筑紫国造と筑紫君磐井
筑紫国造
筑紫国造とは
筑紫国(現・福岡県西部)を支配した国造。

出自
8代孝元天皇→大彦命→→(五世孫)→→田道命(たみちのみこと)が初代筑紫国造とされる。
阿部臣(あべのおみ)と同祖となる。

国造任命時期
国造本紀(先代旧事本紀)によると13代成務天皇の時代とされる。


筑紫君磐井
磐井の身分
『筑紫国風土記』、古事記での表記=「筑紫君磐井」
『日本書紀』での表記=「筑紫国造磐井」
要点は、朝廷支配下の国造であったか否かである。

磐井の生涯
『日本書紀』には、ヤマト政権軍と交戦した際、将軍の近江毛野に対して磐井が「かつては同じ釜の飯を食べた仲ではないか」と呼びかけたとする記述があり、磐井は若い頃、九州からヤマトへのぼり、大王の元で毛野らとともに仕えた経験があると考えられている。

磐井は5世紀後半頃には既に肥前・肥後・豊前・豊後に跨る巨大勢力圏を有していたとみられている。



磐井の乱
概要
概要
527年(継体21)に朝鮮半島南部へ出兵しようとした近江毛野(おうみのけな)率いるヤマト政権軍の進軍を筑紫君磐井(つくしのきみいわい)がはばみ、翌528年(継体22)11月、物部麁鹿火(もののべのあらかい)によって鎮圧された反乱または王権間の戦争。

出典
磐井の乱に関する文献史料は、ほぼ『日本書紀』に限られているが、『筑後国風土記』逸文(「釈日本紀」巻13所引)や『古事記』(継体天皇段)、『国造本紀』(「先代旧事本紀」巻10)にも簡潔な記録が残っている。

なお、『筑後国風土記』には「官軍が急に攻めてきた」となっており、また『古事記』には「磐井が天皇の命に従わず無礼が多かったので殺した」とだけしか書かれていないなど、反乱を思わせる記述がないため、『日本書紀』の記述はかなり潤色されているとしてその全てを史実と見るのを疑問視する研究者もいる。


経緯
527年(継体21)
6月3日

ヤマト政権の近江毛野は6万人の兵を率いて、新羅に奪われた南加羅・喙己呑を回復するため、任那へ向かって出発した。
この計画を知った新羅は、筑紫(九州地方北部)の有力者であった磐井(日本書紀では筑紫国造磐井)へ贈賄し、ヤマト政権軍の妨害を要請した。

磐井は挙兵し、火の国(肥前国・肥後国)と豊の国(豊前国・豊後国)を制圧するとともに、倭国と朝鮮半島とを結ぶ海路を封鎖して朝鮮半島諸国からの朝貢船を誘い込み、近江毛野軍の進軍をはばんで交戦した。

ヤマト政権では平定軍の派遣について協議し、継体天皇が大伴金村・物部麁鹿火・許勢男人らに将軍の人選を諮問したところ、物部麁鹿火が推挙された。

8月1日
麁鹿火が将軍に任命された。

528年(継体22)
11月11日
磐井軍と麁鹿火率いるヤマト政権軍が、筑紫三井郡(現福岡県小郡市・三井郡付近)にて交戦した。
激しい戦闘の結果、磐井軍は敗北した。
日本書紀によると、このとき磐井は物部麁鹿火に斬られたとされているが、『筑後国風土記』逸文には、磐井が豊前の上膳県へ逃亡し、その山中で死んだ(ただしヤマト軍はその跡を見失った)と記されている。

12月
磐井の子、筑紫君葛子(つくしのきみくずこ)は連座から逃れるため、糟屋(現福岡県糟屋郡付近)の屯倉をヤマト政権へ献上し、死罪を免ぜられた。

529年(継体23)
3月

ヤマト政権(倭国)は再び近江毛野を任那の安羅へ派遣し、新羅との領土交渉を行わせた。

補足
『古事記』より
筑紫君石井(いわい)が天皇の命に従わないので、天皇は物部荒甲(あらかい)と大伴金村を派遣して石井を殺害させた、と簡潔に記している。

『国造本紀』より
磐井と新羅の関係を示唆する記述がある。


磐井の乱の原因と意義
負担増による不満が原因とする説。
ヤマト政権による朝鮮出兵が再三に渡ったため九州地方に負担が重なり、その不満が具現化したため。

統一過程での乱とする説
継体期前後に国家形成が進展し、ヤマト政権が各地域の政治勢力を併合していく過程の中で、磐井の乱が発生したとする。

朝鮮半島との関係が原因とする説
ヤマト政権・百済の間で成立した連合に対し、磐井が新羅との連合を通じて自立を図ったためとする。


異説・俗説
九州王朝説
当時、北九州にはすでにヤマト政権とは別個の政権(倭国政権:九州王朝)があった。中国で言う倭王とは実は磐井王のことで、倭国政権すなわち九州王朝では独自の元号(九州年号)や外交主権等を持ち、むしろ倭国政権に対して反乱を起こしたのは外交権を独占しようとする継体(畿内ヤマト又は九州内の豪族)側だったとする説がある。

磐井生存説
筑後国風土記では、この時磐井は豊前国まで逃げて行方不明(あるいは死亡)になったとされている。


磐井の墓
@筑紫風土記逸文(釈日本紀十三の引用)
筑後の国の風土記にいう、−上妻の県。
県の南方二里に筑紫君磐井の墳墓がある。
高さは七丈、周囲は六丈である。
墓の区域は南と北とはそれぞれ十六丈、東と西とはそれぞれ四十丈である。
石人と石盾と各六十枚が、交互に並んで列をつくって四方にめぐらされている。
東北の隅にあたるところに一つ別になった区画があって、名づけて衙頭(がとう)という。《衙頭は政所(まつりごとどころ)である。》その中に一人の石人があって、ゆったりとして地上に立っている。
名づけて解部(ときべ)という。その前に一人の人がいて、裸で地に伏している。
名づけて偸人(ぬすびと)という。
《生きていたとき猪を盗んだ。それで罪の決定を受けようとしている。》側に石猪が四頭いる。贓物(ぞうもつ)と名づける。
《贓物とは盗んだ物のことである。》その処にまた石馬が三疋、石の殿が三間、石の倉が二間ある。
古老はいい伝えていう、雄大迹の天皇(継体天皇)のみ世にあたって、筑紫君磐井は豪強・暴虐で皇化に従わない。
生きている間に、前もってこの墓を造った。
突如として官軍が動員され、これを襲おうとしたがその勢力に勝てそうもないことを知って単身、豊前の国に上膳の県に逃げて、南の山のけわしい峰の間で生命を終わった。
そこで官軍は追い求めたがその跡をうしなった。
兵士たちは憤慨やるかたなく、石人の手をうち折り、石馬の頭を打ちおとした。
古老はいい伝えて、上妻の県に重病人が多いのはおそらくはそのせいではあるまいか、といっている。

A岩戸山古墳
九州地方で二番目に大きい前方後円墳(墳丘長138m)。
『筑紫国風土記』などによると、この岩戸山古墳が磐井の墓だと言われている。
昭和21年ころから岩戸山古墳の調査が進められ、昭和31年に磐井の墓であると正式に認定された。
巨大な前方後円墳の構築は、大和朝廷から許可された地方豪族に限られるとされている。
岩戸山古墳の場合、基本形は前方後円墳だが、、畿内にある前方後円墳とはかなり形状は異なる。

反逆者には似つかわしくないほど大規模な墳墓であり、反逆後に大きい墳墓を作る余力があったのかとか、生前に築造したものならなぜ反逆後にそのような大きい墳墓が取り壊されなかったのかなど、様々な議論を呼んでいる。
『筑後国風土記』逸文によれば、磐井は生前から自らの墓を築造していたとされるが、真偽は不明である。


参考資料

ウキペディア「磐井の乱」


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筑紫国造磐井君と磐井の乱
磐井の乱
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