源頼光について
源頼光(よりみつ らいこう)
  平安時代中期の武将。
父は鎮守府将軍源満仲、母は嵯峨源氏の近江守源俊女。諱はしばしば「らいこう」と有職読みされる。
摂津源氏、頼光(よりみつ)流の祖。
頼光流の中で永く続いたのは美濃国土岐郡を本領とした国房の流れで、美濃源氏、土岐源氏とも称する。
摂津、伊予、美濃等の諸国の受領を歴任。
内蔵頭、左馬権頭、東宮権亮等をつとめた。
藤原摂関家に接近し、その家司的存在となって勢力を伸長した。



系譜

 



源頼光系譜 配偶者 兄弟姉妹1 兄弟姉妹2 備 考
 
始祖 56代清和天皇
       ↓
源満仲
源俊の女 頼光の母は嵯峨源氏である近江守源俊の女。
  ↓
長男 源 頼光
平惟仲の娘 次男 源 頼親 三男 源 頼信
異母弟である源頼親は大和源氏の祖となる。
  ↓      ↓  ↓
源 頼国
 源 頼房 源 頼義
  ↓   ↓  ↓
源 国房
源 義家
義家:1039-1106
  ↓  ↓

源 義親
  ↓  ↓
源 為義
  ↓  ↓
源 義朝
  ↓  ↓
源 頼朝
  ↓  ↓
源 頼家
  ↓  ↓
10 源 実朝
  ↓            ↓
11      
  ↓           




事績
948年(天暦2年):誕生
生誕地は不明だが本拠地の多田であるか、父の満仲が973年(天延元年)頃には平安京の左京一条に邸を持っていたことから、満仲邸であるともされる。

若年の経歴:不明。
同時代の中級貴族と同じく20歳前後で出仕し、満仲と同じく摂関政治を行っていた藤原氏に臣従して官職を得て財力を蓄えていたと考えられている。
但馬、伊予、摂津(970年)の受領を歴任する。

986年(寛和2年)頃
居貞親王(三条天皇)が皇太子となった際に春宮権大進に任じられる。

988年(永延2年) 40歳
『日本紀略』によれば、には関白の藤原兼家が新邸を造営した宴において馬30頭を送っている。

990年(正暦元年) 42歳
関白兼家の葬儀に際して藤原道長の振る舞いに感心して、側近として従うようになったと伝えられる。

992年(正暦3年) 44歳
備前守に任官。
しかし都に留まっており遙任であったと思われる。
東宮大進時代には朝廷の儀礼や典礼関係の年中行事に記録が見られ、藤原道長の主催した競馬などに参加している。

1001年(長保3年) 53歳
美濃守を兼任、このときは遙任であったことを示す記録も無く任国へ赴いていたと思われる。
同時期には大江匡衡が隣国の尾張守となり、両者は赴任するにあたって書状を交わしており親交があったと思われる。
また、匡衡妻の赤染衛門は頼光を詠んだ和歌を残している。

左馬権頭となって正四位下になり、後一条天皇の即位に際して昇殿を許される。
受領として蓄えた財により一条邸を持ち、たびたび道長に多大な進物をしてこれに尽くした。
道長の権勢の発展につれてその側近である頼光も武門の名将「朝家の守護」と呼ばれるようになり、同じく摂関家に仕え武勇に優れた弟の頼信と共に後の清和源氏の興隆の礎を築く。

1018年(寛仁元年)3月 70歳
大江山夷賊追討の勅命を賜り頼光四天王らとともに6人で摂津国大江山へ向かい夷賊討伐を行う。
成相寺に頼光が自らしたためた追討祈願文書がある。

また、歌人として『拾遺和歌集』以下の勅撰和歌集に計3首の和歌が入集している。

没年
68歳、あるいは74歳。

源頼光と伝承
土蜘蛛退治
『平家物語』の「剣巻」では「山蜘蛛」と表記され、源氏の家系に伝来する「蜘蛛切り」という刀にまつわる物語として登場しており、このはなしが能の五番目物の『土蜘蛛』などにも取り入れられ、妖怪としての土蜘蛛がひろく知られるようになった
源頼光が瘧(マラリア)を患って床についていたところ、身長7尺(約2.1メートル)の怪僧が現れ、縄を放って頼光を絡めとろうとした。
頼光が病床にもかかわらず名刀「膝丸」で斬りつけると、僧は逃げ去った。
翌日、頼光が四天王を率いて僧の血痕を追うと、北野神社裏手の塚に辿り着き、そこには全長4尺(約1.2メートル)の巨大な山蜘蛛がいた。
頼光たちはこれを捕え、鉄串に刺して川原に晒した。
頼光の病気はその後すぐに回復し、土蜘蛛を討った膝丸は以来「蜘蛛切り」と呼ばれた。
能の『土蜘蛛』では、土蜘蛛は四天王らに対して「葛城山に年を経し土蜘蛛の精魂なり」と語っている。

酒呑童子討伐
一条天皇の時代、京の若者や姫君が次々と神隠しに遭った。
安倍晴明に占わせたところ、大江山に住む鬼(酒呑童子)の仕業とわかった。
そこで帝は995年(長徳元年)源頼光と藤原保昌らを征伐に向わせた。
頼光らは山伏を装い鬼の居城を訪ね、一夜の宿をとらせてほしいと頼む。
酒呑童子らは京の都から源頼光らが自分を成敗しにくるとの情報を得ていたので警戒し様々な詰問をする。
なんとか疑いを晴らし酒を酌み交わして話を聞いたところ、大の酒好きなために家来から「酒呑童子」と呼ばれていることや、平野山(比良山)に住んでいたが伝教大師(最澄)が延暦寺を建て以来、そこには居られなくなくなり、嘉祥2年(849年)から大江山に住みついたことなど身の上話を語った。
頼光らは鬼に八幡大菩薩から与えられた「神変奇特酒」という毒酒を振る舞い、笈に背負っていた武具で身を固め酒呑童子の寝所を襲い、身体を押さえつけて首をはねた。この時の太刀が天下五剣のひとつで、国宝名物「童子切安綱」
生首はなお頼光の兜を噛みつきにかかったが、仲間の兜も重ねかぶって難を逃れた。
一行は、首級を持ち帰り京に凱旋。
首級は帝らが検分したのちに宇治の平等院の宝蔵に納められた。


源頼光と藤原保昌(ふじわらのやすまさ)
  酒呑童子の退治伝説の古い形態では、酒呑童子を退治した源頼光と藤原保昌は対等の関係にあったとされている。
そもそも、『御堂関白記』によれば、寛仁元年3月8日(1017年4月7日)には頼光の弟である頼親が保昌の郎党であった清原致信(清少納言の実兄)を殺害する事件を起こしたことが記されており、これを説話化した『古事談』(巻2-57)においては、致信を殺害したのを頼光四天王に置き換えられており、いずれにしても頼光と保昌のライバル関係をうかがわせるものとなっている。
また、『保元物語』(「新院御所各門々固めの事 付けたり 軍評定の事」)・『梅松論』(「下巻」)・『異制庭訓往来』でも、「田村(坂上田村麻呂)・利仁(藤原利仁)・頼光・保昌」が古来の名将4人がセットとして挙げられている。
それを反映して、観世信光の『羅生門』でも藤原保昌と渡辺綱が論争する場面がある。
ところが、室町時代中期から戦国時代にかけて、頼光と四天王が酒呑童子退治の主役へと置き換えられ、藤原保昌は脇役扱いとなり、お伽草子の『酒呑童子』に至っては保昌は頼光四天王と共に頼光の郎党扱いをされてしまい、これが後世に広く知られることになった。
なお、南北朝時代に成立したとされる千葉氏の「宝生の太刀」伝承のように酒呑童子の退治の功績をもっぱら藤原保昌(宝生)のものとした説話も存在している


補足:酒呑童子
詳細は「鬼伝承」へ


源頼光と頼光四天王
頼光四天王
平安時代中期の武将で、土蜘蛛退治などの説話で知られる源頼光に従事した4人。
四天王に該当する人物は、渡辺綱、坂田金時、卜部季武、碓井貞光。


1:渡辺綱 (953年−1024年)
略歴
武蔵国の住人で武蔵権介だった嵯峨源氏の源宛の子として武蔵国足立郡箕田郷(現・埼玉県鴻巣市)に生まれる。
摂津源氏の源満仲の娘婿である仁明源氏の源敦の養子となり、母方の里である摂津国西成郡渡辺(現大阪府大阪市中央区)に居住し、渡辺綱(わたなべのつな)、あるいは渡辺源次綱(わたなべ の げんじ つな)、源次綱(げんじ つな)と称した、渡辺氏の祖となる。
摂津源氏の源頼光に仕え、頼光四天王の筆頭として剛勇で知られた。
大江山の酒呑童子退治や、京都の一条戻橋の上で鬼の腕を源氏の名刀髭切りの太刀あるいは「鬼切り」で切り落とした逸話で有名。
謡曲『羅生門』は一条戻橋の説話の舞台を羅城門に移しかえたものである。
1020年、主君である頼光が正四位下・摂津守に叙されると、綱も正五位下・丹後守に叙された

子孫
その子孫は渡辺党と呼ばれ、内裏警護に従事する滝口武者として、また摂津国の武士団として住吉(住之江)の海(大阪湾)を本拠地として瀬戸内海の水軍を統轄し、源平の争乱から南北朝にかけて活躍した。
九州の水軍松浦党の祖の松浦久もまた渡辺氏の出である。
徳川家康に仕えて「槍の半蔵」として著名な渡辺半蔵守綱及びその一族の三河渡辺氏も、渡辺綱の後裔とされる。
先祖の源融は『源氏物語』の主人公の光源氏の実在モデルとされたが、綱も美男子として有名であった。
また、大阪市北区の梅田界隈には源融ゆかりの太融寺があり、その近くにある露天神社(『曽根崎心中』で有名な「お初天神」)の宮司家や、渡辺姓発祥の神社とされる座摩神社の宮司家は渡辺綱の子孫である。

渡辺綱と鬼切安綱
多田源氏の棟梁である源満仲が、刀匠大原安綱に打たせた双剣のひと振りが「鬼切り安綱
双剣のもう一方は天下五剣のひとつで国宝名物「童子切安綱」
渡辺綱の手によって一条戻橋の鬼の腕を落としたことから、「鬼切」の名で呼ばれることになったという。
その鬼とは茨城童子であり、酒呑童子の配下の鬼であったという。
しかし実は、このときに使ったのは「髭切りの太刀」であったともいう。


2:坂田金時 (956年?−1012年)
略歴:
956年(天暦10年)5月、誕生。
彫物師十兵衛の娘、八重桐(やえぎり)が京にのぼった時、宮中に仕えていた坂田蔵人(くらんど)と結ばれ懐妊した子供とされる。

1012年(寛弘8年12月15日)
九州の賊を征伐するため筑紫(福岡県)へ向かう途中、作州路美作勝田壮(岡山県勝央町)にて重い熱病にかかり死去。
享年55歳だったという。
勝田の人々は金時を慕い、倶利加羅(くりがら、剛勇の意)神社を建てて葬った。その神社は現在、栗柄神社と称する。

伝説に由来する事績(静岡県駿東郡小山町の金時神社)
彫物師十兵衛の娘、八重桐(やえぎり)が京にのぼった時、宮中に仕えていた坂田蔵人(くらんど)と結ばれ懐妊した子供とされる。
八重桐は故郷に帰り金太郎を産んだが、坂田が亡くなってしまったため、京へ帰らず故郷で育てることにした。
成長した金太郎は足柄山で熊と相撲をとり、母に孝行する元気で優しい子供に育った。
そして976年(天延4年3月21日)、足柄峠にさしかかった源頼光と出会い、その力量を認められて家来となる。
名前も坂田金時(きんとき)と改名し、京にのぼって頼光四天王の一人となる。
なお、他には渡辺綱、卜部季武、碓井貞光が四天王に名を連ねる。

990年(永祚2年3月26日) 酒呑童子討伐
丹波の国、大江山(現在京都府福知山市)に住む酒呑童子を退治する。
酒呑童子は都に訪れては悪いことをするため、源頼光や四天王たちが山伏姿に身をかえ、神変奇特酒(眠り薬入り酒)を使って退治した。

伝説の歴史的検証

この「金太郎」「坂田金時」なる人物の存在は、疑わしいともされている。
そもそも金太郎なる名前は、いわゆる幼名としてあり得ず、むしろ成人時の通称の特色を示している。
例えば、八幡太郎と称された源義家などにその特徴が現れている。
なお、藤原道長の日記『御堂関白記』など当時の史料によると、下毛野氏に属する下毛野公時という優秀な近衛兵(随身)が道長に仕えていた。
この公時が脚色されていったものらしく、頼光・道長の時代から100年ほど後に成立した『今昔物語集』では、公時の名の郎党が、頼光の家来として登場している。
現在の金太郎伝説が完成したのは江戸期である。
浄瑠璃や歌舞伎を通して頼光四天王の怪力童子のイメージが定着していった。
鉞(まさかり、大斧)担いで熊の背に乗り、菱形の腹掛けを着けた元気な少年像として、五月人形のモデルとなった。この姿から、かつて日本各地で乳幼児に着用させた菱形の腹掛けもまた「金太郎」と呼ぶ。
出生の伝説は、母親が山姥で、雷神の子供を孕んで産まれてきたとするものや、金時山の頂上で赤い龍が八重桐に授けた子というものも存在する。
また、「金時豆(きんときまめ)」の名前の由来でもあり、更に息子の坂田金平は「きんぴらゴボウ」の名の由来で知られる。

いち早く鉄文化を手に入れた豪族とする説
滋賀県長浜市と米原市は、昔は坂田郡であり、坂田金時は坂田郡の人であると伝えている。
今も長浜市には足柄神社や芦柄神社が何カ所もあり、子ども相撲が今も連綿と行われている。
なお、この地域は古代豪族息長氏の本拠地であり、金時はその一族であるという。王の文字はマサカリの象形文字で、腹掛け姿は鍛冶を象徴することから、いち早く鉄文化を手に入れた豪族というものである。


卜部季武 (950年天暦4年? - 1022年治安2年?)
  略歴:
別名を平季武(たいらのすえたけ)とする。

兵庫県宝塚市にある松尾神社では、創建した浦辺太郎坂上季猛が卜部季武としている。
『柏葉集』『松尾丸社縁起』によると、阿智王から数えて八代目の坂上苅田麻呂が山城国松尾大社に祈って得た子が坂上田村麻呂であり、田村麻呂は幼名を松尾丸と名付けられた。
多田盆地を本拠とした清和源氏の源満仲は、御家人である坂上田村麻呂を祖とする坂上党武家団の棟梁坂上頼次を山本郷の守護とした。
初代山本荘司となった頼次は田村麻呂の遺品を奉載して山本郷を開郷し、坂上氏一族を配して多田政所の警衛にあたった。


碓井貞光 954年(天暦8年)?−1021年(治安元年)
略歴:
源頼光に仕え、渡辺綱を筆頭とする頼光四天王の一人と称される。
大江山の酒呑童子退治で有名。
『今昔物語』には源頼光の三人の家来の一人として、その名が記されている
(なお、『今昔物語』には四天王の筆頭渡辺綱の名前はない)。

伝説
越後から上野へと向かう道中、野宿する事になった貞光が読経をしていると、「汝が読経の誠心に感じて四万の病悩を治する霊泉を授ける。
我はこの山の神霊なり」とのお告げを受けた。そこで貞光が周囲を調べたところ温泉を見つけて「御夢想の湯」と呼び、これが四万温泉の由来になったという。

またある時、貞光が帰郷すると碓氷峠に巨大な大蛇が住み着き、人々を苦しめていた。
そこで貞光は十一面観世音菩薩の加護のもと、大鎌を振るって大蛇を退治すると、碓氷山定光院金剛寺を建立し、そこに観音菩薩と大蛇の頭骨を祀ったという。
童話『金太郎』では、樵に身をやつし、強い人材を求めて旅をするさなか足柄山で金太郎(後に坂田金時)を見いだして源頼光のもとへ連れて行くという役割を与えられている。
最近の研究では平忠通は貞光(貞通)の子で、これが三浦氏・鎌倉氏らの先祖になったとも言われている。


頼光四天王と酒呑童子討伐
酒呑童子
奈良絵本『酒典童子』より
酒典童子は、近江国須川(米原市)の長者の娘・玉姫御前と、伊吹山の伊吹大明神(八岐大蛇)との間に生まれた。
伊吹大明神の託宣によって、出産後、玉姫は伊吹山に上り、酒典童子は祖父である須川の長者の子として育てられた。
10歳のとき、酒典童子は高野山と比叡山のどちらかで仏道修行をするよう祖父から勧められ、高野山は遠すぎるという理由で、近くにある比叡山の稚児となった。

入山後、彼は三塔一の学僧とたたえられるまでになったが、酒好きであった。
これは五戒の一つ飲酒戒に反するため、彼は皆から軽蔑されたが、師僧に強く叱られると酒を断った。
その頃、都が平安京に移り、内裏では祝賀行事として京都の人々による風流踊が催され、諸寺にも風流踊を披露するよう勅命があった。比叡山が都の鬼門に当たるということから、酒典童子の提案で比叡山の僧たちは「鬼踊り」を披露することになった。
踊りの際に用いる鬼の面は酒典童子が全て用意した。内裏での披露が終わると、比叡山の僧たちに酒が振る舞われた。鯨飲した酒典童子は、鬼の面を着けたまま山に帰って寝た。翌朝、目を覚ましてみると鬼の面が外れなくなっていた。その姿を僧たちから恐れられ、最澄によって比叡山を追われた酒典童子は、祖父・須川の長者のもとに帰った。
しかし祖父は鬼の姿となった酒典童子を迎え入れず、両親のいる伊吹山に追い払った。
酒典童子は伊吹山に上り、母の導きで山の北西にある岩屋にこもると、神通力を持つ本物の鬼となり、一帯の人々をさらって食べるようになった。
これを憂えた最澄の祈祷によって伊吹山から追放されると、日本中の山々をさまよい、最終的に大江山にたどり着いた。


討伐の概要
  一条天皇の時代、京の若者や姫君が次々と神隠しに遭った。
安倍晴明に占わせたところ、大江山に住む鬼(酒呑童子)の仕業とわかった。
そこで帝は995年(長徳元年)に源頼光藤原保昌らを征伐に向わせた。
頼光らは山伏を装い鬼の居城を訪ね、一夜の宿をとらせてほしいと頼む。
酒呑童子らは京の都から源頼光らが自分を成敗しにくるとの情報を得ていたので警戒し様々な詰問をする。
なんとか疑いを晴らし酒を酌み交わして話を聞いたところ、大の酒好きなために家来から「酒呑童子」と呼ばれていることや、平野山(比良山)に住んでいたが伝教大師(最澄)が延暦寺を建て以来、そこには居られなくなくなり、嘉祥2年(849年)から大江山に住みついたことなど身の上話を語った。
頼光らは鬼に八幡大菩薩から与えられた「神変奇特酒」という毒酒を振る舞い、笈に背負っていた武具で身を固め酒呑童子の寝所を襲い、身体を押さえつけて首をはねた。
この時の太刀が天下五剣のひとつで、国宝名物「童子切安綱」
生首はなお頼光の兜を噛みつきにかかったが、仲間の兜も重ねかぶって難を逃れた。
一行は、首級を持ち帰り京に凱旋。首級は帝らが検分したのちに宇治の平等院の宝蔵に納められた


討伐の時期
  990年説 42歳
静岡県駿東郡小山町の金時神社社伝より

995年説 47歳
大江山絵巻より。

1018年説 70歳
太政官符より。
大江山夷賊追討の勅命を賜り頼光四天王らとともに6人で摂津国大江山へ向かい夷賊討伐を行う。
成相寺に頼光が自らしたためた追討祈願文書がある。
しかしこの説を採用すると、坂田の金時は1012年に逝去しているため、四天王の一員にはなり得ない。
さらに70歳という年齢からやや困難?。

参考資料
Wikipedia「源頼光」 「頼光四天王」

「鳥取県の歴史」 (山川出版 1997)
「鳥取県の歴史散歩」 (山川出版 1994)


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源頼光と四天王
父の満仲は摂津国多田に源氏武士団を形成していた。
頼光はそれを継承し、自らは摂関家の警護なども務めているなど武士としての性格も否定できないが、頼光は藤原摂関家の家司としての貴族的人物と評される傾向にある。