出雲氏・出雲国造と出雲族 米子(西伯耆)・山陰の古代史
出雲氏
天穂日命の後裔、鵜濡渟命に始まる出雲国造家で、子孫は出雲大社を奉斎する。
室町時代の国造清孝の時に千家家、北島家の二家に分立して宮司を交代で祭祀を司り明治に至る。
明治以降の宮司は千家家単独となる。

出雲国造
出雲国を古代に支配した氏族・出雲氏の長が称した称号であるとされる。
出雲国造家は代々出雲大社の祭祀を受け継いだ。

出雲族
須佐之男命、大国主命、事代主・武御名方命から連なる古代出雲の一族。
必ずしもその末裔が出雲国造家に繋がるとは限らない。    (参照:皇室・有力氏族系図まとめ)

出雲国造について
概要
出雲国造
国譲りに応じた大国主命を祀る為、天日隅宮(あめのひすみのみや=出雲大社)の祭祀を担った。
天穂日命(あめのほひのみこと)を始祖とする天孫族。

天穂日命(あめのほひのみこと)
アマテラスの第二子とされ、アメノオシホミミの弟神にあたる。
葦原中国平定のために出雲の大国主神の元に遣わされたが、大国主神を説得するうちに心服してその家来になってしまい、地上に住み着いて3年間高天原に戻らなかった。その後、出雲にイザナミを祭る神魂神社を建て、子の建比良鳥命は出雲国造らの祖神となったとされる。

国造任命時期
反正天皇4年  出雲宮向が国造となり、出雲臣の姓を賜った。


系譜
始祖=初代:天穂日命→2代武夷鳥命→櫛瓊命→津狭命→櫛瓺前命→櫛月命
                                             ↓
   飯入根(いいりね)命←阿多命←毛呂須命←知理命←櫛田命←櫛瓺鳥海命 
      ↓
12代 鵜濡渟(ウカツクヌ)(氏祖命)
17代 出雲宮向()・・・・・・・・・・・・反正天皇4年に国造となり、出雲臣の姓を賜った。
26代 出雲果安(はたやす)・・・・出雲国国司が、果安に出雲国風土記の編纂を委嘱した。
27代 出雲廣島(ひろしま)・・・・・『出雲国風土記』を編纂した。
54代 出雲孝時
55代 出雲清孝
        56代:千家孝宗
        79代:千家尊澄
        80代:千家尊福  出雲大社教を設立。 
        83代:千家尊祀
        84代:千家尊祐


56代:北島貞孝
76代:北島脩好  出雲教を設立。
79代:北島英孝
事績:出雲国造と出雲大社
反正天皇4年  
出雲宮向が国造となり、出雲の姓を賜った。

以後
出雲国東部の意宇郡に居を構え、出雲国造と意宇郡郡司を兼帯していた。
また、出雲大社と同時に熊野大社における祭祀も行っていた。

659年(斉明天皇5年) 
出雲国造に命じて「神之宮」を修造させた。
「この歳、出雲国造 名をもらせり、に命じて、神の宮を修り厳よそはしむ」(『日本書紀』)
この時の出雲国造は意宇郡熊野大社にいたとされ、神之宮すなわち出雲大社とは熊野大社であるとする説も有る。

698年(文武2年)  
「筑前国宗形と出雲国の意宇の両郡の郡司は、共に三等身以上の親族を続けて任用することを許す」との詔が発令された。 
翌日には「諸国の国司は、郡司の選考に偏りがあってはいけない。郡司もその職にあるときは、必ず法の定めに従え。これより以後このことに違背してはならぬ」と諸国の郡司を任命し発令。
すなわち、筑前国宗形と出雲国の意宇の両郡の郡司の件は特例であった事がわかる。

706年(慶雲三年) 
出雲国造が意宇郡大領を兼任して出雲郡の杵築へ移住したという説もあり。

708年(和銅元年)
元明女帝の御代、中央から派遣された正五位下「忌部宿禰子首」が出雲国司に着任。

716年 
第26代出雲国造菓安が、「出雲国造神賀詞」を奏上。
この時に出雲国造は熊野から意宇平野の出雲国府付近(現松江市大庭)に移ったとする説と、杵築(現出雲市)に移ったとする説がある。

721年(養老五年)
出雲臣廣嶋が第二十七代出雲国造を継承。

733年
27代出雲廣島が「出雲国風土記」を編纂し聖武天皇に奏上。

796年(延暦17年)
  出雲国造の意宇郡大領の連任という政治関与が終わり、以後、出雲国造は祭祀にのみ関わる事になった。
  この時に出雲国造は意宇平野の出雲国府付近(現松江市大庭)から杵築に移ったとする説がある。

833年
  「出雲国造神賀詞」奏上の終結。

867年(貞観9年) 
杵築大社に神階奉授。  神階はに正二位まで昇った。

900年頃
出雲国造が熊野大社から杵築大社への移住もこの頃である可能性がある。
それ以前の出雲国造館の所在は明らかではないが、神魂神社参道付近と考えられている。
この国造の移動に伴い杵築大社の本殿に大国主に代えてスサノオが祀られる事となる。

927年 
『延喜式神名帳』  「出雲国出雲  杵築大社」と記載され、名神大社に列している。

970年(天徳元年)頃  
『口遊』
  出雲大社の高層神殿が日本一の建物として認識される。
  源為憲(みなもとのためのり)作とされる『口遊』に雲太・和二・京三の記述。

1333年(元弘3年3月)
「後醍醐天皇宸翰宝剣代綸旨」「王道再興綸旨」の二通の書が杵築大社に後醍醐天皇から送られてくる。 【出雲大社文書】
後醍醐天皇が出雲大社に祀られている二振りの神剣の内いずれかを三種の神器の天叢雲剣の代わりに差し出すように命じたもの。
 「王道再興綸旨」には後醍醐の不退転の決意が述べられており武力をもって天下を平定するという意思表示であると同時に、出雲国内を後醍醐側に組み入れようとする目的があった。
この綸旨に従い出雲国守護の塩冶高貞をはじめ出雲国一帯が後醍醐の下につく。
塩冶氏は出雲大社の神官家とも縁戚を結んでおり出雲大社も後醍醐天皇に見方することとなる。

1343年(康永年間)
出雲国造家の分裂。
南北朝時代の第54代国造孝時は、六郎貞孝を寵愛し、国造を継がせようと考えていたが、孝時の母である覚日尼(塩冶頼泰の娘)から「三郎清孝は病弱であるが兄であるので、後に貞孝に継がせるとしても、まず一時的にでも兄である清孝に継がせるべきだ」と説得を受け、清孝を後継者とした。
その後清孝が第55代国造となったが、やはり病弱であったため職務を全うできず、弟の五郎孝宗を代官として職務のほとんどを任せ、そのまま康永2年(興国3年 1343年)、国造職を孝宗に譲ることとした。
これに対して貞孝は自分に国造職を譲るのが本来であると猛烈に反発し、神事を中止し、軍勢を集めて社殿にたてこもるなど、紛争状態となった。

1344年(康永3年、興国4年)
事態を重く見た守護代の吉田厳覚は両者に働きかけ、年間の神事や所領、役職などを等分するという和与状を結ばせた。
以降、孝宗は千家氏、貞孝は北島氏と称し、国造家が並立する。

以降

千家氏(せんげし)と北島氏(きたじまし)の二氏に分かれ、それぞれが出雲国造を名乗り、幕末まで出雲大社の祭祀職務を平等に分担していた。

1873年(明治6年)
80代千家尊福が出雲大社教を設立。
その後、司法大臣・東京府知事等を歴任。

1882年(明治15年)
76代北島脩好が出雲教を設立。


出雲国造に関する神事、諸説等
出雲国造神賀詞の奏上
奈良・平安時代の出雲国造は、その代替りごとに朝廷に参向して『出雲国造神賀詞』を奏上する儀礼を行っていた。

儀式の次第
『延喜式』によればまず新しく国造となった者は朝廷に上って新任の式を行い、天皇から「負幸物」を賜る。
その後出雲に帰って一年間潔斎をした後、再び朝廷に上り、神宝・御贄を献って神賀詞を奏上する。
そして出雲に帰ってまた1年の潔斎を行い、再び朝廷に参向して献物を捧げて神賀詞を奏上するという。

奏上儀式の起源
朝廷が古代の在地勢力による服属儀礼を、代表として出雲国造に命じて行わせたとする説や、出雲国造が自らの系譜を朝廷の神話体系の中に売り込むべく始めたとする説などがあり、定かではない。
しかしいずれにしろ、この儀式は古代日本において他の国造にみられない出雲国造独特の儀式であって、記紀神話において出雲神話が非常に大きなウェートを占めていることや、国造制の廃止後も出雲国造が存続された理由とも切り離すことのできない儀式である。


火継式(神火相続式)
火継式
出雲国造が代替わりの際に行う儀式であり、神火相続式とも呼ばれる。

内容
前国造が帰幽(死去)した際、新国造は喪に服す間もなくただちに社内の斎館に籠もって潔斎した後、燧臼(ひきりうす)・燧杵(ひきりきね)を携えて、熊野大社に参向する。
そして熊野大社の鑽火殿にて燧臼・燧杵によって火を起こし、鑽り出された神火によって調理された食事を神前に供えると同時に、自らも食べる。


出雲族
出雲族とは
出雲族
厳密な定義は無いが、一般的には須佐之男命、大国主命、武御名方命、事代主命およびその後裔の出雲神族を祀る人々と考えられる。
出雲氏の祖は天神天穂日命であるため、出雲氏と出雲族は異なるものといえる

出雲神族
須佐之男命、五十猛命、大年神 宇迦之御魂神 八島士奴美神
大国主命、武御名方命、事代主命、少名彦名命など


出雲神族系譜

出雲神族系譜 兄弟姉妹1 兄弟姉妹2 兄弟姉妹3 備 考
 
素戔鳥尊
  ↓
大国主命
  ↓
事代主命 建沼河男命
  ↓
越氏へ
健御名方命
  ↓
諏訪氏へ
国忍富命
  ↓
須佐神社神主家
  ↓    
天日方奇日方命 媛蹈鞴五十鈴媛命 五十鈴依媛命 天八現津彦命
  ↓   ↓
健飯勝命
淳名底仲媛命 磯城津彦命
  ↓
磯城県主へ
観松比古命
  ↓        ↓
健甕尻命 大日腹富命
  ↓
億岐国造
隠岐氏へ
  ↓
豊御気主命
  ↓
大御気主命
  ↓  
健飯賀田須命 吾田片隅命
  ↓
宗像氏へ
  ↓   
10 大田田根子 古事記では
意富多多泥古
  ↓
11 大御気持命 大鴨積命
  ↓
賀茂氏へ
鴨部氏へ
三歳氏へ
田田彦命
  ↓
大神氏
神部氏
神人氏
大禰希知命
  ↓  
12 大友主命 大友主命は四大夫の一人 
  ↓
13 三輪氏へ



出雲神族を祀る人々
全国各地に点在するが特に中部日本、北陸、東北地方に見られる。
    例:三輪氏、宗像氏、越氏、賀茂氏、諏訪氏など


出雲族に関する諸説
出雲族の出自
「歴史の中の日本-生きている出雲王朝」 (中央公論社 1994 司馬遼太郎)より
司馬遼太郎は、西村真次の『大和時代』を引用して、出雲族はツングース族だったのかもしれないと書いている。
モンゴル語もツングース語も、同じウラル・アルタイ語族に属し、同じ膠着語である日本語との類似点もしばしば指摘される。
モンゴル語と日本語の類似性や、「謎の出雲帝国」 (徳間書店)の著者である吉田大洋(富當雄)氏の取材からの一文であると思われるが、真偽は不明。


参考資料
「出雲からたどる古代日本の謎」 (青春出版社 2003 瀧音 能之著)
「出雲大社の謎」 (DHC社 1994 山崎謙)
「歴史の中の日本-生きている出雲王朝」 (中央公論社 1994 司馬遼太郎)
「出雲神話の誕生」 (講談社学術文庫 2006 鳥越憲三郎) 
「古代出雲王国の謎」 (PHP文庫 武光誠)
「謎の出雲帝国」 (徳間書店 吉田大洋)



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