初期天皇の実在性
初期天皇の実在性について
初代・神武天皇から十数代の初期天皇の実在性については諸説ある。
現代の考古学及び歴史学においては、初期天皇は典拠が神話等であり、科学的・合理的見地からは、その実在性が疑問視されている。


実在が不明な天皇
初代・神武天皇から第9代・開化天皇まで
非実在説が有力であった。

第2代・綏靖天皇から第9代・開化天皇まで
『日本書紀』に『旧辞』的記述(事績等に関する記述)がないため、欠史八代(闕史八代)と呼ばれる。

第10代・崇神天皇から第14代・仲哀天皇まで
実在説と非実在説がある。

第22代・清寧天皇、第23代・顕宗天皇、第24代・仁賢天皇、第25代・武烈天皇
実在せず、創作されたとも考えられている。


実在性が高いとされる天皇
第15代・応神天皇以降
実在したことが確かであるとされた最古の天皇は、第15代・応神天皇

第21代雄略天皇以降
埼玉県行田市の稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣の「獲加多支鹵大王」を雄略天皇の名である「大泊瀬幼武」と解しその証とする説が有力である。
この説に則れば考古学的に実在が実証される最古の天皇である。

第26代継体天皇以降
継体天皇以降の系譜はほぼ正確であり、武烈天皇の姉(妹)を皇后に迎え、その間に生まれた欽明天皇が現在の天皇家の祖である事から、女系で繋がっているのはほぼ確実とされる。



欠史とする根拠
辛酉革命
八代の天皇については、中国の革命思想(辛酉革命)に合わせ、また天皇家のルーツがかなり古いところにあると思わせるべく、系譜上の天皇を偽作したため生まれたのであろうとする。
辛酉とは干支のひとつで中国では革命の年とされる。
21回目の辛酉の年には大革命が起きる(讖緯説)とされるため、この説によれば日本では聖徳太子が政治を始めた601年(厳密には6世紀末とされているが、表立った活動の記録はない)が辛酉の大革命の年である。
すると21×60=1260よりAD601−1260=BC660(西暦0年はない)が神武天皇即位年と算出される。


崇神和風諡号
第10代崇神天皇は別名ハツクニシラススメラミコトといい、すなわち初めて天下を治めた天皇であることを名称で物語っている。
これは本来の系図では、崇神天皇が初代天皇とされたもので、それ以前はある時期に加えられたものであろうことを推察させる。


稲荷山鉄剣銘文
1978年埼玉県稲荷山古墳から出土した金錯銘鉄剣に、オホヒコ(大彦・大毘古)から始まる8代の系譜が刻まれている。
このオホヒコは、記紀にいう四道将軍大彦命と考えられ、第8代孝元天皇の皇子のはずであるが、銘文では何も触れられていない。
鉄剣が作られた頃はそのような天皇(大王)の存在は系図上確立されていなかったことを物語る。


諡号
4代・6代〜9代の天皇の名は明らかに和風諡号と考えられるが、記紀のより確実な史料による限り、和風諡号の制度ができたのは6世紀半ばごろであるし、神武・綏靖のように、伝えられる名が実名であるとすると、それに「神」がつくのも考え難く、やはり神話的ないし和風諡号的なものであるので、これらの天皇は後世になって皇統に列せられたものと推定できる。


陵墓
陵墓に関しても欠史八代の天皇群には矛盾が存在している。
第10代崇神天皇以降は、多くの場合その陵墓の所在地には、考古学の年代観とさほど矛盾しない大規模な古墳が存在する。
だが、第9代開化天皇以前は、考古学的に見て後世になって築造された古墳か、自然丘陵のいずれかが存在している。
その上、そういった当時(古墳時代前〜中期頃)に築造された可能性のある古墳もなければ、さりとて弥生時代の墳丘墓と見られるものもない。


系譜・事績
系譜などの『帝紀』的記述に止まり、事跡などの『旧辞』的記述がなく、あっても綏靖天皇が手研耳命(たぎしみみのみこと)を討ち取ったという、綏靖天皇即位の経緯ぐらいしかない。
これらは、伝えるべき史実の核がないまま系図だけが創作された場合にありがちな例である。


相続関係
総て父子相続となっており、兄弟相続は否定されている。
父子相続が兄弟相続に取って代わられたのはかなり後世になるため、歴史に逆行していることにもなってしまう。



実在するとする説
葛城王朝説
初代神武天皇と欠史八代の王朝の所在地を葛城(現在の奈良県、奈良盆地南西部一帯を指す)の地に比定(「≒推定」)する説。
この葛城王朝は文字通り奈良盆地周辺に起源を有する勢力で、九州を含む西日本一帯を支配したが、九州の豪族であったとされる第10代崇神天皇に踏襲されたと結論付けている。


その他(実在説側の主張)
稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣に8代孝元天皇の第一皇子大彦命の実在を示す系譜が刻まれていたことから、孝元天皇及びその直系親族や近親者も実在の人物とみなす見方がある。

帝紀的部分のみがあって、旧辞的部分を全く欠いているのは2〜9代の天皇だけではない。

帝紀はもともと系譜的記事だけのものである。
旧辞的記事が欠けているからと言って、帝紀を疑う理由にはならない。
2〜9代に相当する旧辞の巻が失われていたと推測することも可能である。

2〜9代に限らず、古代天皇の不自然に長い寿命が問題になるが、こういうことは実在が確実な雄略天皇でも見られるものであり、非実在の証拠とはならない。
讖緯説に従い日本の歴史をさかのぼらせようとするならば、代数を増やして寿命を適正な年齢にすれば良いのに、それをしなかったのは、帝紀に書かれていた天皇の代数を存在を尊重したためであろう。
また、『古事記』と『日本書紀』の両書の年代にずれが解決されていないことから、史書編纂時の意図的な年代操作を否定して原伝承や原資料の段階で既に古代天皇(大王)が長命であるとされていた可能性を指摘する説もある。

また、高い年齢や長期の在位年数について、半年を一年と数える半年暦や先代天皇との親子合算方式の在位年数を考慮すべきとの説もある。

7代〜9代の天皇の名は明らかに和風諡号と考えられるが、諡号に使われる称号のヤマトネコ(日本根子・倭根子)を除けば7代はヒコフトニ(彦太瓊・日子賦斗邇)8代はヒコクニクル(彦国牽・日子国玖琉)9代はヒコオオビビ(彦大日日・日子大毘毘)となり、実名らしくなる。
このように考えれば、実名を元にして諡号が作られた可能性が出てくるため、後に皇統の列に加えられた架空の天皇であると一概には言えなくなる。むしろ、13代・14代の天皇の名のほうが実名らしくない名前で、それも和風諡号と言うより抽象名詞(普通名詞)に近いため、欠史八代の天皇よりも実在した可能性が低い。

2代、3代、5代の天皇の名に至っては明らかに実名として生前に使われた可能性が濃厚である。
和風諡号に使われる称号の部分が見当たらないためで、実在性は高いとも言える。

すべて父子相続であるのは確かに不自然であるが、それをもって非実在の証拠とはならない。
むしろ欠史八代については後世に伝わった情報が少なかったために実際には兄弟相続であったものも誤って父子相続とされたと考えられる。
事績が欠けているのも同じ理由で説明がつく。

参照:古代有力氏族系図まとめ



参考資料
「日本古代史の100人」 (歴史と旅臨時増刊号23巻2号 秋田書店 1996)
「古代人物総覧」 (別冊歴史読本21巻50号 1996)
「日本書紀 上・中・下」 (教育社 1992)山田宗睦訳
「口語訳 古事記」 (文藝春秋社 2002)
「歴代天皇全史」 (歴史群像 学習研究社 2003)
「神武天皇は実在した」 (歴史と旅22巻9号 秋田書店 1995)

ウキペディア 「欠史八代」


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欠史(闕史)八代の天皇 米子(西伯耆)・山陰の古代史
欠史八代の天皇とは
『古事記』および『日本書紀』において、系譜(帝紀)は存在するもののその事績(旧辞)が記されていない第2代綏靖天皇から第9代開化天皇までの8人の天皇のこと、あるいはその時代を指す。
これらの天皇は実在せず後に創作された架空のものだとする考えが戦後史学界で支配的である。