神武天皇について (主として日本書紀による記載)
概説
諡号
 古事記での呼称
    神倭伊波礼琵古命(かんやまといわれひこのみこと)

 日本書紀での呼称
    神日本磐余彦尊(かんやまといわれひこのみこと)
    始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと) 
    若御毛沼命(わかみけぬのみこと)、狹野尊(さののみこと) 彦火火出見(ひこほほでみ)と称される。

即位
 即位年=辛酉の歳(神武天皇元年・紀元前660年)の正月、52歳で即位。
 皇居=畝傍橿原宮(うねびのかしはらのみや、奈良県橿原市畝傍町の橿原神宮が伝承地)

崩御
 崩御年= 古事記・・・137歳   日本書紀・・・127歳にして崩御。
 陵墓=畝傍山東北陵(うねびのやまのうしとらのすみのみささぎ)
      奈良県橿原市大久保町の山本ミサンザイ古墳
系譜
=彦波瀲武鸕鶿草葺不合命(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)
=玉依姫命(たまよりひめのみこと)

皇后=媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)・・・・・大物主の娘
  皇子①=日子八井命(ひこやいのみこと、彦八井耳命)
  皇子②=神八井耳命(かむやいみみのみこと) - 多朝臣・阿蘇国造・科野国造・火国造等の祖
  皇子③=神渟名川耳尊(かむぬなかわみみのみこと、神沼河耳命=2代 綏靖天皇)

妃1 =吾平津姫(あひらつひめ、阿比良比売)・・・・・阿多小椅君の妹
  皇子①=手研耳命(たぎしみみのみこと)
  皇子②=岐須美美命(きすみみのみこと、研耳命。古事記のみ)     



事績
出生
   鸕鶿草葺不合命の四男(または三男)として出生。

立太子(15歳)
 皇太子となる。
     その後吾平津姫(あひらつひめ)を妃とし、息子の手研耳命(たぎしみみのみこと)を得た。

神武東征(45歳)
甲寅の歳  45歳のとき日向国の地高千穂宮から東征開始。
 10月 兄の五瀬命らと船で東征に出て、速吸之門に到着。   
      この時、国津神の椎根津彦を道案内とした。
      筑紫国、宇佐に至る。
 11月 筑紫国 岡水門(遠賀川の河口付近の港)に寄航。
 12月 安芸の国(広島県)に進んだ。
  3月 吉備国に入り、高島宮の行宮をつくって3年滞在。

長髄彦との戦い
戊午の歳  吉備国出立つ。
  2月 河内国に入る。
  4月 龍田へ進軍し、東に軍を向けて生駒山を経て中州へ入ろうとした。
      この地を支配する長髄彦が軍衆を集めて孔舎衛坂で戦いになった。
      戦いに利なく、五瀬命が流れ矢を受けて負傷した。
      草香津まで退き、盾を並べて雄叫びをあげて士気を鼓舞した。この地を盾津と名付けた。
八咫烏の道案内
  5月 磐余彦は船を出し、山城水門で五瀬命の矢傷が重くなり、紀伊国竃山で死去した。
      息子の手研耳命とともに熊野の荒坂津に進む。
      丹敷戸畔女賊を誅したが、土地の神の毒気を受け軍衆は倒れた。
      天照大神は武甕槌神と相談して、霊剣(布都御魂)を熊野の住民の高倉下に授けた。
      高倉下はこの剣を磐余彦に献上した。
      進軍を再開しただが、山路険絶にして苦難を極めた。
      そこで、天照大御神は八咫烏を送り教導となした。
      八咫烏に案内されて、莵田の地に入った。
進撃
  8月 莵田(うだ)の地を支配する兄猾(えうかし)と弟猾を呼んだ。
      兄が磐余彦を暗殺しようとする姦計を告げた。
      磐余彦は道臣命(大伴氏の祖)を送ってこれを討たせた。
      磐余彦は軽兵を率いて吉野の地を巡り、住人達はみな従った。

  9月 高倉山に登ると八十梟帥(やそたける)や兄磯城(えしき)の軍が充満しているのが見えた。
 10月 軍を発して国見岳で八十梟帥を討った。
 11月 磯城に攻め入り、八咫烏に遣いさせ弟磯城は降参し。
      兄磯城が兄倉下、弟倉下とともになおも逆らったた。
      椎根津彦が奇策を用いてこれを破り、兄磯城を斬り殺した。
 12月 長髄彦と遂に決戦となった。
      連戦するが勝てず、天が曇り、雹が降ってきた。
      そこへ鵄(とび)があらわれ、磐余彦の弓の先にとまった。
      すると電撃のごとき金色の煌きが発し、長髄彦の軍は混乱し敗走した。
      饒速日命は長髄彦を殺して降伏した。

翌巳未の歳
  2月 磐余彦は従わない新城戸畔、居勢祝、猪祝を討った。
      また高尾張邑に土蜘蛛という者がいたので、葛網の罠を作って捕らえて殺した。 
      これに因んで、この地を葛城と称した。
      これによって、磐余彦は中州を平定した。
  3月 畝傍山の東南の橿原の地を都と定める。
庚申の歳  
      大物主の娘の媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめ)を正妃とした。

即位(52歳)  BC660年
  辛酉の歳(神武天皇元年・紀元前660年)正月
      磐余彦は橿原宮で践祚され、始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)と称した。

治世
神武2年
  功を定め、道臣命は築坂邑に大来目を畝傍山の西に居住させ、椎根津彦を倭国造にした。
  弟猾を猛田邑の県主、弟磯城を磯城の県主に任じた。
  高皇産霊尊の子孫の剣根を葛城国造に任じた。
  併せて八咫烏を「幸を運ぶ鳥」と褒賞した。

神武4年、
  天下を平定し海内無事を以て詔し、鳥見山に皇祖天神を祀った。

神武31年
  巡幸して、腋上の丘に登り、蜻蛉(あきつ)のとなめ(尾)に似ていることから、その地を秋津洲と命名した。

神武42
  皇后媛蹈鞴五十鈴媛命の皇子の神渟名川耳尊(かむぬなかわみみのみこと)を皇太子と定めた。


崩御(127歳)
  神武天皇76年、127歳にして崩御した。
   

参照:古代有力氏族系図まとめ


神武天皇に関する諸説
歴史学界における神武天皇
現代の歴史学界では神武天皇の存在は前提とされていない。
したがって神武天皇に関する説話は何らかの形で創作されたものであるとする意見が出ており、崇神天皇、応神天皇、継体天皇、または記紀編纂時期の天武天皇を基に創作したとする「モデル論」も盛んである。
また、神武東征物語は邪馬台国の東遷(邪馬台国政権が九州から畿内へ移動したという説)がモデルであるとする説もある。


神武天皇実在説
1938年(昭和13年)、樫原神宮外苑の発掘調査が行われ、その地下から縄文時代後期~晩期の大集落跡と橿の巨木が立ち木のまま16平方メートルにも根を広げて埋まっていたのを発見した。
鹿沼景揚(東京学芸大学名誉教授)が記したところによると、これを全部アメリカのミシガン大学に持ち込み、炭素14による年代測定をすると、当時から2600年前のものであり、その前後の誤差は±200年ということであった。
このことから記紀の神武伝承にはなんらかの史実の反映があるとする説もある。



補足
皇后(こうごう)
天皇や皇帝の妻のこと。
一夫多妻制のもとでは、天皇や皇帝の複数の妻のうちの正妃(正妻)を指す。

妃(きさき)
後宮における后妃の身分の1つ。
日本律令制では皇后に次ぐ第2位に位置づけられている。

参考資料
「日本書紀 上」 (教育社 1992)山田宗睦訳  「歴代天皇全史」 (歴史群像 学習研究社 2003)
「神武天皇は実在した」 (歴史と旅22巻9号 秋田書店 1995)  
ウキペディア「神武天皇」


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初代 神武天皇
神武天皇
 古事記、日本書紀において日本の初代天皇とされている天皇。