風土記について | ||||
風土記に記すべき内容 | ||||
1 郡郷の名(好字を用いて) 2 産物 3 土地の肥沃の状態 4 地名の起源 5 伝えられている旧聞異事 |
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諸国の風土記 | ||||
完全に現存するものはないが、『出雲国風土記』がほぼ完本で残り、『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損して残る。 その他の国の風土記も存在したはずだが、現在では、後世の書物に引用されている逸文からその一部がうかがわれるのみである。 ただし逸文とされるものの中にも本当に奈良時代の風土記の記述であるか疑問が持たれているものも存在する。 |
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B:五カ国の風土記の内容 | ||||
現存する風土記は、出雲、播磨、肥前、豊後、常陸の5つ。他は丹後のように逸文として残っている。 |
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1:出雲国風土記 | ||||
ほぼ完全な形で現存する唯一の風土記。 詳細は、出雲国風土記-A(概要)へ |
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2:播磨国風土記(はりまのくにふどき) | ||||
播磨国風土記とは | ||||
播磨国風土記 奈良時代初期に編纂された播磨国の『風土記』である。 平安時代末期に書写された写本が国宝に指定されている。 成立経過 『続日本紀』の和銅6年(713年)5月2日の条には令制国に下記の事項を記した報告書を提出せよと命じたことが記されている。 成立年代に関する史料は残されていないが、霊亀元年(715年)あるいは霊亀3年(717年)に地方の行政組織が国・郡・里から国・郡・郷・里となったこと(古代日本の地方官制)、播磨国風土記では国・郡・里が用いられていることから霊亀元年前後に成立したものと見られている。 |
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大帯日子命(景行天皇)と印南別嬢(播磨稲日大郎姫)の伝承 | ||||
伝承概要 八咫剣・八咫勾・麻布都鏡で正装した大帯日子命が印南別嬢へ妻問いに明石郡までやってきたが、それを聞いた印南別嬢は驚いて南毘都麻島に隠れてしまった。 賀古松原で別嬢を探していると、海に向かって吠えている犬を見つけた。 その犬が別嬢の犬であることを知り、天皇は海を渡った。 妻がなびた(隠れた)島であるので南毘都麻島(なびつまのしま)と呼ばれるようになった。 別嬢と会うことができた天皇は求婚し、夫婦となった。 年月が過ぎ、別嬢が亡くなって日岡に葬られることになった。 遺骸を船に乗せ印南川(加古川)を渡らせていると突風で遺骸が川の中に流されてしまった。 遺骸探したが見つからず、見つかった遺品の匣・褶を埋葬し墓としため、比礼墓(日岡陵)と呼ばれるようになった。天皇は悲しみ、「この川の物は食べない」と言った。これにより、この川の鮎は贄として出されなくなった。 補足 |
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大汝命(大国主)と火明命(天火明命)の伝承 | ||||
伝承概要 大汝命の子である火明命は乱暴者であった。 そのことを憂いた大汝命は置き去りにすることを考えた。 因達神山まで来たところで、火明命に水を汲みに行かせ、その間に船を出して大汝命は逃げてしまった。 置き去りにされたことがわかった火明命は怒り狂って波風を立たせ、大汝命の船を転覆させてしまった。 船・波・船から落ちた積荷にちなみ十四丘の名前が付けられた。 補足 記紀神話では火明命はニニギの兄とされ、旧事本紀では火明命は大国主の娘婿とされている。 |
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葦原志許乎命(大国主)・伊和大神・大神と天日槍命(アメノヒボコ) | ||||
伝承概要 渡来神である天日槍命が宇頭川(揖保川)にやってきた。 土着の神である葦原志許乎命に「宿るところはないか」と尋ねたところ、志許は海中を許可した。 すると日槍は剣で海水をかき混ぜて勢いを見せ、そこに宿った。 日槍の勢いに危機を感じた志許は、先に国占めをしようと川をさかのぼっていった。 このとき丘の上で食事をしたが、このとき米粒を落としたため、粒丘と呼ばれるようになった。… 葦原志許乎命と天日槍命は山からお互い3本の葛を投げた。 志許の1本は宍粟郡御方に落ち、残り2本は但馬の気多郡・養父郡に落ちた。 日槍は3本とも但馬に落ちたため、但馬の出石に住むことになった。 補足 播磨を国占めする神、天日槍命と争う土着の神として葦原志許乎命・伊和大神・大神が記されているが、同神か別神かについて諸説ある。 神や天皇が物を落とす(上記のように意識的に落とす例は少ない)記事は、落とした所がその神(天皇)に関する勢力の土地であることを表す。 この説話にはうけいの面もある。 |
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大汝命(大国主)と小比古尼命(スクナビコナ) | ||||
伝承概要 大汝命と小比古尼命との間で「粘土を担いで行くのと糞を我慢して行く、どちらが先に行けるか」という話になった。 大汝命は糞を我慢して行き、小比古尼命は粘土を担いでいくこととなった。 数日後、大汝命は「私は我慢できない」とその場で用を足してしまった。 小比古尼命も笑いながら「疲れた」と粘土(ハニ)を岡に放り出した。このためハニ岡と呼ばれるようになった。 また、大汝命が用を足したときに、笹が弾き上げて服についてしまった。 このため波自賀村(はじかのむら)と呼ばれるようになった。この粘土と糞は石となって今もあるという。 補足 |
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意奚(仁賢天皇)と袁奚(顕宗天皇) | ||||
伝承概要 意奚と袁奚の父である市辺天皇(市辺押磐皇子)が近江国の摧綿野で殺された。 このとき、2人は日下部連意美を連れて美嚢郡志深里にある岩室に隠れた。 後に日下部連意美は罪の重さから、馬を放し、荷物を焼き払って自殺してしまった。 意奚と袁奚はあちこち転々としたが、志染村首伊等尾の家で仕えることになった。 伊等尾の催した宴の場で弟の袁奚が歌を歌い、歌詞でその正体を明かした。 このことが播磨国山門領・山部連少楯に知らされた。少楯は2人と会い母である手白髪命が心配していることを伝えた。 都に上った少楯がこれを報告し、2人の皇子が迎え入れられた。意奚と袁奚は再びこの地を訪れたおり、宮と屯倉を造営した。 この宮にいる頃、2人の皇子は国造許麻の娘・根日女命に求婚した。 根日女命はこれに応じたが、意奚と袁奚は譲り合ったため話がまとまらなかった。 しばらくして根日女命が亡くなった。2人の皇子は大いに悲しみ、「朝夕、日の光がさす地に、墓を作り埋葬しよう。 玉で墓を飾るように。」と少楯に指示した。 補足 墓は玉丘(玉丘古墳)、村は玉野と呼ばれるようになった。 |
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3:肥前国風土記(ひぜんのくにふどき) | ||||
肥前国風土記とは | ||||
肥前国風土記 奈良時代初期に編纂された肥前国(現在の佐賀県・長崎県)の風土記である。 現存する5つの風土記のうちの1つ。 成立経過 郷里制が行政区域として採用されていること、軍事面に関する記事についても詳細に記されていることから、天平3年(732年)の節度使設置以後、同11年(740年)の郷里制廃止以前に限定する見解が有力とされているが、確証はない。 豊後国風土記』との共通点が多いことから、大宰府が主導して管下の各令制国において同時期に編纂されたとする見方もある。 特徴 景行天皇や神功皇后の伝説と密接な関係にある説話や土蜘蛛・女性賊長にまつわる説話が多く記載されている。 『日本書紀』などの先行史料の影響を強く受けている記述がある。 |
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4:豊後国風土記(ぶんごのくにふどき) | ||||
豊後国風土記とは | ||||
豊後国風土記 奈良時代初期に編纂された豊後国(現在の大分県)の風土記である。 現存する5つの風土記のうちの1つ。 成立経過 成立年代は不詳であるが、『日本書紀』中の景行紀とほぼ一致する記事が含まれること等から、720年以降で、遅くとも740年頃までの間であると考えられる。 また、編者も不詳であるが、大宰府が深く関わっていたと推定される。 一説では、723年に西海道節度使として大宰府に着任した藤原宇合が、九州の他の国の風土記と合わせてわずか10か月ほどで完成させたともいわれる。 |
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国名の由来 | ||||
景行天皇の命で国を治めていた菟名手(うなで)が豊前国仲津郡(現在の大分県中津市)を訪れたところ、白鳥が飛来し、はじめは餅に化し、その後、冬にもかかわらず何千株もの芋草(里芋)に化して茂った。菟名手がこれを天皇に報告したところ、天皇は「天の瑞物、土の豊草なり」と喜び、この地を「豊国」と名付けた。 これが後に二つの国に分かれて豊後となった。 |
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常陸国風土記(ひたちのくにふどき) | ||||
常陸国風土記とは | ||||
常陸国風土記 奈良時代初期の713年(和銅6年)に編纂され、721年(養老5年)に成立した、 常陸国(現在の茨城県の大部分)の地誌である。 口承的な説話の部分は変体の漢文体、歌は万葉仮名による和文体の表記による。 成立経過 元明天皇の詔によって編纂が命じられた。 編纂者は詳しくは不明だが、藤原宇合や高橋虫麻呂らが関与しているといわれている。 |
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常陸国の名の由来 | ||||
説1 然名づける所以は、往来の道路、江海の津湾を隔てず、郡郷の境界、山河の峰谷に相続ければ、直道(ひたみち)の義をとって、名称と為せり。 説2 倭武(やまとたける)の天皇、東の夷(えみし)の国を巡狩はして、新治の県を幸過ししに国造 那良珠命(ひならすのみこと)を遣わして、新に井を掘らしむと、流泉清く澄み、いとめずらしき。時に、乗輿を留めて、水を愛で、み手に洗いたまいしに、御衣の袖、泉に垂れて沾じぬ。すなわち、袖を浸すこころによって、この国の名とせり。風俗の諺に、筑波岳に黒雲かかり、衣袖漬(ころもでひたち)の国というはこれなり。 |
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B:諸国の風土記の内容(逸文) | ||||
1:伯耆国風土記(ほうきのくにふどき) | ||||
別項、伯耆国関連の古文献(伯耆国風土記、伯耆民諺記、伯耆誌)へ |
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2:丹後国風土記(たんごのくにふどき) | ||||
丹後国風土記』とは | ||||
丹後国風土記 逸書であるため、内容は 『釋日本紀』 などでの引用によるしかない。 成立経過 風土記編纂が命じられたのが和銅6年(713年)であるため、原本は遅くとも8世紀中にはできていたと思われる。 特徴 数多くある風土記逸文の中でも比較的長文が残されており、最古の部類に入る浦島伝説、羽衣伝説の記述は万葉仮名書きの和歌が入っている点も含めて特筆すべきものである。 他に、天橋立の伝承もある。 |
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浦島伝説 | ||||
浦島伝説について 筒川嶼子 水江浦島子」という項目に浦島伝説の記述がある。 「天上仙家」や「蓬山」が出てくるなど中国渡来の神仙思想が伺える。 「水江浦島子」が童話に出てくる浦島太郎である。 浦島伝説詳細 「伝承・説話・昔話-浦島伝説」へ |
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羽衣伝説 | ||||
丹後国の羽衣伝説について 「比治真奈井 奈具社」という項目に記述がある。 各地に伝わる羽衣伝説とは違い、物語の筋が一風変わったものになっている。 この里の比治山頂の麻奈井の湖(今は既に沼となったと書かれる)で、天女八人が水浴びしていたとき、和奈佐という老夫婦は一つの羽衣を隠し、帰れなかった天女を子にした。 そのおかげで家は富む。 しかし豊かになると「汝は吾が子ではない」と言い天女を追い出してしまう。 天女は慟哭しつつそこを去り、歌を詠む。 「天の原 降り放け見れば 霞立ち 家路惑ひて 行方知らずも」 追い出した老夫婦の村はその後荒れ、天女は現在の竹野郡弥栄町の奈具神社に豐宇加能賣命(トヨウケヒメ)として祀られることになったという。 羽衣伝説詳細 「伝承・説話・昔話-羽衣伝説」へ |
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3:備後国風土記(びんごのくにふどき、きびのみちのしりのくにのふどき) | ||||
備後国風土記とは | ||||
備後国風土記 奈良時代初期に編纂された備後国の風土記。 鎌倉時代中期、卜部兼方によって記された釈日本紀に、「備後国風土記逸文」として「蘇民将来」の逸話が伝存している。 |
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参考資料 | ||||
「出雲国風土記」 (講談社学術文庫 1999 萩原千鶴)) 「出雲国風土記と古代遺跡」 (山川出版 2002) 「風土記にいた卑弥呼」 (朝日文庫 1995 古田武彦) 「出雲国風土記の謎」 (毎日新聞社 1990 朴ピョング植) Wikipedia 「風土記」 |
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