雲大社祭神はスサノオであった可能性が高い。.
660年 百済王子豊璋帰国 鬼室福信が貴智らを遣わして唐の俘百余人を献上し、援兵を求める。
豊璋帰国。
660 百済滅亡 百済が唐と新羅に攻められて滅亡。
661年 1月 斉明天皇出兵 唐・新羅との交戦のため、九州に向かって出航。
661年 5月 朝鮮半島南部に上陸 第一派上陸:1万余人。船舶170余隻。指揮官は阿倍比羅夫。
豊璋王を護送する先遣隊が出発。
661年 7月 斉明天皇崩御 朝倉宮で死去。 中大兄皇子称制。
662年 3月 朝鮮半島南部に上陸 第二派:2万7千人。軍主力。指揮官は毛野稚子、巨勢神前臣譯語、阿倍引田比羅夫。
第三派:1万余人。指揮官は廬原君。
663年 白村江の戦い 日本・百済の連合軍が、唐・新羅の連合軍に大敗する。
以後日本は朝鮮から撤退。そして、国防が強化される。
さらに百済からかなりの数の難民が日本に来た。
664年 水城構築 博多湾方面からの攻撃から大宰府を守るための防御線となる直線状の堀と土塁である水城を構築。
665年 山城の築城 北九州から瀬戸内海沿岸にかけて大野城、基肄城、長門城などの古代山城(朝鮮式山城)を築かせた。
667年 近江京遷都 都を内陸部の近江大津宮に遷した。
668年 38代天智天皇 (中大兄皇子または葛城皇子) 父=舒明天皇  母=皇極天皇
有力氏族=中臣鎌足 蘇我赤兄、連子
668年 近江令制定 日本国で最初の法典。
670年 法隆寺炎上 法隆寺炎上全焼したと伝えられている。
670年 庚午(こうご)年籍 最初の全国的な戸籍
671年 近江令施行
近江令施行。
この直後、天智天皇逝去。
671年 天智天皇崩御 46歳で死去。『扶桑略記』では病死説の後、一説として「一云 天皇駕馬 幸山階鄕 更無還御 永交山林 不知崩所 只以履沓落處爲其山陵 以往諸皇不知因果 恒事殺害」とあり山中で行方不明になったとされることから天武天皇側による暗殺説もある。
672年 39代弘文天皇 (大友皇子) 父=天智天皇 母=伊賀采女宅子娘

有力氏族=物部系
672年 壬申の乱 大海人皇子(後の天武天皇)が、大友皇子(39代弘文天皇)を近江にて攻め滅ぼす。
旧唐書には、壬申の乱を「倭国」と「日本国」との戦いであるとする見解が存在したとする主張がある。
大友皇子側=
大海人皇側=多 品治(太安万侶の父とする説がある)、大伴吹負
         紀阿閉麻呂、
673年 40代天武天皇 (大海人皇子) 父=舒明天皇 母=皇極天皇
その出自に関しては諸説あり。
有力氏族=物部雄君
親新羅政策 幼少期に凡海氏(海部一族の伴造)の養育を受けた
676 新羅朝鮮半島統一
676年 遣新羅使を派遣 新羅使の来朝を受け遣新羅使を派遣、新羅との国交保持のため新羅と対立していた唐との国交を断絶した。
679年   筑紫地震 M 6.5〜7.5
10月  筑紫で大地震。幅2丈、長3000余丈の亀裂生じ、家屋多数倒壊。 
681年 飛鳥浄御原令 第40代天武天皇を中心に、近江令を改訂した飛鳥浄御原令を制定し、律令制に着手。
この時、「帝記」、「上古の諸事」を元に国史編纂にも着手。
683年 富本銭の発行 最初の通貨
683年 上淀廃寺造営 上淀廃寺の造営。
684年 八色の姓 天武天皇が定めた八つの姓の制度。
真人(まひと) 朝臣(あそみ・あそん) 宿禰(すくね) 忌寸(いみき)道師(みちのし) 臣(おみ) 連(むらじ) 稲置(いなぎ)。
684年   白鳳地震 日本最古の津波記録。 M8.0-8.3。
未だかつてないという大地震。死者多数。土佐で津波により大きな被害。田園(約12km²)が海面下へ沈下。南海地震の記録だが地質調査によればほぼ同時期に東海・東南海地震も発生。
684年 伯耆造 伯耆造、連の姓を賜る。
686年 天武天皇崩御 天武の死後、鸕野皇女(後の持統天皇)が称制。
686年 10月 大津皇子自害 天武天皇が崩御すると、親友の川島皇子の密告により、謀反の意有りとされて捕えられ、翌日に磐余(いわれ)にある訳語田(おさだ)の自邸にて自害した。享年24歳。
686年 鸕野皇女が称制 鸕野皇女(後の持統天皇)が称制。
688年 上淀廃寺創建 日本には類のない、2塔並立、1金堂の上淀廃寺が創建。
金堂と南北二塔と第三心礎があるのは日本唯一の伽藍配置。百済の寺院に多く見られる様式。法隆寺金堂壁画と並ぶ我が国最古の寺院壁画。

690年 41代持統天皇 父=天智 母=蘇我倉山田石川麻呂(馬子の孫)の娘、遠智娘。
天武天皇皇后。
有力氏族=藤原不比等
国史編纂事業 この後、持統天皇藤原不比等らによって、律令、国史編纂が進められる。
691年 家伝没収 古事記、日本書紀の編集に際し、第41代持統天皇、藤原不比等の命により、16家、2神社の家伝・系図が没収された。
これにより、書記編纂以前の真実の歴史が隠蔽されたと考えられます。
①神社古文書
 石上神社古文書、大神神社古文書
②系図
 春日氏、大伴氏、佐伯氏、雀部氏、阿部氏、膳部氏、穂積氏、采女氏
 羽田氏、巨勢氏、石川氏、平群氏、木角氏、阿積氏、藤原氏、上毛野氏
694年 藤原京遷都 飛鳥浄御原から藤原京へ遷都。

694年 9月 美努王左遷 筑紫太宰率に任じられ赴任。この後に不比等と三千代は婚姻したと思われる。
697年 42代 文武天皇
   (軽皇子)
天武天皇の孫。(生存=683年-707年   在位=697年-707年)
父=草壁皇子   母=元明天皇 
有力氏族=藤原不比等
697年   宮子入内 宮子、文武天皇の夫人となる。宮子は賀茂比売と不比等の娘とされるが、異説もあり。
698年  諸国の郡司を任命する詔 「筑前国宗形と出雲国の意宇の両郡の郡司は、共に三等身以上の親族を続けて任用することを許す」との詔が発令された。 
翌日には「諸国の国司は、郡司の選考に偏りがあってはいけない。郡司もその職にあるときは、必ず法の定めに従え。これより以後このことに違背してはならぬ」と諸国の郡司を任命し発令。
すなわち、筑前国宗形と出雲国の意宇の両郡の郡司の件は特例であった事がわかる。
699年 役君小角配流 役君小角(役行者)を伊豆に配流。(賀茂氏)
701年 大宝律令 文武天皇のとき、刑部親王と藤原不比等らの編さんによる法典が完成。
混乱していた冠位制を改め、新たに官位制を設けた。
701年   聖武天皇誕生 幼首(おびと)皇子といい、藤原京に於いて、42代文武天皇と藤原宮子(藤原不比等の娘)との間に、第一皇子として誕生。この時文武天皇19歳。
703年 山陰道使 山陰道使、従七位下、波多真人今射(続紀)
706年 三徳山開山? 三徳山開山(伯耆民談記)
寺伝によれば…
慶雲3年(706年)、役行者(えんのぎょうじゃ)が3枚のハスの花びらを散らし 「仏教に縁のある所に落ちるように」と祈ったところ、その1枚が三徳山に落ち開山したと伝えられています。
706年   出雲国造杵築へ移住? 出雲国造が意宇郡大領を兼任して出雲郡の杵築へ移住したという説もあり。
707年 43代 元明天皇
   (阿陪皇女)
父=天智天皇 
母=蘇我姪娘
有力氏族=藤原不比等
708年 和同開珎 銀銭及び銅銭を鋳造。
    出雲国司
忌部宿禰子首
中央から派遣された正五位下「忌部宿禰子首」が出雲国司に着任。
709年     巨勢麻呂・佐伯石湯、蝦夷を平定。薩摩隼人郡司以下188人朝貢


奈良時代(710年-794年)
710年平城京遷都
都を奈良、「平城京」に移す律令制の完成期
710年   平安京遷都 都を奈良に移す。
左大臣石川麻呂は、留守居役として藤原京に残留。
712年 古事記編纂 太安麻呂、稗田阿礼が古事記全3巻を撰上。
太安麻呂
父=多品治(おおのほむじ)という説がある。多品治は壬申の乱で大海人皇子の側で戦う
稗田阿礼
713年 風土記編纂 元明天皇の詔によって、諸国に風土記の編纂を命じる。
713年   令制国分割 丹後国・美作国を設ける。日向国の曽於・大隈・姶羅を割いて大隈国を設ける
713年   石川刀子娘貶黜(へんちゅつ)事件 和銅6年に突如、「嬪」の位を剥奪される。さらに二人の皇子もその身分を臣籍に降下され、「石川朝臣」姓を名乗ることとなる。
紀竈門娘は、紀麻呂の妹か娘であるが、同時に「嬪」の位を剥奪される。
これによって文武天皇の後継者は首皇子のみとなった。
715年   郷里制施行 郷里制:国を郡郷里に分けて統治。
715年 44代 元正天皇
  (氷高皇女)
父=草壁皇子
母=元明天皇
有力氏族=藤原房前
716年 「山上憶良」 
  伯耆守に任官
従五位下、上憶良 (660頃生ー733没) 伯耆守に任官 
万葉集には、40を過ぎてからの歌が載っています。
  山上憶良の歌は、子どものことを想った歌が多く見受けられます。
  また、病気や貧困など、人生の苦しい面や、その時代の問題を扱っているのが特色でしょう。
  「白銀も 黄金も玉も何せむに まされる宝 子にしかめやも」など。
716年   「出雲国造神賀詞」 第25代出雲国造菓安が、「出雲国造神賀詞」を奏上。
この時に出雲国造は熊野から意宇平野の出雲国府付近(現松江市大庭)に移ったとする説と、杵築(現出雲市)に移ったとする説がある。
717年 長屋王が大納言 太政官で右大臣藤原不比等に次ぐ地位を占める。
長屋王=天武天皇の孫
  父=天武天皇皇子の高市皇子、母=天智天皇皇女の御名部皇女
  妃1=吉備内親王(草壁皇子と元明天皇の娘)
  妃2=藤原長娥子(藤原不比等の娘)
718年 養老律令 藤原不比等が養老律令を撰上。
718年 大山寺創建 金連(きんれん)上人により「大山寺」として開創・創建された。
大山は、出雲風土記中には「火神岳」(ほのかみだけ)と記されている。
大山寺は金連(きんれん)上人により養老2年(西暦718年・奈良時代)に「大山寺」として開創・創建された。
平安時代になると天台宗の寺院が次々と建立され、鎌倉時代から室町時代にかけての大山寺は隆盛をきわめ、100を超える寺院(160ともいわれている)を抱え、高野山金剛峯寺(和歌山県)や比叡山延暦寺(滋賀県)と並ぶ大寺とされ、「大山僧兵3000人」と言われるほどの勢力を持つまでになった。
江戸時代には3000石の寺領を得て「全国六十六か国の納経所」に指定され多くの廻国行者が訪れた。
719年 息長真人臣足 息長真人臣足が出雲国守として任官。
724年(神亀元年10月条)息長真人臣足(おみたり)を出雲按察使に任じた際、不当な蓄財が目に余るほどであったので、その行状を憎み、位禄を剥奪。
719年   按察使(あぜち) 按察使を諸国に置く(畿内・西海道を除く)
720年 日本書紀編纂 舎人親王、日本国史全30巻、系図1巻を撰上。
舎人親王  
父=天武天皇  母=天智天皇皇女新田部皇女  淳仁天皇の父
当初は長屋王とともに皇親政権を樹立するが、次第に藤原氏寄りに傾斜し、(729年2月に起こった長屋王の変では新田部親王と共に長屋王を糾問し、自害せしめた。
720年 藤原不比等死去 不比等が死去し、政権は長屋王(天武天皇の孫)が握るようになった。
721年   出雲臣廣嶋 出雲臣廣嶋が第二十六代出雲国造を継承。
723年 三世一身の法 長屋王が施行。公地公民制の崩壊初期。
724年 45代 聖武天皇
(首皇子)
天武天皇の曾孫  (生存=701年-756年   在位=724年-749年)
父=文武天皇 母=藤原宮子(藤原不比等の娘)
有力氏族=藤原武智麻呂 橘諸兄
724年 2/4 長屋王 左大臣 首皇子、元正天皇より位を譲られて即位(聖武天皇、24歳)。この日、長屋王を左大臣とする。
724年 3/25 奥州の反乱 蝦夷反乱する。藤原宇合を持節大将軍に任ずる。陸奥国に多賀城を設置。按察使大野東人が築城したとされる。
726年   興福寺東金堂 聖武天皇、元正太上天皇の快癒を祈り興福寺内に東金堂を建立。
727年 渤海使 渤海使が初めて来日。
729年 長屋王の変 藤原宇合(うまかい)の謀略により長屋王が自殺。その室、吉備内親王も自殺。
729年 藤原四卿政権 聖武天皇が、藤原不比等の娘、光明子を皇后とする(光明皇后)。
政権は再び藤原氏へ。
   藤原武智麻呂(南家)-仲麻呂(恵美押勝)
   藤原房前(北家)---良房-基経--忠平--兼家--道長--頼道
   藤原宇合(弐家)-広嗣--百川
   藤原麻呂(京家
732年 新羅、渤海と交戦 新羅が渤海と交戦状態に入る。
732年 節度使 東海道・東山道・山陰道・西海道に軍団強化のため節度使を設置し、新羅の来寇に備える。
山陰道の節度使鎮所(本部)は因幡国に置かれたと考えられている。
一旦廃止の後、天平宝字5年(761年)再置、まもなく廃止。
733年    県犬養三千代死去
733年 出雲風土記完成 現存する風土記の中で一番完本に近い。総記、意宇・嶋根・秋鹿・楯縫・出雲・神門・飯石・仁多・大原の各郡の条、巻末条から成る。
734年   天平地震 畿内七道地震 M 7、死者多数。生駒断層直下型。
4月7日大地震。百姓の舎倒壊多数。山崩れで川がせき止められ決壊多数。        
使を諸国に派遣し、破壊された神社を調査する。(続日本紀11)
736年   橘諸兄 葛城王(後の橘諸兄)等、橘宿禰姓を賜り降臣せん事を願う。
737年 藤原四卿の死去 天然痘により、藤原四卿が相次いで死去。政権は橘諸兄に移った。
737年 12月 僧正玄昉と宮子 僧正に任じられて内道場(内裏において仏像を安置し仏教行事を行う建物)に入る。
聖武天皇の母藤原宮子の病気を祈祷により回復させ賜物をうけた。
僧正玄昉=法相宗の僧。俗姓は阿刀氏(安斗氏)。物部系氏族の阿刀(あと)氏の出身。
738年   橘諸兄 右大臣 母は県犬養三千代で、光明皇后とは異父兄の関係になる。
740年 9月 藤原広嗣の乱 藤原広嗣(宇合の子)が、橘諸兄、玄昉を排除しようとして太宰府で挙兵。
挙兵は失敗するが、中央政界に大きな衝撃を与えた。
740年 10月 聖武天皇行幸 聖武天皇、伊勢国へ行幸。
741年 国分寺建立の詔 国分寺・国分尼寺の建設がはじまる。
742年   聖武天皇行幸  8/12    聖武天皇、山城国石原宮に行幸
8/27    聖武天皇、近江国信楽(紫香楽)宮に行幸。
9/4    聖武天皇、恭仁京に戻る。
9/12   大風雨の為宮中の殿舎等倒壊。
12/29   聖武天皇、信楽(紫香楽)宮行幸。
743年 墾田永年私財の法 聖武天皇の命により制定。公地公民制の崩壊。
743年 大仏の建立の詔 東大寺盧舎那仏像の建立の詔が出された。
745年   行基 大僧正 行基に「大僧正」の位を日本で最初に贈られた。
行基=飛鳥寺(官大寺)で法相宗などの教学を学び、集団を形成して近畿地方を中心に貧民救済・治水・架橋などの社会事業に活動した。聖武天皇により奈良の大仏(東大寺など)建立の実質上の責任者として招聘された。
746年 高丘連河内 伯耆国国守、高丘連河内が任命された。
748年   大仏完成 この頃に大仏が完成したと考えられている。 
749年 46代 孝謙天皇
   (阿倍内親王) 
後に重祚し、48代称徳天皇。
父=聖武天皇
母=藤原光明子。
有力氏族=藤原仲麻呂
751年 懐風藻 最初の漢詩集。淡海三船が撰者とする説がある。
淡海三船
天智天皇の皇子大友皇子の曽孫。神武天皇から元正天皇までの全天皇(弘文天皇と文武天皇を除く)の漢風諡号を一括撰進した。
752年 大仏開眼 45代聖武天皇、東大寺大仏開眼供養を行う。行基が導師を勤めた。
754年 鑑真来日 唐招提寺建立。
755年   安禄山の乱
(755-756)
唐の節度使・安禄山とその部下の史思明及びその子供達によって引き起こされた大規模な反乱。
藤原仲麻呂政権は反乱軍が日本などの周辺諸国に派兵する可能性も考慮して大宰府に警戒態勢の強化を命じた。
更に唐の対外影響力の低下を見越して長年対立関係にあった新羅征討の準備を行った。
756年 正倉院 東大寺に宝庫「正倉院」が出来る。
757年 橘奈良麻呂の変 橘奈良麻呂(橘諸兄の子)のクーデターを藤原仲麻呂が防ぐ。政権は藤原仲麻呂へ。
758年 47代 淳仁天皇 称徳天皇の意向によって長らく天皇のひとりと認められず、廃帝または淡路廃帝と呼ばれていた。
父=舎人親王
母=当麻真人山背
有力氏族=藤原仲麻呂
758年 「大伴家持」 
  
因幡守に任官
大伴家持 (748頃生ー785没) 因幡守に任官
759年 万葉集 日本に現存する最古の歌集。約4500首の和歌を集録。
選者:大伴家持ら

第1期(629年-672年):皇室の行事や出来事に密着した歌が多い。
代表歌人=額田王(ぬかたのおおきみ)

第2期は672ー710年):宮廷賛歌や旅の歌などが多い。
代表歌人=柿本人麻呂・高市黒人(たけちのくろと)・長意貴麻呂(ながのおきまろ)など

第3期(710ー733年):個性的な歌が生み出された。
代表的歌人=山部赤人(やまべのあかひと)、大伴旅人、山上憶良(やまのうえのおくら)、高橋虫麻呂(むしまろ)、坂上郎女(さかのうえのいらつめ)など。

第4期(733-759年)
代表歌人=大伴家持・笠郎女(かさのいらつめ)・大伴坂上郎女(おおとものさかのうえのいらつめ)・橘諸兄(たちばなのもろえ)・中臣宅守(なかとみのやかもり)・狭野弟上娘子(さののおとがみのおとめ)・湯原王など。
759年 船の建造命令 新羅征討のため山陰道諸国船145隻を造る。
760年 光明皇太后死去 光明皇太后が崩御。光明皇太后の死の翌年、病に伏せった孝謙上皇は、看病に当たった弓削氏の僧・道鏡を寵愛するようになる。
761年 節度使設置 節度使の再設置。
763年    謙上皇と淳仁天皇の相克 道鏡や吉備真備といった孝謙派が要職に就く一方で、仲麻呂の子達が軍事的要職に就くなど、孝謙上皇と淳仁天皇・仲麻呂の勢力争いが水面下で続いた。
764年 恵美押勝の乱 恵美押勝(藤原仲麻呂)が孝謙上皇・道鏡の勢力に対して挙兵。近江で敗死。淳仁天皇は廃位され淡路に流された。
764年 48代 称徳天皇 父=聖武 母=藤原光明子
有力氏族=弓削道鏡 吉備真備
765年 道鏡太政大臣 道鏡が太政大臣禅師となる。その後、766年に法王へ。
道鏡=物部氏の一族の弓削氏の出自。
767年   伊治城 陸奥の伊治城完成
769年 5月 宇佐八幡宮神託事件(道鏡皇位事件) 道鏡の弟で大宰帥の弓削浄人と大宰主神の習宣阿曾麻呂(すげのあそまろ)は「道鏡を皇位に付ければ天下は太平になる」という内容の宇佐八幡宮の神託を奏上。
称徳天皇は宇佐八幡から法均(和気広虫)の派遣を求められ、虚弱な法均に長旅は堪えられぬとして、弟である和気清麻呂を派遣した。
8月 神託奏上 清麻呂、天皇の勅使として宇佐神宮に参宮。「天の日継は必ず帝の氏を継がしめむ」という大神の神託を大和に持ち帰り奏上する。
称徳天皇は報告を聞いて怒り、清麻呂を因幡員外介にいったん左遷、さらに「別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)」と改名させて大隅国へ配流し、姉の広虫も「別部広虫売(わけべのひろむしめ)」と改名させられて処罰
10月 称徳天皇が詔を発し、道鏡には皇位は継がせないと宣言したため、事件の決着がついた。
770年 称徳天皇崩御
道鏡失脚
道鏡が下野(しもつけ)(栃木県)に流される。
政権は藤原百川に移った。
770年 49代 光仁天皇 父=志貴皇子(しきのみこ) 母=紀橡姫(きのとちひめ)
天智天皇の孫。9代にわたる天武朝の終焉。
有力氏族=藤原百川 藤原良継
774年 38年戦争勃発 按察使、大伴駿河麻呂が蝦狄征討を命じられた。(774年-811年まで続く)
777年     陸奥・出羽の軍、出羽の蝦夷に敗れる
780年 宝亀の乱 東北地方(後の陸前国)で蝦夷、上治郡司伊治呰麻呂(あざまろ)が反乱を起こした。
781年 50代 桓武天皇 父=光仁天皇 母=高野新笠(たかののにいがさ)百済の武寧王を祖先とする百済王族の末裔。
有力氏族=
784年 長岡京遷都 第50代桓武天皇が、都を京都、「長岡京」に移す
785年   藤原種継暗殺 近衛舎人伯耆桴麻呂ら12名が藤原種継を暗殺(『日本紀略九月条』)
種継は造宮監督中に矢で射られ、翌日薨去。暗殺犯として大伴竹良らがまず逮捕され、取調べの末大伴継人・佐伯高成ら十数名が捕縛されて斬首となった。事件直前の8月28日に死去した大伴家持は首謀者として官籍から除名された。
789年 巣伏(すぶし)の戦い 紀古佐美の率いる官軍が阿弖流為の率いる蝦夷軍に大敗した。
792年   健児 軍団を廃し、健児を置く(陸奥・出羽等を除く)


平安時代(794-1192)
平安時代前期  (摂関政治(藤原時代)の始まり、弘仁貞観文化)
794年 平安京遷都 都を京都に移した。
796年     出雲国造の意宇郡大領の連任という政治関与が終わり、以後、出雲国造は祭祀にのみ関わる事になった。
  この時に出雲国造は意宇平野の出雲国府付近(現松江市大庭)から杵築に移ったとする説がある。
797年 「続日本紀」 藤原継縄・菅原真道らによる歴史書。
797年 征夷大将軍 坂上田村麻呂が征夷大将軍に任じられた。
798年 清水寺建立 坂上田村麻呂と僧延鎮が清水寺を建立。
800年   延暦大噴火 3月14日富士山噴火。煙で暗瞑するという。夜、火光が天を照らし、雷の如き音がするという。灰が雨のように降り、河水皆紅色になると言う。4月18日まで続く。(日本紀略)
801年      坂上田村麻呂、蝦夷地を平定。大宰府に隼人の朝貢停止を命じる
802年 阿弖利爲(アテルイ)降伏 大墓公阿弖利爲(アテルイ)と盤具公母禮(モレ)が五百余人を率いて降伏。
802年 胆沢城築城 坂上田村麻呂が胆沢城を築城。
806年 桓武天皇崩御
806年 51代 平城天皇 父=桓武天皇(第一皇子) 母=皇后藤原乙牟漏。
有力氏族=藤原緒嗣  藤原薬子 
806年   践祚 父帝が崩御し、同日践祚。
809年 譲位 病気のため在位僅か3年で神野親王(嵯峨天皇)に譲位して太上天皇となる。
809年 52代 嵯峨天皇 父=桓武天皇(第二皇子) 母=皇后藤原乙牟漏。
有力氏族=藤原冬嗣
810年 藤原薬子の乱 藤原仲成・薬子姉妹の乱。以後、藤原弐家没落。
816年 令外の官 蔵人、検非違使の設置。
818年   弘仁格 弘仁格を発布して死刑を廃止した。
820年   弘仁新羅の乱 日本国内の遠江・駿河両国に移配した新羅人在留民700人が反乱を起こしたがその殆どが処刑され、鎮圧された。
822年 日本霊異記 僧、景戒が、最古の仏教説話集「日本霊異記」を著す。
823年 53代 淳和天皇
有力氏族=藤原良房
830年 弘仁式施行
833年   「出雲国造神賀詞」 「出雲国造神賀詞」奏上の終結。
837年   伯耆神・大山神・國坂神授階 無位から従五位下の神階奉授。
838年    最後の遣唐使  遣唐使大宰府より出発(最後の遣唐使)
841年 張宝高殺害事件 新羅人の帰化を禁止。
842年 承和の変 藤原氏による最初の他氏排斥事件とされている事件。名族伴氏(大伴氏)と橘氏に打撃を与え、また同じ藤原氏の競争相手であった藤原愛発、藤原吉野をも失脚させたとされている。
845年   新羅政策の転換 太宰大弐藤原衛(ふじわらのまもる)は新羅人の越境禁止を進言し、以後、帰化を申請する場合でも、漂着民に食料衣服を与えて追い返せとした。
848年 宇部神社神階 宇部神が、無位から従五位下を賜る。878年正三位となる。
この前後において、因幡国の権力は土師氏から伊福部氏に移ったと考えられる。
850年     官社には従五位下以上に叙する太政官令。
851年     全国の神社の祭神に正六位上の神階が贈られた。『日本文徳天皇實録』:巻三:「正月庚子。詔。天下諸神。不論有位無位。叙正六位上」
851年   熊野・杵築大神授階 出雲国の熊野・杵築大神が従三位を授階。他六神が従五位下を授階。
855年   俘囚警備 陸奥奥地の俘囚警備のため兵2000人を派遣。
856年   倭文神・宗形・大帯孫神授階 倭文神・宗形・大弊孫神へ無位から従五位下の神階奉授。伯耆神・大山神・國坂神が、正五位下へ昇叙。
858年 藤原良房摂政 摂関政治の始まり。
863年 伯耆国不作 伯耆国不作疫病のため講師賢永一万三千仏、一切経を書写国分寺に安置する。
その後、880年頃まで不作が続く。
この様に、9世紀の伯耆国では不作と新羅対策の記述にあふれている。
しかし出挙を全国平均以上に納めているという事実は、正史の記載と矛盾するような感もある。
不作については国司報告に基づくもので、不三得七法が示すように、不作とした方が地方側には有利とも言える。
よって、かならずしも不作が続いていたかという実態は不明であると言わざるを得ない。
864年 貞観大噴火 864年(貞観6年)から866年(貞観8年)にかけて発生した、富士山の大規模な噴火活動。この時、阿蘇山も噴火。
866年 新羅海賊警護令 866年から894年まで、8回の警護令が出された。
869年   俘囚動員 俘囚動員による対新羅防備兵力の編成が為された。(俘囚料:伯耆国13000束、因幡国6000束)
869年   貞観地震 震源は岩手県沖〜福島県沖、または茨城県沖の連動型超巨大地震の可能性も指摘される。M8.3-8.6。陸奥で大地震。流光が昼の如く目撃された後、大きく揺れる。多賀城崩壊し圧死者あり。また地面の裂け目に埋没する者もあり。城下に大津波が押し寄せ1000余人が死亡。
870年   対馬に兵士配備 朝廷は弩師や防人の選士50人を対馬に配備する。また、在地から徴発した兵が役に立たないとみた政府は、俘囚を配備した。
870年 この頃より国風文化が栄える。この後、「竹取物語」、「伊勢物語」などが著される。
870年   伯耆国の弩師 伯耆国から弩を作る技術者が居たとの記述 。
875年    俘囚の乱 下総国の俘囚の乱
878年 元慶の乱 夷俘が蜂起して秋田城を急襲、秋田城司介良岑近は防戦しかねて逃亡した。
880年   出雲地震 現在の東出雲町を震源とするM 7の地震。神社、仏寺、官舎、百姓居濾の多くが倒壊。負傷者多数。余震相次ぐ。(三代実録37、38)
887年 59代 宇多天皇 寛平の治 天皇親政が行われた治世
有力氏族=関白藤原基経、藤原時平、菅原道真
887年 阿衡事件
(あこうじけん)
この事件により基経は藤原氏の権力の強さを世に知らしめ、天皇が事実上の傀儡であったことを証明した。
887年 藤原基経関白 摂関政治の始まり。
887年   仁和地震 南海トラフ沿いの巨大地震と推定される地震。M 8〜8.5、五畿七道諸国大震、京都・摂津を中心に死者多数。津波あり。南海地震の記録だが地質調査によればほぼ同時期に東南海・東海地震も発生。津波堆積物からM 9クラスであったとする説もある。
888年 仁和寺 勅願寺である仁和寺建立。
891年 藤原基経死去 その後摂関を置かず、天皇親政が行われた。
893年   新羅人 新羅人、筑前・肥後に来寇する。
893年 滝口の武士 滝口の武士を設置し、宮中を警護。
895年   新羅人 新羅人、壱岐に来襲。
894年 遣唐使廃止 菅原道真の意見により遣唐使廃止。
897年 宇多天皇出家 醍醐天皇に譲位し、仁和寺に入って法皇と称した。
平安時代中期  (藤原氏と天皇家の相剋、地方政治の乱れ、武士団の発生、国風文化の発達)
897年 60代 醍醐天皇 延喜の治 
有力氏族=左大臣藤原時平、藤原忠平 右大臣菅原道真
900年 上淀廃寺炎上 この頃、上淀廃寺炎上消失。
以後、再建されることはなく、上淀廃寺は歴史から忘れ去られる事になった。
901年 昌泰の変 左大臣藤原時平の讒言により醍醐天皇が右大臣菅原道真を大宰権帥として大宰府へ左遷し、道真の子供や右近衛中将源善らを左遷または流罪にした事件。
901年 日本三代実録 六国史の第六にあたる。編者は藤原時平、菅原道真、大蔵善行、三統理平。
編年体、漢文、50巻。
902年 延喜の荘園整理 醍醐天皇が荘園整理。
903年 「竹取物語」 最初の物語。作者不詳(源順あるいは紀氏の一族という説も有る)
904年 「伊勢物語」 在原業平を主人公とする恋愛物語。
905年 古今和歌集編纂 紀貫之らによる、最初の勅撰和歌集。
907 唐滅亡 唐が滅亡し、この後約50年間、五代十国時代が続く。
909年 藤原時平死去 時平は39歳の若さで早逝。そのため、道真の怨霊による祟りだといわれた。
時平の死後、あまり仲は良くなかったとされる弟の藤原忠平及びその系統に政治の実権が移り、時平の系統はいつしか、僧籍に入るか、中・下級官僚に甘んじるなどして歴史に埋もれる事となり、それが道真の比較的早い名誉回復に繋がったとの見方がある。
914年 太政官符 伯耆国、鉄606廷を稲の代わりに納める。
おおよそ、鉄1廷=米0.2石  (参考:概ね 1反=20束=1石=鉄5廷)
923年 道真復位

醍醐天皇は道真を左遷した詔を破棄し、右大臣に復し贈位を行い、その慰霊に努めた。

926年 渤海滅亡 契丹に攻められて、渤海滅亡。
927年 延喜式 全50巻、約3300条からなる律令の補完の為の法令集。
905年(延喜5年)から編纂され始め、927年に一応完成した。
930年 61代 朱雀天皇 この頃から荘園乱立
有力氏族=藤原忠平
931年 宇多法皇崩御
931年 和妙抄 勤子内親王の求めに応じて源順(みなもとのしたごう)が編纂した辞書。
935年   新羅滅亡 新羅の敬順王が君臣を挙げて高麗に帰順した。これにより新羅は滅亡した。
935年 承平・天慶の乱 平将門が関東で反乱を起こす。最初の武士の反乱。
939年 承平・天慶の乱 藤原純友が瀬戸内で反乱を起こす。この後、追捕使を設置。
946年 62代 村上天皇
有力氏族=藤原忠平
947年 伯耆国争乱
藤原是助が400余人の兵を率いて百姓の物部高茂・忠明親子を襲う。
2ヶ月後、忠明が藤原是助に縁のある加茂岑助を殺害
949年 藤原忠平死去 以降摂関を置かず、延喜時代とともに天皇親政の典範とされた。
950年 浄土教の発達 阿弥陀如来に帰依して念仏(南無阿弥陀仏)を唱えることによって極楽浄土に往生出来るという教えが広まった。
  空也(市聖):市にて念仏のくどくを庶民に布教した。
  源信(恵心僧都):985年に「往生要集」を著す。
950年 本地垂迹説 仏主神従の、神仏習合思想。
952年     出雲国に押領使の任命。(伯耆、美作にはすでに任命)
967年 63代 冷泉天皇
有力氏族=関白 藤原実頼
969年 安和の変 醍醐天皇の皇子、源高明が左遷される。 以後、藤原氏が政権独占。摂関政治の確立。
969年 64代 円融天皇 安和の変で源高明が失脚すると、その5ヶ月後冷泉天皇の譲位を受けて即位する。
有力氏族=藤原伊尹
969年 安和の変

藤原氏による他氏排斥事件で、謀反の密告により左大臣源高明が失脚させられた。

970年 『口遊』 出雲大社の高層神殿が日本一の建物として認識される。
  源為憲(みなもとのためのり)作とされる『口遊』に雲太・和二・京三の記述。
980年 伯耆安綱 伯耆古鍛治の始祖で、反りのある日本刀の創始者でもある安綱が「童子切り安綱」を制作。
984年 65代 花山天皇
有力氏族=
985年 往生要集 源信(恵心僧都)が「往生要集」を著す。
986年   花山天皇退位 19歳で宮中を出て、剃髪して仏門に入り退位した。
これは孫の早期即位を狙った藤原兼家の陰謀と言われる(寛和の変)。
986年 66代 一条天皇
有力氏族=藤原道長
990年 酒呑童子退治 源頼光と四天王たちは山伏に身をかえて大江山に行き、 神変奇特酒(眠り薬入り酒)を使って酒呑童子を退治した。

異説あり。
995年に源頼光と藤原保昌らを征伐に向わせた。

1018年、大江山夷賊追討の勅命を賜り頼光四天王らとともに6人で摂津国大江山へ向かい夷賊討伐を行う。成相寺に頼光が自らしたためた追討祈願文書がある。
995年 藤原道長右大臣 藤原道長が右大臣となり、政治の実権をにぎる
藤原道長が内覧(ないらん)の宣旨(せんじ)を受けて権力が拡大する 。
この年、疫病が流行し、藤原兼家ら宮中8人の公卿が死亡。
996年   長徳の変 4月10日の藤原道隆の死後、弟の藤原道長が内覧の宣旨を得た後に起きた政変。
道隆の一族、中関白家が排斥される結果となった。花山院闘乱事件(かざんいんとうらんじけん)とも。花山法皇は出家の身での女通いに出雲権守に左遷された。伊周は勅命によるもの以外は禁止されている呪術である大元帥法をひそかに行ったとして、大宰権帥に左遷された。
1001年     清少納言の『枕草子』完成
1011 67代 三条天皇
有力氏族=藤原道長
1007年 因幡氏滅。 以後、伊福部氏の台頭。
1014 紀致頼
(きのむねより)
紀致頼が伯耆守となる。
1016 68代 後一条天皇
有力氏族=藤原頼道
1016年   藤原道長摂政 藤原道長が摂政となる。
1017年   藤原氏全盛 藤原道長が太政大臣、子の頼道が摂政になり、藤原氏全盛となる
紀成任
(きのしげとう)
伯耆守
後任の藤原資頼の執政を朝廷に告訴。
尊卑文脈では美作守文利の孫、出雲守紀忠道の子。紀致頼の甥。
他の資料には伯耆守の記載なし。
1018年   酒呑童子退治  大江山夷賊追討の勅命を賜り頼光四天王らとともに6人で摂津国大江山へ向かい夷賊討伐を行う。成相寺に頼光が自らしたためた追討祈願文書がある。
1021 藤原資頼
(ふじわらすけより)
藤原資頼、伯耆国国司として着任。

参考1:藤原資頼系譜
  藤原忠平→藤原実頼→藤原斉敏→藤原(小野宮)実資→藤原資頼

参考2:藤原資頼の出自
  実は藤原斉敏の三男である藤原懐平の子

参考3:藤原懐平(かねひら)
花山天皇が譲位したことで、摂関も懐平と同じ小野宮家の伯父・頼忠から、別系である九条家の藤原兼家に移ってしまった。
その後は兼家派の人材の急速な昇進の一方で、懐平は長く非参議修理大夫のまま据え置かれた。
三条天皇は、公卿筆頭の左大臣・藤原道長との不和から、小一条家および小野宮家の人々を側近とし、懐平も小野宮家の一員として小一条家から皇后となった娍子の皇后宮大夫となって引き続き近侍した。
1026年   万寿の大津波 5月23日 亥下刻、石見沖の鴨島が海嘯で海没する。石見地方沿岸(特に益田市)に大被害。地震の規模Mは7.6、津波の規模は10-20m程度と推定。

1028年   平忠常の乱 前上総介平忠常、下総で反乱。
1031年     甲斐守源頼信らに忠常の追討を命ず。
1032年     源頼信、忠常の乱を平定
1036年 69代 後朱雀天皇
有力氏族=


1045 70代 後冷泉天皇
有力氏族=
1045年
新しく荘園をつくることを禁止する。
       
1068年 71代 後三条天皇 宇多天皇以来170年ぶりの藤原氏を外戚としない天皇となった。
 有力氏族=  
       

平安時代のこれ以降は、日本史の年表、あるいは、米子の歴史年表

最近の考古学的発掘
  1984年 荒神谷遺跡から銅剣358本出土。
  1995年 妻木晩田遺跡発掘
  1996年 賀茂・岩倉遺跡から銅鐸39個出土。
  1991年 上淀廃寺彩色仏教壁画発掘
  2000年 出雲大社巨大御柱発見


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注-1

  黒字  日本国内の出来事
  緑字  朝鮮半島の出来事
  青字  中国あるいは西洋の出来事


注-2
  ①天皇名の( )内は幼名。
  ②西暦年代:斜字で?がついたものは、推測による。

実在がかなりの可能性で確認されている21代雄略天皇から、実年代を西暦で年表中に記載する。
それ以前の天皇については書紀中の年代を記す。