鬼について
鬼とは
鬼とは
民話や郷土信仰に登場する悪い物、恐ろしい物、強い物を象徴する存在。
その姿は、頭に角(二本角と一本角のものに大別される)と巻き毛の頭髪を具え、口に牙を有し、指に鋭い爪が生え、虎の毛皮の褌を腰に纏い、表面に突起のある金棒を持った大男である。
これは、丑の方と寅の方の間の方角(艮:うしとら=北東))を鬼門と呼ぶことによるもので、牛の角と体、虎の牙と爪を持ち、虎の皮を身に付けているとされた。
表面上のこの姿は、一般に平安時代に確立したものである。


鬼の由来
「おに」の語はおぬ(隠)が転じたもので、元来は姿の見えないもの、この世ならざるものであることを意味した。
そこから人の力を超えたものの意となり、後に、人に災いをもたらす伝説上のヒューマノイドのイメージが定着した。


鬼の分類(文芸評論家・馬場あき子氏による分類)
  1:民族学上の鬼・・・祖霊や地霊。
  2:山岳宗教系の鬼、山伏系の鬼・・・天狗。
  3:仏教系の鬼・・・邪鬼、夜叉、羅刹。
  4:人鬼系の鬼・・・盗賊や凶悪な無用者。
  5:怨恨や憤怒によって鬼に変身の変身譚系の鬼



鬼伝承について
鬼伝承とは


鬼伝承の意味
鬼と鉄
「鬼に金棒」という言葉あるように、鬼と鉄の関係には非常に深いものがあると思われる。
加えて、古い鬼伝承が在る土地のほとんどは産鉄地あるいは製鉄地であるという事実も興味深い。

たとえば大江山の位置する丹後地方のように古くから大陸との交流が深くある場所では、渡来人は高度な金属精錬技術により金工に従事、多くの富を蓄積していた。
これに目を付けた都の勢力は兵を派遣、富を収奪し支配下に置いた。
多分このような出来事が元になり自分達を正当化、美化しようとの思いから土蜘蛛退治や鬼退治伝説が生まれたのではないかとする説と同時に、渡来人が寄り集まって山賊化して非道な行いをしたので鬼と呼ばれたという説もある。



各地の鬼伝承
奈良時代以前の鬼伝承
鳥取県 鬼住(きずみ)山と鬼伝承
鬼が居座ったとされる鬼住山(きずみやま)と、第七代考霊天皇が陣を張ったとされる聖地・笹苞山(さすとさん)を舞台にした鬼退治の伝説。

詳細は、「孝霊天皇」
岡山県 桃太郎
桃太郎伝承とは
桃太郎が、お婆さんから黍団子(きびだんご)を貰って、イヌ、サル、キジを従えて、鬼ヶ島まで鬼を退治しに行く物語。

伝承の成立経過
有力説の一つとしては、第7代孝霊天皇の皇子彦五十狭芹彦命(ひこいさせりひこのみこと、吉備津彦命)、稚武彦命(わかたけひこのみこと)兄弟の吉備国平定における活躍と、岡山県(吉備国)の温羅(うら)伝説に由来するものとする説がある。
これは、古代の大和政権と吉備国の対立構図を、桃太郎と鬼の争いになぞらえたとするものである。
この説をもとに、桃太郎のモデルとなった人物が彦五十狭芹彦命であるとする見方が広く知られている。

吉備津神社の縁起物語によると、地域を荒らし鬼ノ城(きのじょう)に住む「鬼」である温羅(うら)を犬飼健(いぬかいたける)・楽々森彦(ささもりひこ)・留玉臣(とめたまおみ)という三人の家来と共に倒し、その祟りを鎮めるために温羅を神社の釜の下に封じたとされている。
この家来たちを桃太郎の逸話に置き換えると「犬飼健=犬」「楽々森彦=猿」「留玉臣=雉」となる。
また「釜の下に鬼を封じた」というのは、そのまま吉備津神社における鳴釜神事の縁起につながる。

伝承から物語への経過
正確には分かっていないが発生年代は室町時代とされ、江戸時代以降に広まったとされる。
草双紙の赤本による『桃太郎』『桃太郎昔話』などが出版により広まった最初の版であるとされる。

また赤本、豆本、黄表紙、青表紙などに登場した桃太郎は、滝沢馬琴の『童蒙話赤本事始』で五大昔噺の冒頭を飾る。

1888年(明治20年)に国定教科書に採用される際にほぼ現在の形のものを掲載して以降、これが定着した。
巖谷小波により1894年(明治26年)に『日本昔話』としてまとめられたものがその後の語り伝えに大きく影響した。
因みに舞台の一つとされる岡山県で桃の栽培が始まったのも明治時代以降である。

解釈
 @桃太郎(吉備津彦)について
四道将軍として腹違いの弟である稚武彦命と共に山陽道に沿って周辺域を平定。
その大きな目的は吉備国制圧と同国の製鉄技術であったとされる。
(和歌における吉備の枕詞には「まかねふく(真金吹く)」という語句があり、これが吉備国の主要産業が製鉄鋳造技術である事の裏付けであったと言われる)

 A家来その1:犬について(名=犬飼武)
イヌのモデルとなった犬飼武が犬飼部と云われた部民の長であったことについては異論は差し挟まれていない。
奈良時代・平安時代には貴族が鷹狩や守衛に使うイヌを飼育する職として犬養部(犬飼部)が存在した。
鎌倉時代には武士の弓術修練の一つとして、走り回るイヌを・引目矢(ひきめやー丸い緩衝材付きの矢)で射る犬追物や犬を争わせる闘犬が盛んになった。
彼らは、戦陣の最前線にあって、その飼犬を放って敵に対峙したとも考えられる。
犬は兵士たちの前を群れとなって猛然と走って行って敵兵に噛みかかる。
そして、敵がひるんだところへ、彼らは刀を振るって襲いかかる。
犬飼部と云うのは、そうした軍事部族だと考えられる。

 B家来その2:猿について(名=楽々森彦)
サルの第一の属性は木に登る事。
樹木を管理し伐採するのは山林事業者、すなわち山間部が関係している。
吉備の山部には鉄鉱石または砂鉄の採取という特性がある。
鉄穴流し(かんなながし)と云う方法で、川の水流の中で比重差を利用して鉄分を分離選鉱する。
従って、彼らは必ずしも、イヌ・サルのような戦闘集団ではない。
いま、吉備津神社で犬飼武や名方古世が随神門に祀られているのに対し、楽楽森彦は本殿外陣の御崎宮の一つに祀られており、扱いが異なっているのもこのためであろう。
また、楽楽森彦については、鯉喰神社と云う独立した神社があるのに対し、犬飼武や名方古世の場合は、そのような独立した神社が見当たらない。

 C家来その3:雉について(名=留玉臣とめたまおみ、あるいは名方古世)
キジは鳥取部(ととりべ)であったとする説と、鳥飼部であるという説がある。
しかし、吉備には鳥飼部などと云う部民は存在しない。
垂仁天皇の第一皇子誉津別命(ほむつわけのみこと)は長じてひげが胸先に達しても言葉を発することがなく、特に『日本書紀』では赤子のように泣いてばかりであったという。
そこで湯河板挙(鳥取造の祖)が出雲(一書に但馬)で捕まえて献上し、鵠を遊び相手にすると、誉津別命は言葉を発するようになったという。
ここに鳥取部、鳥飼部、誉津部を設けたとある。
鳥取部は弓矢をもって鳥を捕ることを職能とした部民であり、彼らは、その優れた弓矢の技能によって軍事集団出会ったと考えられる。
そうした鳥取部の長が名方古世(あるいは中田古名)とか、留玉臣である。
ここで、二つの名前があるのは、複数の鳥取部が戦闘に加わったことを示すものとも考えられる。

 D鬼について
鬼は、風水では丑と寅の間の方角(北東)である「鬼門」からやって来ると考えられている事から、敵役である鬼が牛の様な角を生やし、虎の腰巻きを履いているのも、風水の思想によるという解釈もある。
実際には「温羅」とはそれまで吉備国を支配していた旧勢力に製鉄技術を供与していた渡来人もしくは地来の豪族であり、旧勢力に義理立てするために吉備津彦(ひいてはヤマト王権)と戦ったと言う見方がある。

吉備団子
吉備団子は、黍団子に因んで江戸末期に売り出された物。吉備とは、備前・備中・備後・美作地方の古名で、現在の岡山県にあたる(備後は広島県)。


岡山県 温羅(うら)伝承
温羅伝説とは
吉備地方に残る、桃太郎話のモチーフとなったといわれる伝説である。

伝承の成立経過
古代吉備地方には百済の王子と称する温羅(「うら」または「おんら」)という鬼が住んでおり、鬼ノ城を拠点にこの地方を支配し悪行を行っていた。
吉備の人々は都へ出向いて窮状を訴えたため、これを救うべく崇神天皇は孝霊天皇の子で四道将軍(よつのみちのいくさのきみ)の一人・吉備津彦命(きびつひこのみこと)を派遣した。命は現在の吉備津神社の地に本陣を構えた。温羅に対して矢を1本ずつ射たが岩に呑み込まれた。そこで命は2本同時に射て温羅の左眼を射抜いた。温羅が雉に化けて逃げたので命は鷹に化けて追った。更に温羅は鯉に身を変えて逃げたので吉備津彦は鵜に変化してついに温羅を捕らえた。こうして温羅を討ったという。それぞれの伝説の地に矢喰神社、温羅の眼の血が流れた血吸川、鯉喰神社が存在している。

温羅は製鉄技術をもたらし吉備を治めた技術者であり豪族ではないかとされる。
また、血吸川の川の赤さは鉄分によるものであろう。吉備地方は古くから鉄の産地として知られ「真金吹く吉備」と呼ばれていた。実際、鬼ノ城の東麓には日本最古級の製鉄遺跡が存在する。

なお、この伝承はその後、鳴釜神事の成り立ちへと続く。


青森県 弘前市 鬼沢
岩木山北山麓赤倉側 古代製鉄地帯の鬼伝説

鬼神社の伝承
昔々このあたりはやせた荒れ地で、作物の実りはきわめて悪かった。
そこへ、岩木山の赤倉から下りてきたという鬼が現れ、せっせとこの荒地を耕し始めた。
村人達は、これを見て、ただの鬼ではないと思い、開墾の困難と農業用水の必要を 鬼に訴えた。
すると鬼は、それでは力を貸そうと言ったきり、姿を消してしまった。
翌朝になって村人たちが行ってみると荒れ地には、一筋の水の流れが勢いよくほとばしってい る
ではないか。
村人たちは、さっそくその水を田に引き、以後、その水は干ばつの時も決して枯れることはなか
ったという。
村人たちは、非常に喜んで、鬼に感謝するため、神社を建立して「鬼神社」と名づ け、村の名前
も「鬼沢」としたという

補足
 津軽では、「鬼は邪悪で恐ろしい忌み嫌うもの」ではなく、神通力を持つ守り神として、好意的にとらえられている節がある。
津軽のランドマーク岩木山には、表玄関としての岩木山神社と、裏口とされるぐるり反対側の赤倉山神社がある。
この赤倉山には、昔からシャーマンがおり、また鬼が棲みついているという伝承もある(シャーマンは、津軽では、カミサマ、ゴミソと呼ばれ、赤倉は、現在でも修行の場とされている)。
鬼はとてつもない大男で、大人(おおひと)と呼ばれており、その昔、村の百姓に遊んでもらっては、お礼に鉄の道具で土地を開墾し、沢の水を用水に引いて、村が潤ったという。
その村は、鬼沢(おにざわ)と呼ばれ、農具の神として、鬼神社)が建てられている。
鬼神社には、博物館に並ぶような鉄の農具(鉄の鋤や鍬など)が額に納められて、拝殿の軒下にずらりと飾られている。
鉄の農具がご神体なのである。
この集落では、一般家庭や幼稚園でも、節分に豆まきは行わず、豆を食べるだけだという。
鬼は忌み嫌う邪悪なものではなかったのである。


青森県弘前市 十腰内 鬼太夫伝説
巌鬼神社 岩木山北山麓の「鬼太夫」伝説

巌鬼神社の伝承
昔 鬼神太夫(赤倉山の鬼とする話もあり)と呼ぶ剛力の刀鍛冶がいました。
桂山の刀鍛冶長者の娘を愛して娘をくれるようにと申し込んだ。
困った長者は一策を案じ、一晩の内に拾腰(本)の刀を鍛えたら娘をやると約束した。
すると、鬼神太夫は一晩の内に、全部刀を鍛えて持ってきたが、長者が一本盗んで 鳴沢川 に捨ててしまった。
それで、鬼太夫は刀が一本足りず、娘を貰えずあきらめて、「十腰無い 十腰無い」とつぶやきながら、さびしく去っていった。
それで、それ以後この地を「十腰無い」がなまって「十腰内」というようになった。
また、残った九本の刀は巌鬼神社に納められた。


平安時代以降
京都府 大江山の酒呑童子
酒呑童子(しゅてんどうじ)とは
京都と丹波国の国境の大枝(老の坂)に住んでいたとされる鬼の頭領(盗賊であったとも)である。
他の呼び名として、酒顛童子酒天童子朱点童子と書くこともある。
室町時代の物語を集めた『御伽草子』などによると、酒呑童子の姿は、顔は薄赤く、髪は短くて乱れた赤毛、背丈が6m以上で角が5本、目が15個もあったといわれる。彼が本拠とした大江山では龍宮のような御殿に棲み、数多くの鬼達を部下にしていたという。

酒呑童子伝説
京都に上った酒呑童子は、茨木童子をはじめとする多くの鬼を従え、大江山を拠点として、しばしば京都に出現し、若い貴族の姫君を誘拐して側に仕えさせたり、刀で切って生のまま喰ったりしたという。
あまりにも悪行を働くので一条天皇の命により摂津源氏の源頼光と嵯峨源氏の渡辺綱を筆頭とする頼光四天王により討伐隊が結成され、姫君の血の酒や人肉をともに食べ安心させた上、酒盛りの最中に頼光が神より兜とともにもらった「神便鬼毒酒」という酒を酒呑童子に飲ませて体が動かなくしたうえで寝首を掻き成敗した。
しかし首を切られた後でも頼光の兜に噛み付いていたといわれている。

酒呑童子の様々な出生の伝説
 @八岐大蛇逃走説
酒呑童子は、一説では越後国の蒲原郡中村で誕生したと伝えられているが、伊吹山の麓で、『日本書紀』などで有名な伝説の大蛇、八岐大蛇が、スサノオとの戦いに敗れ、出雲国から近江へと逃げ、そこで富豪の娘との間で子を作ったといわれ、その子供が酒呑童子という説もある。
その証拠に、父子ともども無類の酒好きであることが挙げられる。

 A越後国の酒呑童子出生伝説
越後国で生まれた彼は、国上寺(新潟県燕市)の稚児となった(国上山麓には彼が通ったと伝えられる「稚児道」が残る)。
12, 3歳でありながら、絶世の美少年であったため、多くの女性に恋されたが全て断り、彼に言い寄った女性は恋煩いで皆死んでしまった。
そこで女性たちから貰った恋文を焼いてしまったところ、想いを遂げられなかった女性の恨みによって、恋文を燃やしたときに出た煙にまかれ、鬼になったという。
そして鬼となった彼は、本州を中心に各地の山々を転々とした後に、大江山に棲みついたという。

一説では越後国の鍛冶屋の息子として産まれ、母の胎内で16ヶ月を過ごしており、産まれながらにして歯と髪が生え揃い、すぐに歩くことができて5〜6歳程度の言葉を話し、4歳の頃には16歳程度の知能と体力を身につけ、気性の荒さもさることながら、その異常な才覚により周囲から「鬼っ子」と疎まれていたという。
『前太平記』によればその後、6歳にして母親に捨てられ、各地を流浪して鬼への道を歩んでいったという。
また、鬼っ子と蔑まれたために寺に預けられたが、その寺の住職が外法の使い手であり、童子は外法を習ったために鬼と化し、悪の限りを尽くしたとの伝承もある

 B伊吹山の酒呑童子出生伝説
大蛇の八岐大蛇と人間の娘との間で生まれた彼は、若くして比叡山に稚児として入って修行することとなったが、仏法で禁じられている飲酒をし、しかも大酒呑みであったために皆から嫌われていた。ある日、祭礼の時に被った仮装用の鬼の面を、祭礼の終了後に彼が取り外そうとしたが、顔に吸い付いて取ることができず、やむなく山奥に入って鬼としての生活を始めるようになった。
そして茨木童子と出会い、彼と共に京都を目指すようになったといわれている。

 C大枝町の酒呑童子伝説
平安時代から鎌倉時代に掛けて都を荒らした無法者としての“鬼”は、現在の京都市西京区、右京区にまたがる大枝町(おおえちょう)(京都市洛西地区)及び隣接する亀岡市篠町王子(大江山という小字がある)に本拠があったとされ、大枝山(大江山)と呼んだ。
ここは古くから京都と外界の境界線であると考えられており、通常は酒呑童子が住んだ大江山をこちらに当てる。

頼光四天王
 源頼光(948年−1021年)と共に活躍した以下の4人の家臣のこと。
 渡辺綱(わたなべのつな)
 坂田金時(さかたのきんとき)
 卜部季武(うらべのすえたけ)
 碓井貞光(うすいのさだみつ)。

補足
大江山には3つの鬼退治伝説が残されている。

一つは、『古事記』に記された、崇神天皇の弟の日子坐王(彦坐王)が土蜘蛛陸耳御笠(くぐみみのみかさ)を退治したという話。

二つめは聖徳太子の弟の麻呂子親王(当麻皇子)が英胡、軽足、土熊を討ったという話

三つめが有名な酒呑童子伝説である。 これは能の演目『大江山』(五番目物の鬼退治物)にもなっている。


京都府 茨木童子
茨木童子(いばらきどうじ)とは
平安時代に大江山を本拠に京都を荒らし回ったとされる「鬼」の一人。
酒呑童子(しゅてんどうじ)の最も重要な家来であった。

酒呑童子と茨木童子との関係
酒呑童子とともに京都を荒らした大鬼、茨木童子だが、実は彼らの関係も様々な諸説がある。
その諸説の中に、実は茨木童子は“男の鬼ではなく、女の鬼だった”という説があり、または酒呑童子の息子、はては彼の恋人だったという説も伝わっている。
そして、しばらくしてから酒呑童子と茨木童子は互いの存在を知り、共に都を目指すようになったといわれている。


長野県 戸隠の紅葉伝説(もみじでんせつ)
紅葉伝説とは
信州戸隠、鬼無里(現・長野県長野市)に伝わる鬼女にまつわる伝説である。
紅葉は女主人公の名前である。

伝承
才色兼備の呉葉は豪農の息子に強引に結婚を迫られた。
呉葉は秘術によって自分そっくりの美女を生み出し、これを身代わりに結婚させた。
偽呉葉と豪農の息子はしばらくは睦まじく暮らしたが、ある日偽呉葉は糸の雲に乗って消え、その時既に呉葉の家族も逃亡していた。

呉葉と両親は京に上った。
ここでは呉葉は紅葉と名乗り、初め琴を教えていたが、源経基の目にとまり、腰元となりやがて局となった。
紅葉は経基の子供を妊娠するが、その頃御台所が懸かっていた病の原因が紅葉の呪いであると比叡山の高僧に看破され、結局経基は紅葉を信州戸隠に追放することにした。

956年(天暦10年)秋、まさに紅葉の時期に、紅葉は水無瀬(鬼無里)に辿り着いた。
経基の子を宿し京の文物に通じ、しかも美人である紅葉は村びと達に尊ばれはしたものの、やはり恋しいのは都の暮らしである。
経基に因んで息子に経若丸と名付け、また村びとも村の各所に京にゆかりの地名を付けた。
これらの地名は現在でも鬼無里の地に残っている。
だが、我が身を思うと京での栄華は遥かに遠い。
このため次第に紅葉の心は荒み、京に上るための軍資金を集めようと、一党を率いて戸隠山に籠り、夜な夜な他の村を荒しに出るようになる。
この噂は戸隠の鬼女として京にまで伝わった。

ここに平維茂が鬼女討伐を任ぜられ、笹平(ささだいら)に陣を構え出撃したものの、紅葉の妖術に阻まれさんざんな目にあう。
かくなる上は神仏に縋る他なしと、観音に参る事17日、ついに夢枕に現れた白髪の老僧から降魔の剣を授かる。
今度こそ鬼女を伐つべしと意気上がる維茂軍の前に、流石の紅葉も敗れ、維茂が振る神剣の一撃に首を跳ねられることとなった。
呉葉=紅葉33歳の晩秋であった。


参考資料



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鬼伝承について 
「鬼に金棒」という言葉あるように、鬼と鉄の関係には非常に深いものがあると思われる。
加えて、古い鬼伝承が在る土地のほとんどは産鉄地あるいは製鉄地であるという事実も興味深い。