第29代 崇神天皇 (主として日本書紀による記載)
概説
諡号
古事記での呼称
    御真木入日子印恵命(みまきいりひこいにえのみこと)
    所知初國御眞木天皇(はつくにしらししすめらみこと)
日本書紀での呼称
    御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりびこいにえのすめらのみこと)
    御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと)
常陸国風土記での呼称
    初國所知美麻貴天皇(はつくにしらすみまきのすめらみこと)


即位
即位年=崇神天皇元年1月13日(紀元前97年2月17日)
皇居=磯城瑞籬宮(しきのみずかきのみ)(、奈良県桜井市金屋の志貴御県坐神社が伝承地)。
      『古事記』には、「師木の水垣宮(みづかきのみや)に坐しまして、天の下治めらしめしき」とある。

崩御
崩御年=崇神天皇68年(紀元前30年)12月。
    書紀では120歳で崩御。
    古事記では、戊寅年12月崩御、168歳とする。
    古事記は崇神天皇の没年を干支により戊寅年と記載しているので(崩年干支または没年干支という)。
    これを信用して318年(または258年)没と推測する説も中には見られる。
  
陵墓山邊道勾岡上陵
 奈良県天理市柳本町の柳本行燈山古墳(前方後円墳・全長242m)に比定される。
 しかし、それより少し前に造られた西殿塚古墳(前方後円墳・全長220m)を、その真陵とする考え方もある。
 行燈山古墳は、形状が帆立貝形古墳(初期の前方後円墳。)
 前方部が小さく造られている)のようになっているが、これは江戸時代の改修工事によるものとも言われている。


系譜
父=開化天皇の第二子
母=伊香色謎命(いかがしこめのみこと)

皇后=御間城姫(みまきひめ、御真津比売命)・・・・・大彦命の娘
  皇子①=活目入彦五十狭茅尊(いくめいりびこいさちのみこと=垂仁天皇
  皇子②=彦五十狭茅命(ひこいさちのみこと)・・・記の伊邪能真若命(いざのまわかのみこと)に当たるか?
  皇女①=国方姫命(くにかたひめのみこと)
  皇女②=千千衝倭姫命(ちちつくやまとひめのみこと)
  皇子③=倭彦命(やまとひこのみこと)
  皇子④=五十日鶴彦命(いかつるひこのみこと) - 記には伊賀比売命(いかひめのみこと)で女性

妃1=遠津年魚眼眼妙媛(とおつあゆめまぐわしひめ)・・・・・紀伊国荒河戸畔の娘
  皇子①=豊城入彦命(とよきいりびこのみこと) - 上毛野君・下毛野君等祖
  皇女②=豊鍬入姫命(とよすきいりびめのみこと) - 初代斎宮


妃2=尾張大海媛(おわりのおおあまひめ、意富阿麻比売・葛木高名姫命)・・・・・建宇那比命の娘
       (『先代旧事本紀』天孫本紀より)
  皇子①=大入杵命(おおいりきのみこと、大入来命)・・・・・能登国造の祖となる
  皇子②=八坂入彦命(やさかいりびこのみこと)
  皇女①=渟名城入媛命(ぬなきいりびめのみこと、沼名木之入日売命)
  皇女②=十市瓊入媛命(とおちにいりびめのみこと)

参照:古代有力氏族系図まとめ


事績
開化10年(前148年)  生誕。

開化28年(前130年)  立太子。

開化60年(前98年)   
      開化天皇崩御に伴い翌年即位。

崇神3年(前95年)
  9月  三輪山西麓の瑞籬宮(みずかきのみや)に遷都。

崇神6年(紀元前92年)
  疫病を鎮めるべく、宮中に祀られていた天照大神と倭大国魂神(大和大国魂神)を皇居の外に移す。

崇神7年(前91年)
 2月   大物主神、倭迹迹日百襲姫命に乗り移り託宣する。
 11月  大田田根子(大物主神の子とも子孫ともいう)を大物主神を祭る神主とする。
      (これは現在の大神神社に相当し、三輪山を御神体としている)
      市磯長尾市(いちしのながおち)を倭大国魂神を祭る神主とした。
      疫病は終息し、五穀豊穣となる。

崇神10年(前88年)
  9月 四道将軍の派遣
      大彦命を北陸道に、武渟川別を東海道に、吉備津彦を西道に、丹波道主命を丹波(山陰道)に
      将軍として遣わし、従わないものを討伐させた
      しかし、大彦命だけは異変を察知して和珥坂(わにのさか、奈良県天理市)から引き返た。
      倭迹迹日百襲姫命の予言から武埴安彦(孝元天皇の皇子)の叛意を知る。
      武埴安彦は山背から、その妻吾田媛は大坂からともに都を襲撃しようとした。
      天皇は五十狭芹彦命(吉備津彦命)の軍を遣わして吾田媛勢を迎え討ち、一方の安彦勢には、
      大彦命と彦国葺(ひこくにぶく、和珥氏の祖)を差し向かわせ、これを打ち破った。
 10月 畿内は平穏となり、四道将軍が再び出発。

崇神11年(前87年)
  4月 四道将軍が地方の賊軍を平定させて帰参、その有様を奏上した。

崇神48年(前50年)
  1月 豊城命(豊城入彦命)と活目命(垂仁天皇)を呼び、どちらを皇太子にするかについて決断した。
  4月 弟の活目命を皇太子とし、豊城命に東国を治めさせた。

崇神60年(前38年)
  7月 飯入根(いいいりね)が出雲の神宝を献上。
      兄の出雲振根が飯入根を謀殺するが、朝廷に誅殺される。

崇神68年(前30年)
 12月 120歳で崩御。



崇神天皇に関する諸説
崇神天皇の実在性
記紀に伝えられる事績の史実性、欠史八代に繋がる系譜記事等には疑問もあるが、3世紀から4世紀初めにかけて実在した大王と捉える見方が少なくない。

欠史八代を史実の反映と見る立場からは、書紀の記述によると、神武天皇が畿内で即位後は畿内周辺の狭い領域のことしか出てこないが、崇神天皇の代になって初めて、日本の広範囲の出来事の記述が出てくる。
神武天皇から開化天皇までは畿内の地方政権の域を出ず、崇神天皇の代になって初めて日本全国規模の政権になったのではと考える説もある。

崇神天皇の和風諡号は「ミマキイリヒコ」、次の垂仁天皇の和風諡号は「イクメイリヒコ」で、共にイリヒコが共通している。
イリヒコ・イリヒメは当時の大王・王族名に現れる特定呼称である。「イリ」が後世の創作とは考えにくいことから、これらの大王・王族は実在の可能性が高まり、崇神天皇を始祖とする「イリ王朝」「三輪王朝」説なども提唱されている。

また、欠史八代の葛城王朝から崇神天皇に始まる三輪王朝への王朝交替説もある。

いずれの説も崇神天皇を実在の人物としている点では共通している。


諡号
諡号から、崇神天皇をもって初代天皇とする説や崇神天皇と神武天皇を同一人物と見る説がある。

ハツクニシラススメラミコトとの称は、神武天皇(『日本書紀』では始馭天下之天皇:はつくにしらすすめらみこと)にも贈られており、初めて天下を治めた天皇という意味であるが、初めて国を治める天皇がふたり存在することになる。
これについては、神武天皇の称号にみえる「天下」という抽象的な語は、崇神の称号にみえるという具体的な語より上位の観念であり、また、後に出来た新しい観念でもあるので、神武天皇は崇神天皇より後に「帝紀」「旧辞」の編者らによって創られたと考えられる。

それ故に国(大和)を初めて治められたのは崇神天皇であると考えられる。


王朝交代説
欠史八代の葛城王朝から崇神天皇に始まる三輪王朝への王朝交替説もある。

崇神・垂仁の二帝の名は和風諡号ではなく実名(諱)をそのまま記紀に記載した、とする説も存在しており、「イリ王朝」が古代日本史に於いて、如何に特殊かつ重要な存在であったかを伺わせる。


崇神天皇と四道将軍
崇神天皇10年(紀元前88年?)にそれぞれ、北陸、東海、西道、丹波に派遣された。
教えを受けない者があれば兵を挙げて伐つようにと将軍の印綬を授けられ、翌崇神天皇11年(紀元前87年?)地方の敵を帰順させて凱旋したとされている。


参考資料
「歴代天皇全史」 (歴史群像 学習研究社 2003) 
「崇神天皇と三王朝交代説」 (学習研究社 1994 神一行)
「日本古代史の100人」 (歴史と旅臨時増刊号23巻2号 秋田書店 1996)
「古代人物総覧」 (別冊歴史読本21巻50号 1996)
ウキペディア「崇神天皇」


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第10代 崇神天皇
崇神天皇
実在したと考えられている最初の天皇。