志摩(しま)国
志摩国について
現在の三重県東部の志摩半島にあたる。志州(ししゅう)と呼ぶこともある。
『延喜式』での格は下国、近国。


沿革
飛鳥時代
一説には7世紀後半から8世紀初めに伊勢国から切り離され成立したが、伊勢国の隷属下に置かれたという。
当初の領域は後代より南に伸び、海岸沿いに現在の尾鷲市の辺りまで含んでいた。後に南端は紀伊国、その他の沿岸は伊勢国に編入され、志摩国には志摩半島だけが残された。

奈良時代
奈良時代に入り佐芸郡、答志郡の二郡に分けられた。佐芸郡はすぐに英虞郡に改名された。

飛鳥・奈良時代には、代々内膳司を勤めていた高橋氏などが国司であったが、志摩に赴くことはなかったという。志摩国は面積が小さい上に平地がほとんどないことから稲米の収穫量が少なかったため、伊勢国や尾張国の田を志摩国の口分田とし、国衙や国分寺の費用を伊勢国・尾張国・三河国が負担した。
海産物を贄として、宮中へ貢ぐ御食国の一つと推定される。


律令制下における郡
飛鳥時代=1郡制 
  志摩郡・・・・現在の鳥羽市と志摩市にあたる。

天平時代=2郡制  志摩郡を分割
  英虞郡(佐芸郡)
    天平時代に志摩郡から分かれてすぐは「佐芸郡」(さきぐん)
    現在の英虞湾周辺の地域で志摩市阿児町の立神、甲賀、志島、大王町全域、志摩町全域がこの地域
    にあたる。
  
  答志郡
    現在の鳥羽市、志摩市磯部町(成基地区を除く)、浜島町全域、阿児町の北部がこの地域に当たる。


国府・一宮など
国府
国府は、『和名抄』および『拾芥抄』に、英虞郡とある。

守護代所が、室町時代に答志郡泊浦、現在の鳥羽市鳥羽にあったと考えられている。ただし、室町時代は守護は伊勢・志摩両国で一人だったともいう。

国分寺
国分僧寺は、志摩市阿児町国府字御堂の後にあった。

国分尼寺
尼寺は同じく阿児町国府字大堂にあった。

一宮
大社2座1社・小社1座1社の計3座2社が記載されている。
大社は答志郡の「粟島坐伊射波神社二座」で、志摩国一宮である。

『大日本国一宮記』に「伊射波神社志摩国答志郡」とあるのが初見である。
ただし、「粟島坐伊射波神社」は、志摩市磯部町にある伊勢神宮の別宮の伊雑宮(いざわのみや)、鳥羽市安楽島町にある伊射波神社(いざわじんじゃ)の2社が論社となっており、両社ともが志摩国一宮とされている。

総社
総社については不詳




参考資料  

ウキペディア 「志摩国」 


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   米子(西伯耆)・山陰の古代史   







東海道の旧国 米子(西伯耆)・山陰の古代史
行政区分の東海道は、畿内から東に伸びる、本州太平洋側の中部を指した。
これは、現在の三重県から茨城県に至る太平洋沿岸の地方に相当する。

  伊賀国(三重県の西部)
  伊勢国(三重県の西部と南部及び志摩半島部を除く全域)
  志摩国(三重県の志摩半島部と愛知県の渥美半島の間にある一部の島々)
  尾張国(愛知県の西部)
  三河国(愛知県の中部と東部)
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  駿河国(静岡県の中部及び東部)
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  常陸国(茨城県)