吉備氏について
概要
吉備氏とは
上古、吉備勢力は出雲征服を試みるも完遂寸前に出雲東部の意宇王の前に失敗
以後、ヤマト政権と同盟して列島の統一・治世に貢献し、古墳時代から飛鳥時代まで繁栄した地方として重視された。
しかし、列島統一過程で「中央」となったヤマト政権の中央集権策によって、『日本書紀』の記述によれば雄略朝期に吉備前津屋(さきつや)、吉備田狭(たさ)、吉備稚姫を母とする星川皇子など数度にわたる「反乱鎮圧」の名目で勢力を削がれた。
7世紀以降、吉備氏は上道・三野・賀夜(香屋・賀陽)・苑・下道・笠らの氏族に分派し、姓(かばね)としては臣(おみ)または朝臣(あそみ)を称した。

吉備氏の後裔(国造本紀より)
吉備地方には吉備氏のもとに大伯氏、上道氏、三野氏、下道氏、加夜氏(賀陽氏、賀夜氏、香屋氏)、笠臣氏、小田氏があった。

氏姓
この中の下道氏と笠氏は、後に朝臣の姓(かばね)を名乗る(吉備朝臣)。


系譜
孝霊天皇の皇子吉備津彦命は四道将軍として異母弟の若建吉備津彦命とともに吉備国へ派遣される。
その後、吉備国に留まり吉備氏族として繁衍して下道、上道、賀陽、三野、笠、苑などの諸氏に分流。
後裔の吉備真備は養老元年留学生として入唐、帰朝後は朝廷内に重きをなし従二位右大臣まで昇る。
下道国造家が真備以降は吉備朝臣姓を賜り改称する。

吉備氏系譜 傍系1 傍系2 同時代
の人物
兄弟姉妹
備考
第7代孝霊天皇 孝霊天皇 孝霊天皇
初代 稚建吉備津彦
(稚武彦)
(母=絙某弟)
大吉備津彦
(五十狭芹彦)
(母=倭国香媛)

(四道将軍)
彦狭島尊

(母=絙某弟)
8代孝元
吉備津彦の姉=
倭迹迹日百襲媛命
稚建吉備津彦が吉備臣の祖
吉備武彦命
播磨稲日大郎媛
伊那毘能若郎女
穴戸武媛
三井根子
大屋田子
越智皇子
   ↓
 越智氏へ
12代景行
播磨稲日大郎姫は景行天皇皇后
伊那毘若郎女は景行皇妃
御友別
鴨別
吉備兄媛
吉備弟媛
浦凝別
吉備兄媛は応神天皇の妃

鴨別命は笠氏の祖
仲彦
稲速別
弟彦
この代以降、上道、下道、三国国造へ分岐
仲彦
(上道)
稲速別
(下道)

弟彦
(三野国造)
稲生 下道饒別彦 吉備根
上道田狭 速津彦 速野別 吉備稚媛
雄略天皇
大伴室屋
雄略期に吉備下道臣前津屋の事件、吉備氏の乱、星川皇子の乱が起こり、その後吉備氏は衰退
兄君
弟君
窪屋 真主 星川皇子
津布子 水野
香斐 園部
10 勝鹿戸 三野倉富
11 古瀬 小狭手
12 鹿瀬男 常葉
13 圀勝 師形
14 吉備真備
15 書足
16 仲道
備前国造
賀陽国造へ
吉備氏へ 森下氏
大森氏
辻氏へ


事績
弥生後期・古墳前期
弥生後期の楯築遺跡(たてつきいせき)、古墳前期の中山茶臼山古墳(なかやまちゃうすやまこふん)が示すように、すでに強大な勢力が吉備には存在していた。

崇神期
崇神10年
勅命により四道将軍の1人として吉備津彦が西道(山陽道)に派遣された。
崇神11年
異母弟の雅武彦命(若日子建吉備津日子命)とともに吉備国を始め山陽道に沿う周辺域を平定。
崇神60年
武渟川別(大彦命の王子)とともに出雲国へ出征して出雲振根を誅滅

景行期
稚武彦の子供である播磨稲日大郎姫が景行天皇の皇后に、伊那毘若郎女が景行天皇の妃となる。

応神期
ヤマト政権中央部に対抗するほどの勢力を誇ったとされる。


5世紀前半(最盛期)
主として5世紀に繁栄し、吉備を筑紫・出雲・ヤマト・毛野と並ぶ古代の有力地方国家に発展させることに貢献した。
ヤマトの豪族たちと同盟し、日本列島の統一と発展に寄与した。
吉備国内の造山古墳(全国第4位)、作山古墳(全国第9位)などの巨大前方後円墳は、その首長の墓として往事の勢力の大きさを今に伝えている。

雄略期(衰退期)
雄略7年(463年 書紀)・・・・吉備下道臣前津屋の事件
雄略天皇にみたてた小女や小鶏と自分にみたてた大女や大鶏をたたかわせ、前者がかつと、その小女や小鶏を殺した。
吉備弓削部虚空(きびのゆげべの‐おおぞら)の報告をうけた天皇によって、一族70人とともに殺された。

雄略7年(463年 書紀)・・・・吉備氏の乱
吉備上道臣田狭(吉備田狭)の美しい妻を妃にしようとした雄略天皇は、田狭を任那国司に任じ、彼の留守に乗じて稚媛を奪った。
田狭は息子の弟君(母は稚媛)とともに謀反を謀った

雄略23年(479年 書紀)・・・・星川皇子の乱
天皇崩御後に稚媛は皇太子白髪皇子(清寧天皇)を廃してわが子の星川稚宮皇子を皇位につけようと企てたが、大連大伴室屋によって星川稚宮皇子とともに焼き殺された。
吉備上道臣は稚媛と星川稚宮皇子を援護するため水軍を出したが時すでに遅く、途中で引き返したという。


吉備氏ゆかりの神社
備前一宮 吉備津彦神社

所在地
岡山県岡山市北区一宮1043

社格
備前国一宮 国幣小社 別表神社

祭神
主祭神=大吉備津彦命
配祀=大吉備津彦命を主祭神とし、相殿に以下の神を祀る。
  吉備津彦命 -- 大吉備津彦命の子
  孝霊天皇 -- 大吉備津彦命の父
  孝元天皇 -- 大吉備津彦命の兄弟
  開化天皇 -- 孝元天皇の子
  崇神天皇 -- 開化天皇の子
  彦刺肩別命(ひこさしかたわけのみこと) -- 大吉備津彦命の実兄
  天足彦国押人命(あまたらしひこくにおしひとのみこと) -- 孝昭天皇の子
  大倭迹々日百襲比売命(おおやまとととひももそひめのみこと) -- 大吉備津彦命の姉
  大倭迹々日稚屋比売命(おおやまとととひわかやひめのみこと) -- 大吉備津彦命の妹
  金山彦大神
  大山咋大神

歴史
創建年代=不詳
社伝では推古天皇の時代に創建されたとしており、神体山と仰がれる吉備の中山の裾の、命の住居跡に社殿が創建されたのが起源らしい。
大化改新の後吉備国が備前・備中・備後に分割された後に、備前の国一宮として崇敬される。
朝廷より篤く崇敬され、承和7年(840年)には一品(いっぽん)の神階を受けている。
中世以後は、宇喜多氏、小早川秀秋、池田氏など歴代領主の崇敬を受けた。

補足
備中の吉備津神社を吉備分国時に分祀した神社である。


吉備氏関連の古墳
詳細は、「吉備国の遺跡」



吉備氏の人々
孝霊天皇
概要
吉備氏の祖。
大吉備津彦、稚武吉備津彦、彦狭島命の父とされる。

皇后=細媛命(くわしひめのみこと、ほそひめのみこと)・・・・・磯城県主大目の娘
 皇子=大日本根子彦国牽尊(おおやまとねこひこくにくるのみこと=8代孝元天皇


妃1=春日之千千速真若比売(かすがのちちはやまわかひめ、春日千乳早山香媛)
 皇女=千千速比売命(ちちはやひめのみこと。『古事記』のみ)

妃2倭国香媛(やまとのくにかひめ=絙某姉はえいろね、意富夜麻登玖邇阿礼比売命)・・・和知都美命の女
 皇女①=迹迹日百襲媛命(やまとととびももそひめのみこと) 
 皇子①=日子刺肩別命(ひこさしかたわけのみこと)(古事記のみに記載)
 皇子②=彦五十狭芹彦命(ひこいさせりひこのみこと=吉備津彦命
 皇女②=倭迹迹稚屋姫命(やまとととわかやひめのみこと=倭飛羽矢若屋比売)

妃3=絙某弟(はえいろど)・・・絙某姉はえいろねの妹)
 皇子:彦狭島命(ひこさしまのみこと=日子寤間命)
 皇子:稚武彦命(わかたけひこのみこと)・・・・・吉備氏の祖。


大吉備津彦命(きびつひこのみこと)
概要
孝霊天皇の第3皇子。
生母は妃倭国香媛(やまとのくにかひめ)(または意富夜麻登玖邇阿礼比売命(おほやまとくにあれひめのみこと)
大和の黒田庵戸宮(盧戸宮)(やまとくろだいおどのみや、奈良県磯城郡田原本町)に生まれた。
本来の名は彦五十狭芹彦命(ひこいさせりびこのみこと)。
亦の名前が吉備津彦命(『書記』)、大吉備津日子命(『古事記』)であったと伝える。吉備冠者(きびのかじゃ)ともいう。
山陽道を主に制圧した四道将軍の一人。

生涯
崇神天皇10年
勅命により四道将軍の1人として西道(山陽道)に派遣された。
しかし任地に赴く途上で武埴安彦命(孝元天皇の皇子、吉備津彦命には甥皇子に当たる)の反乱に遭遇。
これを大彦命(孝元天皇皇子、武埴安彦命の異母兄弟)とともに制圧してから西道に赴く。

崇神11年
異母弟の雅武彦命(若日子建吉備津日子命)とともに吉備国を始め山陽道に沿う周辺域を平定。
この事によって「吉備津彦」を名乗る事になったという(「吉備津彦」とは「吉備の勢力者」の意味)。
1説に吉備国制圧の目的は同国の製鉄技術の掌握であったとされる。

崇神60年
武渟川別(大彦命の王子)とともに出雲国へ出征して出雲振根を誅滅している。

岡山県岡山市に鎮座する備中国一宮、吉備津神社の社伝によると、その後、命は吉備の中山の麓に茅葺宮を造って住み、281歳で亡くなって中山の山頂(茶臼山)に葬られたとされている。
この中山茶臼山古墳(正式名称は大吉備津彦命墓)は土地の人々には「御陵」や「御廟」とも呼ばれており、現在では陵墓参考地として宮内庁の管理下にある
なお、吉備津彦命の子孫は代々吉備国の国造を襲ったといい、それが後の吉備氏へと繋がっている。


稚建吉備津彦
概要
父=孝霊天皇
母=絙某弟

子=吉備武彦命、の播磨稲日大郎姫(景行天皇皇后)、伊那毘若郎女(景行皇妃)

生涯
兄の吉備津彦命(大吉備津彦命)が四道将軍に任命され、西道に赴いたとき、それに従い行動を共にする。
その際、讃岐国(香川県高松市鬼無)あるいは吉備国の鬼ノ城(現在の岡山県総社市)で百済の王子という温羅を討った伝説が両地区にある。
その伝説はおとぎ話『桃太郎』のモデルになったとされるため、稚武彦は主人公の桃太郎のモデルと言われるといわれる。
稚建吉備津彦が吉備氏の祖とされる。


彦狭島命(ひこさしまのみこと)

概要
孝霊天皇の皇子で、母は、絙某弟。
氏鹿氏、越智氏の祖とされる。

生涯
父の命で、伊予を統治し、伊予皇子という別名をもつ。
また、愛媛県伊予郡松前町にある伊予神社の主祭神でもある。
なお、景行天皇55年(125年)に東山道15カ国の都督となるも、任地に行く途中で死んだ、彦狭島王との関係は不明(おそらく別人)。


吉備田狭(きびのたさ)と吉備稚媛(きびのわかひめ)
概要
吉備田狭
 吉備上道臣(きびのかみつみちのおみ)
吉備稚媛
 雄略天皇の妃で磐城皇子・星川稚宮皇子の母。
 吉備氏の出身で、吉備上道臣(きびのかみつみちのおみ)あるいは吉備窪屋臣の娘。

生涯
雄略7年・・・・吉備氏の乱
吉備上道臣田狭(吉備田狭)の美しい妻を妃にしようとした雄略天皇は、田狭を任那国司に任じ、彼の留守に乗じて稚媛を奪った。
田狭は息子の弟君(母は稚媛)とともに謀反を謀った。

雄略23年・・・・星川皇子の乱
天皇崩御後に稚媛は皇太子白髪皇子(清寧天皇)を廃してわが子の星川稚宮皇子を皇位につけようと企てたが、大連大伴室屋によって星川稚宮皇子とともに焼き殺された。
吉備上道臣は稚媛と星川稚宮皇子を援護するため水軍を出したが時すでに遅く、途中で引き返したという()。


星川稚宮皇子
概要
生年不詳 - 雄略天皇23年(479年)
雄略天皇と吉備上道臣氏出身の稚媛との間の子で、磐城皇子の弟。雄略天皇の死後に反乱を起こしたという。
一般に「稚宮」を省略して星川皇子と呼ばれることが多い。
『古事記』は系譜・反乱伝承ともに欠いている。

生涯
雄略天皇は吉備上道臣田狭が自分の妻・稚媛の美しさを自慢するのを聞いて、田狭を任那の国司として派遣した後で、稚媛を奪って妃とした。
こうして磐城皇子と星川皇子が生まれた。
稚媛は雄略天皇が死ぬと、星川皇子に反乱を起こすよう説いた。
星川皇子は母の言葉に従い、反乱を起こし、大蔵を占領した。
しかし大蔵に火を放たれ、星川皇子と稚媛のほか従った者の多くが焼き殺された。
吉備上道臣氏は星川皇子を助けようと軍を率いて大和に向かったが、殺されたことを聞いて途中で引き返した。
清寧天皇はこれを非難して、吉備上道臣が管理している山部を召し上げたという。


奈良時代以降の吉備氏
7世紀以降、吉備氏は上道・三野・賀夜(香屋・賀陽)・苑・下道・笠らの氏族に分派し、姓(かばね)としては臣(おみ)または朝臣(あそみ)を称した。
多くは国造や郡司などの在地の有力豪族であったが、中央貴族として立身した者も少なくない。

笠垂
古人大兄皇子の反乱を告発して名を上げた。

上道斐太都(ひだつ)
橘奈良麻呂の乱に功績があった。

下道真備(吉備真備)
唐に留学し、帰国してからはブレーンとして朝政に参画して重用された。
詳細は、「吉備真備」

栄西
臨済宗の開祖栄西は吉備津神社社家賀陽氏の出身。



吉備氏に関する諸説
参考資料
「岡山県の歴史」   (山川出版 2000)


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吉備氏
吉備氏
主として5世紀に繁栄し、吉備を筑紫・出雲・ヤマト・毛野と並ぶ古代の有力地方国家に発展させることに貢献した豪族。