蝦夷と蝦夷政策(征討)史 ファンタジ-米子・山陰の古代史
蝦夷とは
本州東部とそれ以北に居住し、政治的・文化的に、大和朝廷やその支配下に入った地域への帰属や同化を拒否していた集団を指した。
日本の古代において大和朝廷は蝦夷に対して征討的政策をとり続けた。

俘囚とは
奥州における蝦夷征服戦争の中で生じた大量の帰服蝦夷を指し、当時、国は、これら俘囚を強制的に全国各地に再配置(内国移配)し、税を免除し生計費(俘囚料)を与えて扶養していた。
このうち隷属の度合いが高いものを俘囚、低いものを夷俘(いふ)という。
   蝦夷夷俘俘囚
蝦夷と蝦夷征討
蝦夷とは
蝦夷
古くは愛瀰詩と書き(神武東征記)、次に毛人と表され、ともに「えみし」と読んだ。
後に「えびす」とも呼ばれ、「えみし」からの転訛と言われる。
「えぞ」が使われ始めたのは11世紀もしくは12世紀である。               


蝦夷征討の理由
1:政治的理由 
  中央集権国家(律令国家)を目指す日本は、東北に住む蝦夷を天皇に服属させることを国家目標していた。

2:経済的理由
  749年に東北(陸奥国)から金鉱脈が見つかったという知らせが入る。
  大仏造立のための金が採掘できる上に、経済を潤す土壌が東北にはあると考えられた。
  さらに鉄資源に関しても、東北には大いにその可能性があった。


蝦夷征討に関わる官庁・官位
  鎮守府
古代における蝦夷経営の軍政府。724年頃には存在していた。
奈良時代は多賀城におかれ 平安時代に胆沢城に移る。
国府級の軍政府で、西の大宰府に相当する。
多賀城時代には実務は国府と共通であったが、胆沢城に移ってから独立した政庁とな る。
平泉時代に名目化し鎌倉時代に廃止。

按察使(あぜち)
令外官の一つ。従四位下。
719年に新設された地方行政の監督官。
三~五か国の守の中から一人を選任して管内の治績調査や民情を視察させた。
使の下に典があり、特典として職田・仕丁を賜った。
平安前期より陸奥出羽按察使のみとなり、 公卿の兼官として次第に虚職となった。

陸奥守
陸奥国の国司。

鎮守府将軍
奈良時代から平安時代にかけて陸奥国に置かれた軍政府である鎮守府の長官。令外官である。
平安時代中期以降は武門の最高栄誉職と見なされたが、鎌倉幕府の成立で征夷大将軍が武家の首長職として常置されるに及び、鎮守府将軍の権限と地位はその中に吸収された。
直接記した史料はないが、知られる限りでは大野東人がもっとも古く、彼が初代の鎮守将軍であったといわれている。
鎮守将軍は、陸奥守や陸奥按察使が兼ねることが多く政軍両権を併せ北方の鎮めにつく役職であったが、移転後は専任となり陸奥守よりやや格が下がることになった。



蝦夷政策(征討)史
蝦夷政策の概要
概要                      
 600年代      渟足柵設置に始まる多くの城柵の設置
 700年代      対蝦夷政策・行動 (前半は比較的温和な対応。しかし光仁朝から変化する
 800年前後     38年戦争(774年~811年)
 800年代前半   蝦夷移配 俘囚教愉政策
 800年代後半   俘囚の乱
 897年        俘囚の陸奥国帰還政策


古墳時代
蝦夷についての最も古い言及
『日本書紀』(神武東征記)にあるが、伝説の域を出ないとする考えもある

『宋書』倭国伝より
478年に倭王武が宋 (南朝)に提出した上表文の中に以下の記述がある。
「昔から祖彌(そでい)躬(みずか)ら甲冑を環(つらぬ)き、山川(さんせん)を跋渉(ばっしょう)し、寧処(ねいしょ)に遑(いとま)あらず。
 東は毛人を征すること、五十五国。西は衆夷を服すること六十六国。渡りて海北を平らぐること、九十五国。」
この記述から、この時代には既に蝦夷の存在と、その統治が進んでいた様子を窺い知ることが出来る。
日本武尊以降、上毛野氏の複数の人物が蝦夷を征討したとされている。
これは毛野氏が古くから蝦夷に対して影響力を持っていたことを示していると推定されている。
例えば俘囚の多くが吉弥侯部氏を名乗っているが、吉弥侯部、君子部、公子部は毛野氏の部民に多い姓である


第47代称徳天皇以前
  7世紀頃
蝦夷は現在の宮城県中部から山形県以北の東北地方と、北海道の大部分に広く住んでいたと推察されている

大化年間ころ
国際環境の緊張を背景とした蝦夷開拓が図られた。
647年(大化3年)に越国の北端とみられるの渟足柵設置を皮切りに現在の新潟県・宮城県以北に城柵が次々と建設された。

太平洋側では
654年(白雉5年)に陸奥国が設置された。
724年(神亀元年)には国府を名取郡の広瀬川と名取川に挟まれた地(郡山遺跡、現在の仙台市太白区)から宮城郡の松島丘陵南麓の多賀城に、直線距離で約13km北進移転している。

日本海側では
658年(斉明天皇4年)から660年にかけて蝦夷および粛慎を討った阿倍比羅夫の遠征があった。
その後、708年(和銅元年)には越後国に出羽郡が設置された。
709年、蝦夷が良民を害し、巨勢麻呂、佐伯石湯、紀諸人らが征討に出発。諸国の兵器を出羽国に送る。
その後も個別の衝突はあったものの蝦夷と朝廷との間には全面的な戦闘状態はなかった。
道嶋嶋足のように朝廷において出世する蝦夷もおり、総じて平和であったと推定されている。
712年(和銅5年)に出羽国に昇格し陸奥国から置賜郡と最上郡を譲られた。


38年戦争 (774年~811年) 
概要
第49代光仁天皇以降、蝦夷に対する敵視政策が始まっている。
光仁天皇以降、仏教の殺生禁止や天皇の権威強化を目的に、鷹の飼育や鷹狩の規制が行われた。
奥羽の蝦夷に対してもこれを及ぼそうとし、またそれを名目に国府の介入が行われて支配強化につながったことが蝦夷の反乱を誘発したとする指摘もある。
774年(宝亀5年)には按察使大伴駿河麻呂が蝦狄征討を命じられ、811年(弘仁2年)まで特に三十八年戦争とも呼ばれる蝦夷征討の時代となる。
一般的には4期に分けられる。

第1期
774年、蝦夷が桃生城を侵攻、将軍駿河麻呂、これを討つ。
蝦夷の蜂起は日本海側にも及び、当時出羽国管轄であった志波村の蝦夷も反逆、胆沢地方が蝦夷の拠点として意識され始めた。
後半は主に出羽において戦闘が継続したが、伊治呰麻呂らの協力もあり、778年(宝亀9年)までには反乱は一旦収束したと考えられている。

第2期
780年(宝亀11年)から781年(天応元年)まで。
伊治呰麻呂の乱(宝亀の乱)とも呼ばれる。
宝亀11年3月22日(780年5月1日)、呰麻呂は伊治城において紀広純らを殺害、俘囚軍は多賀城を襲撃し略奪放火をした。
正史の記録には以後の経過が記されていないが、出羽国雄勝平鹿2郡郡家の焼亡、由理柵の孤立、大室塞の奪取及び秋田城の一時放棄と関連づける見解もある
藤原小黒麻呂が征東大使となり、翌781(天応元年)には乱は一旦終結に向かったと推察されている。

第3期
789年(延暦8年)に、前年征東大使となった紀古佐美らによる大規模な蝦夷征討が開始された。
紀古佐美は5月末まで衣川に軍を留め、進軍せずにいた。
桓武天皇からの叱責を受けたため蝦夷の拠点と目されていた胆沢に向けて軍勢を発したが、朝廷軍は多数の損害を出し壊走、紀古佐美の遠征は失敗に終わったという。(巣伏の戦い)

794年(延暦13年)には、再度の征討軍として征夷大使大伴弟麻呂、征夷副使坂上田村麻呂による蝦夷征伐が行われた。
この戦役については「征東副将軍坂上大宿禰田村麿已下蝦夷を征す」(『類聚国史』)と記録されているが、他の史料がないため詳細は不明である。
しかし、田村麻呂は四人の副使(副将軍)の一人にすぎないにもかかわらず唯一史料に残っているため、中心的な役割を果たしたらしい。

801年( 延暦20年)には坂上田村麻呂が征夷大将軍として遠征し、夷賊(蝦夷)を討伏した。
このとき蝦夷の指導者阿弖流為は生存していたが、いったん帰京してから翌年、確保した地域に胆沢城を築くために陸奥国に戻っていることから、優勢な戦況を背景に停戦したものと見られている。

802年の報告として『日本紀略』には、大墓公阿弖流為(アテルイ)盤具公母礼(モレ)が五百余人を率いて降伏したこと、田村麻呂が2人を助命し仲間を降伏させるよう提言したこと、群臣が反対し阿弖流為と母礼が河内国で処刑されたことが記録されている。
また、このとき閉伊村まで平定されたことが『日本後紀』に記されている。
第3期の蝦夷征討は、803(延暦22年)に志波城を築城したことで終了した。

第4期
811年(弘仁2年)の文室綿麻呂による幣伊村征討が行われ、和賀郡、稗貫郡、斯波郡設置に至った。
爾薩体・幣伊2村を征したと『日本後紀』にあることから征討軍が本州北端に達したという説もある。
翌年には徳丹城が建造され、9世紀半ばまでは使用されていたが、このとき建郡された3郡については後に放棄されている


蝦夷政策(征討)史年表

大化以前
12代 景行朝 (340年頃?)
景行25 12代景行天皇、武内宿禰に北陸・東方諸国を視察させる。
宿禰は2年後帰還して日高見国の住民蝦夷のことを報告、攻略を勧める。

景行40 東国の蝦夷が謀反し、日本武尊を派遣。大伴武日連・吉備武彦が従う。

日本武尊は駿河・相模を経て上総から海路陸奥国に入り、蝦夷を平らげた後、日高見国から常陸を経て甲斐国に至る。
甲斐酒折宮で武日に靫部を賜る。
武彦を越国に派遣して監察させ、尊自らは信濃国に進入、美濃に出て武彦と遭遇。のち尾張を経て伊勢に入り、蝦夷の俘囚を伊勢神宮に献る。

景行51
伊勢神宮の蝦夷を三諸山(三輪山)に移し、さらに幾外へ移す。
これが播磨・讃岐・伊予・安芸・阿波5カ国の佐伯部の先祖。(佐伯氏の造作とみる説もある)


13代 成務朝 (360年頃?)
4世紀後半 東北地方の古墳分布などから、大和政権はこの頃、東北地方に進出したとするのが通説。


15代 応神朝 (394-427頃?)
4世紀末?
応神3
東の蝦夷、朝貢。
蝦夷をして廏坂道を造らせる。

16代 仁徳朝 (430頃?)
仁徳55
蝦夷反乱。
田道を派遣するが伊峙の水門(石巻?)で敗死。

22代 雄略朝 
478 
雄略22?
倭王武(雄略天皇説有力)、宋に上表文を送る。
王の先祖が自ら甲冑を纏い山川を跋渉し戦を続け、東は毛人55カ国を征し、西は衆夷66カ国を服し、海北(朝鮮半島か)へ渡り95カ国を平らげる、とあり(宋書)。

22代 敏達朝  
581 
敏達10
閏2 蝦夷数千、辺境に寇(あたな)う。
天皇は魁帥(大毛人)アヤカスらを召して主謀者の誅殺を宣告。
アヤカスは泊瀬川で三輪山に向かい水をすすり、朝廷への忠誠を誓盟。

34代 舒明朝
637 
舒明9
この年、蝦夷が叛き、入朝せず。
上毛野形名を将軍として派遣。はじめ朝廷軍は敗走するが、形名の妻の知略により蝦夷が退却する間、軍を再整備して討伐に成功。虜囚多数。


大化以後~奈良
35代 皇極朝
647 
大化3
この年、渟足柵(ぬたりのき)を作り、柵戸を置く。
  所在地:新潟県新潟市沼垂。

36代 孝徳朝
648
大化4
この年、磐舟柵を作り、蝦夷に備える。越・信濃の民より選んで柵戸に置く。
  所在地:新潟県村上市岩船。

37代 斉明朝 
655
斉明1
7月  難波で北(越)の蝦夷99人・東(陸奥)の蝦夷95人を饗応。
    柵養の蝦夷9人と津刈蝦夷6人に冠位を授ける。
    この年、蝦夷・隼人が仲間を率いて服属、献物。

658
斉明4
越国守阿倍比羅夫、船軍を率いて蝦夷を征討。
齶田(秋田)・渟代(能代)の蝦夷、降伏。齶田の蝦夷恩荷(おが)を能代・津軽2郡の郡領に定める。

659
斉明5
3.17 甘檮丘の東の川上に須弥山を造り、陸奥・越の蝦夷を饗応。
3   阿倍臣、秋田・能代・津軽等の蝦夷を征討。虜囚多数。
7.1  遣唐使派遣。道奥の蝦夷男女二人を唐の天子(高宗)に示す。
   高宗の問いに対し、使人は蝦夷にはツカル・麁蝦夷・熟蝦夷の3種があると答える。

660
斉明6
阿倍臣、船軍を率い粛慎国(蝦夷の一部、または沿海州のツングース族)を征討。

38代 天智朝(662-672)
669
天智8
この年、遣唐使が蝦夷を伴い入唐(新唐書)。蝦夷は「海島(本州?)中に居す」。

 42代 文武朝(697-707)
697
文武1
10月 陸奥の蝦夷、朝貢。

43代 元明朝(707-715)
708 
和銅1
9月 越後国に出羽郡を建置(4年後には出羽国となる)。

709
和銅2
709年の征討
3月  陸奥・越後の蝦夷が良民を害するため、遠江・越前・越中などから兵士を徴発する。
    巨勢麻呂、陸奥鎮東将軍。佐伯石湯、征越後蝦夷将軍。内蔵頭紀諸人、副将軍。蝦夷征伐出発。
7月 上毛野安麻呂、陸奥守。蝦夷征討のため、諸国兵器を出羽柵に運送させる。
8月 征蝦夷将軍ら帰還。御前に召して優寵を加える。

710
和銅3
1.1 元日朝賀。左将軍大伴旅人・右将軍佐伯石湯ら、皇城門の外、朱雀大路の東西に分かれ騎兵を陳列、隼人・蝦夷らを率いて行進。
  (補足) 隼人・蝦夷が元日朝賀に参列した史料上の初見。

714 
和銅5
9月 出羽国を建置

715 
和銅6
12.2 陸奥国に丹取郡(現宮城県古川市・玉造郡付近か)を建置。

44代 元正朝(715-724)
715
霊亀1
1.1  元日朝賀。皇太子初めて礼服を着て拝朝。蝦夷・南島人来朝。
10  陸奥国の蝦夷の言上により、香河村・閇村(ともに未詳)に郡家を建てる。

720
養老4
9.28  陸奥の蝦夷が叛乱、按察使上毛野広人殺害される。
    多治比県守、持節征夷将軍。

722
養老6
4月 蝦夷・隼人征討将軍らに勲位を授ける。

723
養老7
9月 出羽国司、多治比家主(池守の子)、蝦夷への叙勲を申請、これを許す。

45代 聖武朝(724-749) 
724
神亀1
この年、陸奥按察使兼鎮守将軍大野東人多賀城を設置(多賀城碑文)。

3月 海道(東北の太平洋沿岸)で蝦夷叛乱、大掾佐伯児屋麻呂殺害される。
4月 藤原宇合、持節大将軍。高橋安麻呂、副将軍。坂東9国の兵3万人を調練。
5月 小野牛養を鎮狄将軍とし、出羽の蝦夷を鎮圧させる。

725
神亀2
陸奥国俘囚を、伊予・筑紫・和泉に移配。

730
天平2
陸奥国田夷村(不詳)の蝦夷が帰順、同地に郡家を建てることを申請。
聖武天皇はこれを許す。

733
天平5
出羽柵(のちの秋田城)を秋田村高清水の岡に移す。 雄勝村に郡を建て民を置く。

737
天平9
1.21  東北経略の軍をおこす。 藤原麻呂、持節大使として陸奥に派遣さる。
2.19  遣陸奥持節大使藤原麻呂・鎮守将軍大野東人、陸奥国多賀柵に至る。
4.14  藤原麻呂らより報告、
     (1)鎮守将軍大野東人は多賀柵より出羽国雄勝への道を開こうとしたが、深雪のため果たさず。
       多賀柵に帰還した。
     (2)雄勝村の俘長らが来降し、大野東人は部下の進言を容れて雄勝制圧策から融和策に転換。
     (3)大野東人は大雪による食糧不足を理由に雄勝城の築城を中止した。

7.13 参議兵部卿従三位藤原麻呂、薨ず(43歳)。

749 
天平21
陸奥国守、百済王(くだらこにきし)敬福より黄金を献上。


46代 孝謙朝
757
天平宝字1
757年からは九州の人間だけで防人を維持しており、その他の地方からは兵士は送られていない。

4月 不孝・不恭の者らを陸奥国桃生(もものふ)・出羽国雄勝に移配する。
6月 大伴古麻呂、兼陸奥鎮守将軍、同按察使(左大弁留任)。佐伯全成、(陸奥守)兼鎮守副将軍。

758
天平宝字2
10月 陸奥国の浮浪人を徴発して桃生城を築造させる。
12月 坂東の騎兵・鎮兵・役夫・夷俘を徴発して桃生城・雄勝柵を築造させる。


46代 孝謙朝
759
天平宝字3
9月 桃生・雄勝城造営従事者に対し挙稲を免ずる。
    出羽国に雄勝郡・平鹿郡を建置し、陸奥・出羽両国に駅家を置く。
    坂東8国ほかの浮浪人を雄勝柵に移配。東国7国の兵士が所有する武器を雄勝・桃生2城に貯える。


760
天平宝字4
1月 雄勝・桃生城の完成につき陸奥按察使兼鎮守将軍藤原恵美朝狩らに褒賞。
12月 博打の争いから殺人を犯した薬師寺僧を還俗させ陸奥桃生の柵戸に配す。

761
天平宝字5
1.16 大伴益立、陸奥鎮守副将軍。


762
天平宝字6
この年、東海東山道節度使・陸奥按察使藤原恵美朝狩、多賀城を修造(多賀城碑文)。
4.1 鎮守副将軍大伴益立、兼陸奥介。
12.1 多賀城碑建立。「去蝦夷国界一百廿里(約80キロメートル)」(碑文)。
12.25 田中多太麻呂、陸奥守兼鎮守副将軍。

763
天平宝字7
7.14 藤原田麻呂、陸奥出羽按察使。



48代 称徳朝
763
神護景雲1

10月 伊治城完成につき田中多太麻呂・大伴益立らに褒賞。


768
神護景雲2
9.4 大和守石川名足、兼陸奥鎮守将軍。
9.22 陸奥国配置の他国鎮兵を停止。また陸奥国の庸調は国に留め10年1度の京進とする。

769
神護景雲3
1.2 陸奥蝦夷、文武百官と共に大極殿で拝賀。
(注)蝦夷の朝賀参列は以後(翌宝亀1年を除き)宝亀4年まで続き、同5年に至って停止される。

1.30 一般民戸を強制的に陸奥・出羽の柵に移配すると逃亡が増える恐れがあるため、積極的に移住・開拓を希望する者のみを住まわせ、これらの民に対しては法律上の優遇措置をとることを決定(正式に勅が出されるのは同年2.17)

8.19 石川名足、陸奥守。
11.25 陸奥国牡鹿郡の俘囚大伴部押人、調庸の民となることを願い出、これを許す。
    先祖は蝦夷を征討した伴造だったが子孫が蝦夷の俘虜となり誤って俘囚(朝廷に帰属した蝦夷)とされた。

49代 光仁朝
770
宝亀1
8.4  称徳天皇崩ず。
8.10 蝦夷の宇漢迷公宇屈波宇(うかにめのきみうくつはう)ら、徒党を率いて賊地に逃げ帰る。
   近衛中将兼相模守の道嶋嶋足らを派遣、検問させる。
9.16 坂上苅田麻呂、陸奥鎮守将軍。
10.1 白壁王即位(光仁天皇)。

772
宝亀3
1月 陸奥・出羽の蝦夷、入朝して元日朝賀に参列。16日、帰郷。
閏3.1 佐伯美濃、陸奥守兼鎮守将軍。
9.28 大伴駿河麻呂、陸奥按察使(陸奥守を兼ねるか)。
駿河麻呂は老齢を理由に辞退するが、天皇は「汝駿河麻呂宿禰、唯(ひとり)朕が心に称(かな)へり」として任務遂行を命ずる。
10.11 陸奥国に逃亡した下野国管内の百姓870人を検括し本郷に還却させる。

773
宝亀4
1.1 陸奥・出羽の夷俘、元日拝賀。14日、帰郷。
7.21 大伴駿河麻呂、陸奥鎮守将軍(兼陸奥按察使・陸奥守)。

774
宝亀5

蝦夷が桃生城を侵攻

38年戦争
1.16 五位以上を楊梅宮で、蝦夷俘囚を朝堂で饗応。
1.20 蝦夷俘囚の入朝(並びに朝賀の儀への参列)を止める。
7.20 陸奥国行方郡の正倉で火災。
7.23 河内守紀広純、兼鎮守副将軍。陸奥按察使兼守兼鎮守将軍大伴駿河麻呂に蝦夷討滅を勅命。
(注)蝦夷討伐に関し現地司令官の意思が決定せず、天皇に勅断を求めたのに対し、天皇は蝦狄が「しばしば辺境を侵し敢えて王命を非(そし)る」として討滅を命じた。

7.25 陸奥より報。蝦夷が桃生城を侵攻、将軍駿河麻呂、これを討つ。

以後弘仁3年(812年)まで38年間対蝦夷戦争が続く。

8.2 坂東8国に対し陸奥危急の際は援兵を徴発して直ちに陸奥へ赴かせるよう命じる。
(注)上記7.25付の報はこの日朝廷に届いたか。

8.24 将軍駿河麻呂、蝦夷の侵攻が散発的であること等を理由に討伐の必要なしと奏上し、天皇は征討計画の首尾一貫性のなさを深く譴責する。

10.4 駿河麻呂、陸奥遠山村(未詳。一説に宮城県登米郡)の蝦夷を征伐、天皇より慰労される。

775 宝亀6 夏~秋 蝦夷騒動
    陸奥の民衆は砦の防御に狩り出され田は荒廃。これにより当年の田租・課役を免ずる。
10.13 出羽国、今後3年間に鎮兵996人を請い、要害防御と国府の遷移を願い出る。相模など4国の兵士を差発し派遣する。

11.15 駿河麻呂、桃生城を侵した蝦夷を討伐した功により正四位上、勲三等。

776 宝亀7 2.6 陸奥国が4月上旬における山海二道の蝦夷征討を申請。
  陸奥2万・出羽4千の軍士を発して雄勝方面から陸奥国西辺地域の蝦夷を征討する計画をたてる。

5.2 志波村の蝦夷が叛逆、国軍不利。下総・下野・常陸などの騎兵を徴発して鎮圧にあてる。
5.12 近江介佐伯久良麻呂、兼陸奥鎮守権副将軍。
7.7 参議正四位上陸奥按察使兼鎮守将軍大伴駿河麻呂卒す(従三位追贈)。
7.14 安房など東国4国の船50隻を買い上げ、陸奥国に配置。不測の事態に備える。

9.13 陸奥国の俘囚395人を大宰管内諸国に分配。
10.11 陸奥国での征戦頻発により百姓疲弊、ゆえに当年の田租を免除。
11.26 陸奥の軍3千人を動員して胆沢地方の蝦夷を討伐。
11.29 出羽国の俘囚358人を大宰管内・讃岐に移配。うち78人は諸司と参議以上に賜与して賤とする。
12.14 陸奥国諸郡の百姓より奥郡(黒川郡以北の諸郡か)の兵を募る。

777 宝亀8 1.25  大伴真綱、陸奥介。
3月  陸奥の夷俘の来降、相次ぐ。
4 月  陸奥国は総力を挙げて山海二道の蝦夷と戦闘。
5.25   相模以下諸国に命じ、甲200領を出羽国の鎮所(秋田城・雄勝城などか)に送らせる。
5.27   陸奥守紀広純、兼陸奥按察使(鎮守将軍も兼ねる)。
12.14  陸奥鎮守将軍紀広純より、出羽国の軍が蝦夷に敗れ退却との報。
     近江介佐伯久良麻呂を鎮守権副将軍とし、出羽国鎮圧に出陣。
12.26  出羽国で蝦夷叛乱、官軍は戦況不利。

778 宝亀9 6.25  蝦夷征討に功のあった陸奥・出羽国の国司らに叙位。
    按察使、紀広純、従四位下勲四等。
    鎮守副将軍佐伯久良麻呂、正五位下勲五等。
    伊治呰麻呂、外従五位下。

(注)宝亀7年4月に始まった征討に対する褒賞か。出羽の蝦夷反乱はこれ以前に一段落したことが窺える。

780
宝亀11

宝亀の乱
1.16   陸奥国長岡郡(宮城県古川市か)に蝦夷が侵入、官軍との戦で多数の死者。
2.2    陸奥国、胆沢地方の得るため覚{鼈}城(かくへつじょう。{鼈}の字、正しくは足が「魚」。
     所在不詳)の建造を奏上、許可される。
2.11   陸奥国より3月中旬の発兵と覚{鼈}城の築造を申請、朝廷は3千の兵で蝦夷の残党を討滅すべきことを命ずる。

3.22   陸奥国伊治郡で宝亀の乱(伊治呰麻呂の乱)が起こる。紀広純殺される。

(乱の経緯)
陸奥按察使紀広純が覚{鼈}城築城のため衛兵や斥候を遠くに配置し、蝦夷の軍を率い伊治城に入った時、蝦夷出身で伊治郡大領の伊治呰麻呂が蝦夷軍に叛乱を呼びかける。
呰麻呂は牡鹿郡大領道嶋大楯と紀広純を殺害したあと、陸奥介大伴真綱を多賀城まで護送。真綱と陸奥掾石川浄足は多賀城より逃走し、叛乱軍は略奪の後多賀城を焼き払う。
以後、律令国家と蝦夷の全面戦争の様相を呈する。

3.28 中納言藤原継縄、征東大使。大伴益立・紀古佐美、副使。
3.29 大伴真綱、陸奥鎮守副将軍。安倍家麻呂、出羽鎮狄将軍。大伴益立、兼陸奥守。
5.6  京庫と諸国の甲(よろい)600領を鎮狄将軍の所に送ることを計画。
5.11 渡嶋(津軽または北海道南部)の蝦夷が北辺の民を侵しているゆえ、出羽国に対し慰撫・教諭を命ずる。
5.16 征夷に従軍する進士(志願兵)を広く募る。
6.8  百済王俊哲、陸奥鎮守副将軍(真綱は解任?)。多治比宇美、陸奥介。
6.28  陸奥持節副将軍益立らに勅、5月8日以来状況報告がないことを責める。
7.21 征東使、甲1千領・襖4千領を請う。諸国に命じて軍所に運ばせる。
7.22 坂東の兵士を徴集し、9月5日までに多賀城に集結させることを決定。
8.23  秋田城に鎮守の軍と専当官を置いて守護させる。
(注)秋田城の維持が困難になったため、国司1名のみを置いて保持をはかった。出羽国府は庄内地方に後退するか。
9.23 藤原小黒麻呂、正四位下持節征東大使(継縄は解任)。
10.29 天皇、蝦夷征伐の遅延を責める。
12.10 征東使、2千の兵を派遣して蝦夷の要害を断つことを申請。
12.27 陸奥鎮守副将軍百済王俊哲より奏上、「蝦夷軍に包囲され苦戦したが、桃生・白河郡の神11社に祈り囲みを破る。この11社を幣社に列することを請う」。朝廷、これを許す。



平安前期
50代 桓武朝(781-806) 
781
天応1
1.1   呰麻呂に欺かれた者が来降した場合、賦役全免3年。陸奥・出羽征戦従軍者は当年の田租を免除。
1.10   参議藤原小黒麻呂、兼陸奥按察使(紀広純の後任)。
2.30   穀10万斛を東国諸国より陸奥の軍所に船で輸送させる。
4.3   光仁天皇譲位、山部親王即位(桓武天皇)。
5.27  紀古佐美、陸奥守。
6.1   桓武天皇、征東大使藤原小黒麻呂に対し、征夷軍の解散を責め、入京を停める。
    副使のうち一人に帰京と戦況の報告を命ずる。
    小黒麻呂の奏状によれば「賊衆4千余人、斬れる首級は70余人。遺衆なお多し」。
8.25  陸奥按察使藤原小黒麻呂、征伐を終え入朝。特に正三位を授ける。
9.7   内蔵全成、陸奥守。
9.22  征夷の功労者に対し叙勲・叙位。紀古佐美・百済王俊哲・勲四等。
    内蔵全成・多犬養、勲五等。多治比宇美、従五位上など。
9.26  征討副使大伴益立、蝦夷進軍を滞らせたことを責められ、従四位下の位を剥奪される。
(注)前年の事件に対する処置。同日の記事に「小黒麻呂は軍を進め諸塞を恢復した」旨見える。なお承和4年(837年)、益立の子伴野継が冤罪の訴えを起こし、認められて益立は本位を賜る(続日本後紀)。
12.1 陸奥守内蔵全成、兼鎮守副将軍。
12.23 光仁上皇崩ず(73歳)。

782
延暦1
閏1.11 氷上川継の乱
2.7  民部卿小黒麻呂、兼陸奥按察使。
6.17 春宮大夫大伴家持、兼陸奥按察使鎮守将軍。入間宿禰広成、陸奥介。安倍猿嶋臣墨縄、鎮守権副将軍。

783
延暦2
1.9  道嶋嶋足、卒す。
   (卒伝)陸奥国牡鹿郡の人。旧牡鹿連。
   武芸に長け、授刀衛将曹に抜擢され、仲麻呂の乱で勲功を上げて従四位下勲二等。
   のち道嶋宿禰を賜姓され、正四位上の高位にまで至った。
4.15 鎮所の将吏たちが坂東8国から運ばれた穀によって私利を得ること、また鎮兵を使役して私田を営むことを厳しく諌める。

4.19 坂東諸国に対し勅「この頃夷俘の騒乱により軍旅が頻発し、このため坂東諸国の辺境地方は疲弊している。これを憐れみ、使いを発して慰労すると共に倉を開いて優給する」。

6.6 坂東8国に命じ、散位の子・郡司の子弟・浮浪人等のうち適当な者各500~1000名を選んで軍事訓練を課さしめる。

7.19大伴家持、中納言に就任(春宮大夫・陸奥按察使・鎮守将軍留任)。
11.12 常陸介大伴弟麻呂、兼征東副将軍。

784 延暦3


長岡京遷都
2? 大伴家持、持節征東将軍(春宮大夫・陸奥按察使・鎮守将軍留任)。文屋与企、副将軍。入間広成・阿倍猿嶋墨縄、軍監。
(注)「持節」(節刀を賜わる)の文字があることなどから、家持は再び陸奥へ下向したと思われる。但し在京将軍であったとの説もある。

5.16 中納言藤原小黒麻呂・同種継ら、遷都のため乙訓郡長岡村を視察。
11.11 天皇、長岡宮に遷幸(長岡京遷都)。

785 延暦4

藤原種継暗殺事件
2.12 多治比宇美、陸奥按察使(家持の後任)兼鎮守副将軍。
4.7 陸奥按察使鎮守将軍家持ら、東北防衛について建言。危急時に人民・兵士を徴集するために設けた仮の郡多賀・階上を正規の郡とし、官員を常置することを要望。許可される。
(注)この時の按察使は正しくは多治比宇美。家持の肩書に「陸奥按察使」とあるのは誤記であろう。
5.20 百済王英孫、陸奥鎮守権副将軍(安倍猿嶋墨縄の後任)。
8.28 中納言従三位大伴宿禰家持死す
9.23 夜、長岡京造営工事を検分中の種継、賊に弓で射られる(藤原種継暗殺事件)。

786
延暦5
8.8  東海道・東山道に使を派遣して兵士を検閲し武器を点検させる。蝦夷征伐のため。
(注)大規模な征夷が行われるのは3年後の延暦8年。

787
延暦6
1.21 陸奥按察使に対し、蝦夷との交易を厳禁する(類聚三代格)。
2.5 陸奥介佐伯葛城、兼鎮守副将軍。
2.25 藤原葛野麻呂、陸奥介。池田真枚、鎮守副将軍。
閏5.5  陸奥鎮守将軍(家持の後任か)百済王俊哲、事件に関与して日向権介に左遷。

(注)いかなる事件か不明。俊哲は敬福の孫。延暦10年下野守に任じられて復権、同年征夷副使・陸奥鎮守将軍を兼任、大伴弟麻呂・坂上田村麻呂らと共に蝦夷征伐に成功した後延暦14年没。

788
延暦7
2.28 陸奥按察使陸奥守多治比宇美、兼鎮守将軍。安倍猿嶋臣墨縄、副将軍。
3.2 来年の蝦夷征討に備え、兵糧を多賀城に運ぶ。
3.3 東海・東山・坂東諸国の兵士5万2千8百余人を徴発し、来年3月までに多賀城に集結させることとする。
3.21 多治比浜成・紀真人・佐伯葛城・入間広成、征東副使。
7.6 参議紀古佐美、征東大使。
12.7 征東大将軍紀古佐美、辞見。節刀を賜る。3月に任命した副将軍たちは進軍せず、落ち度が多いことを挙げ注意を与えるとともに、軍監以下の死罪については将軍自ら斬刑を執行する権利を与える。

789
延暦8

巣伏の戦い
3.9 諸国からの派遣軍総数4万、多賀城に会集、道を分けて蝦夷地に進軍。
  大規模な対蝦夷軍事行動はじまる
5.12 征東軍、衣川(岩手県胆沢郡衣川村か)付近で1カ月余り駐留。天皇はこれを咎める。
5.26 征東副将軍佐伯葛城、贈正五位下。征討途上に卒す。

6.3 征東軍、蝦夷軍に大敗(巣伏の戦い)
征東将軍紀古佐美より奏上。副将軍入間広茂ら兵士4千名とともに河(北上川か)を渡り、蝦夷地を侵攻するが、巣伏村(不詳)で蝦夷軍に挟まれて大敗。戦死者25人、溺死者千余人。
6.9 征東将軍より奏上。子波(現岩手県紫波郡)までの進攻は食料等の不足から不可能、軍解散との結論を報告。これに対し天皇は将軍・副将軍らの臆病を詰る。
7.17 持節征東大将軍紀古佐美より戦勝報告(10日に得た奉状)。天皇はこれを虚飾として責める。
9.8 紀古佐美、陸奥より帰京。節刀を進上。
9.19 大納言継縄らを遣わし、征東軍の将校らに対し敗戦の状況を取り調べさせる。大将軍紀古佐美は以前の功績により免罪、鎮守副将軍安倍猿嶋墨縄、官位剥奪。同池田真枚、解任。
10.23 巨勢野足、陸奥鎮守副将軍。

790 延暦9 閏3.4 征夷のため、3年以内に革甲2千領を造ることを諸国に命ずる。
10.19 征夷に功あった者に対し叙勲。
10.21 坂東諸国の疲弊が甚だしいため、他国にも武具製造などを負担させることとする。
この年秋・冬、京・畿内ほか諸国で豌豆瘡が流行。

791
延暦10
1.18 東海道・東山道に使者を派遣して軍士と武器の検閲をさせる。蝦夷征討の準備。
2.21 陸奥介文屋大原、兼鎮守副将軍。
7.13 大伴弟麻呂、征夷大使。百済王俊哲・多治比浜成・坂上田村麻呂・巨勢野足、副使。
9.22 下野守百済王俊哲、兼陸奥鎮守将軍。

792
延暦11
この年、軍団を廃止、健児の制を定める。
奥羽・西海道諸国を除き、諸国の兵士を廃止し、これに代える。主に地方の郡司の子弟などを採用。

(補足)
農民の労役負担を軽減し、また軍団の私物化という弊害を除くため。
背景には、造都・征夷戦争による経済の逼迫と、国際的な緊張関係の消失の二点があった。

793
延暦12
2.17 征東使を征夷使に改める。

794
延暦13

平安京遷都
1.1   征夷大将軍、大伴弟麻呂、節刀を賜う。
6.13  副将軍坂上田村麻呂、蝦夷征伐。
10   平安京遷都。

797
延暦16
11.5 坂上田村麻呂、征夷大将軍

801
延暦20


9.27 征夷大将軍坂上田村麻呂、蝦夷を討伏。閉伊村までを征服。

802
延暦21

アテルイ降伏
1.9 坂上田村麻呂に胆沢城の造営を命ずる。
    (注)胆沢城跡は岩手県水沢市。この後、鎮守府は多賀城から胆沢城に移される。
4.15 坂上田村麻呂、蝦夷の総帥アテルイの降伏を報告。
8.13 アテルイらを河内にて処刑。

803
延暦22
3.6 造紫波城使坂上田村麻呂、辞見。
(注)この年、紫波城を造営。城跡は岩手県盛岡市。

805
延暦24
12.7 参議藤原緒嗣、陸奥進軍と平安京造営の中止を提言。桓武天皇これを容れる。


51代 平城朝(806-)  
806
大同1
3.17 桓武天皇崩ず(70歳)。
5.18 安殿親王、践祚(平城天皇)。
   
809
大同4
4.1 平城天皇譲位、賀美能親王践祚(嵯峨天皇)。

811
弘仁2
1.11  陸奥国に和賀・稗貫・斯波(紫波)の3郡を設置。
3    出羽守大伴今人、俘囚300余人を率いて蝦夷征伐に勲功を立てる。翌月征夷副将軍に抜擢される。
12.11
文屋綿麻呂より蝦夷征伐の終了を奏上。宝亀5年から38年続いた蝦夷征服戦争が終わる

812 朝廷は国司に対し、俘囚の中から優れた者を夷俘長に専任し、俘囚社会における刑罰権を夷俘長に与える旨の命令を発出。

813 出雲俘囚荒橿の乱

820 弘仁新羅の乱
日本国内の遠江・駿河両国に移配した新羅人在留民700人が反乱を起こしたがその殆どが処刑され、鎮圧された。

869 俘囚動員
俘囚動員による対新羅防備兵力の編成が為された。(俘囚料:伯耆国13,000束、因幡国6,000束)

870 対馬に兵士配備
朝廷は弩師や防人の選士50人を対馬に配備する。また、在地から徴発した兵が役に立たないとみた政府は、俘囚を配備した。

875 下総国の俘囚の乱

878 出羽国の俘囚の乱

883
上総俘囚の乱
朝廷は発兵勅符ではなく、「追捕官符」を上総国司へ交付した。
追捕官符とは、同じく捕亡令に基づくもので、逃亡した者を追捕することを命ずる太政官符である。
この事件を契機として、以後、追捕官符を根拠として、国司は追捕のため国内の人夫を動員する権限を獲得することとなり、積極的に群盗海賊の鎮圧に乗り出すようになった。
そして、国司の中から、専任で群盗海賊の追捕にあたる者が登場した。
これは、後の追捕使・押領使・警固使の祖形であるとされている。

897 俘囚の陸奥国帰還施策



平安中期
935 新羅滅亡
新羅の敬順王が君臣を挙げて高麗に帰順した。これにより新羅は滅亡した。

935 平将門の乱(承平天慶の乱)
平将門が親族間の抗争に勝利して勢力を拡大。
やがて受領と地方富豪層の間の緊張関係の調停に積極介入するようになり、そのこじれから国衙と戦となって、結果的に朝廷への叛乱とみなされるに至った。
将門は関東を制圧して新皇と自称し関東に独立勢力圏を打ち立てようとするが、平貞盛、藤原秀郷、藤原為憲ら追討軍の攻撃を受けて、新皇僭称後わずか2ヶ月で滅ぼされた。

939 藤原純友の乱(承平天慶の乱)
海賊鎮圧の任に当たっていた藤原純友が、同じ目的で地方任官していた者たちと独自の武装勢力を形成して京から赴任する受領たちと対立。
結果として蜂起に至った。
西国各地を襲撃して朝廷に勲功評価の条件闘争を仕掛け、これを脅かしたが、平将門の乱を収拾して西国に軍事力を集中させた朝廷軍の追討を受けて滅ぼされた。

956 駿河国司は、国司・郡司らの「帯剣」つまり武装することを太政官に申請し、勅許を得た。

1051 前九年の役
1083 後三年の役
   


蝦夷政策に関係の深い人物
阿倍比羅夫
概要
氏姓は阿倍引田臣。冠位は大錦上。越国守・後将軍・大宰帥を歴任した。
658年(斉明天皇4年)から3年間をかけて日本海側を北は北海道までを航海して蝦夷を服属させ、粛慎と交戦した。

生涯
658年(斉明天皇4年)
蝦夷に遠征する。
降伏した蝦夷の恩荷を渟代・津軽二郡の郡領に定め、有馬浜で渡島の蝦夷を饗応する。

659年(斉明天皇5年)
蝦夷国を討つ。
阿倍は一つの場所に飽田・渟代二郡の蝦夷241人とその虜31人、津軽郡の蝦夷112人とその虜4人、胆振鉏の蝦夷20人を集めて饗応し禄を与える。
後方羊蹄に郡領を置く。
粛慎と戦って帰り、虜49人を献じる。

660年(斉明天皇6年)
粛慎を討つ。
大河(石狩川、あるいは後志利別川と考えられる)のほとりで粛慎に攻められた渡島の蝦夷に助けを求められる。
粛慎を幣賄弁島(へろべのしま。樺太説、奥尻島説がある)まで追って彼らと戦い、能登馬身龍が戦死するもこれを破る。

662年(白村江の戦い)
中大兄皇子(後の天智天皇)の命により、征新羅将軍として百済救援のために朝鮮半島に向かったが、翌663年新羅と唐の連合軍に大敗した。


大野 東人(おおの あずまびと)
概要
生誕不明~742年没。
糺職大夫・大野果安の子。姓は君のち朝臣。官位は従三位・参議。
多賀城を設置に貢献。

生涯
720年(養老4年)
蝦夷の反乱(征夷将軍・多治比縣守により鎮圧)後、まもなく蝦夷開拓の本拠として多賀柵を築く。

724年
持節大将軍・藤原宇合以下の遠征軍の副将軍として派遣された。

733年(天平5年)
そのごも蝦夷の開拓を進め、それまで最上川河口付近(現在の庄内地方)にあった出羽柵を雄物川河口付近(現在の秋田市付近)に移している。

737年
陸奥按察使兼鎮守将軍。
兵部卿・藤原麻呂が持節大使に任じられ、東人は精鋭の騎兵196騎、鎮兵499人、陸奥国兵5000人、帰順した夷狄249人を率いて色麻柵(現在の宮城県加美郡加美町城生か)から遠征に出発。
奥羽山脈を横断し、男勝村の蝦夷を帰順させて奥羽連絡通路を開通した。
東人は多賀柵に戻り、連絡通路開通について大使・藤原麻呂に報告を行っている


藤原 継縄 (ふじわら つぐただ)
概要
727年生誕~796年没。
藤原南家の祖である左大臣・藤原武智麻呂の孫。右大臣・藤原豊成の次男。官位は正二位・右大臣、贈従一位。

生涯
780年
陸奥国で蝦夷の族長であった伊治呰麻呂が反乱を起こし、按察使・紀広純を殺害したため(宝亀の乱)、これを鎮圧すべく継縄は征東大使に任ぜられた。
しかし継縄は準備不足などを理由にして平城京から出発しようとせず、遂に大使を罷免されてしまった(後任大使は藤原小黒麻呂)。
ただし特に叱責を受けたり左遷されるなどの処分は受けていない。


百済王 俊哲(くだらのこにきし しゅんてつ)
概要
740頃生誕-795年没。
右京大夫・百済王理伯の子。官位は従四位下・陸奥鎮守将軍。勲等は勲三等。

生涯
775年(宝亀6年)
鎮守将軍・大伴駿河麻呂らに従って、陸奥国で叛乱を起こし桃生城に侵攻した夷俘を鎮圧・服従させた。
俊哲は勲六等の叙勲を受ける(この時の位階は従六位下)。

780年(宝亀11年)
3月に発生した宝亀の乱と前後して従五位下、次いで4月に従五位上と続けて昇進し、同年6月には反乱鎮圧のために鎮守将軍・藤原小黒麻呂の配下として陸奥鎮守副将軍に任ぜられる。

787年(延暦6年)
何らかの事件に連座し日向権介に左遷されるが、790年(延暦9年)赦免され入京を許される。
免罪の理由として、その武官としての才が惜しまれたため、または百済王氏を外戚とする詔が出されたことによる同氏への待遇の上昇のためであるとの説がある。

791年(延暦10年)
蝦夷征討を目的に坂上田村麻呂と共に東海道に派遣されて兵士の検閲と武具の検査を実施、まもなく下野守に任ぜられ、さらに同年中に征夷副使・陸奥鎮守将軍を兼ねた。

補足:百済王氏
百済最後の王である義慈王の子である善光を始祖とする日本の氏族。
持統朝に百済王の氏姓を賜与された。


伊治呰麻呂 (これはり/これはる の あざまろ)
概要
奈良時代の東北地方で活動した蝦夷の指導者。姓は公。官位は外従五位下・上治郡大領。
780年(宝亀11年)に伊治城宝亀の乱(伊治呰麻呂の乱)を起こした。

生涯
778年(宝亀9年)
伊治呰麻呂は夷俘の出身であったが、国府に仕えて上治郡(伊治郡か)の大領となり、出羽国の管轄にあった志波村の蝦夷征討に功を挙げ、ヤマト王権より外従五位下に叙せられた
陸奥国按察使の紀広純は初め呰麻呂を嫌ったが、のちには大いに信頼を寄せるようになった。
しかし、同じ俘囚出身である牡鹿郡大領の道嶋大盾は、(卑しい)夷俘の出であるとして呰麻呂を見下し侮ったため、呰麻呂は内心深く恨んでいたという

780年(宝亀11年)
新たな城柵として覚鱉城(かくべつじょう)が築かれる際、既成の城柵である伊治城を紀広純が訪れたが、この機会を捉えて呰麻呂は俘囚の軍を動かして反乱を起こし、まずは大盾を殺し、次に広純を多勢で囲んで殺害した。宝亀の乱(伊治呰麻呂の乱)
陸奥介の大伴真綱だけが囲みを破って多賀城に逃れた。

城下の住民は多賀城の中に入って城を守ろうとしたものの、真綱が陸奥掾の石川浄足とともに後門から隠れて逃げたため、住民もやむなく散り散りになった。
数日後、蝦夷軍は城に入って略奪行為を働き、焼き払って去った。
呰麻呂の行動記録は、この伊治城における反乱の後、途絶する。

ただちに中央政府は中納言・藤原継縄、次いで参議・藤原小黒麻呂を征東大使に任命して征討軍を出動させたが、なんら成果は得られず、戦闘は拡大した。

この後の呰麻呂の動静については、史料に記載無く不明である。
もし、呰麻呂が中央政府軍に敗れて殺されるようなことがあれば『続日本紀』が記したであろうことから、記録の欠落は呰麻呂がそうした最期を迎えなかったことを示唆する。
なお、反乱の結果、伊治城とその周辺地域は中央政府による蝦夷経営の支配を何年かの間は逃れたものの、やがては再び制圧された。


紀古佐美(きの こさみ)
概要
733年生誕-797年没
正三位・大納言、贈従二位。勲等は勲四等。

生涯
788年(延暦7年)
7月に征東大将軍に任じられ、12月に節刀を受けて蝦夷の征討に赴く。

789年(延暦8年)
3月末に衣川(現在の岩手県西磐井郡平泉町付近)に陣を敷くが、1ヶ月以上に亘り軍を動かさなかった。
このことから、5月中旬に桓武天皇の叱責を受ける
これを受けて古佐美は5月末に大規模な渡河を伴う軍事行動を起こすが、蝦夷の族長であるアテルイの反撃に遭い、別将の丈部善理ら戦死25人、溺死1036人もの損害を出して大敗した(巣伏の戦い)。


大墓公阿弖流為(アテルイ)
概要
平安時代初期の蝦夷の軍事指導者。大墓公阿弖利爲(たものきみあてりい)。
紀古佐美率いる朝廷軍を巣伏の戦いで撃退したが、続く大伴弟麻呂、そして坂上田村麻呂率いる朝廷軍にたて続けて敗北。
のち自ら降伏し、田村麻呂も助命を嘆願するが、京の公卿達の反対により河内国で処刑された。

詳細は、「アテルイ」


坂上田村麻呂(さかのうえの たむらまろ)
概要
平安時代の公卿、武官。名は田村麿とも書く。姓は忌寸のち大忌寸、大宿禰。
官位は、大納言正三位兼右近衛大将兵部卿。勲二等。贈従二位。

詳細は、「坂上田村麻呂」


藤原 緒嗣(ふじわら おつぐ) 
概要
774年生誕~843年没。
藤原式家、参議・藤原百川の長男。官位は正二位・左大臣、贈従一位。
蝦夷征討と平安京造営の中止を奏上。

生涯
徳政論争
805年(延暦24年)、緒嗣と同僚の参議・菅野真道は桓武天皇より現在の政治の問題点について質問を受けた。
緒嗣は開口一番
「方今天下の苦しむ所は、軍事と造作なり。此の両事を停むれば百姓安んぜん(今、天下の人々が苦しんでいるのは、蝦夷平定と平安京の建設です。
この二つを止めればみんな安心します)」と述べた。
長年天皇に仕え、身分の低い学者から抜擢を受けた老齢の真道は天皇の意向を汲んで必死に反論をしたものの、ついに天皇は緒嗣の主張を受け入れてライフワークとも呼ぶべき事業である、蝦夷平定と平安京の建設の中止を宣言した。
なお、桓武天皇は翌年に崩御した。


文室 綿麻呂(ふんや わたまろ)
概要
765年生誕~823年没。
備前守・三諸大原の長男。官位は従三位・中納言、勲四等

生涯
延暦20年(801年)
坂上田村麻呂らと共に蝦夷征討のために東北地方へ派遣された。

810年
薬子の変後、大蔵卿・陸奥出羽按察使を兼ね、東北地方に駐在して蝦夷征討の責任者を務める。

811年
征討によって蝦夷を制圧し、辺境の防衛体制を解除させた功労により、従三位に叙せられ、勲五等の叙勲を受けている。



蝦夷政策に関する諸説
天智系と天武系での蝦夷政策の温度差について
700年代の対蝦夷政策・行動において、前半は比較的温和な対応。
しかし光仁朝から強攻策へと変化する

光仁朝はいわゆる天智天皇の血筋となる。
蝦夷政策にこのことが関係しているのか、それとも偶然なのかは不明。

東北と出雲の関係
大和朝廷は出雲に国譲りをさせたとされるが、これは征服戦争があったとも考えられる。
出雲と東北との関係は言葉や風俗でも取り沙汰されている。
蝦夷征討はその延長なのか否かは不明。




初載2018-12-3

 
参考資料
『蝦夷―古代東北人の歴史』 高橋崇 中央公論新社、中公新書、1986年
「東北学/忘れられた東北」 赤坂憲雄、講談社学術文庫
「東北ルネサンス」 赤坂憲雄、小学館文庫
「日本史リブレット 蝦夷の地と古代国家」 熊谷公男、山川出版社
「ジュニア版古代東北史」 新野直吉、文献出版
「アジア太平洋レビュー2011 アテルイ復権の軌跡とエミシ意識の覚醒」 岡本雅享
「日本の深層 縄文・蝦夷文化を探る」 梅原猛、集英社文庫
「蝦夷-東北の源流」 河北新報社編集局
「マンガで読む房住山昔物語」 立松昴治、岩城紘一

「日本人のくらしと文化」 宮本常一、河出文庫
「古代豪族系図集覧」 東京堂出版 1993
「2014青森ねぶ祭」 青森ねぶた祭実行委員会発行

ウキペディア 「蝦夷」

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