第21代 雄略天皇 (主として日本書紀による記載)
概説
諡号
 古事記での呼称
    大長谷若建命(おおはつせわかたけるのみこと)、大長谷王
 日本書紀での呼称
    大泊瀬幼武尊(おおはつせわかたけるのみこと)
    大悪天皇・有徳天皇ともいわれる。

即位
 即位年=456年
 皇居=泊瀬朝倉宮(はつせのあさくらのみや)・・・・奈良県桜井市黒崎

崩御
 崩御=479年 62歳
 陵墓=丹比高鷲原陵(たじひのたかわしのはらのみささぎ)
      大阪府羽曳野市島泉にある高鷲丸山古墳(円墳・径76m・島泉丸山古墳とも)
      平塚古墳(方墳・辺50m)に比定されている。


系譜
概略
生没=419年-479年
允恭天皇の第5皇子。安康天皇の同母弟。


父=
=忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ)。

皇后=草香幡梭姫皇女(くさかのはたびひめのひめみこ)-仁徳天皇の皇女

妃1=葛城韓媛(かつらぎのからひめ。葛城円大臣の女)
  皇子①=白髪皇子(しらかのみこ=清寧天皇
  皇女①=栲幡姫皇女(たくはたひめのひめみこ、稚足姫皇女とも)-斎宮

妃2=吉備稚媛(きびのわかひめ)・・・・吉備上道臣の女
  皇子①=磐城皇子(いわきのみこ) ・・・・難波小野王(顕宗天皇の皇后)の祖父
  皇子②=星川稚宮皇子(ほしかわのわかみやのみこ)

妃3=和珥童女君(わにのわらわきみ。春日和珥臣深目の女)
  皇女①=春日大娘皇女(かすがのおおいらつめのひめみこ、高橋皇女)・・・・仁賢天皇の皇后・武烈天皇の母



事績
安康3年(456年)
  8月 天皇は中蒂姫の連れ子眉輪王(まよわのおおきみ)により暗殺された。
      これを知った大泊瀬皇子は兄たちを疑い、まず八釣白彦皇子を斬り殺す。
      次いで坂合黒彦皇子 ・眉輪王をも殺そうとした。
      この2人は相談して葛城氏の円大臣(つぶらのおおおみ)宅に逃げ込んだ。
      しかし、大臣の助命嘆願も空しく、大泊瀬皇子は3人共に焼き殺してしまう。
      さらに、市辺押磐皇子とその弟の御馬皇子(みまのみこ)をも謀殺。
     
雄略元年(456年)
 11月 政敵を一掃してに大王の座に就いた。
     平群真鳥を大臣に、大伴室屋・物部目(もののべのめ)を大連に任じた。

雄略7年(463年)
     地域政権吉備に対して反乱鎮圧の名目で屈服を迫った(吉備氏の乱)。
     吉備下道臣前津屋(きびのしもつみちのおみさきつや)を討伐。
     吉備上道臣田狭(きびのかみつみちのおみたさ)を討伐して吉備政権の弱体化を進めた。

雄略8年(464年)
  2月 日本府軍が高句麗を破る。

雄略9年(465年)
  5月 新羅に攻め込んだ。
      しかし将軍の紀小弓宿禰(きのおゆみのすくね)が戦死し、敗走した。
      (『三国史記』新羅本紀によれば倭人が462年5月に新羅の活開城を攻め落とした。
       463年2月にも侵入したが、最終的に新羅が打ち破ったと記載されている)。

雄略13年(469年)
     播磨の文石小麻呂(あやしのおまろ)を討伐。

雄略18年(474年)
     伊勢の朝日郎(あさけのいらつこ)を討伐した

雄略20年(476年)
     高句麗が百済を攻め滅ぼした。

雄略21年(477年)
     大王は百済に任那を与えて復興した。
     (『三国史記』高句麗本紀・百済本紀によれば、475年9月に高句麗に都を攻め落とされ王は殺され、
       同年熊津に遷都)。

雄略22年(478年)
     伊勢神宮外宮を建立。
     豊受大神は葛城氏が代表して奉祀しており、葛城氏没落後、あまり省みられなかった。
     崇敬の声が大きくなり、丹波国にも祀られていたものを外宮を設立することで収拾を図ったとする
     説がある。

雄略23年(479年)
  4月 百済の三斤王が亡くなると、入質していた昆支王の次子未多王に筑紫の兵500をつけて帰国させた。
     そして東城王として即位させた。
     兵を率いた安致臣・馬飼臣らは水軍を率いて高句麗を討った。
  
  8月 大王は病気のため崩御した。


補足1:雄略朝の注目点
①暦法
『日本書紀』の暦法が雄略紀以降とそれ以前で異なる。
『万葉集』や『日本霊異記』の冒頭に雄略天皇が掲げられている。
これにより、古代の人々が雄略朝を歴史的な画期として捉えていたとみることもできる

②地方政権の弱体化を図った。
    葛城氏を衰退・滅亡に追い込んだ。

    星川皇子(母が吉備稚媛)の乱を大伴室屋らが鎮圧。
    吉備氏を衰退・滅亡に追い込んだ。

③都
都は泊瀬朝倉宮(はつせのあさくらのみや)。
稲荷山古墳出土金象嵌鉄剣銘に見える「斯鬼宮(しきのみや ・磯城宮)」も朝倉宮を指すと言われる。

⑤倭王武
『宋書』・『梁書』に記される「倭の五王」中の倭王に比定される。


補足2:吉備氏の乱
吉備氏の乱とは
雄略天皇7年(463年)に吉備上道臣田狭(吉備田狭)が新羅と結託して朝廷に起こした反乱。

経緯
吉備田狭が朝廷で妻の稚媛を自慢している事を聞いた雄略天皇が、吉備田狭が任那に出兵している間に稚媛を奪ったためだと日本書紀に記載されている。
朝廷は吉備田狭の子、弟君を討伐に向かわせるも吉備田狭に寝返った。
しかし、弟君はその事を知った妻樟媛に殺された。
反乱は失敗したが、吉備田狭は生き残った。

星川皇子の乱
その後稚媛は、雄略天皇の子星川稚宮皇子を産み、雄略天皇の死後に皇子を皇位につけようとした、星川皇子の乱を起こした。
吉備上道臣らはこれに水軍40艘を率いて来援したが、皇子の敗死により引き返した。


雄略天皇に関する諸説
実在性
考古学的に実在が実証される最古の天皇
①倭王武の上表文には周辺諸国を攻略して勢力を拡張した様子が表現されている。
  熊本県玉名郡和水町の江田船山古墳出土の銀象嵌鉄刀銘
  埼玉県行田市の稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣銘を「獲加多支鹵大王」と解しその証とする説が有力である。

この説に則れば考古学的に実在が実証される最古の天皇である。


伊勢神宮外宮を建立
元々、豊受大神は葛城氏が代表して奉祀しており、葛城氏没落後、あまり省みられなかったが、崇敬の声が大きくなり、丹波国にも祀られていたものを、雄略天皇22年(崩御前年)に外宮を設立することで収拾を図ったのではないかとする説がある。



参考資料
「日本古代史の100人」 (歴史と旅臨時増刊号23巻2号 秋田書店 1996)
「古代人物総覧」 (別冊歴史読本21巻50号 1996)
「歴代天皇全史」 (歴史群像 学習研究社 2003)

wikipedia 「雄略天皇」


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第21代 雄略天皇
雄略天皇
周辺諸国を攻略して大和朝廷の勢力を拡張した。
『宋書』・『梁書』に記される「倭の五王」中の倭王に比定される。