蕨手刀とその発展 米子(西伯耆)・山陰の古代史 
古墳時代末期から奈良時代にかけて用いられた鉄製の刀。
柄の部分に山菜のわらびに似たうず巻き状の突起があることからこう呼ばれる。 

東京国立博物館蔵:秋田県仙北郡六郷町六郷東根字上中村出土、古墳時代、長49cm
 
蕨手刀について
蕨手刀の特徴
形状の特徴
 質素な実用的な外装で把つか頭かしらの形が蕨状をしているので名づけられたもので、古典的な名称ではない。
 把つかは把木がなく刀身より延付になっている。
 平均刃長は一尺五寸(約46センチ).。
 初期の蕨手刀は直刀であったが、後に柄、さらに刀身に反りを持つようになる。
 直刀のように突くことを目的としたものではなく、打ち下ろして切るという、後の打刀の始原をなすものであると考えられている。
    直刀・・・突く 
    弯刀・・・切る

出土地の特徴
 蕨手刀の分布は東日本に圧倒的に多い。
 島、丘陵地などの小さな古墳、積石塚から出土した例が多い。

 蝦夷の積石塚の特徴
   多くの積石塚の1基だけから蕨手刀が出土する。
     副葬品
       蕨手刀・・・・俘囚長の証。
       銭・・・・・・・・俘囚料受給権・分配権の表れ。
       石帯具・・・・七位、八位の位を表す。
   この時は、薄葬令により大和民族は古墳築造が制限されていた。
   俘囚の教喩、優血(保護)のために蝦夷には小墳墓の築造を許した。

蕨手刀の成分分析
 砂鉄を原料としていること、炭素量が少なく、混入物が多いことがわかった。
 刃の部分だけ炭素量の多い鉄で巻くようにしているものもある。
 しかし炭素量が非常に少ないということは鉄の硬さが弱いということである。
 実用的でないものもあって、品質差が大きかったということになる。
 ケイ酸塩などの混入物が多い質の良くない鉄で作られていたことが判明している。
 稲荷山鉄剣との精製度の違いが浮き彫りになった形となる。

蕨手刀の進化
 蕨手刀が毛抜形蕨手刀、毛抜形太刀(太刀の起源)に発展したことから、日本刀の起源の一つとして言及される。
       蕨手刀→毛抜形蕨手刀→毛抜形大刀→毛抜き形太刀→日本刀へと進化


蕨手刀の3形式 (石井昌国の分類1)
  T型 (東北・北海道型)
 蕨手刀の80%以上を占める。
 平造りで角棟、刃長は長めで身幅広く、かます切先となり区はなく、鐔は切先側から挿入して腰元の踏ん張りで鐔を止める。
 柄、刀身ともに反りがある。
 このタイプは関東地方(東京の吉祥寺、浅草の各1刀)や中部地方(山梨県の1刀)にも見られる。

U型 (中部・関東型)

 蕨手刀のおよそ15%を占める。
 平造りで角棟となり、刃長は短く柳刃包丁のような形をしたもので、反りは無反りか内反り
 鐔は切先から挿入するもの、茎(なかご)側から挿入するものの両方がある。
 茎側から挿入するものには刃区(はまち)、棟区(むねまち)ともに切られている。
 中部地方(長野県祢津出土の最古の蕨手刀)や、岩手県(前方後円墳出土)、福島県南部でも見られる。

V型 (西日本型)
 蕨手刀総数の5%ほどを占めるにすぎない。
 切先両刃造り、つまり棟側の切先寄りにも刃がある造り込みとなったもので、平造り、切刃造りの2タイプがある。
 棟は丸棟となり、平造りのものは短寸で反りは無く、切刃造りのものには長寸のものもある。
 鐔は茎側から挿入し、区で止める。
 このタイプは、奈良県の正倉院、島根県、群馬県、長野県、鹿児島県から各一刀ずつあり。

T型(東北・北海道型 U型(中部・関東型) V型(西日本型)
存在率 80% 15% 5%
作成時期 新しい 古い 中間
造り・棟 平造 角棟 平造 角棟 鋒両刃造で平造or切刃造り 丸棟
刃長 長寸 短寸 長or短
反り 柄・刀身に反り 無反りor内反り 無反り
機能 戦闘用 日常携帯用 日常携帯用


蕨手刀の出土地
出土地の特徴
 直径4〜5メートル、高さ1メートルほどのごく小さな古墳、積石塚から出土した例が多い。
 東北地方のものはほとんどが古墳から出土したもの。
 群馬県、埼玉県、長野県、島根県でも古墳から出土したものがある。
 長野県や群馬県では山間部で発見された例が多い。、
 中部地方以東は東山道沿いに多く発見されている。
 孤島、丘陵地などに存在1)するものも散見される。

出土例 (合計183例)
 東北地方:125例 (岩手県57、宮城県32、山形県17、福島県9、秋田県6、青森県4)
 北海道  : 29例
 関東地方: 12例 (群馬県7、埼玉県2、東京都2、静岡県1)
 中部地方: 12例 (長野県10刀、栃木県1、山梨県1)
 九州地方:  2例 (熊本県1、鹿児島県1)
 近畿地方:  1例 (正倉院の伝世品1)
 中国地方:  1例 (島根県1)
 四国地方:  1例 (徳島県1)

 さらにその後出土例は増加し、2018年現在、256例以上となっている。


蕨手刀の伝播ルート
最古の蕨手刀
 長野県東御市祢津(旧小県郡東部町祢津)の古見立古墳出土のU型(中部・関東型)蕨手刀
 その副葬品などから7世紀初頭(600年代初頭)のものと考えられている。

伝播経路
 古式なのは中部・関東地方に多いU型
 次に畿内以西に多いV型
 一番新しいのが東北地方に多いT型。

 信濃国で発生した蕨手刀が東山道を南下して関東地方へと伝わり、武蔵国を経て陸奥国へと伝わる。
 東山道を北上して宮城、岩手へ入り、途中で関山峠を越えて出羽国へも伝わる。  
 さらに青森、最終的には北海道へも伝わった。
 そして東北地方へその製法が伝わったのは8世紀初頭(700年代初頭)と考えられている。

大場磐雄説 (元國學院大學教授 1899−1975)
 昭和22年に、当時発見されていた56振の蕨手刀についての研究発表を行う。
 蕨手刀の分布が主に東山道から北海道に及んでいるのは、征夷の士卒が佩用したことによるものであるとする。
 特に上信地方に古式、奥州がこれにつづき、北海道に新式を残すのは、その規模が次第に拡張したことを意味すると述べた。

石井昌国説 (國學院大学卒。日本考古学協会会員、美術刀剣保存協会常任審査員 1916−1990)
 上記に対し、現存する蕨手刀をつぶさに調査した石井昌国氏の説
 上信地方では古式な刀を出し、遺跡もそれにならい、東北も特に福島に古い例がある。
 宮城以北に新式が多く、さらにその北部から北海道にかけて、より発達した太刀様の蕨手刀や毛抜形刀が出土している。
 また、岩手を中心にその遺跡が密集し、関東以西のものとは型式を別にした異様な蕨手刀が発見されている。
 これらから、これは蝦夷のなかでも俘囚と呼ばれる中央の文化に接近した人々が佩用したものとすることも可能。
 はじめはそれも征夷の士から伝えられたものとみられたが、これを享受した俘囚の刀工が鍛冶したものとも考えられる。
 また古墳も営造し、そこに副葬されたものと考えられると述べています。

下向井 龍彦説 (1952〜 広島大学大学院教育学研究科教授)
 もともと蕨手刀は東北に存在していた。
 それを俘囚として移配されるときに、各地に分散されたと考える。
 同一地域では、蕨手刀はたいてい1点づつしか発掘されない。
 よって積石塚から発掘される蕨手刀は、俘囚長の墳墓である可能性が高い。

以上より
 現時点では信濃国で発生した蕨手刀は、旧東山道を通って関東地方へと伝わった。
 信濃国は古くから朝廷とは関係深い国であり、奈良時代には朝廷に軍馬を提供する牧場が置かれていた。
 また、関東地方の毛野国はヤマト王権時代から密接な関係にあり、毛野国の有力豪族である毛野氏は蝦夷征討に参加している。
 このことから、信濃国で発生した蕨手刀が関東地方を経由して征討軍によって東北地方へもたらされたとする。
 そして蕨手刀は東北地方へ伝わると、狩猟を生業とした彼らには都合の良い姿格好が好まれた。
 その後自らに伝わる作刀法によって作るようになり、朝廷・国衙の侵攻軍と戦うことによって、次第に武器として進化していった。
 
*反証
 なぜ、信州で蕨手刀が作られるようになったかを明確にすることができていない。
 当時の朝廷軍の多くは徒歩であり、それに反りのある蕨手刀が徴用された必然性がない。
 蝦夷側は騎馬戦に長じたとされるが、なぜ乗馬に長じていたのか不明。

*まとめ
 平安時代中期頃までは、刀剣の佩用は身分によって厳しく制限されており、五位以上でないと佩刀は許されなかった。
 そこでそれに抵触しない蕨手刀のようなものが開発されたのかもしれない。
 前述のように蕨手刀にはその地域的特徴を示した3つのタイプがあった。
 早期の蕨手刀にはまだ反りがなく、当時の刀の一形態であったと思われる。 
 それが東北地方に伝わると、乗馬に長じた蝦夷に好まれ、反りという改良が加えられた。
 さらに改良されて後々まで蝦夷、俘囚に好んで使用され続けたと思われる。

*異説
 日本列島への鉄文化の流入は、北海道・東北に入ったロシア沿岸部経由の韃靼鍛冶系と、九州・山陰に入っ中国・朝鮮半島経由の韓鍛冶系の2系統がある。
 ウラジオストックではBC1000年頃の製鉄遺跡が派遣されている。
 ここに至るルートはシルクロードに対してアイアンロード呼ばれている。
 蝦夷の蕨手刀は、アナトリアのヒッタイトら草原の騎馬遊牧民族を経た「アルタイのアキナケス剣」が原型であると言われている。
 秋田城周辺からはアルタイのアキナケス剣が出土している。(年代は不明)
 斉明朝にトカラジンの来訪もありこの説を否定する事はできないが、蕨手刀との関連は根拠がまだ足りない。



蕨手刀の進化・発展
蕨手刀の発展
蕨手刀から日本刀へ
平成9年東京国立博物館は、日本刀は蝦夷の蕨手刀が変化したもので平安中期頃に完成したとの見解を示した。
もちろん異論も存在するであろうが、合理的な推論と思われる。
これによれば、日本刀は直刀から発展したのではなく、
  蕨手刀→毛抜型蕨手刀(810〜824頃)→毛抜型刀(870頃)→毛抜型太刀(900年代前半)→日本刀(987頃)、という変化を遂げたことになる。



蕨手刀から日本刀への変遷
 刀剣の形状変化に関する詳細は、「刀剣の時代的変遷」


蕨手刀から日本刀へ変遷するまでの時代背景
社会情勢
社会情勢
上記の様に、蕨手刀から、より実用的、実践的な日本刀が登場する訳であるが、それを至らしめた社会情勢というものが不可欠である。
すなわち、武器の発展には何らかの戦闘状態が必要である。
たとえば、日本刀も1274年、1281年の2度の元寇を境に大きく形状等が変化した。
刀剣のみならず兵器も戦争によって著しい進化を遂げる。
蕨手刀においても、日本刀へと進化・発展する過程においてそれを成し遂げさせるような社会の要求があったか否かであるが、蕨手刀が発祥してから日本刀が誕生するまでの社会状況を概観すれば、確かに多くの戦闘、乱、変など枚挙にいとまがないのも事実である。

  600年代     乙巳の変、白村江の戦い、壬申の乱
  700年代     対蝦夷政策 新羅防衛
  800年前後    38年戦争(774年〜811年)
  800年代前半  蝦夷移配 俘囚教愉政策
  800年代後半  俘囚の乱    897年       俘囚の陸奥国帰還政策
  900年代前半            935年承平・天慶の乱(将門の乱 純友の乱)

700年代からの新羅の脅威、防衛施策、蝦夷征討などにはいずれも蝦夷、俘囚が関係しており、刀剣類の変遷に触れる場合、それを避けて語れないのも事実ではなかろうか。

参考
  蝦夷とその政策(征討)史  蝦夷と俘囚


700年代の社会情勢  (対蝦夷政策 新羅防衛政策)
概要
律令国家として幕引きが為された700年代であるが、戦乱に注目すれば、新羅の脅威に対する防衛政策と、709年に始まる対蝦夷政策がその中心となっていると思われる。
     参考:蝦夷と蝦夷政策(征討)史、を参照

対蝦夷政策
709年に以前にも対蝦夷政策が行われていたが、この時期を境にそれが本格化する。
藤原4兄弟も蝦夷政策に関与しており、その関心の深さが見受けられる。
  
新羅防衛政策
新羅の脅威に対して俘囚が動員されており、やはり刀剣類の発展と蝦夷、俘囚の関与を否定出来ない。

補足
対蝦夷、対新羅の施策として神階奉授が為されたと言う見解もある。
詳細は、参照:『伯耆国および令制諸国の神階奉授に関する文献的考察』へ


800年前後の社会情勢  (造都と蝦夷征討、38年戦争)
概要
桓武朝の2大施策は、造都と蝦夷征討であった。
特に774年から811年まで行われた蝦夷との38年戦争は武器、戦術に大きな変革を与えたと思われる。
     参考:蝦夷と蝦夷政策(征討)史を参照

38年戦争
774年〜811年の間、朝廷軍と蝦夷軍は戦闘状態を続けた。
朝廷軍は蝦夷軍の騎馬戦術に翻弄される。
この時蝦夷が取った戦術は、騎射と蕨手刀による騎馬戦であったという。
朝廷軍は、騎馬戦をはじめて経験したとされる。
山口県萩市見島古墳群から発掘される蝦夷と思われる人骨は、上腕骨が著しく発達し、それに比し大腿骨は貧弱であるという。
これは騎乗の習慣を示す証だとされて居る。


800年代前半  (蝦夷移配 俘囚教愉政策)
概要
降伏した蝦夷に吉弥侯部等の姓を与えて俘囚とし、内国に強制移住させる政策をとった。

俘囚移配政策
これは再反乱を防ぐとともに、俘囚を傭兵として機能させる目的の施策であった。
この移配政策は817年に終了する。
この間、国衙に俘囚の教喩を行わせ、公民化を図らせた。

俘囚の生活
口分田の支給と庸調の免除が為されていた。
漁労狩猟が許されていた。
これによって俘囚の生活はかなり裕福なものであった事が推測される。
しかし、公民から差別を受けていた事実もある。

この頃、弘仁年間頃、毛抜形蕨手刀が考案された可能性がある。
    毛抜き形蕨手刀:岩手県3例 北海道1例出土。
これは出土状況などから9
世紀初めに蝦夷自身の手によって改良されたものと見られている。
この柄の透かしによって、握りやすくなり、柄と刀が一体であった蕨手刀の弱点である斬撃時の衝撃を緩和させることに成功している。


800年代後半  俘囚の乱と俘囚の陸奥国帰還政策
概要
寛平(889〜898年)から延喜初年(901年)にかけては、各地に群盗海賊が出現。
これを俘囚が傭兵として追補。
この時、俘囚の安定した生活と狩猟特権が武芸訓練を可能にしていたため、俘囚達は騎馬個人戦術疾駆斬撃戦術によって群盗海賊の殲滅に大きく貢献できた。

俘囚の反乱
傭兵として追補に貢献していた俘囚であったが、その報酬が十分に賄われなくなって行った。
それに不満を抱いた俘囚が各所で反乱を起こす結果となった。
  869年  俘囚動員 
           俘囚動員による対新羅防備兵力の編成が為された。(’俘囚料:伯耆国13,000束、因幡国6,000束)

  870年  対馬に兵士配備
           朝廷は弩師や防人の選士50人を対馬に配備する。
           また、在地から徴発した兵が役に立たないとみた政府は、俘囚を配備した。

  875年  下総国の俘囚の乱

  878年  出羽俘囚の乱  
         この頃、毛抜き形刀(別名:舞草刀)の原型が使われた可能性がある。
         毛抜形蕨手刀の柄頭から特徴的であった蕨形の装飾が消えた形状を有する。
             毛抜き形刀:50cmを超える。柄の蕨が消えて方形の柄尻に成ったもの。
                     秋田県1例 北海道1例のみ出土。
         弘仁年間(810−824)から元慶初年(877年)までに蝦夷によって作成されたとされる。

  883年  上総俘囚の乱
           朝廷は発兵勅符ではなく、「追捕官符」を上総国司へ交付した。
           追捕官符とは、同じく捕亡令に基づくもので、逃亡した者を追捕することを命ずる太政官符である。
           この事件を契機として、以後、追捕官符を根拠として、国司は追捕のため国内の人夫を動員する権限を獲得する。
           積極的に群盗海賊の鎮圧に乗り出すようになった。
           そして、国司の中から、専任で群盗海賊の追捕にあたる者が登場した。
           これは、後の追捕使・押領使・警固使の祖形であるとされている。

  896年  東国強盗首物部氏永の蜂起

  897年  俘囚の陸奥国帰還施策
           これを受けて10世紀初頭には全国に散らばって集団居住していた俘囚たちはほとんど陸奥国へ帰還した。


900年代前半
概要
各所に群盗海賊が出現。
この時群盗の鎮圧に活躍したのは、上総介高望王(上総国押領使、平高望)、藤原秀郷、鎮守府将軍藤原利仁。
この時代に、毛抜き形太刀が考案された考えられる。
毛抜形刀の刀身をさらに長くして70センチ近くに達したもの。
蕨手刀から毛抜形刀までは、東北蝦夷によって成立したものだが、この毛抜形太刀は、これらの刀を参考に内国で開発された。
毛抜き形太刀は、都においては衛府太刀(俘囚野剣)として採用される。

935年 承平・天慶の乱(将門の乱 純友の乱)
この後、毛抜き形太刀から日本刀が考案され、更なる進化を為して行く。

補足
藤原秀郷 佩刀 蜈蚣切 伊勢神宮蔵 太刀 無銘(伝 神息) 毛抜形太刀
  刃長二尺五寸五分(約 77.273 cm)、茎(なかご)長六寸八分(約 20.61 cm)、
  大切先の冠落造りの太刀 茎は切尻に近い角張った切上がりの栗尻、目釘孔は区(まち)やや下と茎尻に2つある。
  『集古十種』によれば、茎には
     「此長太刀俵藤太秀郷蚣切也作者神息然而寛治之比源朝臣 秀豊州土佐井原
      合戦之刻分取〇高名而大将軍預御感也本銘如此右之寛正摺上如前亦銘打〇畢」


900年代後半
  概要
承平・天慶の乱の後、いかなる経過は不明だが、おおよそ987年頃、毛抜き形太刀から日本刀が制作されるに至った。

蕨手刀−その後1  (作刀・鑑定研究などから)
蕨手刀は一関の舞草刀(もくさとう)に受け継がれたと考えられている。
平安末期から鎌倉の頃にかけて奥州鍛冶(広義には出羽月山鍛冶を含む)が大和あるいは九州へ招かれ、大和千手院、豊後行平、薩摩波平へとつながると解する論者もいる。
源氏の宝刀『髭切りの太刀』や、平家の『小烏丸』等は浮囚鍛冶が造ったともされる。
薩摩の波平の綾杉肌は奥州鍛冶の系統で、西国舞草と言われている。
古備前正恒は奥州鍛冶有正の子で、平安城光長の父は舞草鍛冶の長光だから、平安城長吉系統の村正も奥州鍛冶の流れを受け継いでいることになる?。

蕨手刀−その後2 (宮城学院女子大学名誉教授の佐々木忠慧が1990年2月に発表した説)
清少納言著の『枕草子』内の「たちはたまつくり」の一文を「太刀は玉造鍛冶(現西大崎地区)の作がよい」と解釈したものがある。
これは「舞草(もくさ)刀研究会」が明らかにした玉造鍛冶像をヒントにした説であり、『枕草子』が成立した時期(10世紀末)、舞草鍛冶の鍛えた刀の出来栄えが宮廷で話題となり、清少納言が簡潔に書きまとめたとする説である。
舞草刀とは極初期の日本刀と分類される刀であり、玉造鍛冶は現在の一関市を中心として活動した舞草鍛冶が俘囚として玉造郡衙(現大崎市、旧岩出山町西大崎地区)に移された(岩手から宮城へ南下した)集団と考えられている。
いずれにしても、日本刀の成立には蝦夷鍛冶の技術力に因があることは確かである。


初載2018−11−27

参考資料
1) 『蕨手刀 : 日本刀の始源に関する一考察 』 石井昌国 1966 雄山閣出版(株) 

2)「武士形成における俘囚の役割 : 蕨手刀から日本刀への発展/国家と軍制の転換に関連させて 」 下向井 龍彦 
  史学研究 228号 2000年 広島史学研究会


『武士の成長と院政』  日本の歴史07  下向井龍彦 2001年  講談社

『古代刀と鉄の科学』 石井昌国、佐々木稔 1995 雄山閣出版(株)

『蕨手刀の考古学』  ものが語る歴史  39  同成社 2018/12/12 黒済 和彦

『つくられたエミシ』  市民の考古学  15  同成社 2018/08/15 松本建速


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