考察 : 伯耆国の式内社に関する考察
式内社は社格の一つとされ、当時朝廷から重要視された神社であることを示している。
今回の検索で、伯耆国の式内社数は統計学的に有意に少ない(P<0.0001)ことが実証された。
では、その理由は何に起因するのかを調べるため式内社数に影響すると考えられる要因として下記に掲げる検証を行った。
   ①令制国の面積 
   ②令制国の人口
   ③令制国の郡数・郷数
   ④令制国の経済力(=農業力=田積・出挙)
   ⑤都(中央)から令制国までの距離  
   ⑥律令が定めた国力
   ⑦伯耆国の歴史的素地

唯一、都から令制国までの距離関係において弱い相関関係が認められたものの、他の項目については全て式内社数との相関関係は無かった。
では、いかなる理由により伯耆国の式内社数は過少であったのかということについて考察を加えてみたいと考える。

様々な著書において式内社の選定には政治的色彩が色濃く反映されているとされていると記されている。
その根拠を明らかに解説している文献を探したが、渉猟出来なかった。
しかし、上記要因のほぼ全てにおいて相関関係が無かった事から、何らかの政治的あるいは人為的背景が関与していたことを疑わざるを得ない。
すなわち、中央側と地方側の政治的、人為的あるいは農業力以外の経済的背景が式内社数に関与していたと思われる。
それが中央側の事情によるのか、あるいは地方側の都合であったのかを推測しなければならない。
よって伯耆国に式内社が少ない理由を考えるには、以下の事を検討しなければならないと考える。
   ①中央権力側による要因        
      式内社と認定することに伴う利益関係の有無・・・・             
      選定基準(自薦・他薦)・・・     
   ②地方側の要因       
      伯耆国が内在する要因                 
         西伯耆の有力氏族の変遷・・・・                    
         西伯耆の経済状況・・・       
      近隣諸国との関係          
         特に出雲、因幡との関係・・・・

そのために本稿では、先ず当時の社会情勢を踏まえた上で、以下の順に従って考察を進めたい。
  1:延喜式編纂前後の社会情勢
      (1)中央の情勢
      (2)伯耆国の情勢
  2:考察
      (1)結果のまとめ
      (2)式内社選定に関する中央権力側の要因
      (3)式内社選定に関する地方側の要因
      (4)考察まとめ
1:延喜式編纂前後の社会情勢
式内社の選定には政治的色彩が色濃く反映されているとされている。
よって、その編纂経過に注目するならば、先ずは当時の社会情勢を認識しておく必要があると思われる。
(1)延喜式編纂前後の中央の情勢
延喜式の編纂
905年(延喜5年)
  第60代醍醐天皇(897-930)の命により藤原時平らが編纂を始めた。

909年
  藤原時平死去。

927年(延長5年) 延喜式完成
  909年の時平の死後は、弟の藤原忠平が編纂に当たり、927年(延長5年)に一応完成した。
     太政大臣=不在   左大臣=藤原忠平(924-935年)  右大臣=藤原定方(924年-932年)

967年(康保4年)
  その後も改訂が加えられ、40年後の967年(康保4年)より施行された。 全50巻、約3300条からなる。
  巻9・10 神名帳(神社の一覧表)となっていて、祈年祭奉幣を受けるべき2861社の神社が記載されている。
  
社会情勢
858年 藤原良房摂政。 摂関政治の始まり。

887年 59代宇田天皇・・・・藤原氏を外戚としない天皇。
        藤原時平と菅原道真を重用した(寛平の治)。

887年 藤原基経関白。 阿衡の紛議を経て、摂関政治の始まり。

897年 60代醍醐天皇 延喜の治
        班田制の復活、延喜の荘園整理令、延喜の格式、古今和歌集編纂。

901年 昌泰の変  道真流罪  
        菅原道真が、藤原時平の讒訴によって大宰府に流される。
        藤原忠平も政治の中枢から事実上追われることになり、醍醐天皇・藤原時平派の政治的勝利に終わった。

902年 延喜の荘園整理 
        醍醐天皇、藤原時平が荘園整理。

903年 この頃竹取物語 
        作者不詳(源順あるいは紀氏の一族という説も有る) だが、藤原氏に対して批判的な内容を持つ。

905年 古今和歌集

909年 藤原時平死去。
        政権の中心は再び宇多法皇と、藤原時平と対立していたと言われる弟の藤原忠平の手に移った。

914年 藤原忠平 右大臣

924年 藤原忠平 左大臣
        
927年(延長5年) 延喜式完成

930年 61代朱雀天皇  この頃から荘園乱立。
        藤原忠平は朱雀天皇のときに摂政、次いで関白に任じられる。
        以後、村上天皇の初期まで長く政権の座にあった。
        兄・時平と対立した菅原道真とは親交を持っていたとされる。
        平将門は忠平の家人として仕えていた時期もあった。


931年 9月3日  宇多上皇崩御

931年 931年から938年の間に和名抄成立

935年 承平・天慶の乱  
        平将門が関東で反乱を起こす。最初の武士の反乱。
939年 承平・天慶の乱  
        藤原純友が瀬戸内で反乱を起こす。 この後、追捕使を設置。

946年 62代村上天皇  天暦の治  
        乾元大宝鋳造、後撰和歌集編纂

950年 この頃、浄土教の発達。 この頃、本地垂迹説。仏主神従の、神仏習合思想。

960年 「宋」建国

969年 安和の変  醍醐天皇の皇子、源高明が左遷される。       

以後、藤原氏が政権独占。摂関政治の確立。

延喜式編纂前後の社会情勢
藤原氏の台頭に対し、天皇親政をもくろむ宇多天皇の存在があった。
藤原時平の死後、政権は宇多法皇と藤原忠平の手中に帰することになる。
延喜式は藤原忠平を中心に編纂された。
従って、式内社の選定には藤原忠平およびそれを取り巻く人たちの考えが強く反映されていることが予想される。
勿論、中央側の都合だけではなく、地方側の事情も考慮しなければならない。
次項では当時の伯耆国の状況を検討する。


(2)延喜式編纂前後の西伯耆の情勢
8世紀の伯耆国
701年の続日本紀の記載から始まるように、伯耆国周辺では疫病の流行、イナゴの害、 風水害による不作が頻回に見受けられる。 これに対して、租・調の免除や、賜給が施される。
716年 従五位下、山上憶良 (660頃生ー733没) 伯耆守に任官 

732年 節度使設置。新羅に備える。
        東海道・東山道・山陰道・西海道に節度使を設置し、新羅の来寇に備える。
        山陰道の節度使鎮所(本部)は因幡国に置かれたと考えられている。

746年 伯耆国国守、高丘連河内が任命された。

758年 大伴家持 (748頃生ー785没) 因幡守に任官

759年 新羅に備えるため、船の建造命令。

9世紀の伯耆国
700年代と同様に不作が続き、伯耆国不作疫病のため863年、講師賢永一万三千仏、 一切経を書写、国分寺に安置された。
その後、880年頃まで不作が続く。
この様に、9世紀の伯耆国では不作と新羅対策の記述にあふれている。
しかし出挙を全国平均以上に納めているという事実は、正史の記載と矛盾するような感もある。
不作については国司報告に基づくもので、不三得七法が示すように、不作とした方が地方側には有利とも言える。
よって、かならずしも不作が続いていたかという実態は不明であると言わざるを得ない。
848年 宇部神社神階  宇部神が、無位から従五位下を賜る。878年正三位となる。
      この前後において、因幡国の権力は土師氏から伊福部氏に移ったと考えられる。

863年 伯耆国不作  不作、疫病のため講師賢永一万三千仏、一切経を書写国分寺に安置する。

866年 新羅海賊警護令  新羅国海賊船に対して、新羅海賊警護令が出され、沿岸の警備を強化す る下知が出された。

870年 弩師・・・伯耆国から弩を作る技術者が居たとの記述 。

900年頃  上淀廃寺焼失。

10・11世紀の伯耆国
10、11世紀は、戦乱の伯耆国というイメージが強い。
901年  昌泰の変  道真流罪  菅原道真が、藤原氏によって大宰府に流される。                
              右近衛中将、源善は出雲権守に左遷。

914年  伯耆国、鉄606廷を稲の代わりに納める。おおよそ、鉄1廷=米0.2石

927年  延喜式が一応完成した。

947年  藤原是助が400余人の兵を率いて百姓の物部高茂・前国司忠明親子を襲う。
       2ヶ月後、忠明が藤原是助に縁のある加茂岑助を殺害。
       これは馳駅使、封符をもって、関白藤原忠平に伝えられた
       この争乱は長期にわたって周辺国までを巻き込む大争乱であった。

952年  出雲国に押領使の任命。(伯耆、美作にはすでに任命)

987年  伯耆国会見郡大原五郎安綱が、源氏代々の宝剣「鬼切」(国宝)を作る。

1007年 因幡氏滅亡。以後、伊福部氏の台頭。

1014年 紀致頼 伯耆守。

1021年 藤原資頼、伯耆国国司として着任。



2:伯耆国に式内社数が少ない理由に関する考察
(1)結果のまとめ
式内社の選定において、令制国の面積、人口、郡数、郷数、経済力(農業力)、国力、は関与していないことが統計学的に実証された。
歴史的素地については、統計処理は出来なかったが、これについても同様な事が言えると思われる。
唯一、都(中央)からの距離が式内社数と弱い相関関係を示したが、これは中央との人的関係を反映するものかもしれない。
人的関係は距離の二乗に反比例するとする研究もある。  
この様な実態があったにもかかわらず、伯耆国に式内社が極めて少ないということは、推計統計学的見地からすれば偶然の出来事ではなく、何らかの人為的意図があったと考える事が合理的であると推測される。 
ではその人為的意図とは何であったかについての考察を行った。


(2)式内社選定に関する中央側の要因
中央権力の関与
延喜式編纂前後の有力者
延喜式が編纂された927年頃の有力者は、藤原時平と対立していたと言われる弟の藤原忠平と宇多法皇である。
909年藤原時平が死去すると、忠平は914年右大臣、924年左大臣となり、まさに権力の中枢に座することになった。
当然式内社の選定に藤原忠平の意向があった事は否定出来ない。

抵抗勢力
権力にすり寄る勢力が優遇されたと反面、いわゆる抵抗勢力は憂き目にあったことも想像に難くない。
藤原時平の存命時には、900年頃藤原氏に対する批判が込められたとされる竹取物語が記されている。
筆者は紀貫之、紀長谷雄、源融、源順とも言われているが定かではない。
最近の研究では作者は紀貫之である可能性が高く、文才があり時代的にも合い、藤原氏に恨みを持つ要因を持っているゆえに有力視されている。
紀氏は応天門の変(貞観8年、866年)により平安時代初期に一躍頭角を現したが藤原氏の謀略により失脚し、以後政界から遠ざかり文人の道へと進んだ経緯がある。
それがゆえに藤原氏に対して恨みを持っていた可能性は否定できない。

この様な状況の中、藤原氏を中心とした権力中枢に近い関係にあった地域の式内社数は多く、権力から外れた、あるいは反発的な立場にあった地域の式内社数は少なかった事が考えられる。
そうならば、伯耆国は中央権力と疎遠、あるいは反発的な関係にあったのかもしれない。

神祇官の関与
神祇官
古代の律令制における神祇官は、祭祀を司る官である。
現存する令集解より復元された養老令の職員令には太政官に先んじて筆頭に記載されているため、諸官の最上位に位置し、行政を司る太政官よりも上位におかれたと考えられていた。
しかし中村直勝による文書様式の研究から太政官より下位、八省と同等であったことが明らかになり、平安時代後期には国衙と同等まで低下していたという。

神祇官の伴部
四等官は、伯、副(大副・少副)、祐(大祐・少祐)、史(大史・少史)。
伴部に神部(30人)および卜部(20人)、雑事を行う使部(30人)、直丁(2人)がおかれた。
神部は番上官、卜部は後述のように一部が才伎長上とされ、他は番上官であった。
その他令には見えない巫(かんなぎ)という女性や戸座(へざ)という少年、御火炬(みひたき)という少女も属していた。
卜部は20人すべてが地方から選ばれ、そのうち対馬から10人、壱岐および伊豆から5人ずつ卜術に優れた者を任命すると定められていた。

式内社選定に関する神祇官の関与
式内社の選定に神祇官の影響が有ったか否かは定かではないが、神祇官の長官である神祇伯の官位は従四位下とされる。
これは、太政官の常置の長官たる左大臣(正二位または従二位相当)よりはるかに低く、左大弁・右大弁(従四位上相当)、大宰帥(従三位相当)、七省の長官たる卿(正四位下相当)より下であり、蔵人頭と同等である。

従って式内社の選定に直接神祇官あるいは長である神祇伯が関与していた可能性は低いと考えられる。

しかし卜部のうち対馬から10人、壱岐および伊豆から5人ずつ卜術に優れた者を任命すると定められていた事実もある。
式内社選定に当然地方側からの働かけがあったことは容易に想像できる。
壱岐、対馬、伊豆に式内社が多いことの間に何らかの関連があったことを想像させる。


(3)式内社選定に関する伯耆国の要因
10世紀前後の伯耆国の経済
正史では伯耆国の自然災害やそれによるに不作が記載されている。
しかし、出挙は平均以上を納めている。
正史が記するほどの貧窮ではなかったとも考えられる。

西伯耆の牛馬について
伯耆国は諸国馬牛牧の設置国(全国18ヵ国、西国8ヵ国) であった。  
東伯郡八橋古布牧 西伯郡岸本町久古は私牧であった可能性が高いとされる。

西伯耆の鉄について
銀・銅の採掘は、官採で、鋳銭司が産銅所を管轄していた。   
鉄は私採であり、官の直接的な支配を受けていない。
そのため、鉄の供給は、庸調によってまかなわれていたとされる。

西伯耆の経済力
この時代の西伯耆は、産業と軍事に欠かせない牛馬と鉄の産出国であった。
それが官営ではなく、私営であった事が注目に値する。
当時、調の品目として鉄が指定されていた国は、伯耆・美作・備中・備後のみであった。
これらの令制国の式内社は全てにおいて有意に少ない。
産鉄国と式内社数の間に何らかの関係が有ったのではなかろうかと考えたくなるが、その確証は無い。

在地豪族の変遷
因幡国
弥生時代:八上氏?
古墳初中期:稲場国造
古墳後期:
飛鳥・奈良時代:因幡氏・土師氏?
平安初期:伊福部氏の台頭  
平安中期:1007年、
因幡氏滅亡、以後伊福部氏。

伯耆国
弥生時代:?
古墳初中期:13代成務期に波伯国造(天穂日命の末裔である兄多毛比命の児の大八木足尼)が定められた。
         しかし実際には成務期ではなく、6世紀頃と考えられている。
古墳後期:磐井の乱の後、安曇族・宗像族が西伯耆に移入。
飛鳥前期:額田部氏、日下部氏?
飛鳥後期:683年伯耆造が連になった。その他として鴨氏、日下部氏? 
奈良時代:巨勢氏?(巨勢男柄宿禰の3人の息子の一人星川建日子にちなんだ星川郷の記載が天平14年正倉院文書に記載)
平安初期:紀氏、巨勢氏 
平安中期:藤原氏

中央との関係
因幡国、出雲国は、出雲国造家、因幡氏、伊福部氏、など随所に中央との関係 が見受けられる。
伯耆国には、これが極めて少ない。 伯耆国本貫の陰陽師、伯耆国本貫の弩師の記載が有るのみ。

西伯耆と紀氏
平安初期頃、紀氏、紀姓巨勢氏が鳥取県西伯郡岸本町を中心に繁栄していた。
両氏はいずれも武内宿禰氏の末裔とされる氏族であり、前述のごとく紀氏は平安初期に中央政界から退く憂き目にあっている。
少し時代を下るが、1014年には紀致頼が伯耆守に就いている。
しかし、1021年、藤原資頼が伯耆国国司として着任し、以後西伯耆も藤原氏の勢力下となる。

伯耆国ではその根底に、藤原氏と紀氏の相克があったのかもしれない。


(4)考察まとめ
式内社であることのメリット
式内社は社格の一つとされ、当時朝廷から重要視された神社であることを示している。
そればかりではなく式内社には毎年2月の祈年祭に神祇官から幣帛を受ける事が出来た。
幣帛(へいはく)とは、神道の祭祀において神に奉献するもののうち、神饌以外のものの総称である。
広義には神饌をも含む。「みてぐら」「幣物(へいもつ)」とも言う。
各神社の祝部が神祇官に集まって幣帛を受け取っていた。
これが、延暦17年(798年)、それまで通り神祇官から幣帛を受ける官幣社と、その国の国司から幣帛を受ける国幣社とに分けられた。
さらに式内社の中には、祈年祭以外の祭にも幣帛に預かる神社があり、社格とともに記されている。

この様に、式内社であることはその神社に取って大きな利点であったと言える。

伯耆国の式内社選定の背景
式内社の選定には、地方側の要因と中央権力との関係が有ったと思われる
政治的要因により伯耆国の式内者数が少ない可能性が高いということは、当時の伯耆国と中央の関係が良好でなかった
ことが示唆される。

すなわち中央権力は、伯耆国に式内社という恩恵を与えなかったということである。
あるいは、伯耆国が式内社という誘惑を拒絶したのかもしれない。


神明帳に記された式内社の御祭神が定かではないことや、時代により御祭神が大きく変遷している可能性があることから、今回は御祭神に関する検証は差し控える事とした。


一つの仮説
伯耆国と式内社
 伯耆国では13代成務天皇期に天穂日命の末裔である兄多毛比命の児の大八木足尼が波伯国造に定められたとされる。
 527年磐井の乱の後、西伯耆に北部九州との関連がある遺跡が増え、海人族である安曇族・宗像族が西伯耆に移入したとも考えられている。
 飛鳥時代には額田部氏、日下部氏の記載や683年に伯耆造が連になったとされる。 
 742年(天平十四年)の「正倉院文書」に巨勢男柄宿禰の3人の息子の一人である星川建日子にちなんだ星川郷の記載があり、奈良時代には巨勢氏が当地に関わっていたとされる。
 平安初期頃、紀氏、紀姓巨勢氏が鳥取県西伯郡岸本町を中心に繁栄していた。前述のごとく紀氏は平安初期に中央政界から退く憂き目にあっている。
 少し時代を下るが1014年には紀大人の末裔とされる紀致頼が伯耆守に就いている。
 また、紀貫之の兄弟である紀宗定や、致頼の甥に当たる紀成任の伯耆守就任の記載が紀氏系図にはあるが、正史には見あたらない。
 しかし1021年藤原資頼が伯耆国国司として着任し、以後西伯耆も藤原氏の勢力下となる。
 平安末期、「軍記物語」に村尾海六成盛が登場する。
 海六成盛は紀成盛と同一人物で、成盛は紀氏でありかつ海人氏であったとされる。
 紀氏が伯耆国に土着するためには、海人氏との婚姻関係を築く必要があったためといわれているが、これは西伯耆において海人氏の勢力が強かったことを物語っている証左ではなかろうか。
伯耆国ではその根底に、藤原氏と紀氏・海人族を絡めた相克の様なものがあったのかもしれない。
 中央との関係をみると隣国である因幡国、出雲国は、出雲国造家、因幡氏、伊福部氏など随所に中央との関係が記された文献が見受けられる。
 伯耆国には伯耆国本貫の陰陽師、伯耆国本貫の弩師の記載が有るのみで、中央との関連記事は極めて少ない。

 式内社の選定には人為的関与が大きく影響していたと思われるが、前記のごとく伯耆国では中央との関与がきわめて希薄であり、それどころか反駁していた可能性も否定出来ない。
 唯物史観的に当時の伯耆国の経済状況を眺めると、先ず考えなければならないのは西伯耆の鉄である。
 銀・銅の採掘は官採で、鋳銭司が産銅所を管轄していた。
 鉄は私採であり、官の直接的な支配を受けていない。そのため、鉄の供給は庸調によってまかなわれていたとされる。
 914年、「伯耆国、鉄606廷を稲の代わりに納める」との記載があることからも伯耆国の鉄産出力は古来より相当のものであったと考えられる。
 当時、調の品目として鉄が指定されていた国は、伯耆・美作・備中・備後のみであった。
 これら令制国の式内社は全てにおいて有意に少ない。
 産鉄国と式内社数の間に何らかの関係が有った可能性を考えてみる価値も捨て切れないが別の機会に譲りたい。
 また、伯耆国は諸国馬牛牧の設置国(全国18ヵ国、西国8ヵ国)であった。東伯郡八橋古布牧、西伯郡岸本町久古は私牧であった可能性が高いとされる。
 この様に当時の西伯耆は、産業と軍事に欠かせない牛馬と鉄の産出国であった。
 それが官営ではなく、私営であった事が注目に値する。
 一つの可能性として、基幹的な特産物を出せる経済的環境が逆説的に中央と伯耆国の関係を希薄なものにしたのかもしれない。

まとめ
 伯耆国の式内社数は推計統計学的に有意に少ない(p<0.0001)ことが実証された。
 式内社数の多寡を決定する要因としては、令制国の面積・人口・田積・出挙には依存せず、中央からの距離が最も関係しているという結果を得た。人的関係は距離の二乗に反比例するという研究もあることから、何らかの人為的意図によって式内社数が左右されたと考える方が合理的であると推測される。
 当時の中央の政治実権は藤原氏の掌握するところであり、一方西伯耆では紀氏と海人族が繁栄していた。
 藤原氏と紀氏の歴史的関係は良好なものでなく、それが短絡的に当時の中央政府と伯耆国に当てはまるものではないかもしれないが、全く否定できる論拠もない。
 また、伯耆国の産出物の特殊性が相まって、伯耆国の式内社数に何らかの影響を与えたのではないかという仮説も成り立つのではなかろうか。



参考資料
「新修米子市史」  第一巻 通史編 原始・古代・中世
「新修米子市史」  第七巻 資料編 原始・古代・中世

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「鳥取県神社誌」 (澤田文精堂 1934)
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「島根県の歴史」   (山川出版 2000)
「島根郷土史ノート」 (山陰中央新報社 1977)
「岡山県の歴史」   (山川出版 2000)

「人口から読む日本の歴史」 (講談社学術文庫 2000年 鬼頭宏 )
歴史人口学で見た日本」  (文春新書 2001年 速水融)
「図説 人口で見る日本史」   (PHP研究所 2007年 鬼頭宏著)

「鉄から読む日本の歴史」 (講談社 2003 窪田蔵郎)
「古代の鉄と神々」 (学生社 1997 真弓常忠)

「日本の神々 神社と聖地 第7巻 山陰」 (白水社 2007 谷川健一 坂田友宏 川上迪彦他)
「日本古代神社辞典」 (中日出版社 2002 古田和典)
「神社辞典」 (東京堂出版 1997)

「統計学要論」 (共立出版 1975)
「バイオサイエンスの統計学」 (南江堂 1994)
「医学・公衆衛生学のための統計学入門」 (南江堂 1988)
「図解 確率・統計の仕組みがわかる本」 (技術評論社 2008 長谷川勝也)

「新訂増補国史大系第7巻  古事記・先代旧事本紀・神道五部書」 (吉川弘文館 2002年)
「歴史読本 先代旧事本紀 前編」 (新人物往来社  2008年 11月号)
「歴史読本 先代旧事本紀 後編」 (新人物往来社  2008年 12月号)

ウキペディア 「先代旧事本紀」


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