第38代 天智天皇 (主として日本書紀による記載)
概説
諱、諡号等
幼名     中大兄皇子
諱(実名)  葛城皇子(かづらきのみこ かつらぎのみこ)    
和風諡号  天命開別尊(あめみことひらかすわけのすめらみこと)
漢風諡号  天智天皇 (中国殷王朝最後の王である紂王の愛した天智玉から名付けられたとされる)

生没年
626年(推古34年)-672年(天智10年)

即位
立太子=645年(皇極4年)
称制  =661年(斉明7年)
即位  =668年(天智7年)
皇居  =近江大津宮

崩御
崩御=672年
陵墓=御廟野古墳(ごびょうのこふん)
      京都市山科区に所在する古墳時代終末期の古墳(八角墳)


系譜
父=舒明天皇 (第二皇子)
母=宝女王(のちの皇極天皇)

皇后=倭姫王(やまとひめのおおきみ)・・・・異母兄である古人大兄皇子の娘

嬪1=蘇我遠智娘(おちのいらつめ)・・・・蘇我倉山田石川麻呂の娘
  皇女①=大田皇女(おおたのひめみこ)・・・・天武天皇妃 、大津皇子・大来皇女の母
  皇女②=鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ、持統天皇) -・・・・天武天皇后、草壁皇子の母
  皇子①=建皇子(たけるのみこ)

嬪2=
蘇我姪娘(めいのいらつめ、桜井娘)・・・・蘇我倉山田石川麻呂の娘
  皇女①=御名部皇女(みなべのひめみこ)・・・・高市皇子妃、長屋王母
  皇女②=阿閇皇女(あへのひめみこ、元明天皇)・・・・草壁皇子妃、文武天皇・元正天皇・吉備内親王の母

嬪3=蘇我常陸娘(ひたちのいらつめ)・・・・蘇我赤兄の娘
  皇女①=山辺皇女(やまべのひめみこ)・・・・大津皇子妃
 
嬪4=阿倍橘娘(たちばなのいらつめ)・・・・阿倍倉梯麻呂の娘
  皇女①=明日香皇女(あすかのひめみこ)
  皇女②=新田部皇女(にいたべのひめみこ)・・・・天武天皇妃、舎人親王の母

夫人1=道君伊羅都売(いらつめ)・・・・道君氏の女
  皇子①=志貴皇子(しきのみこ、施基皇子・春日宮天皇。後に親王)・・・・光仁天皇の父

采女1=宅子娘(やかこのいらつめ)・・・・伊賀国造某女?
  皇子①=大友皇子(おおとものみこ、弘文天皇)

宮人1=忍海造色夫古娘(しこぶこのいらつめ)・・・・忍海造小竜の女
  皇子①=川島皇子(かわしまのみこ)・・・・淡海朝臣・春原朝臣祖
  皇女①=大江皇女(おおえのひめみこ)・・・・天武天皇妃、長皇子・弓削皇子の母
  皇女②=泉皇女(いずみのひめみこ、後に内親王)・・・・伊勢斎宮

宮人2=栗隈首黒媛娘(くろひめのいらつめ)・・・・栗隈首徳万の女
  皇女①=水主皇女(みぬしのひめみこ、後に内親王)

参考:皇族・有力氏族系図まとめ


事績
626年(推古34年)
   誕生

645年(皇極4年)
  6月12日  乙巳の変。
  6月14日  立太子。

661年(斉明7年)
  7月24日  斉明天皇が崩御。

661年(天智元年)
  7月24日  称制

663(天智3年)
  白村江の戦いで大敗を喫す。
  以後、国防の強化。

665年(天智4年)
  2月 鬼室福信の功によりその縁者である鬼室集斯(きしつしゅうし)に小錦下の位を授けた。
      (天智8年(669年)に近江国蒲生郡に送られる)。

667年(天智6年)
  大津へ遷都。

668年(天智7年)
  1月 大津宮で即位

670年(天智9年)
  我が国最古の全国的な戸籍「庚午年籍」を作成。
  公地公民制が導入されるための土台を築いていった。

672年(天智10年)
 12月3日  46歳で崩御



天智天皇に関する諸説
大化の改新 黒幕存在説
軽皇子(孝徳天皇)クーデター説
日本書紀の大化の改新の記述には改竄が認められることから、この説が唱えられるようになった。
乙巳の変は軽皇子(孝徳天皇)のクーデターであり、中大兄皇子は地位を追われたという説。
近年中大兄皇子と蘇我入鹿の関係が比較的良好であり、基本政策も似ていることが指摘されている。
そうなると中大兄皇子が入鹿を殺害する動機がなくなる。
また、この説では皇極天皇の退位の理由や入鹿以外の蘇我氏がクーデター後も追放されていない理由など、その他の疑問点も説明できるため注目を浴びている。


天智天皇が長く即位しなかった理由
①天武天皇を推す勢力への配慮からとする説
従来定説とされてきた天武天皇は天智天皇の弟であるというのは誤りで、皇極天皇が舒明天皇と結婚する前に生んだ漢皇子であり、彼は天智天皇の異父兄であるとする説に基づくる。
確かに、『日本書紀』の天智天皇と一部の歴史書に掲載される天武天皇の享年をもとに生年を逆算すれば、天武が年長となってしまう。
しかし、同一史料間には矛盾は見られず、8~9歳程度の年齢差を設けている史料が多い。
これに対しては「『父親が違うとはいえ、兄を差し置いて弟が』ということでは体裁が悪いので、意図的に天智の年齢を引き上げたのだ」との主張があるが、「『日本書紀』に見える、天智の年齢16歳は父舒明天皇が即位した時の年齢だったのを間違えて崩御した時の年齢にしてしまった。
だから、本当の生年は本朝皇胤紹運録等が採用している614年だ」との反論、「古代においては珍しくなかった空位(実際、天武の前後に在位していた天智・持統も称制をしき、直ちに即位しなかった)の為に誤差が生じたのだ」との反論、また『日本書紀』と指摘されているその他歴史書は編纂された時代も性質も異なる為、同一には扱えないとの意見もある。

②軽皇子クーデター説
乙巳の変は軽皇子(孝徳天皇)のクーデターであり、中大兄皇子は地位を追われたという説。
近年中大兄皇子と蘇我入鹿の関係が比較的良好であり、基本政策も似ていることが指摘されている。
そうなると中大兄皇子が入鹿を殺害する動機がなくなる。ま
た、日本書紀の大化の改新の記述には改竄が認められることから、この説が唱えられるようになった。

③天智の女性関係に対しての反発から即位が遅れたとする説。
これは、『日本書紀』に記載された孝徳天皇が妻の間人皇女(天智の同母妹)に当てた歌に彼女と天智との不倫関係を示唆するものがあるとするものである。
異母兄弟姉妹間での恋愛・婚姻は許されるが、同母兄弟姉妹間でのそれは許されなかったのが当時の人々の恋愛事情だったとされる。

④間人皇女即位説
斉明天皇の死後に間人皇女が先々代の天皇の妃として皇位を継いでいたのであるが、何らかの事情で記録が抹消されたという説である。
これは『万葉集』において「中皇命」なる人物を間人皇女とする説から来るもので、「中皇命」とは天智即位までの中継ぎの天皇であるという解釈出来るという主張である
。もし間人皇女=「中皇命」とすれば、なぜ彼女だけが特別にこうした呼称で呼ばれる必要性があったのかを考えられるが、斉明天皇だとする説もあり、必ずしも確証は無い。


漢風諡号
森鴎外 帝諡考より
大正8(1919)年に脱稿、大正10(1921)年に図書寮から限定100部が関係官庁等に配布された。
天智と天武の名前の由来は、中国の周の歴史書『周書』の記述に基づいている。
周王朝は、殷王朝を倒した武によって建てられた。
殷の最後の王だった紂(チュウ)王は、中国史上最も暴虐な君主だったとされる。
その紂王を自殺に追い込んで倒したのが臣下だった武だった。
武から見れば、暴虐王を倒すのは正義だったということになる。
そして、紂王が自殺したときに身に付けていたのが、「天智玉」という宝玉だった。
紂王の死後、天智玉を手に入れたのが武王で、それが「天智」「天武」の諡号の由来である、ということである。つまり、天智と天武の関係は、中国の紂王と武王の関係に相似している、という意味だということになる。


額田王との関係
十市皇女の出生後、天武天皇の兄である中大兄皇子(天智天皇)に寵愛されたという話は根強いが、確証はない。
状況証拠は『万葉集』に収められた歌のみである。
    茜指す紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る(巻1・20・額田王)
    紫の匂へる妹を憎くあらば人妻ゆゑに我恋ひめやも(巻1・21・大海人皇子)

上記の2首などをめぐって、天智・天武両天皇との三角関係を想定する理解が一般にあるが、池田弥三郎・山本健吉が『萬葉百歌』でこの2首を宴席での座興の歌ではないかと発言して以来、こちらの説も有力視され、学会では通説となっている。


天智天皇暗殺説
『扶桑略記』より
「一云 天皇駕馬 幸山階鄕 更無還御 永交山林 不知崩所 只以履沓落處爲其山陵 以往諸皇不知因果 恒事殺害」。

山科の里に遠乗りに出かけたまま帰ってこなかった。
山林の中で、どこで亡くなったのか分からない。
それで、その沓が落ちていたところを陵にした。

その後も、天智の遺体は発見されなかった。
すなわち、山中で行方不明になったとされることから天武天皇側による暗殺説もある。



参考資料
「日本書紀 上・中・下」 (教育社 1992)山田宗睦訳
「口語訳 古事記」 (文藝春秋社 2002)
「日本古代史の100人」 (歴史と旅臨時増刊号23巻2号 秋田書店 1996)
「古代人物総覧」 (別冊歴史読本21巻50号 1996)
「歴代天皇全史」 (歴史群像 学習研究社 2003)
「逆説の日本史2 古代怨霊編」 (小学館 1994 井沢元彦)

Wikipedia 「天智天皇」


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第38代 天智天皇
天智天皇
幼名は、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ なかのおおえのみこ)
大兄とは、同母兄弟の中の長男に与えられた皇位継承資格を示す称号。
中大兄は二番目の大兄を意味する語。