吉備(きび)国
吉備国について
現在の岡山県全域と広島県東部と香川県島嶼部および兵庫県西部(佐用郡の一部と赤穂市の一部など)にまたがる古代有数の地方国家。
後の令制国では備前国・備中国・備後国・美作国にあたる。

吉備は古代、畿内や出雲国と並んで勢力を持っていたといわれ、巨大古墳文化を有していた。
また、優れた製鉄技術があり、それが強国となる原動力であったとされる。
『古事記』中巻、第7代孝霊天皇の段などに兵庫県の加古川以西が吉備であると捉えられる説話があり、加古川を国境としていた時期があると考えられている。

吉備勢力は出雲征服を試みるも完遂寸前に出雲東部の意宇王の前に失敗。
以後、ヤマト政権と同盟して列島の統一・治世に貢献し、古墳時代から飛鳥時代まで繁栄した地方として重視された。
河内王朝時代には、ヤマト政権中央部に対抗するほどの勢力を誇ったが、これがヤマト政権の警戒を呼んだのか、後はヤマト政権の謀略などで勢力が削減されていった。


沿革
弥生時代
この地方独特の特殊器台・特殊壺は、綾杉紋や鋸歯紋で飾られ、赤く朱で塗った大きな筒形の土器で、弥生時代後期の後半(2世紀初めから3世紀中頃まで)につくられ、部族ごとの首長埋葬の祭祀に使われるようになり、弥生憤丘墓(楯築弥生憤丘墓)や最古級の前方後円墳(箸墓古墳・西殿塚古墳)から出土しており、後に埴輪として古墳時代に全国に広まった。

古墳時代前期
吉備地方の現在の岡山平野南部は内海となっていた(吉備穴海、もしくは吉備内海と呼ばれる)。
4世紀からこの内海の近くに多数の前方後円墳が造られた。

古墳時代中期
5世紀にヤマト政権内で権力を掌握した大泊瀬幼武大王(雄略天皇)は地域国家連合体であった国家をヤマト王権に臣従させて中央集権を進めるために、最大の地域政権の一つ吉備に対して「反乱鎮圧」の名目で屈服を迫った。
吉備下道臣前津屋の乱(463年)と吉備上道臣田狭の乱(463年)の「反乱鎮圧」を成功させてヤマト王権の優位を決定づけた。
さらに雄略の死の直後の吉備稚媛(雄略妃)と星川稚宮皇子(雄略の息子)の乱(479年)でまたしても吉備の勢力を削減させている。
造山古墳、作山古墳は建造当時で全国最大級、日本全史を通じても全国4位・9位の巨大さを誇り、吉備地方の繁栄とこの地の豪族の力を示すものである。

古墳時代後期
6世紀半ばからは巨大な石で構成した横穴式石室を持つ円墳が造られた。
吉備は弥生時代からの塩の生産地であり、さらに6世紀後半には鉄生産が開始された。

飛鳥時代
7世紀の吉備地方には、複数の豪族が並び立っていたと考えられている。
『国造本紀』によれば、吉備地方には吉備氏のもとに大伯氏、上道氏、三野氏、下道氏、加夜氏(賀陽氏、賀夜氏、香屋氏)、笠臣氏、小田氏があった。
この中の下道氏と笠氏は、後に朝臣の姓(かばね)を名乗る(吉備朝臣)。
奈良時代の学者・政治家の吉備真備は下道氏である。
ヤマト政権は吉備国の強大さを警戒し、7世紀後半に備前国、備中国、備後国に分割した。

奈良時代
8世紀にさらに美作国を分立させた。


律令制下における郡
備前国
  和気郡  磐梨郡  邑久郡  赤坂郡  上道郡  御野郡  津高郡  児島郡  

備中国
  都宇郡(津宇郡)  窪屋郡  賀陽郡(賀夜郡)  下道郡  浅口郡  小田郡(小多郡)  後月郡
  哲多郡  阿賀郡(英賀郡)

備後国
  安那郡  深津郡  神石郡  奴可郡  沼隈郡  品治郡  甲奴郡  三上郡  恵蘇郡  御調郡
  世羅郡  谿郡  三次郡

美作国
  英多郡(あいたぐん)  勝田郡(かつまたぐん)  苫田郡(とまたぐん)  久米郡(くめぐん)
  大庭郡(おおにわぐん・おおばぐん)  真島郡(ましまぐん)


国府・一宮など
備前国
国府
『和名類聚抄』および『拾芥抄』に、御野郡とある。
岡山市中区国府市場付近では関連遺跡と思われるものが発見されている。

国分寺
赤磐市和田にあった。

国分尼寺
赤磐市馬屋にあった。

一宮
『延喜式神名帳』には大社1座1社・小社25座20社の計26座21社が記載されている。
唯一の大社は邑久郡の安仁神社(岡山市東区西大寺)で、名神大社に列し、当初はこちらが備前国一宮であった。
中世に備中国の吉備津宮(現吉備津神社)から分立して備前国の吉備津宮(現吉備津彦神社、岡山市北区一宮)が創建されると、一宮を吉備津宮に譲り安仁神社は二宮となった。
他に、式内小社石上布都魂神社(赤磐市石上)も一宮を主張している。

総社
総社宮(岡山市中区祇園)である。

備中国
国府
賀夜郡にあった。現在の総社市金井戸付近と推定されるが、遺跡はまだ見つかっていない。

国分寺
現在の総社市上林(窪屋郡)にあり、遺跡が見つかっている。
国分寺は中世にいったん廃寺になったあと、江戸時代の宝永7年(1710年)に元の国分寺のそばに再建された。

国分尼寺
現在の総社市上林字皇塚にあり、国分寺より早く廃絶して再建されなかった。
現在遺構を残すのみである。

一宮
大社1座1社・小社17座17社の計18座18社が記載されている。
唯一の大社は賀夜郡の吉備津神社(岡山市北区吉備津)で、名神大社に列し、備中国一宮とされている。
三国に分かれる以前より吉備国一宮であり、分かれた後も三国の一宮とされた。吉備津神社より勧請を受けて備後国(現福山市)に吉備津神社 (福山市)、備前国に吉備津彦神社が創建され、それぞれの国の一宮とされた。美作国一宮の中山神社も吉備津神社からの勧請という説もある。二宮は鼓神社(岡山市北区上高田)。

総社
備中総社宮(総社市総社2丁目)である。
衰退・消滅した総社が多い中、広い境内と庭園風の池や大きな社殿を持つ立派な神社となっている。境内の広さ・社殿の大きさ・祀っている神の数では全国の総社中で日本一。
周辺は門前町として発展し、「総社」の地名が起こった。

備後国
国府
葦田郡、現在の広島県府中市元町付近

国分寺
福山市神辺町下御領に所在した。

国分尼寺
福山市神辺町湯野に所在したと推定される。

一宮
吉備津神社(福山市新市町宮内)
これは平安時代に備中国一宮の吉備津神社(岡山県岡山市)から分立したものであると社伝には伝えられるが、実際には12世紀ごろに創建されたものとみられ、一宮と称されるようになるのは中世以降である。

他の神社
素盞嗚神社(福山市新市町戸手)が一宮である。
延喜式神名帳には小社17座17社が記載されている。

総社
小野神社(府中市元町)境内社の総社神社
元々別の場所にあったものが衰退し、小野神社境内に遷座されたとされるが、元の場所は不明である。

美作国
国府
苫田郡にあった。現在の津山市総社にあったと推定されている。

一宮
大社1座1社・小社10座9社の計11座10社が記載されている。
唯一の大社は苫東郡 中山神社(津山市一宮)で、名神大社に列し、美作国一宮となっている。
二宮は高野神社(津山市二宮)、

総社
美作総社宮(津山市総社)で、この三社をもって「美作三大社」と呼ばれる。
他に、美作市滝宮(旧英田町)の天石門別神社(通称「滝宮」)が美作国三宮である。



参考資料  
「岡山県の歴史」 (山川出版 1997)

ウキペディア 「山陽道」 


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   米子(西伯耆)・山陰の古代史   







山陽道の旧国 米子(西伯耆)・山陰の古代史
播磨国・・・・兵庫県南西部
美作国・・・・岡山県東北部。和銅6年(713年)に備前国より分割された。
備前国・・・・岡山県東南部、香川県小豆郡と直島諸島,兵庫県赤穂市の一部。上国、近国。
備中国・・・・岡山県西部
備後国・・・・広島県東部
安芸国・・・・広島県西部
周防国・・・・山口県東南部
長門国・・・・山口県西部