第7代 孝霊天皇 (主として日本書紀による記載)
概説
諡号
 古事記での呼称
    大倭根子日子賦斗邇命(おおやまとねこひこふとにのみこと)

 日本書紀での呼称
    大日本根子彦太瓊尊(おおやまとねこひこふとにのみこと)

即位
 即位年=孝安天皇51年(紀元前342年)
 皇居=黒田庵戸宮(廬戸宮)(くろだのいおとのみや)=奈良県磯城郡田原本町黒田の法楽寺が伝承地。
 
崩御
 崩御=古事記に106歳、日本書紀に128歳とする。
      ただし、半年を一年と数える半年暦や先代天皇との親子合算方式の在位年数を考慮すべきとの説もある。
  
 陵墓=片丘馬坂陵(奈良県北葛城郡王寺町本町三丁目)


系譜
父=第6代孝安天皇。
母=天足彦国押人命(あまたらしひこくにおしひとのみこと)の女娘である押媛(おしひめ、『古事記』に忍鹿比売)

皇后=細媛命(くわしひめのみこと、ほそひめのみこと)・・・・・磯城県主大目の娘
 皇子=大日本根子彦国牽尊(おおやまとねこひこくにくるのみこと=8代孝元天皇


妃1=春日之千千速真若比売(かすがのちちはやまわかひめ、春日千乳早山香媛)
 皇女=千千速比売命(ちちはやひめのみこと。『古事記』のみ)

妃2倭国香媛(やまとのくにかひめ=絙某姉はえいろね、意富夜麻登玖邇阿礼比売命)・・・和知都美命の女
 皇女:=迹迹日百襲媛命(やまとととびももそひめのみこと) 
       箸墓古墳に葬られたという。
       邪馬台国を治めたとされる卑弥呼に比定する説もある。
 皇子:日子刺肩別命(ひこさしかたわけのみこと)(古事記のみに記載)
 皇子:彦五十狭芹彦命(ひこいさせりひこのみこと=吉備津彦命)
 皇女:倭迹迹稚屋姫命(やまとととわかやひめのみこと、倭飛羽矢若屋比売)

妃3絙某弟(はえいろど)・・・絙某姉はえいろねの妹)
 皇子:彦狭島命(ひこさしまのみこと、日子寤間命)
 皇子:稚武彦命(わかたけひこのみこと)・・・・・吉備氏の祖。



  細媛命------孝霊天皇----倭国香媛(絙某姉)-------絙某弟(福姫命とする説もある)
          |             ↓                     ↓
          |           吉備津彦命、倭迹迹日百襲媛命   稚武吉備津彦、彦狭島命(歯黒皇子)
          |             ↓
          |           三井根子
          |           大屋田子
          |
          ↓  
        孝元天皇----欝色謎命
                 ↓
               大彦命
                 ↓
               御間城姫----崇神天皇
                       ↓
                     垂仁天皇----日葉酢媛命
                             ↓
                           景行天皇
                             ↓                        
                           日本武尊 

系譜補足1
  第3代安寧天皇---皇后=阿久斗毘売         
       ↓
  1子=常根津日子伊呂泥命
  2子=大倭日子鉏友命=懿徳天皇
  3子=師木津日子命(しきつひこのみこと)--┐      
                               ↓
                   和知都美命(わちつみのみこと)
                               ↓
                   長女=絙某姉(蠅伊呂泥、はえいろね)→迹迹日百襲媛命、吉備津彦命
                   次女=絙某弟(蠅伊呂杼、はえいろど)→彦狭島命、稚武彦命

系譜補足2
皇子の彦五十狭芹彦命(吉備津彦命)と稚武彦命の兄弟は共に伝説上の桃太郎のモデルであるといわれている。
(一般に彦五十狭芹彦命の方が有名である)。

参照:古代有力氏族系図まとめ


事績
系譜が主で、事績は特に記録されていない。

孝安76年(紀元前317年)
  正月に立太子。
孝安102年(紀元前291年)
  孝安天皇が崩御すると、都を黒田に遷して、翌年正月に即位した。
在位76年で没する。



日野郡周辺の神社伝承による記載
日南町 宮内 東楽楽福(ささふく)神社の由緒より
1:御祭神
東楽々福神社(東宮)
  大日本根子彦太瓊命(孝霊天皇)、細姫命、福姫命、若建吉備津彦命

摂社:若宮神社
  磯城県主大目命 鬱色雄(うつしこお)命 大矢口宿禰命 大水口宿禰命

末社:木野山神社
  大山祇命神 木花開耶姫(このはなさくやひめ)命

西楽々福神社(西宮)
  大日本根子彦太瓊命 細姫命 大吉備津彦命 彦狭島命 絙某弟(はえいろど)命 大山祇命

2:由緒より
当社は大日本根子彦太瓊尊、即ち人皇第7代孝霊天皇を主神とし、皇后、皇妃、皇子及びその一族を祀る。
孝霊天皇は少年の御時、楽楽清有彦命(ササフクキヨアリヒコ)と申し、又笹福(ササフク)と号し奉る。
御即位2年、細媛を立てて皇后と為し給ふ。
大吉備津彦命、若健吉備津彦命は共に孝霊天皇の皇子にて四道将軍として吉備の国を平定し給ふ。
細媛命は孝霊天皇の御后にて國牽(クニクル)皇子、即ち第八代孝元天皇の御母にあたり、磯城県主大目命の女なり。
福媛命は孝霊天皇の妃にて彦狭島命の御母なり。
彦狭島命は歯黒皇子と申し孝霊天皇の皇子なり。

孝霊天皇巡幸して西の国々を治め給ふ時、隠岐國の黄魃鬼(コウバツキ)を退治し給ひて、伯耆國に渡らせ給ひし時日野川上に至り給ひて、今の溝口町鬼住山並に日南町の鬼林山に邪鬼ありて人民を悩ますよしを聞召して歯黒皇子他重臣を従へ彼の邪鬼を退治し、其の首領を其の地に埋葬し給ふ。

又その頃、備中國に石蟹魁荒仁(イシガタケルコウジン)というものありて天皇が近郷に居給ふ由を聞き國中の凶徒を集め兵を起こして天皇を襲ひ奉らんとす。
天皇夙(ハヤ)くも此の事を聞召給ひて歯黒皇子を軍将として数多の兵を従へ之を征伐し給ふ。
かくして出雲振根等各地の凶賊を悉く言向けやはして地方を平定し、王化を布き給へり。

これより先、皇后細媛命は天皇の御跡を慕ひあすを知るべに尋ね給ふに御産のなやみありて石の上に憩はせ給ふ時、頃は五月のなかばにして雨多く降りければ里人菅の蓑笠を奉るも川の水音高く聞こゆる故「水音喧(ミズオトカマ)」と詔り給へば水音やむに依って日野川のこの部分を音無川と称す。
  皇后其の地を立たせ給ひし時の御歌
      「むら雨の露のなさけの名残をばここにぬぎおく菅の蓑笠」

それより川上に上り給ひて帝に会い給ひ、日野川上宮内の里はよき宮所なりとて皇后を定め給ひて多く年月を茲(ココ)に送り給へり。
皇后は御歳百拾歳にて孝霊天皇即位七拾壱年辛巳四月二十一日を以って此の地にかくれ給ふ。
今日崩御山と申す山は皇后の御陵なりと傳ふ。

即ち当社は地方開拓に御功績ありし祖神の偉大なる御神徳を追慕景仰して鎮祭し奉れる所にして且つ皇后御陵のある聖地なり。
爾来皇國の鎮護として皇室の隆昌寶祚の無窮を守り萬民の幸福を護り給へり。
されば上下の尊崇甚だ厚く神威洵にあらたかにして遠近の賽者常に絶えず。

第十代崇神天皇の御代当社の神戸として今の石見谷一圓を奉献せられし由傳ふ。
又和銅天平の御勅使御差遺御綸旨奉納のことあり傳ふ。
又國主の崇敬殊に厚く代々の祈願所にて社殿の修復料の奉納、社領米の寄進のこと等あり、日野郡中総氏神として
日野大社笹福大明神と称した。

明治元年楽楽福社とせられ、同四年県社に列格、同七年楽楽福神社と改称し奉る。
同四十年神饌幣帛料供進神社に指定せらる。
戦後は神社本庁の包括神社となり、例祭(春季大祭・五月一日)には神社本庁より献幣使が参向し幣帛料を奉る。

3:楽楽神社由緒による孝霊天皇の一族
 大日本根子彦太瓊命=孝霊天皇
   幼名=楽楽清有彦(ササフクキヨアリヒコ)命あるいは笹福(ササフク)

 細媛命=孝霊天皇の皇后・・・磯城県主大目命の女なり。
   皇子①=國牽(クニクル)皇子=第八代孝元天皇

 母の記載無し
   皇子①=大吉備津彦命
   皇子②=若健吉備津彦命

 福媛命=孝霊天皇の妃・・・皇女とする説もある。
   皇子=彦狭島命(歯黒皇子)

4:摂社 若宮神社の御祭神
  鬱色雄命 大矢口宿禰命 大水口宿禰命は孝霊天皇に随従され当地の開拓に尽力された大神と称される。
  いずれも物部氏の系譜に含まれる。


日南町 印賀 楽々福(ささふく)神社  (孝霊天皇の皇女福姫の御陵墓)
1:御祭神
 主祭神=媛姫命(ひめのみこと=福姫命)
 配祠=素盞鳴命、事代主命ほか4柱

2:伯耆志より
今当社に福姫命一座とす 
社山を貴宮山と号し、福姫命の御墓と称し、また崩御山と云へるもあれど、凡て信じ難し。
当社もと榎垣内村一條山に在しを、応永四年一條山の城主肥前守沙彌道栄 今の社地に移すと云減り、
当時社頭焼失せしによりて道栄神体を新たに再造し奉るといふ、今古棟札存せず、慶長三年以後是を存す。

補足
孝霊天皇の皇女福姫の伝説
えんどう豆の収穫時に支えの竹で目をつき、それが元で15歳で亡くなった
印賀の住人は竹を植えないしまた竹の箸を使わないという。
背後の山林に御陵墓と称する箇所がある。


日南町 菅福神社  (孝霊天皇妃細姫命産処)
1:御祭神
大日本根子彦太瓊命、細姫命、福姫命、阿礼姫命、吉備津彦命、稚武彦命、彦狭島彦命、百襲姫命、稚屋姫命

2:社伝より
伝説によれば、孝霊天皇が皇后と共に牛鬼という悪者征伐のためこの地へ行幸になった時、皇后(細姫命)が産気づかれた。
そこで川辺の大石の上に菅の葉で敷物を造って休まれ、石の上に鏡を置かれると皇女(福姫)を安産された。
然し川音がやかましく耳にさわるため、鏡を川の中に沈めて祈られると音がしなくなったので、この川を音無川と名づけ付近に行宮を造られた。
それが今の神社の在る所と伝えられている。
下流の日野川右岸に「第7代孝霊天皇妃細姫命産処史蹟」と刻まれた石柱が建てられている。


日南町 生山(しょうやま)神社
1:御祭神
譽田別命(第15代応神天皇)

2:補足
伯耆民談記
当社の山上に「柴瀧」というあり。
孝霊天皇の皇女福姫命誕生ありしによりて、後世是を生山と号し・・・」とある。


伯耆町(旧溝口町) 楽々福(ささふく)神社  (孝霊天皇の崩御地とされる神社)
  1:御祭神
 主祭神=大日本根子彦太瓊尊(おおやまとねこひこふとにのすめらのみこと)=第7代孝霊天皇
 配祠=細比女尊(くはしひめのみこと)尊(天皇后)、大水口命大八口命(従臣)、他十二柱

2:社伝より
天皇、当国へ行幸、鬼住山の悪鬼を退治されて後この地に崩御遊ばす。
崩御所の脇に笹葺きの社を造りて祀る。
これ笹福の宮なりと。

神社裏手の小高い山が孝霊天皇の元前方後円墳としている。
なお、皇后の細姫が崩御された場所は、日南町の宮内にある楽楽福神社の近くとされている。


米子市上安曇 楽々福(ささふく)神社
1:御祭神


2:伝承より
米子市HP 「米子の民話散歩道」より
門松を立てない村:上安曇(かみあずま)

上安曇の氏神さんは、なかなかの美男子で村の中に彼女がおられたそうな。
ある年の大晦日(おおみそか)の晩にも、明日は元旦だがマア鶏の鳴く前にお宮に帰りやぁ良いわい、と思って彼女の家に行って泊まらんしたそうな。
とこうが、まんだ夜が明けん真夜中に鶏が鳴いてしまった。
神さんは、やれコリャしまった寝過ごした、と慌てて彼女の家を飛び出っさったところ、暮れからこしらえてあった門松の松で眼を突かれ大怪我(おおけが)をされた。
出てみると外はまだ真っ暗闇。お気の毒なことで。
それで上安曇の氏神さん(楽楽福(ささふく)神社)は片眼がつぶれたそうだし、それから後は村では門松を立てんようになったし、憎っくき鶏を飼うことも、鶏の卵を食うことも戦後のしばらくまでしなかった。
今は鶏も飼うし卵も食うが、門松だけはいまだに作りませんぜ。


大山町 高杉神社  (孝霊天皇行幸の地)
1:御祭神
大足彦忍代別命、大日本根子彦太瓊命(孝霊天皇)、押別命、本媛之命、松媛之命、千代姫之命、小葉枝皇子、根鳥皇子、天照御大神、武速須佐之男命、誉田別命

2:社伝より
社伝
孝霊山は景行天皇御草創にして、皇子忍別命の本居別稲置の首にして当社は皇孫代々の宗廟たりとある。

伝承
第七代孝霊天皇の御代に、さる高貴な方がこの地に滞在された。
地方ではまれなことなので、この土地で美しい松姫、千代姫の二人を近くに侍らせた。
しかし、都から正妻である細(くわし)姫がやって来たため、三人の女性の間に嫉妬による闘いが始まった。
遂に松姫、千代姫は恨をのんで亡くなった。
その後、21代雄略天皇の御代、近郷に悪いことが続き、神のお告げにより、正妻に対する二人の姫のたたりであると知れた。
そこで一の宮(本殿・細姫)・二の宮(中殿・松姫命)・三の宮(末殿・千代姫命)の三殿を建立して祀ることになった。


日野郡における孝霊天皇
日野郡誌と孝霊天皇
「日野郡誌」 第4章 神社 P354-357 伯州日野郡楽楽福大明神記録事
孝霊天皇が孝霊45年に鳥取県日野郡周辺にやってきて同71年まで賊徒を退治したと伝えられている。

原文
人皇第七代ノ天皇也孝安天皇ノ御子也
一榮々福大明神者孝靈天皇ノ御后也福媛ト申則細媛命トモ中ス
孝靈四十五年乙卯二天下三十六二割其頃諸國一見之御時西國隠島工御渡有依レ夫此地二御着有無程一ツノ津エ御着是ヲ吉日ト思召
即此津ヲ日吉津ト号シ奉ル
彼地ニ御着國ノ次第ヲ御尋有レバ是ヨリ奥者山中也
・・・・・・(中略)・・・・・・・・・
后歳積り百十歳二シテ孝靈七十一年辛巳四月二十一日ノ辛巳ノ日二崩御シ給テ則宮内西二崩御廟所有り
帝悲ミ給ヒテ大和國黒田ノ都へ御節城有テ百二十八歳
同七十六年ノ丙戌二月八日二帝崩御也
・・・・・・(中略)・・・・・・・・・
宮原第一ノ社也印賀第二ノ社也宮内第三ノ社也・・・・・・・


孝霊天皇の足跡
大和から北上し近江国から若狭湾に出る。

孝霊天皇伯耆国入り(孝霊45年頃)    
隠岐の黄魃鬼(コウバツキ)退治。
日吉津に上陸。
孝霊山高杉神社に居住。
松姫、千代姫(あるいは妻木山の朝妻姫)が侍る。
鶯王の誕生

鬼住山の戦い
孝霊天皇は鬼住山に兄弟の鬼、大牛蟹と乙牛蟹出来がいて村人を困らせているのを聞き、鶯王を総大将に、臣下の大連(大水口宿爾の御子新之森王子、大矢口宿禰の御子那澤仁奥等?)を副将に命じて鬼住山の鬼退治に行かせることにした。
鶯王は鬼住山よりもさらに高い山、即ちサズト山に布陣して攻撃を開始することにした。
ところが布陣した山があまりにも高い山なので、食料を補給するのも難しく、苦戦の日々が続いた。
村人たちは自分たちも手伝うことを考え、団子を造り笹づとにして鶯王たちのもとに送り続けた。
鶯王たちは、あらゆる作戦を使って鬼を退治した。
しかし、鶯王はこの戦いで戦死してしまった。
村人たちは悲しみ、鶯王を楽楽福大明神として祀り、鶯王が戦死した場所に楽楽福神社(宮原)を建てたという。
鬼たちが住んでいた山を鬼住山、鶯王が布陣して笹苞団子を召し上がられた山を笹苞(さずと)山、日野川にかかる橋を鬼守橋と呼び、鬼退治の伝説を伝えている。
孝霊天皇は鶯王の死を悼み、宮原楽楽福神社の境内を自らの御陵地と定められた。

菅福神社に仮宮を造る
孝霊天皇は大倉山・鬼林山に鬼が出没するうわさを聞き、皇后細姫、歯黒王子を伴い鬼退治に出発した。
丁度上菅の里に着いたとき、皇后細姫の陣痛が始まった。
戦いに向かう途中なので何の準備もなく、日野川の河瀬の大岩の平坦なところに菅の葉を敷き、しばらく休んでもらうことになった。
これにより、この周辺を下菅、中菅、上菅と呼ぶようになった
やがて、細姫は姫を産まれ、福姫命と名づけられた。
生山八幡宮の山上に柴滝というところがあって、ここで皇女福姫命が生まれ生山の地名となった。
福姫命は13歳までこの地で過ごされたという。

大倉山の戦い
大倉山には牛鬼というとても恐ろしい鬼が住んでいた。
里に下りては村人に危害を加えていた。
上菅に住んでいた孝霊天皇は、早速歯黒王子を総大将として鬼退治をされることになった。
まず、歯黒王子がこの山に登り総攻撃を仕掛け、孝霊天皇は麓で待機して攻撃した。
牛鬼一族は歯黒王子の総攻撃にたまりかね、転げ落ちるようにして日野川に方へ逃げてきた。
孝霊天皇は鬼たちに攻撃を始めたので、さすがの牛鬼の大将も降参した。
このときに鬼が転げ落ちた滝を獅子ヶ滝とよび、孝霊天皇は合戦のあとこの滝で身を洗い、そぐ側の滝壺で刀を洗ったと伝える。

福姫の死
福姫命は13歳まで菅福で過ごされた。
この頃、印賀にも鬼が現れ、福姫命は孝霊天皇に連れられて、印賀の里に移り住んだ。
福姫が15歳になったある日、孝霊天皇が印賀の鬼退治をして留守をしていたとき、福姫命は畑にたくさん育ったえんどう豆を採りに行かれた。
ところがえんどう豆の蔦が竹に絡み付いて思うように採ることができず、力いっぱい蔦を引っ張ったところ竹の端が目に突き刺さってしまった。
福姫命の目が大きく腫れ上がって様態は次第に悪くなっていった。
その内、高熱を発してうなされる日々が続き、孝霊天皇や細姫命の看護もむなしく、ついにこの地で薨去されてしまった。 
村人たちは悲しみ、村の小高い丘(貴宮山)に福姫命を埋葬すると、その麓に楽楽福神社(印賀)を造り、福姫命を祭神として祀ることになった。
          
鬼林山の戦い
孝霊天皇が大倉山と印賀の鬼退治を終えて菅福の地でしばらく休んでいると、鬼林山の鬼退治をしてほしいと人々が駆けつけてきた。
孝霊天皇は再び歯黒皇子を連れて出かけることにした。
孝霊天皇は宮内に居を移し、鬼退治をすることになった。
鬼林山には赤鬼・青鬼の獰猛な鬼がいて簡単に倒せる相手ではなかった。
この合戦のとき、急な病で最愛の皇后細姫が崩御された。
孝霊天皇は悲しみの中で住居の裏山(崩御山)に細姫を埋葬した

石蟹魁師荒仁(いしがたけるこうじん)との戦い
孝霊天皇が宮内に宮を作ってしばらくした頃、備中の石蟹魁師荒仁が兵を集め天皇を襲おうとした。
天皇はそれを察知し日南町霞に關を作り、吉備津彦(歯黒皇子)に備中へ向かわせた。
荒仁は吉備津彦に恐れをなし、大倉山の麓で戦わずして降参した。

御墓山参拝
大菅峠に至る直前の阿毘縁に砥波というところがあり、ここの熊野神社に孝霊天皇がやってきたという伝承がある。
そして、イザナミ陵に孝霊天皇が参拝したとの伝承もあり、孝霊天皇は出雲総攻撃の前にここにやってきたとされる。

出雲振根との戦い  

孝霊76年 崩御



参考資料
「日野郡誌」 (名著出版社 1972年)  
「楽楽福神社由緒」
「日本の神々7巻:山陰」 (白水社 谷川健一監修) 


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第7代 孝霊天皇
孝霊天皇
  欠史八代の中の天皇で、記紀には詳しい事績の記載はない。
  しかし鳥取県の日野郡誌および日野郡周辺の神社には、孝霊天皇に関する様々な伝承が残っている。