四道将軍
概説
四道将軍とは
『日本書紀』に登場する皇族(王族)4人の将軍を指す。
     吉備津彦命・・・・・第7代孝霊天皇の皇子
     大彦命・・・・・・・・・第8代孝元天皇の皇子
     武渟川別命・・・・・大彦命の子
     丹波道主命・・・・・第9代開化天皇の皇子

四道将軍の世代間関係

四道将軍 派遣先 補足
第7代孝霊天皇 吉備津彦命 西道(山陽道=吉備)
第8代孝元天皇 大彦命 北陸道 大彦命の活躍した時代は3世紀末から4世紀初頭とする説がある。
大彦命 武渟川別命 東海道 北陸に派遣された大毘古命と東海に派遣されてい武渟川別命は、今の会津で行き会ったという。
第9代開化天皇 丹波道主命 山陰道(丹波)


四道将軍覇権の経過
崇神10年(前88年-書紀)
 9月 四道将軍の派遣
  9日   大彦命を北陸道に、武渟川別を東海道に、吉備津彦を西道に、丹波道主命を丹波(山陰道)に
        将軍として遣わし、従わないものを討伐させた。

  27日  大彦命が和珥の坂についたとき少女が歌っていた。
        大彦命は異変を察知して和珥坂(わにのさか、奈良県天理市)から引き返えした。
        倭迹迹日百襲姫命の予言から武埴安彦(孝元天皇の皇子)の叛意を知る。
        武埴安彦は山背から、その妻吾田媛は大坂からともに都を襲撃しようとした。
        天皇は五十狭芹彦命(吉備津彦命)の軍を遣わして吾田媛勢を迎え討ち、一方の安彦勢には、
        大彦命と彦国葺(ひこくにぶく、和珥氏の祖)を差し向かわせ、これを打ち破った。

 10月   畿内は平穏となり、畿外の征討を行うこととなった。

  22日  四道将軍が再び出発。
     (北陸に派遣された大毘古命と東海に派遣されていた大毘古命の子である建沼河別命は、今の
      会津で行き会ったという。だからこの地を会津という)

崇神11年(前87年-書紀)
 4月    四道将軍が地方の賊軍を平定させて帰参、その有様を奏上した。
        この年、異俗の人達が大勢やって来て、国内は安らかとなった。


四道将軍説話の意義
四道将軍の説話は単なる神話ではなく、豊城入彦命の派遣やヤマトタケル伝説などとも関連する王族による国家平定説話の一部であり、初期ヤマト王権による支配権が地方へ伸展する様子を示唆しているとする見解がある。
事実その平定ルートは、四世紀の前方後円墳の伝播地域とほぼ重なっている。



四道将軍の4人
吉備津彦命(きびつひこのみこと)
概要
吉備津彦命
孝霊天皇の第3皇子。
生母は妃倭国香媛(やまとのくにかひめ)(または意富夜麻登玖邇阿礼比売命(おほやまとくにあれひめのみこと)
大和の黒田庵戸宮(盧戸宮)(やまとくろだいおどのみや、奈良県磯城郡田原本町)に生まれた。
本来の名は彦五十狭芹彦命(ひこいさせりびこのみこと)。
亦の名前が吉備津彦命(『書記』)、大吉備津日子命(『古事記』)であったと伝える。
吉備冠者(きびのかじゃ)ともいう。
山陽道を主に制圧した四道将軍の一人。


系譜
  孝霊天皇----倭国香媛
          ↓
       吉備津彦命  (同母姉妹=倭迹迹日百襲媛命) (異母兄弟=稚武吉備津彦、彦狭島命)
          ↓
        三井根子
        大屋田子


事績
崇神天皇10年
勅命により四道将軍の1人として西道(山陽道)に派遣された。
しかし任地に赴く途上で武埴安彦命(孝元天皇の皇子、吉備津彦命には甥皇子に当たる)の反乱に遭遇。
これを大彦命(孝元天皇皇子、武埴安彦命の異母兄弟)とともに制圧してから西道に赴く。

崇神11年
異母弟の雅武彦命(若日子建吉備津日子命)とともに吉備国を始め山陽道に沿う周辺域を平定。
この事によって「吉備津彦」を名乗る事になったという(「吉備津彦」とは「吉備の勢力者」の意味)。
1説に吉備国制圧の目的は同国の製鉄技術の掌握であったとされる。

崇神60年
武渟川別(大彦命の王子)とともに出雲国へ出征して出雲振根を誅滅している。

補足
岡山県岡山市に鎮座する備中国一宮、吉備津神社の社伝によると、その後、命は吉備の中山の麓に茅葺宮を造って住み、281歳で亡くなって中山の山頂(茶臼山)に葬られたとされている。
この中山茶臼山古墳(正式名称は大吉備津彦命墓)は土地の人々には「御陵」や「御廟」とも呼ばれており、現在では陵墓参考地として宮内庁の管理下にある
なお、吉備津彦命の子孫は代々吉備国の国造を襲ったといい、それが後の吉備氏へと繋がっている。



大彦命(おおびこのみこと)
概要
大彦命
父=孝元天皇(の第1皇子)
母=鬱色謎命(うつしこめのみこと)
兄弟=開化天皇、少彦男心命(すくなひこをこころのみこと)の同母兄
垂仁天皇の外祖父、崇神天皇の叔父に当たる。
古事記では大毘古命。


系譜
   孝元天皇----欝色謎命
           ↓
         大彦命
           ↓
         御間城姫----崇神天皇
                 ↓
               垂仁天皇----日葉酢媛命
                       ↓
                     景行天皇
                       ↓                        
                     日本武尊  (景行53年の景行天皇の侍従:磐鹿六雁)(=大彦命の孫)


系譜についての諸説-1(考古資料より)
(1)稲荷山古墳出土の鉄剣
埼玉県行田市の稲荷山古墳出土の鉄剣の銘文に記された「意冨比垝」を大彦命と見た場合のその系譜の代数から、大彦命の活躍した時代は西暦3世紀末から4世紀初頭で、記紀が記す崇神天皇より1世代後の人物と考えるのが妥当であるとする。
すなわち、金錯銘鉄剣に見える乎獲居臣(おわけのおみ)の上祖、意冨比垝(おほびこ)と同一人である可能性が高いともされている。
同銘文によると、意冨比垝の8世の子孫である乎獲居臣が鉄剣を鍛造したとある。

銘文
辛亥の年七月中、記す。ヲワケの臣。上祖、名はオホヒコ。其の児、(名は)タカリのスクネ。其の児、名はテヨカリワケ。其の児、名はタカヒ(ハ)シワケ。其の児、名はタサキワケ。其の児、名はハテヒ。(表)

其の児、名はカサヒ(ハ)ヨ。其の児、名はヲワケの臣。世々、杖刀人の首と為り、奉事し来り今に至る。ワカタケ(キ)ル(ロ)の大王の寺、シキの宮に在る時、吾、天下を左治し、此の百練の利刀を作らしめ、吾が奉事の根原を記す也。(裏)

系図
  意富比跪(オホヒコ)
     ↓
  多加利足尼(タカリスクネ)
     ↓
  弖已加利獲居(テヨカリワケ)
     ↓
  多加披次獲居(タカヒ(ハ)シワケ)
     ↓
  多沙鬼獲居(タサキワケ)

  半弖比(ハテヒ)
     ↓
  加差披余(カサヒ(ハ)ヨ)
     ↓
  乎獲居臣(ヲワケオミ)   (辛亥年 作471年:)

この場合、乎獲居臣を大彦命の後裔を称する阿倍氏か膳氏の一族ではないかと見る解釈が多いが、その後の時代、北武蔵で大きな勢力を築いていた壬生吉士(難波吉士と同族)の可能性もあるとされる。

当時著名であった大彦命の東征説話を知った乎獲居臣がその祖を大彦命に求めたものであろうとする説もある。

また、ヲワケを東国国造の系譜に属する者と考える説と、上祖オホヒコを記紀に阿倍臣や膳臣の始祖としてみえる孝元天皇の皇子大彦命とし、あるいは杖刀人は阿倍臣に従属する丈部(はせつかべ)であるとみて、ヲワケを中央豪族の一員と考える説に大きく見解が分かれているとする説もある。

いずれにせよ、この部分の系譜にはかなりの混乱が認められる


系譜についての諸説-2(文献資料より)
大彦命は、崇神天皇の伯父に当たり、その皇后である御間城姫(みまきひめ)の父として垂仁天皇の外祖父に当たるとされている。
しかし、この記紀系譜に対する疑問が呈されている。

(1)磐鹿六雁
景行天皇紀53年に登場する磐鹿六雁は大彦命の孫である。
これを信じると、大彦命は垂仁天皇と同世代となる。

(2)沙本毘古王の乱と大彦命の関係した武埴安彦の乱
その1世代後、すなわち垂仁天皇の時代に起きた沙本毘古王の乱と大彦命の関係した武埴安彦の乱とは地域の重なりなど類似性が高い点も指摘している。

(3)武内宿禰の生年より
また、大彦命の異母兄弟である彦太忍信命の王孫(書紀では孫、古事記では子)とされる武内宿禰が、第13代成務天皇(垂仁天皇の皇孫)と同じ日に生まれたとされるているので、このことも大彦命が垂仁天皇の時代の人物である可能性の高いことを示しているとしている。


後裔氏族
阿倍臣、膳臣(かしわでのおみ)、阿閉(敢)臣(あへのおみ)、沙沙城山君、筑紫国造、越国造、伊賀臣の7氏の始祖とされ(『書記』)、その他那須国造、難波吉士などの諸氏族の祖とも伝えられている。
また、各氏族によって祖神として祀られたと推測される神社が各地にある。


事績
崇神天皇10年9月甲午(9日)
勅命により四道将軍の1人として北陸地方に派遣されるが、出陣の道中で不吉な歌を詠う不思議な少女に会った。
引き返してこのことを報告し、倭迹迹日百襲媛命(孝霊天皇皇女。大彦命のおばに当たる)に占わせたところ、武埴安彦命とその妻吾田媛の謀反を告げるものと判明した。
果たして実際に謀反が起こると、彦国葺と共に武埴安彦を討ちとり、吾田媛は吉備津彦命が討って鎮圧したという。
その後北陸へ赴き、越国の土着の豪族たちを平定した。

崇神天皇11年4月己卯(28日)
帰命し、大和朝廷の基礎を築いたといわれる。

補足
『古事記』は、北陸平定後に同じく四道将軍の1人で東海地方を平定した子の建沼河別命と合流した場所が相津、現在の福島県会津であると、会津地名の由来を伝えている。


大彦命を祀る神社
  古四王神社(秋田県秋田市)
  伊佐須美神社(福島県大沼郡)
  富山県富山市の鵜坂神社
  福井県鯖江市の舟津神社
  三重県伊賀市の敢國神社ほか


武渟川別命(たけぬなかわわけのみこと)
概要
大彦命の子。阿倍臣の祖。
『日本書紀』では武渟川別、『古事記』では建沼河別命と表記される。


系譜
   孝元天皇----欝色謎命
           ↓
         大彦命----
                ↓
             武渟川別命  (兄弟姉妹:紐結命 彦瀬立大稻輿命 波多武日子命 御間城姫
                ↓
              豊韓別命(トヨカラワケノミコト)
                ↓
              雷別命(イカヅチワケノミコト)
                ↓                        
              阿加古 (阿倍臣)


事績
崇神10年
将軍として東海に派遣される。
『古事記』によると、高志(越)の国の平定に向かった大毘古命と相津(会津)で出会ったとされる。
これが会津の地名の由来という。

崇神60年
天皇の命により吉備津彦と共に出雲振根を誅した。


丹波道主命(たんばみちぬしのみこと)
概要
景行天皇の外祖父。彦坐王(ひこいますのみこ)の子で、開化天皇の孫に当たる。
『日本書紀』では丹波道主王丹波道主命、『古事記』では旦波比古多多須美知能宇斯王

父=彦坐王(一説に彦湯産隅命(ひこゆむすみのみこと、開化天皇の子)の子)
母=息長水依比売娘(おきながのみずよりひめ)・・・・天之御影神の女
同母兄弟=水穂之真若王(近淡海安直の祖)、神大根王(本巣国造・三野前国造の祖)
        水穂五百依比売、御井津比売
妻=丹波之河上之摩須郎女(たんばのかわかみのますのいらつめ)。
子=日葉酢媛命(垂仁天皇皇后)、渟葉田瓊入媛(同妃)、真砥野媛(同妃)、薊瓊入媛(同妃)、竹野媛
   朝廷別王(三川穂別の祖)。記には他に歌凝比売命。


系譜
  開化天皇----姥津媛
          ↓
        彦坐王----息長水依比売娘
               ↓
             丹波道主命----丹波之河上之摩須郎女
                       ↓
              日葉酢媛命(垂仁天皇皇后)、渟葉田瓊入媛(同妃)、真砥野媛(同妃)
              薊瓊入媛(同妃)、竹野媛
、朝廷別王(三川穂別の祖)


事績
崇神10年
将軍として山陰道(丹波)に派遣される。

京都府久美浜の地名は、道主命の伺帯した「国剣」から「国見」「久美」となり「くみのみなと」「くみの見谷」「くみの浜」など久美浜の地名の起源になったと言われる。



四道将軍に関連した遺跡
稲荷山古墳
稲荷山古墳から発掘された金錯銘鉄剣に見える乎獲居臣(ヲワケの臣)の上祖・意冨比垝(オホビコ、オホヒコ)と同一人である可能性が高いとする見解が有力である。

詳細は、「関東地方の遺跡」へ

行燈山古墳と中山茶臼山古墳
崇神天皇陵に比定されている行燈山古墳(墳丘全長約242m、後円部直径約158m、後円部高さ約23m)と吉備津彦命の陵墓参考地(大吉備津彦命墓)である中山茶臼山古墳(墳丘全長約120m、後円部直径約80m、後円部高さ約12m)はサイズがほぼ2対1の相似形であることが指摘されている。

詳細は、「吉備国の遺跡」


会津大塚山古墳
四道将軍の話はあくまでも伝説であるが、大和朝廷が会津を征服したことが読みとれ、崇神天皇が3世紀-4世紀頃に存在した実在の天皇と見られていることや会津大塚山古墳が4世紀末の造営と考えられることから大和朝廷の会津支配の始まりや会津大塚山古墳の被葬者を知る上でも注目される伝説である。

詳細は、「北陸・東北地方の遺跡」へ



参考資料
「日本書紀 上・中・下」 (教育社 1992)山田宗睦訳
「口語訳 古事記」 (文藝春秋社 2002)
「日本古代氏族辞典」 (雄山閣出版 1994 佐伯有清)
「古代豪族系図集覧」 (東京堂出版 1993 近藤敏喬)


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四道将軍(しどうしょうぐん)
四道将軍皇
日本書紀に登場する皇族(王族)の将軍で、大彦命(おおびこのみこと)、武渟川別命(たけぬなかわわけのみこと)、吉備津彦命(きびつひこのみこと)、丹波道主命(たんばみちぬしのみこと)の4人を指す。