第26代 継体天皇 (主として日本書紀による記載)
概説
諡号
 古事記での呼称
   袁本杼命(おおどのみこと)
 日本書紀での呼称
   男大迹王(おおどのおおきみ) 

即位
 即位年=507年 
       樟葉宮(くすばのみや、大阪府枚方市楠葉丘の交野天神社付近が伝承地)で即位。

 皇居=507年 2月  樟葉宮(くすばのみや、大阪府枚方市楠葉丘の交野天神社付近が伝承地)で即位。
      511年10月  筒城宮(つつきのみや、現在の京都府京田辺市多々羅都谷か)に遷す。
      518年 3月  弟国宮(おとくにのみや、現在の京都府長岡京市今里付近か)に遷す。
      526年 9月  磐余玉穂宮(いわれのたまほのみや、現在の奈良県桜井市池之内か)に遷す。

崩御
 崩御=:『古事記』には丁未4月9日(527年5月26日)
      『日本書紀』には辛亥2月7日(531年3月10日)または甲寅(534年)とされる。
 陵墓=三島藍野陵(みしまのあいののみささぎ)に葬られた。
      宮内庁は同陵を大阪府茨木市太田の太田茶臼山古墳(前方後円墳・全長226m)に比定している。
       しかし、同古墳の築造時期は5世紀の中頃とみられている。、
       近年、同府高槻市の今城塚古墳(前方後円墳・全長190m)から兵馬俑の如き埴輪群が発見された。
       6世紀前半の築造と考えられる同古墳を真の継体天皇陵とするのが定説になっている。


系譜
系譜
 応神天皇-若野毛二俣王-大郎子(別名=意富富等王)-乎非王-汙斯王(=彦主人王)-継体天皇

父=彦主人王  
母=振媛(ふりひめ)・・・・垂仁天皇7世孫

皇后=手白香皇女(たしらかのひめみこ)・・・・仁賢天皇の皇女
  皇子①=天国排開広庭尊(あめくにおしはらきひろにわのみこと=欽明天皇)

妃1=目子媛(めのこひめ)・・・・尾張連草香の娘
  皇子①=勾大兄皇子(まがりのおおえのみこ=安閑天皇)
  皇子②=檜隈高田皇子(ひのくまのたかたのみこ=宣化天皇)

妃2=稚子媛(わかこひめ)・・・・三尾角折君の妹
  皇子①=大郎皇子(おおいらつこのみこ)
  皇女①=出雲皇女(いずものひめみこ)

妃3=広媛(ひろひめ、黒比売)・・・・坂田大跨王の女
  皇女①=神前皇女(かむさきのひめみこ)
  皇女②=茨田皇女(まんたのひめみこ)
  皇女③=馬来田皇女(うまぐたのひめみこ)

妃4=麻績娘子(おみのいらつめ、麻組郎女)・・・・息長真手王の女
  皇女①=荳角皇女(ささげのひめみこ) (斎宮)

妃5=関媛(せきひめ)・・・・茨田連小望の女
  皇女①=茨田大娘皇女(まんたのおおいらつめのひめみこ)
  皇女②=白坂活日姫皇女(しらさかのいくひひめのひめみこ)
  皇女③=小野稚娘皇女(おののわかいらつめのひめみこ、長石姫)

妃6=倭媛(やまとひめ。三尾君堅の女)
  皇女①=大郎子皇女(おおいらつめのひめみこ、大郎女)
  皇子①=椀子皇子(まろこのみこ、丸高王)・・・・三国公・三国真人の祖
  皇子②=耳皇子(みみのみこ)
  皇女②=赤姫皇女(あかひめのひめみこ)

妃7荑媛(はえひめ)・・・・和珥臣河内の女)
  皇女①=稚綾姫皇女(わかやひめのひめみこ)
  皇女②=円娘皇女(つぶらのいらつめのひめみこ)
  皇子①=厚皇子(あつのみこ=阿豆王)

妃8=広媛(ひろひめ)・・・・根王の女
  皇子①=菟皇子(うさぎのみこ) ・・・・酒人公の祖(能楽の金剛流はこの子孫という)
  皇子②=中皇子(なかつみこ。記になし) 坂田公の祖


事績
生年
『古事記』には485年、『日本書紀』には允恭天皇39年(450年)。

允恭39年(450年)    
  近江国高嶋郷三尾野(現在の滋賀県高島市あたり)で生誕(古事記では485年)

武烈8年(506年)
      武烈天皇が後嗣定めずして崩御した。
      大連大伴金村らは越前に赴いて男大迹王を大王に推戴した。
      これを承諾した王は翌年58歳にして即位。

継体元年(507年) 
  2月 樟葉宮(くすばのみや、大阪府枚方市楠葉丘の交野天神社付近が伝承地)で即位。
     武烈天皇の姉(妹との説もある)にあたる手白香皇女(たしらかのひめみこ)を皇后とした。

継体5年(511年)
 10月 筒城宮(つつきのみや、現在の京都府京田辺市多々羅都谷か)に遷す。

継体12年(518年) 
  3月 弟国宮(おとくにのみや、現在の京都府長岡京市今里付近か)に遷す。

継体20年(526年) 
  9月 大倭(後の大和国)に都をおいた。
      磐余玉穂宮(いわれのたまほのみや、現在の奈良県桜井市池之内か)に遷す。

継体21年(527年)
  6月 近江毛野は6万人の兵を率いて、新羅に奪われた南加羅・喙己呑を回復するため、任那へ出発した。
      この計画を知った新羅は、筑紫国造磐井へ贈賄し、ヤマト政権軍の妨害を要請した。
      磐井は挙兵し、火の国と豊の国を制圧した。
      同時に倭国と朝鮮半島とを結ぶ海路を封鎖して、近江毛野軍の進軍をはばんで交戦した。
  8月 物部麁鹿火が将軍に任命された。

継体22年(528年)
 11月 磐井軍と麁鹿火率いるヤマト政権軍が、筑紫三井郡(現福岡県小郡市・三井郡付近)にて交戦。
     激しい戦闘の結果、磐井軍は敗北した。
 12月 磐井の子、筑紫君葛子(つくしのきみくずこ)は糟屋の屯倉をヤマト政権へ献上し、死罪を免ぜられた。

継体22年(529年)
  3月 ヤマト政権(倭国)は再び近江毛野を任那の安羅へ派遣し、新羅との領土交渉を行わせた。

継体24年(531年)
     後継を皇子の勾大兄(安閑天皇)に譲位(記録上最初の譲位例)し、その即位と同日に崩御した。



継体天皇に関する諸説
出自に関する説
傍系に連なる有力王族とする旧来の説
先代の武烈天皇に後嗣がなかったため、越前(近江とも)から「応神天皇5世の孫」である継体天皇が迎えられ、群臣の要請に従って即位したとされる。

新王朝の始祖」とする説 (水野祐「三王朝交代説」)
継体は従来の大王家とは血縁のない新王朝の始祖とする。
この説によれば、いわゆる万世一系は否定され、出自不明の第26代・継体天皇から新たな大王家が始まる。さらに論を進め、近江の皇別氏族(皇族が臣籍降下して誕生した氏族)息長氏(おきながうじ)の出身と見なし、大和王権を武力制圧して王位を簒奪したとする説も出された。

現代の説
継体が応神の5世孫かどうかは不明とするが、中央豪族の支持を得て即位したのは事実とする説が有力である。
継体は直系の手白香皇女を娶っている。
彼女は現在の天皇家の祖である欽明天皇を産んでいることから、少なくとも女系では継承されていることになる。


没年に関する説・・・・「辛亥の変」説

531年に後継を皇子の勾大兄(安閑天皇)に譲位(記録上最初の譲位例)し、その即位と同日に死去した。
また『日本書紀』では、『百済本記』(「百濟本記爲文 其文云 大歳辛亥三月 軍進至于安羅 營乞乇城 是月 高麗弑其王安 又聞 日本天皇及太子皇子 倶崩薨 由此而言 辛亥之歳 當廿五年矣」)を引用して、天皇及び太子・皇子が同時に死んだとの説を紹介しており、何らかの政変によって継体自身が殺害された可能性もある(「辛亥の変」説)。
また、『古事記』では没年を527年としている。


磐井の乱と継体天皇
当時、北九州にはすでにヤマト政権とは別個の政権(倭国政権:九州王朝)があった。
中国で言う倭王とは実は磐井王のことで、倭国政権すなわち九州王朝では独自の元号(九州年号)や外交主権等を持ち、むしろ倭国政権に対して反乱を起こしたのは外交権を独占しようとする継体(畿内ヤマト又は九州内の豪族)側だったとする説がある。



補足
息長氏(おきながうじ)
息長氏
古代近江国坂田郡(現滋賀県米原市)を根拠地とした豪族。
『記紀』によると応神天皇の皇子若野毛二俣王の子、意富富杼王を祖とす。

また、山津照神社の伝によれば国常立命を祖神とする。
天皇家との関わりを語る説話が多い。
姓(かばね)は公(または君、きみ)。同族に三国公・坂田公・酒人公などがある。
息長氏の根拠地は美濃・越への交通の要地であり、天野川河口にある朝妻津により大津・琵琶湖北岸の塩津とも繋がる。
また、息長古墳群を擁し相当の力をもった豪族であった事が伺える。
但し文献的に記述が少なく謎の氏族とも言われる。


意富富杼王
応神天皇の孫。
大郎子(おおいらつこ)、意富々杼王意富富等王大大迹王とも。

父は稚渟毛二派皇子(応神天皇の皇子)
母は河派仲彦王の女・弟日売真若比売(おとひめまわかひめ、百師木伊呂弁とも)

同母妹の忍坂大中姫・衣通姫は允恭天皇に入内している。

意富富杼王自身の詳しい事績は伝わらないが、『古事記』には息長坂君(息長君・坂田君か)・酒人君・三国君・筑紫米多君(めたのきみ)などの祖としており、また「上宮記」逸文の文章系譜によれば、中斯知命(なかしちのみこと)を妃として乎非王(おいのおおきみ)を儲け、その孫が男大迹王(袁本杼王)すなわち継体天皇とされる。

近年の研究では、継体天皇即位の正当性を示すために系譜作成の段階で挿入された人物としてその実在性を疑われているが、「意富富杼(おほほど)=大ホド」は継体の「袁本杼=小ホド」と対応する名であることから、本来の系譜には継体の兄として位置付けられていた可能性もある。  

意富(おう)は意宇、於宇、大、太、多と古書に登場し、出雲国東部を本貫とする大国主命を氏神とする一族との関連性も伺わせる。


尾張連草香(おわりのむらじくさか)
尾張連草香は古代の地方豪族・尾張氏の首長。
継体天皇の最初の妃であったとされる目子媛(めのこひめ)の父親で、断夫山古墳の被葬者であるとの説がある。



参考資料
「日本古代史の100人」 (歴史と旅臨時増刊号23巻2号 秋田書店 1996)
「古代人物総覧」 (別冊歴史読本21巻50号 1996)
「歴代天皇全史」 (歴史群像 学習研究社 2003)
「謎の大王族 継体天皇」 (文藝春秋社 水谷千秋)


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第26代 継体天皇
継体天皇
応神天皇5世の孫で、即位してから大和に都をおくまで約20年もかかったとされる。
出自、即位、崩御において謎の多い天皇。