第6回 金印シンポジウム
日時: 2012年 10月19日ー21日    場所: 福岡市役所15階大会議室・講堂
 
参加者 : 坂田 黒田 杉谷 八尾
10月19日午後 : あづみ・しかネットワーク会議(於:志賀島)
あづみ・しかネットワーク会議
  「米子の古代を考える会」(米子市)4名、「安曇族研究会」11名、「安曇誕生の系譜を探る会」(長野県安曇野市)4名、、「安曇あづみの会」(滋賀県高島市)2名、「九州古代史の会」1名が参加。
あづみ・しかネットワークの構築について話合い。

写真は「安曇族研究会」から借用


10月20日 :午前8時〜 志賀島探訪
志賀島
  博多港
まづは福岡市営渡船で志賀島へ。
早朝の市営渡船の乗客は私一人でした。何か申し訳ないような気持ちでした。


志賀島港
約20分で志賀島港に到着。
どこにも金印のシンボルが展示してあります。 

金印公園
所在地 福岡県福岡市東区大字志賀島

金印(漢委奴国王印)
江戸時代天明年間(1784年)、水田の耕作中に甚兵衛という地元の百姓が偶然発見したとされる。
発見者は秀治・喜平という百姓で、甚兵衛はそのことを那珂郡奉行に提出した人物という説もある。
一巨石の下に三石周囲して匣(はこ)の形をした中に存したという。
すなわち金印は単に土に埋もれていたのではなく、巨石の下に隠されていた。
発見された金印は、郡奉行を介して福岡藩へと渡り、儒学者亀井南冥は『後漢書』に記述のある金印とはこれのことであると同定したという。
なお、糸島市の細石神社には、「漢委奴國王」の金印が宝物として伝わっていたが江戸時代に外部に流出したとの伝承(口伝)がある。

志賀島到着後、安曇族研究会会員の皆様と金印公園を探索。


志賀海神社

全国の綿津見神社、海神社の総本社を称す。古代氏族の阿曇氏(安曇氏)ゆかり地として知られる。
式内社(名神大社)。官幣小社。現在は神社本庁の別表神社。

社伝では、古くは志賀島の北側において表津宮(うわつぐう)・仲津宮(なかつぐう)・沖津宮(おきつぐう)の3宮から成っていたが、阿曇磯良(あずみのいそら:阿曇氏祖)により、そのうち表津宮が志賀島南側に遷座して現境内となったという。
仲津宮・沖津宮は現在は摂社となっている。
その阿曇磯良は、神功皇后の新羅出征において舵取りを務めたとも伝えられる。

    御祭神
       左殿:仲津綿津見神 (なかつわたつみのかみ) 左殿相殿:神功皇后
       中殿:底津綿津見神 (そこつわたつみのかみ) 中殿相殿:玉依姫命
       右殿:表津綿津見神 (うはつわたつみのかみ) 右殿相殿:応神天皇

「安曇族研究会」11名の会員の皆さんと志賀海神社参拝。


10月20日午前11時〜 : 金印シンポジウム
基調講演 「古代の筑紫と北東アジア」  九州歴史資料館館長  西谷正氏
西谷正 氏  1938年(昭和13年)生まれ
  考古学専攻 朝鮮半島を中心に東アジアの古代史を比較考古学的に研究する。
  九州大学名誉教授、九州歴史資料館長、海の道むなかた館長、糸島市立伊都国歴史博物館名誉館長。

  大阪出身。奈良学芸大学(現・奈良教育大学)卒業。
  京都大学大学院文学研究科修士課程修了。奈良国立文化財研究所研究員、福岡県教育委員会 九州大学文学部助教授
  1987年 九州大学文学部教授、名誉教授、福岡大学教授。
  2004年 伊都国歴史博物館館長。
  2006年 日本考古学協会会長。


パネル討論・・・・・「阿(安)曇族の全国の伝承と足跡」  安曇・宗像族関係地代表
座長
  志賀島歴史研究会 岡本顕實氏

パネリスト
  1:安曇野 (長野県)穂高神社宮司 小平弘起氏
  2:米子(鳥取県 )米子の古代を考える会  黒田一正氏
  3:宗像(福岡県)宗像大社神宝館 元学芸員  松本肇氏
  4:五島(長崎県) 小値賀町歴史民族資料館 元学芸員  塚原博氏
  5:志賀島(福岡県)志賀島歴史研究会  坂本正孝氏

特別報告 「伊都国からみた志賀島」  伊都国歴史博物館 岡部裕駿氏

交流懇親会 於:ソラリア西鉄ホテル17階 会費4000円



10月21日 : 関連地 視察
宗像大社とその関連施設



宗像市郷土文化学習交流館 「海の道 むなかた館」
宗像の歴史の流れをたどるホール。
「海の道」をテーマに、市内の遺跡から見つかった貴重な出土品をはじめ、「交易・交通・民衆の生活」に関する資料、世界遺産登録を進めるコーナーなどが設けられています。

宗像大社
式内社(名神大社)で、旧社格は官幣大社。
日本各地に七千余ある宗像神社、厳島神社、および宗像三女神を祀る神社の総本社。

御祭神 宗像三女神(宗像三神)
        沖津宮(おきつぐう) : 田心姫神  中津宮(なかつぐう):湍津姫神  辺津宮(へつぐう): 市杵島姫神


宗像神宝館
昭和55年に神の島とも呼ばれる沖ノ島で行われた古代祭祀遺跡の発掘調査により発見された、4〜10世紀頃のものと見られる12万点余の奉献品を収蔵・展示する。

新原・奴山(しんばる・ぬやま)古墳群
  新原・奴山古墳群
福津市の勝浦地区をはじめ、国道495号線をはさむ一帯に広がる津屋崎古墳群の一部。
前方後円墳が5基、円墳42基、方墳1基と県内でも有数の規模を誇るもので、古墳時代後期につくられたものとされる。
特に中心的存在の22号墳は全長88メートルと大きく、その周囲に張り巡らされた溝や堤防の跡は当時の権威を感じさせるものとして、古代の有力豪族・宗像君一族の墓ではないかと言われている。

隣接して、縫殿宮、宮地嶽神社・宮地嶽古墳群、金山たたら製錬所跡(福岡県福津市津屋崎町渡:江戸中期以降・出雲よりたたら製鉄技術を導入)などがある。

「筑前続風土記」より
玄海灘(遠賀郡〜奈多)の海辺の砂の中に鉄砂が出る。これを鋳て鉄にする。当国の鉄砂は大変良質である。
この鉄砂を博多の職人が京・江戸の釜屋に持って行って見せると、大変称賛して、「このような鉄砂で鋳たのなら、古作の芦屋釜が素晴らしいのも納得だ」と言った。
鉄砂は小刀や包丁を磨くのにも使う。

 
宮地嶽神社とその関連施設

宮地嶽神社
神功皇后を主祭神とし、勝村大神・勝頼大神を配祀する。
創建は社伝では約1600年前にさかのぼるとされ、息長足比売命(神功皇后)が、三韓征伐の前にこの地に滞在し、宮地岳の頂に祭壇を設け祈願して船出したのが始まりといわれる。


宮地嶽神社 奥の宮八社
宮地嶽神社内には「奥の宮八社」と呼ばれる社が祀られている。
「一社一社をお参りすれば大願がかなう」といわれ、その起源は日本最大級の石室古墳発掘を機に不動神社を奉祀したことによる。

1:七福神社 2:稲荷神社 3:不動神社 4:万地蔵尊 5:淡島神社 6:濡髪大明神 7:三宝荒神
 


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