日野川
日野川と米子市
「エジプトはナイルの賜物」と言われるように、米子も日野川無くしてその歴史を語ることはできない。
過去より日野川の大いなる恩恵を享受して米子は発展を遂げてきた。
元来、米子平野、弓浜半島の形成は日野川の為した技であり、これなくしては今の米子は存在し得ない。
また、人、物の流れに始まり、今日の農業の発展は日野川の豊かな水量に支えられてきた。
日野川から水を引いた米川用水路のおかげで弓浜半島の農地化が可能になり、それが近世の綿花栽培の原動力となった。
現在でも市民の飲料水はすべて日野川伏流水を使用し、味・質とともに国内最高峰と言われている。
まさしく母なる河と言うべき心の大河である。


日野川について
日野川とは
日野川は、鳥取県の西部に位置し、南は中国山地の三国山(1004m)を源流とし、その源流付近には八岐のオロチやアメノムラクモノ剣の伝説で有名な船通山をはじめ、道後山など標高1000メートルを超す山々が連なっている。
大山の麓にある江府町からは北北西に流路を変え、米子市及び西伯郡日吉津村の境界から美保湾に注ぐ。
流域内人口はおよそ60800人。
全長約77km流域面積860平方キロの県内最大の河川。

河床勾配は、上流部で1/30程度、中流部で1/190程度、下流部でも1/620程度であり、中国地方の河川の中で有数の急流河川である。
この急勾配のため、斐伊川のような天井川には成らなかった。
土砂は川床にたまらず、日本海に流出した。
それが弓浜半島を形成した一因であるとも推測されている
国土交通省中国地方整備局 日野川河川事務所HPより引用



日野川流域の地形
日野川流域は伯耆橋付近(岸本町)を扇頂部とする扇状地性氾濫平野とそれをとりまく山地部に二分される。
         山地部←--→伯耆橋付近(旧岸本町)←--→氾濫平野

日野川源流
鳥取県と広島県、島根県が県境を接する三国山のスギ木立に囲まれた小さな泉に発する。
日野川の源流が湧き出ている付近の土は灰っぽく、水溜まりの中には鉄滓があり、山の斜面には人工的に削られた平坦面もあって、たたらかたたらで使用する炭焼き窯があった可能性も窺われる。

上流部
源流から江府町と伯耆町の町境までの上流部は、河道には河畔林が水面を覆うように生育し、山地渓流の様相を呈している。
日野川上流西方から島根県側にかけての奥日野地域の山地部には、標高500-600mの準平原が分布する。
この平坦面上の一部には、花崗岩風化した真砂土から砂鉄を取り出す鉄穴流しによって人為的に形成された鉄穴地形が見られる。

中流部
江府町と伯耆町の町境から車尾床止までの中流部は、背後に大山を望む扇状地性の河道で河道幅は200-400m 程度となる。

下流部(日野川河口)
車尾床止から河口までの下流部は、河口砂州で米子市と日吉津村の境界から日本海に注ぐ。
河口の西側には、「白砂青松」として有名な弓ヶ浜半島が広がる。
弓ヶ浜半島は、上流域で江戸期より行われた「鉄穴流し」により流送された風化花崗岩を主体とする土砂により形成されたが、「鉄穴流し」の終焉とともに昭和初期から海岸線の後退が顕著となっている。


日野川上流域の支流
日野川はその上流域に多くの支流を持つ。
    阿毘縁(あびれ)川 小原川 谷中川 木谷川 萩山川
これら支流のすべては概ね船通山付近をその源流とする。

また、島根・鳥取県境にある船通(鳥髪、鳥上)山系を出発点とする日野川、斐伊川、飯梨川、江の川、伯太川等の川およびそのその支流を頭が八つある大蛇に見立てたとする説もあり、これらの河川をオロチ河川群と呼ぶ。


日野川流路の時代的変遷
古代の日野川の流れは、現在の流れと異なり洪水ごとに河道を転々と変えてきた。
時代とともに概ね東から西に流路を変えていった。
日野川の下流部に開ける箕蚊屋平野は、かつては大部分が海であり、沼地のデルタ地帯であったが、長い年月の間に日野川が運び出した土砂と海から押し上げられた砂によって形成された。

古代
岸本-河岡ー尾高筋を経て、壺瓶山のふもとから日本海へ注いでいたと考えられている。

中世
岸本-河岡筋を経て、尾高を通り佐陀川と合流して日本海へ注いでいたと考えられている。

1539年
  日野川洪水記録の初見。
1550年(天分19年)
  大洪水により、流路を西に向け簑蚊屋平野の西側を流れるようになった。
  この洪水で八幡村は2分され、馬場、八幡の二村に分かれた。
  千太村は流滅した。
  
近世
1673年(延宝元年)
  堤防が切れたとの記録あり。
  この頃にはすでに日野川の治水が行われていた。
1702年(元禄15年)
  伯耆誌によれば元禄15年(1702)の洪水で法勝寺川(尻焼川)と合流。
  この洪水が皆生(海池)を作ったといわれている。

近代
1888年(明治19年)
水害後に川幅を拡張し、護岸を施した。


国土交通省 倉吉工事事務所四十年史より引用分を改変
    
   
  
日野川と西伯耆の歴史
弥生時代
この頃日野川は、壺瓶山ふもとを流れていたと考えられており、この付近には妻木晩田遺跡が存在した。
妻木晩田遺跡では大量の鉄器、四隅突出型墳丘墓が見つかっている。
四隅突出型墳丘墓は三次から中国山地の尾根を経て、日野川を下って当地に普及したと推測されている。
  (詳細は、四隅突出型墳丘墓へ
また、壺瓶山でも28基の古墳群が発見されている。

河口と考えられる付近には、尾高御立山遺跡(尾高)、日下寺山遺跡(日下)、日下遺跡(日下)、日下墳墓群(日下)、岡成第9遺跡(岡成)など多数の遺跡が散見される。

古墳時代
この頃も、岸本-河岡ー尾高筋を経て、壺瓶山のふもとから日本海へ注いでいたと考えられている。
淀江平野をはさむが、淀江町向山、福岡には岩屋遺跡、向山古墳群が存在する。

飛鳥時代
旧岸本町には大寺廃寺が存在した。


日野川と鉄(かんな流し)
鉄穴流しとは
江戸時代に中国山陰地方で大規模に行われた砂鉄採集方法である。
その手法は岩石中にある砂鉄を河川や水路の流れの破砕力を利用して土砂と砂鉄を分離させ、比重によって砂鉄のみを取り出す。
採り出された砂鉄は主にたたら製鉄の製鉄原料に用いられた。
跡地には、掘り崩しによる崖や微細な凹凸が残され、独特の地形をなす。
集落に近い跡地は、農地や宅地などに造成されることも多かったが、その中に残る鉄穴残丘(掘り崩し跡の高まり)や巨石(風化核石)の存在などによって跡地と知ることができる。
           (詳細は、  鉄器へ

日野川の鉄穴流しの歴史
江戸宝暦年間(1751-1763年)以降より、大規模な大だたらによる製鉄で砂鉄需要が追い付かなくなり、より効率的な砂鉄採集方法である「鉄穴流し」がおこなわれるようになった。
日野川上流域でも大規模な鉄穴流し流しが行われるようになった。
下流へ大量の濁流と流砂を排出する結果をもたらし、下流の農作に害を与え、また河床を高めて洪水の被害を大きくすることとなった。
したがって、上流鉄山地帯と下流農作地帯との利害が相対立し、採鉄縮小の令(文政6年)を出したり、採鉄を年中稼行から農業に支障が少ない秋の彼岸から翌年の春の彼岸までに制限したりして紛争の調停に藩が乗り出した。

しかし鉄穴流しによる良き影響もあり鉄穴流しの水路、池跡地や、河川下流域は流出する大量の土砂によって堆積し平地となった。
その平地は田畑として耕地され、たたら集団の食糧を補った。
現在、中国山地で棚田として残っている多くのものは、この影響によって耕地されたものである。

明治維新以降は近代工業の発展により、鉄需要の飛躍的増大をみたが、砂鉄はコスト高のため洋鉄(輸入鋼鉄)の圧迫を受けて、明治22年(1889)頃を頂点として消失の過程をたどった。
このため、皆生海岸は大正4年までは砂浜が広がっていたが、海岸浸食により、皆生温泉付近まで海岸線が後退した。

日野川と炭焼き
製鉄には極めて多量の木炭が必要となる。
鉄の製練(smelting)においては、見かけ上砂鉄1に対して木炭は50調達しなければ成らなかった。
よって、砂鉄と木炭の療法が採取可能な地域が製鉄地ということになる。
たたらの全盛期には一カ所のたたらで年平均60代操業された。
消費する木炭は約810トンで、それだけの量の木炭を確保するには少なくとも60町歩の山林が必要とされた。
木材の成育には約30年かかるから、一つのたたらで1800町歩(1800ha)の山林を必要とした。
木炭の輸送限界は三里(12km)砂鉄の輸送限界は七里(28km)と言われていた。(砂鉄七里に炭三里)
従って、砂鉄による製鉄の場合その製鉄地は砂鉄産地の30km以内の立地ということになる。
すなわち日野川上流域は木炭の生産地であったとも言える。

たたら製鉄と和牛
日野地域におけるたたら生産地では、材料となる砂鉄や薪炭、出来上がった鉄などを運搬するのに、牛たちが重要な役割を果たしていた。
また、薪炭用に伐採された後の山林は、火入れをして牛の放牧に利用されたという。
こうして、製鉄業を中心に早くから開けた貨幣経済の一環として牛が商品化され、放牧を中心に先進的な産牛地が形づくられていった。


日野川と日本刀
古代における刀剣は、反り身のない直刀が主流であった。
それに反り身を入れ、日本刀の原型が出来たと言われている。
その最初の日本刀は当時の日野川の川辺、現在の米子市日下付近の地において伯耆安綱が考案したとされている。
     (詳細は、伯耆安綱へ


日野川周辺に残る伝承
鬼伝承
   (詳細は、鬼伝承へ)

カッパ伝承

狐伝承




法勝寺川
法勝寺川と鳥取県南部町(旧会見町・西伯町)
鳥取県南部町
法勝寺川が流れる鳥取県南部町は県下有数の古墳密集地帯で、大国主命の古事に由来する史跡・地名が多く見られ、律令国家以前から豊かな文化が栄えた。
町の南側に鎌倉山(731m)など日野郡に連なる山地、北側に手間要害山(329m)を挟んで平地・丘陵地が広がる。


法勝寺川
源流は日南町と南部町の境界の五輪峠付近。
以降、ほぼ北に流路をとり、賀祥ダムを経て、旧西伯町、旧会見町を流れる。
会見町には殿山古墳(古墳時代中期)日の岡古墳(古墳時代後期)岩舟古墳が存在する。
米子市に入ると、その流域には、福市遺跡青木遺跡が存在する。
  (詳細は米子周辺および鳥取県西部の遺跡へ)
米子市戸上で日野川と合流。この付近を尻焼き川という。


法勝寺川と西伯耆の歴史




参考文献・資料等
「米子平野の縄文遺跡」 (伯耆文化研究会会誌1:21-29 1999  濱田竜彦)
「弓浜物語」 (伯耆文庫第6巻 今井書店 1989)
「ふるさとの古代史」 (伯耆文庫第9巻 今井書店 1994)
「大山をめぐる山々」 (伯耆文庫第4巻 今井書店 1988)
「日野川の自然」 (富士書店 2000 藤島弘純)

国土交通省中国地方整備局 日野川河川事務所ホームページ


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日野川および他の河川 米子(西伯耆)・山陰の古代史
現在の米子平野周辺を流れる河川には次のものがある。
   加茂川  日野川(支流=印賀川 法勝寺川など)  佐陀川  宇田川  阿弥陀川  甲川
米子、西伯耆の古代史を考える上で、日野川は避けては通れない重要な要因の一つと考えられる。