応神天皇
概要
諡号
 古事記での呼称
    品陀和氣命(ほむだわけのみこと)、別名は大鞆和気命
 日本書紀での呼称
    譽田天皇(ほむたてんのう)

即位
  即位年=応神天皇元年(270年)に71歳で即位
  皇居=軽島豊明宮(かるしまのとよあきらのみや)・・・現在の奈良県橿原市大軽町。
     
崩御
  崩御=応神天皇41年(310年)に111歳で崩御。古事記では130歳。
  陵墓=誉田御廟山古墳(大阪府羽曳野市誉田六丁目)
       (前方後円墳・全長425m後円部高さ36m、もと二重に堀をめぐらしていた)

祭神として祭る神社
  宇佐八幡宮 (大分県宇佐市)
  宇美八幡宮 (福岡県糟屋郡宇美町)
  誉田八幡宮 (大阪府羽曳野市)・・・応神天皇陵のすぐ南に鎮座する。
  など


系譜
父=仲哀天皇
母=神功皇后こと息長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)

皇后=仲姫命(なかつひめのみこと、中日売命)・・・品陀真若王の女
  荒田皇女(あらたのひめみこ、木之荒田郎女)
  大鷦鷯尊(おおさざきのみこと、大雀命=仁徳天皇
  根鳥皇子(ねとりのみこ) - 大田君祖

妃1=高城入姫命(たかきのいりびめ、高木之入日売命) ・・・品陀真若王女、仲姫命同母姉
  額田大中彦皇子(ぬかたのおおなかつひこのみこ)
  大山守皇子(おおやまもりのみこ) ・・・土形君・榛原君祖
  去来真稚皇子(いざのまわかのみこ、伊奢之真若命)・・・深河別祖
  大原皇女(おおはらのひめみこ)・・・『先代旧事本紀』は弟姫命の所生とする。
  来田皇女(こむくたのひめみこ、高目郎女)

妃2=弟姫命(おとひめ、弟日売命)・・・品陀真若王女、仲姫命同母妹阿倍皇女(あへのひめみこ)
  淡路御原皇女(あわじのみはらのひめみこ、阿具知能三腹郎女)・・・根鳥皇子妃
  紀之菟野皇女(きのうののひめみこ、木之菟野郎女)
  滋原皇女(しげはらのひめみこ)・・・記紀に見えず、『先代旧事本紀』より補う。
  三野郎女(みののいらつめ)

妃3=宮主宅媛(みやぬしやかひめ、宮主矢河枝比売)・・・和弭日触使主女
  菟道稚郎子皇子(うじのわきいらつこのみこ、宇遅能和紀郎子)・・・応神天皇皇太子
  矢田皇女(やたのひめみこ、八田皇女・八田若郎女)・・・仁徳天皇皇后
  雌鳥皇女(めとりのひめみこ、女鳥王)

妃4=小甂媛(おなべひめ)・・・和弭日触使主女、宮主宅媛妹
  菟道稚郎女皇女(うじのわきいらつひめのひめみこ、宇遅能若郎女)・・・仁徳天皇妃

妃5=息長真若中比売(おきながまわかなかつひめ、弟媛)
  河派仲彦女稚野毛二派皇子(わかぬけのふたまたのみこ、若沼毛二俣王)・・・息長君等祖、継体天皇高祖父

その他にも妃多数


事績
出生
12月 
神功皇后の三韓征伐の帰途に宇瀰(うみ、福岡県糟屋郡宇美町)で生まれたとされる。

神功3年(204年)  
     立太子。

応神元年(270年)  
     71歳で即位。

応神5年
  諸国に令して、海人及び山守を定む。

応神11年
  剣池・軽池(かるのいけ)・鹿垣池(ししかきのいけ)・厩坂池(うまやさかのいけ)を作る。

応神14年
  弓月君(ゆつきのきみ)が百済から来て、天皇に奏上した。
  百済の民人を連れて帰化したいけれども新羅が邪魔をして加羅から海を渡ってくることができない。
  天皇は襲津彦を加羅に遣わして百済の民を連れ帰るように命令する。
  しかし、三年なんの音沙汰もなくなった。

応神16年
8月 
  天皇は平群木菟宿禰(へぐりのつくのすくね)・的戸田宿禰(いくはのとだのすくね)に命令。
  襲津彦が帰ってこないのはきっと新羅が邪魔をしているのに違いない。
  加羅に赴いて襲津彦を助けろ」といって、加羅に兵を派遣した。
  新羅の王はその軍勢に怖じけづいて逃げ帰った。
  そして襲津彦はやっと弓月氏の民を連れて帰国した。
  
応神20年
9月 
倭の漢直の祖阿知使主(あちのおみ)、其の子都加使主、並びに己が党類十七県を率て、来帰。
多くの渡来人があったことを伝えている。

応神41年(310年) 
崩御。111歳。古事記では130歳。



応神天皇に関する諸説
出生について
父は先帝仲哀天皇で、母は神功皇后こと息長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)とされるが、異説も多い。
その理由は異常に出産が遅れたことにある。
父として「是に皇后、大神と密事あり」(住吉大社の神代記」)とある住吉大神や、あるいはまた武内宿禰とする考えもある。


秦氏との関係
日本書紀より
応神天皇十四年
弓月君が百済から来て、天皇に奏上した。
「私の国の百二十県の人民が帰化を求めています。
しかし新羅人が拒んでいるので、みな加羅国に留まっています。」
天皇は葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)を遣わして、加羅国の弓月の民を召されたが、三年を経ても襲津彦は帰らなかった。

応神天皇十六年
天皇は平群木菟宿禰(へぐりのつくのすくね)、的戸田宿禰(いくはのとだのすくね)を加羅に遣わした。
天皇は精兵を授けて、「襲津彦が帰らないのは、きっと新羅が邪魔をしているからだ。お前達は速やかに赴いて新羅を撃ちその道を開け。」と命じた。
木菟宿禰らは精兵を進めて新羅の国境に臨んだ。
新羅王は恐れて、その罪に服した。
二人は弓月の民を率いて襲津彦と共に帰ってきた。

秦氏との関係
応神天皇14年に弓月君(ゆづきのきみ:新撰姓氏録では融通王)が朝鮮半島の百済から百二十県の人を率いて帰化し秦氏の基となったというが、加羅(伽耶)または新羅から来たのではないかとも考えられている(新羅は古く辰韓=秦韓と呼ばれ秦の遺民が住み着いたとの伝承がある)
この様に応神朝と秦氏には何らかの深いつながりがある物と考えられる。


応神天皇と八幡神(はちまんしん、やはたのかみ、やわたのかみ)
八幡神社とは
総本社は大分県宇佐市の宇佐神宮(宇佐八幡宮)である。
元々は宇佐地方一円にいた大神氏の氏神であったと考えられる。
農耕神あるいは海の神とされるが、柳田國男は鍛冶の神ではないかと考察している。
欽明天皇の時代(539年 - 571年)に大神比義という者によって祀られたと伝えられる。

八幡神社の御祭神
現在では、応神天皇を主神として、神功皇后、比売神を合わせて八幡神(八幡三神)ともしている。
八幡神は外来神で比売神はそれ以前に宇佐に祀られていた地主神だという説や、比売神は宗像三神または市杵島姫命であるという説、近年では比売神はヒミコでありアマテラスであるという説も登場しているが詳細は不明。
この八幡上と応神天皇の結びつきについても詳しいことは分かっていない。



参考資料
「新訂増補国史大系  日本書紀 前篇」 (吉川弘文館 2000 黒坂勝美)
「新訂増補国史大系  日本書紀 後編」 (吉川弘文館 2000 黒坂勝美)
「日本書紀 中巻」 (教育社 1992 山田宗睦訳)
「日本の歴史02-王権誕生」 (講談社 2000 寺沢  薫)
「清張通史② 空白の世紀」  (講談社文庫 1986 松本清張)
ウキペディア「応神天皇」


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応神天皇
実在性が濃厚な最古の大王(天皇)とも言われるが、仁徳天皇の条と記載の重複・混乱が見られることなどから、応神・仁徳同一説などが出されている。   (参照:皇室・有力氏族系図まとめ)