現在の上安曇・下安曇




安曇族ゆかりの地


01 森県南津軽郡平賀町志賀坊

12 長野県南・北安曇郡

23 滋賀県安曇川

02 宮城県遠田郡小牛田町志賀町

13 富山市安住町 

24 滋賀県志賀町

03 宮城県岩沼市志賀 

14 石川県志賀町安津見

24 京都府綾部市志賀郷

04 山形県飽海郡 

15 石川県志賀町

26 奈良県吉野町志賀

05 山形県温海町

16 岐阜市厚見

27 和歌山県かつらぎ町志賀

06 新潟県関川村安角

17 愛知県豊田市志賀 

28 和歌山県野上町志賀野小学校

07 長野県志賀高原

18 愛知県渥美町 

29 和歌山県日高町志賀

08 長野県佐久市志賀

19 名古屋市志賀地域

30 兵庫県宍粟郡一宮町安積

09 埼玉県嵐山町志賀 

20 滋賀県高月町東阿閉

31 米子市上・下安曇

10 山梨県富士吉田市大・小明見

21 滋賀県山東町志賀谷

32 大分県緒方町志賀

長野県白馬村〜糸魚川市(姫川)

22大津市滋賀里・南志賀

33 福岡市東区志賀島

 




安曇族を追って
はじめに
 安曇族の出自は、中国大陸の春秋時代に長江河口南域を拠点としていた呉の国です。
 呉は越との長年の戦争に敗れ滅ぼされると優れた農業の技術等の色々な技術をもって東シナ海を渡り北九州に亡命をした、そして福岡市東部の志賀島に住みついた海人の集団が安曇族です。

安曇族の渡来
 中国大陸の春秋時代に(BC770〜403年)、呉越同舟の熟語で有名な呉国と越国は長江の下流域にあって30年ほど戦い、BC473年に呉が滅びた。
 呉人は海人出身で優れた航海術を持っていたので、東シナ海を渡って日本列島の北九州へ亡命した。
 このことは中国史書に「倭人は呉の祖」と言われている「太伯の後裔」であり入墨などの習俗で共通すると書いてあることから分かる。
 
 又、両国の争いから出たもうひとつの有名な熟語に臥薪嘗胆がある。
 これは復讐の念を忘れないことから生まれた言葉であるが、北九州へ亡命して来た呉人はこの熟語通り、仇敵越へ復讐を誓い越の情報集めと軍資金を得るために、中国大陸へ出かけて交易を始めたその北九州の根拠地が現在の福岡市東区志賀島です。

 BC334年に仇敵越が楚に滅ぼされると復讐という目的をうしないますがそれまでの交易で身につけた商人として発展します。
 いわば戦闘集団から経済集団へ転換し、中国大陸から日本列島への移住を望む人たちを支援していきます。

 亡命者たちは、水田稲作、養蚕や漁撈の技術を持っていた。
 安曇族は中国大陸の交易が軌道に乗ると交易で取り扱う品を多くするため日本列島内にも交易網を広げていたから、鉄製品がまだ普及せず石や木の農具を使っての水田稲作と養蚕に適している地域の情報も持っていたし、魚介類が豊かで船を扱いやすい海岸の情報も持っていた。
 だから安曇族は亡命者たちに、水田稲作と養蚕に適した地へ、漁撈が得意な人たちへはそれに適した海岸を斡旋して住まわせた。
 その斡旋先での生産物は安曇族が一手に引き受け、日本列島内の交易も中国大陸との交易も大きく発展した。

 商業に重点を置いた政策をかかげた後漢の光武帝にとっては取引き先として大切な相手であったので安曇族へ「金印」を授けた。
 安曇族は呉の創建者の太白(たいはく)の教え「入郷従郷」の精神で日本列島の各地に入っても、すでにその地で祀る神を尊重した。神社名についても同じように「入郷従郷」の教えが伺える。本家の志賀海神社、大川市にある風浪宮、安曇野にある穂高神社、名古屋市にある綿神社と号しているように社号は統一されていない。


古代外洋船の大きさ
 5世紀の初め朝鮮半島や中国との交流に使われた外洋船は、全長15m、幅3m、高さ4m以上で、総トン数20〜30トン余り乗員は20〜30人位であったろうと推測される、そして、片舷に4人ずつ計8人によって櫓を操り国内外へ進出を果たした。
            (松枝 正根書 古代日本の軍事航海史)             
 
長さ20〜24m、巾3,2m、水手50人、武士26人、指揮官12人、舵見張り5人、都合93人、 舫船(二隻の船を並べたて組み合わせたもの)である。                     (史記)、(張儀列伝)

筑前安曇族五つの階層
   @   航海術を持っている者(安曇族)
 A  漁民(時は兵士)
 B   農民
 C   海運交易商人(商品を売る者、時には兵士)
 D   職人(専門の技術者)  
 
        米子の安曇地にはA、B、C、の人が上陸したと思われる。


安曇地の共通点
  @   小川で海とつながっている(下流部で船によって運搬出来る)
A   谷田(棚田)がある(土地が柔らかい、水の有効利用が出来る)   
     木のクワ、スキ等を使って耕せる地

 尚徳村誌では「法勝寺低地」について次の様に述べています
 法勝寺川によって運搬された砂礫(されき)や泥土が堆積して造られたいわゆる沖積平野である。
 この平野の特徴は細かい物質から構成されていて傾斜がきわめて緩く平坦である。
 「土地分類基調調査」によると低地の南端部にあたる、会見郡天万部落付近(地図の赤丸)の沖積層断面は砂層、粘土層、砂層、粘土層、の互層であって礫(れき〜小石、石ころ)は入っていない。

 小谷氏は「書 法勝寺川」の中で次のような見解を述べている。
 手間盆地通過の鉄道線路(法勝寺電車1924年 大正13年創業)に於ける多くの橋脚掘下地を見るに田面下は花崗岩まいらん(腐食)の石英長石の粗粒をふくみ、その上に多少の粘土を混じた層があってその以下は同様粗粒を伴った細砂の層がある。
 1m以下に於いて粘土層となっている。この土質から推考すれば盆地の一面はある地質時代に平静な水面であって、粘土層の沈静を見、次の地質時代に洪水毎に山地の花崗岩まいらん土砂を運搬沈積したものと見られる。

 表層の観察も昭和40年代の基本調査と一致していて狂いがない、表層の河川堆積物の下に米子市街地の地下にあるのと同じ貝殻をふくんだ海成層があると推定される。

 これらの考証の他に古老の伝える埋蔵物等の傍証(法勝寺川)があり、あれこれ総合するとこの低地が海であったことはほぼ確実のように思われる。
 この低地が米子地方で最も古くから拓かれた豊かな稲作地帯であったことは、周辺に見られる古代人の住居遺跡からもうかがう事ができる。 

*天明8年(1788)土蔵新築のさいの覚書きである、この中に、車尾村戸上から天津村福成まで荷船で石を運んだ際の費用明細書がある。

*明治26年水害兼久堤防決壊修築工事の際、戸上石運搬の石船は戸上から青木茶屋まで毎日あがった。

*昔の法勝寺川が今よりもっと底が深くて船運の便のあつたことを物語っている。

 一方下流域は、地球上の温度が今より高く、海水が上昇していて河川の埋立作用と地盤の隆起によって海はしだいに退却したが、縄文末期においても、海岸線は現在の海抜4〜5mの所にあり、面積にすれば縄文前期の入江の三分二以上がなお海であった。
 この海新期には宗像あたりまで海がきていて尚徳平野は入江になっていたかもしれない。


磐井の乱と安曇族
   壬申の乱(672年)と並んで、古代史最大の動乱と言われる磐井の乱は継体天皇の21年(527年)の6月、近江の毛野臣が6万の軍隊を率いて朝鮮半島へ渡ろうとしたのを筑紫国造(くにのみやつこ)は毛野臣の軍隊の渡海を妨げた。
 安曇族は磐井の側についていた。
 なぜなら彼らの本拠地である粕屋郡は磐井の子の葛子(くずこ)が支配していたからである。
 安曇族は磐井軍の海軍として玄界灘に展開していた、安曇族は粕屋郡を本拠地とする海軍だったから、軍事分断線の北に展開していた。
 彼らはおそらく博多湾から玄界灘に軍船を連ねてそこから戦況を眺めていた、つまり磐井軍は全滅したが安曇族は無傷であった葛子は信濃の安曇族と共に家族を連れ、財宝、家財、その他生活に必要な道具など船に積み込み、海路逃亡の途についたと想定出来る。
 彼らは遅くとも546年には越後に着き、そして糸魚川から姫川沿いに南下し信濃の有明山麓に落ちついたと思われる。
 一方米子の安曇族も少し遅れて(550年頃到着 私見)上陸地(安曇地)へ向かった。

安曇族と北九州との結びつき
   安曇族と北九州との結びつきをうかがわせる数多くの地名、神社がある(上安曇、下安曇、宗像(宗像神社)、兼久―高良神社等)。
 又法勝寺川、小松谷川支流域には角田徳幸氏も初期の横穴式石室との直接的な交渉によって受容された古墳が多くあることを論じている
 。船で海氏が北九州あたりから伯耆に移住してきたことは確実で(年代不詳、私見550年頃)これによって、相当な規模の集団があったことは明らかである。

安曇族が消えた理由
   「海人フォーラム」、 新川登喜男先生の基調講演から 流動性に富み結束の固い小規模な海部集団の生業形態を尊重しつつ何とか土地に拘束しておこうと墾田開発による稲作農民や稲作民導入と引き換えに陸にあがったと思われる。
 「海の民」を稲作民化させ班田収授や庸、調制などを介して土地に結び付け、常に行財政機関が把握しやすいようにしたいということなのです、
 同時に人口を増やして農耕生産力と生産量そして税収を高めようとしました。

大化改新 (645年)
  @   国、郡、里制による地方政権の朝廷集中
A   私有地、私有民の廃止
B   庸、調等の税制の統一
C   班田収受法男女6才に達すると国家より男で2反の口分田が授けられた。

 収穫の3パーセントの年貢はそんなに厳しいものではなかったが、都での強制労働、中央諸官庁での雑役、兵士、その上飢饉など世の中が不安定となり、又重税のため農民の中には耐えられず自分の土地を捨てて逃げ出す者もあらわれ、荒地が増加したため墾田永世私財法が制定された。
 このような状況のなか安曇族は農民となり陸にあがった。


安曇郷(族)に関する唯一の文書資料
   「伯耆国会見郡安曇郷戸主間人安曇O調?壱匹」と書かれた調布の白?断片が残っていて、現在正倉院に保管されている。764年には海人ではなくなり農民となり「?」を収めています。
 「伯耆―――壱匹」の20文字の中に安曇(族)が住んでいたことを証明できることが3つあります。

@安曇○○氏がいた
A調として?を壱匹納めた(安曇族しか?が織れなかった)
B朝廷から?を納めるように命があった、BC473年に呉の亡命者(安曇族)が初めて日本に養蚕の技術を持ち込んだ、朝廷もこのことを知っていた。
その後農民に桑の木を植えるよう、布を織るよう令が出た。尚近隣の郡、郷の調納物はほとんど昆布、小魚の?、であった。


三世一身の法 制定(723)
  土地の開墾をしても良い、但し孫の代までの三代しか自分のものでない、これで班田性が崩れた。


墾田永年私財法 制定(743)
   永年に渡って墾田した者の所有となる法が制定され財力、権力のある豪族、社寺が農民を使って開墾をして私有地を広げていった。律令制がくずれ、荘園制度が発生した。平安時代〜鎌倉時代へ


伯耆民談記(江戸時代中期の史書)
    平安時代末期〜鎌倉時代前期(1100〜1200)に庄園制度が出来る、1600年頃迄続く。
 @   富田庄〜後世、三崎、寺内、天万、上安曇、清水川村
 A   福田庄〜柏尾、谷川、坂根、境、大袋、下安曇村*富田庄は長者原の紀氏一門か、又はそれにゆかりのある人物かもしれない(会見町誌)*ここで初めて上安曇、下安曇の地名が出て来る。


上安曇集落について
   大永4年(1524年)尼子経久が、米子、天万、に乱入した時に天万、清水川、境の農民も手間要害山での戦いに山名氏の兵としてかりだされた。
 しかし戦わずして破れ城を明け渡して、それぞれの集落に戻った。その農民の人達の一部が江戸時代前期から中期にかけて上安曇地区に入村した。

  *江戸時代後期 1842年上安曇の戸数は13戸であった。 

尚徳村誌 尼子経久は続いて黒坂、淀江、尾高城を落とした。
 これらの戦いについて「伯耆民諺記」に「国中の人民戦死すること幾千万の数知れず、死人街に充満し、放火の余煙蒼天を暗まし、時は五月下旬の事なる故、今に至って老民の諺に五月崩れと云は此動乱のことなり」と結んでいる。
 下安曇、別所にあった、お寺は勿論のこと当たり一面焼け野原となり貴重な歴史資料、財産も全て灰となった。


安曇族を追っておわりに
   呉の亡命者(安曇族)が北九州に上陸し水田稲作、養蚕の技術を持ち込んでから約1,200年間続いた安曇族の活躍も終わりを告げた。大化改新(645年)によって海人から陸に上がり稲作農民、あるいは養蚕業へと変わり安曇族としての活動は終わった、平安時代後期には安曇族の名前は聞かれなくなった、以後、郷村の発生、荘園(庄)制度をへて会見郡尚徳村、(明治22年)へそして西伯郡尚徳村(明治29年)へ米子市合併(昭和28年)へと変還していった。 その後度重なる水害で土砂が流れ込み安曇の湖沼地は今、田園、果樹園(富有柿の里)となっている。

附 記
  内膳司について
 安曇族、すなわち安曇宿禰氏は長い間内膳氏という役所に勤め、しばしばその長官の要職を占め天皇家の食卓を預かった、安曇宿禰氏には高橋という強力なライバルがいた不始末により官位をはく奪され、内膳氏から追放されそして佐渡へ流された安曇族の運命を左右する重大事件であった。安曇族が消えてゆく要因ともなった。

安曇族と徐福 
 徐福とは山東半島の斉の国で生まれ育った人です、徐福は秦の始皇帝に東方にある蓬莱に、不老不死の霊薬があると具申し命をうけて財宝とともに数千人を従えて秦から東方に船出した。
 そのうち蓬莱にあたるのが和歌山県新宮市とされていて(日本全国に37ケ所の候補地がある)、徐福はその後新宮市に住みついたという。
 ここに住みついた徐福とその他の人達は大陸からの文化や農業、捕鯨漁、特に鉄製工農具、絹織物を作る機械技術等に関する技術を新宮市の人に伝え、ここ新宮市の地で没したと言われている。
 尚、和歌山県新宮市には神社、公園、碑、由緒板、徐福像、不老不死の木が植えてある。

貢納物の運送について
 大化改新の詔でうたわれた古代の道である。
 少なくとも律令時代の道路に対して、山辺の道のような狭い道や曲りくねった道。あるいは獣道のようなイメージを抱くのは誤りである。
 天皇の命令を広く全国に伝えるための七道で、山陰道についていえば丹波―丹後―但馬―因幡―伯耆―出雲―石見―隠岐という順路が定められていた。
 官道(現代の高速道路のように2車線〜4車線巾のまっすぐな道であった)都から放射線状に日本列島各地に延びる道で、東海道、東山道、北陸道、山陰道、山陽道、南海道、西海道、のことである。

貢納物運京、上京
 貢納物の輸送と都で働く人の移動、庸、調の運脚はその家から出すことになっていた、
 ただ実際には納入者全員の中から選ばれた者があたり、運脚は国司が率いて官道を上京していった。
 伯耆から都まで上り十三日、下り七日の行程であった。
 律令制がなくなると山陰道を利用する人は少なくなり、山越えの道を利用するようになった。

山越えの道
 根雨から四十曲り峠を越え、美作国津山を経て播磨国姫路へ至り、畿内へと結ぶ道。
 四十曲りは「四十九の曲り」あるいは「始終曲がる」との名前があるほど、超えるのに困難な峠であった。
 江戸時代には四十曲り峠は、参勤交代の為に整備された出雲街道随一の険路であり、江戸への道のりで最大の難所である箱根越えと双璧であった。


参考文献
  坂本 博    「信濃安曇族の謎を追う」   
坂本 博    「信濃安曇族のルーツを求めて」   
坂本 博    「信濃安曇族の残骸を復元する」   
亀山 勝    「安曇族と徐福」   
松枝 正根   「古代日本の軍事航海史」   
錦織 勤  「古代中世の因伯の交通」
 
司馬遷     「史記 張儀列伝」   

尚徳村誌  「法勝寺低地」   
 
  
新修米子市史5  
鳥取県   「尼子氏と戦国時代の鳥取」

新川登喜男 海人フオーラム、基調講演   
伯耆民談記   
会見町誌   
伯耆民諺記   



黒田会員による補足・追加

安曇の住人・香田さんならではのお話を聞けました。

 まず、航空写真などよる地理的環境、考古資料による歴史的環境の解説は大いに参考になりました。

 安曇族の全国分布図は、フォーラムの冊子に掲載されている新川先生のアヅミ分布図を参照すれば、より正確な分布図に近づけると思います。
 また「シカ」地名については、どなたかの指摘があったように、その関連性の有無について、継続して論じる必要がありそうです。

 「安曇族を追って」の考察は、主に亀山氏に依拠いており、一つの説として、さまざまな角度から検討していかなければならないと、改めて感じました。
 さらに、安曇郷の規模・人口についての考察、「伯耆国会見郡安曇郷戸主間人安曇」が貢納した「?」の指摘は、今後の研究テーマとなりそうです。
 因みに、ウィキペディアによると、「?(あしぎぬ)とは、古代日本に存在した絹織物の一種。交換手段・課税対象・給与賜物・官人僧侶の制服などに用いられた。
 『日本書紀』に振られた和訓は「ふとぎぬ」、『和名類聚抄』においては「あしぎぬ」である。
 また、『令義解』においては、「(糸の)細きを絹と為し、麁きを?と為す」という一文があることから、通説では大陸渡来の精巧な絹に対して国産の糸が太くて粗い糸で織られた後世の紬のような平織りの織物であると推定されている。
ただし、律令法において最も上質とされている絹織物は、美濃国で作られた美濃?(みののあしぎぬ)とされていること、現在東大寺正倉院に残されている絹と?を比較すると、大きな品質の違いが認められないことから、通説に問題があるのか、奈良時代には両者の品質差が無くなっていたのか議論の余地が残されている。」とありました。





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安曇族を追って

平成27年2月21日 講演  香田 勇