壬申の乱 米子(西伯耆)・山陰の古代史
672年に起きた古代史上最大の内乱で、天智天皇の太子・大友皇子(弘文天皇の称号を追号)に対し、皇弟・大海人皇子(後の天武天皇)が地方豪族を味方に付けて反旗をひるがえした皇位継承の戦い。
 
壬申の乱
乱の原因
叔父と甥が皇位継承をめぐって激しく激突した争いであるが、その原因については諸説が存在する。

皇位継承紛争
天智天皇として即位する前、中大兄皇子であったときに中臣鎌足らと謀り、乙巳の変といわれるクーデターを起こし、母である皇極天皇からの譲位を辞して軽皇子を推薦するが、その軽皇子が孝徳天皇として即位しその皇太子となる。
しかし、天皇よりも実権を握り続け、孝徳天皇を難波宮に残したまま皇族や臣下の者を引き連れ倭京に戻り、孝徳天皇は失意のまま崩御、その皇子である有間皇子も謀反の罪で処刑する。
また天智天皇として即位したあとも、旧来の同母兄弟間での皇位継承の慣例に代わって唐にならった嫡子相続制(すなわち大友皇子(弘文天皇)への継承)の導入を目指すなど、かなり強引な手法で改革を進めた結果、同母弟である大海人皇子の不満を高めていった。
当時の皇位継承では母親の血統や后妃の位も重視されており、長男ながら身分の低い側室の子である大友皇子の弱点となっていた。
これらを背景として大海人皇子の皇位継承を支持する勢力が形成され、絶大な権力を誇った天智天皇の崩御とともに、これまでの反動から乱の発生へつながっていったとみられる。

白村江の敗戦
天智天皇は即位以前の663年に百済の復興を企図して朝鮮半島へ出兵して新羅・唐連合軍と戦うことになったが、白村江の戦いでの大敗により百済復興戦争は大失敗に終わった。
このため天智天皇は国防施設を玄界灘や瀬戸内海の沿岸に築くとともに百済難民を東国へ移住させ、都を奈良盆地の飛鳥から琵琶湖南端の近江宮へ移した。
しかしこれらの動きは豪族や民衆に新たな負担を与えることとなり、大きな不満を生んだと考えられている。
近江宮遷都の際には火災が多発しており、遷都に対する豪族・民衆の不満の現れだとされている。
また、白村江の敗戦後、国内の政治改革も急進的に行われ、唐風に変えようとする天智天皇側と、それに抵抗する守旧派との対立が生まれたとの説もある。
これは白村江の敗戦の後、天智天皇在位中に数次の遣唐使の派遣があるが、大海人皇子が天武天皇として即位して以降、大宝律令が制定された後の文武天皇の世である702年まで遣唐使が行われていないことから推察される。

額田王をめぐる不和
天智天皇と大海人皇子の額田王(女性)をめぐる不和関係に原因を求める説もある。江戸時代の伴信友は『万葉集』に収録されている額田王の和歌の内容から、額田王をめぐる争いが天智・天武間の不和の遠因ではないかと推察した。
    「茜指す紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る」 (巻1・20・額田王)
    「紫の匂へる妹を憎くあらば人妻ゆゑに我恋ひめやも」 (巻1・21・大海人皇子)

上記の2首などをめぐって、天智・天武両天皇との三角関係を想定する理解が一般にあるが、池田弥三郎・山本健吉が『萬葉百歌』でこの2首を宴席での座興の歌ではないかと発言して以来、こちらの説も有力視され、学会では通説となっている。

天智天皇暗殺説
『扶桑略記』より
「一云 天皇駕馬 幸山階鄕 更無還御 永交山林 不知崩所 只以履沓落處爲其山陵 以往諸皇不知因果 恒事殺害」。
  山科の里に遠乗りに出かけたまま帰ってこなかった。
  山林の中で、どこで亡くなったのか分からない。
  それで、その沓が落ちていたところを陵にした。

その後も、天智の遺体は発見されなかった。
すなわち、山中で行方不明になったとされることから天武天皇側による暗殺説もある。


乱の経緯


内乱前
661年(天智元年)
斉明天皇が崩御し、即日中大兄皇子が称制。

663(天智3年)
白村江の戦いで大敗を喫す。以後、国防の強化(水城、山城、烽火、遷都など)。

667年(天智6年)
近江大津へ遷都。

668年(天智7年)
中大兄皇子が天智天皇として大津宮で即位。このとき大海人皇子が東宮になった。(異説あり)
浜楼事件:ある日の宴会で激した大海人皇子が長槍で床板を貫き、怒った天智天皇が皇子を殺そうとした。
だが、藤原鎌足の取りなしで事なきを得たという。

669年(天智8年)
藤原鎌足死去。天智天皇から大織冠を授けられ、内大臣に任ぜられ、「藤原」の姓を賜った翌日に逝去した。

670年(天智9年)
天智天皇が最古の全国的な戸籍「庚午年籍」を作成。公地公民制が導入されるための土台を築いていった。

671年(天智10年)
1月
自身の皇子である大友皇子を太政大臣につけて後継とする意思を見せはじめた。
このことが内乱を起こす最大の原因となったと考えられている。
9月
天智天皇は病気に倒れ、なかなか快方に向かわず。
10月17日
天智天皇は重態となったため、後事を大海人皇子に託すも固辞される。
大海人皇子は出家して妻(後の持統天皇)・子(草壁皇子、忍壁皇子)や部下とともに吉野宮に引退した。

672年(天智天皇11年)
1月7日

近江宮において天智天皇が46歳で崩御する。


壬申の乱 戦闘



672年(天武天皇元年)
5月
近江の朝廷が先の天皇の陵を造ると言って美濃と尾張の農民を集め,武器も持たせているという知らせが入る。
また、大津京から飛鳥にかけて朝廷の見張りが置かれ、さらに,吉野への食料を運ぶ道を閉ざそうとする動きも伝わってきた。
自分の身に危険が迫っており今こそ決断の時と考え、吉野を出て戦うことを決意し、舎人たちに命じて東国)の豪族たちを味方にするよう準備を始めた。

旧6月22日
大海人皇子は挙兵を決意して村国男依、和珥部君手、身毛広の3人で美濃国に先行するよう命じた。
彼らの任務は多品治に連絡し、まず安八磨郡を挙兵させることであった。
彼らと多品治は無事にその任を果たし、美濃の兵3千が大海人皇子のために不破道を塞いだ。
このおかげで大海人皇子は東国の兵力を集めることができた。

旧6月24日(7月24日) 出立
大海人皇子がわずか 20人ほどの従者と女官とともに吉野を出立。
一行はまず伊賀国に入り名張の駅家を焼き兵を募ったが、誰も集まらず。
さらに伊賀郡に進み伊賀の駅家を焼き払い、その時初めて阿拝(あえ)・伊賀郡司らが数百の兵を率いて一行に加わった。

旧6月25日
積殖(つみえ)で大海人皇子の長男・高市(たけち)皇子と合流し加太(かぶと)越えで鈴鹿の関付近に入る。
そこで伊勢国司の三宅連石床(みやけのむらじいしとこ)らが参加し、500の兵をもって山道を防ぎ、敵の追撃に備えた。
味方した兵たちで鈴鹿道と不破道を完全に確保。

旧6月26日 桑名入り
三重郡家→朝明郡(あさけ)を経て桑名郡家にたどり着く。
美濃では大海人皇子の指示を受けて多品治が既に兵を興しており、不破の道を封鎖した。
これにより皇子は東海道、東山道の諸国から兵を動員することができるようになった。

旧6月27日 不破へ
桑名にとどまっていた大海人皇子は前線本部のある不破(岐阜県不破郡関ヶ原)へ行き19歳の高市皇子を最高司令官として不破関の近くに前線本部を置く。
前線本部のある不破の近くに野上という所があって、尾張地方の支配者であった尾張氏の私邸を借りて、そこを行宮とした。

旧7月2日 大海人皇子軍の出陣
大きく二手に分かれて出陣。
軍をそれぞれ数万の二手に分けて、一軍を伊勢国の大山越えで大和国へ、もう一軍を直接近江国に入らせることを命じた。
多品治は、紀阿閉麻呂、三輪子首、置始菟とともに大和に向かう軍を率いた。
この後で品治は別に命令を受け取り、3千の兵とともに莿萩野(たらの)に駐屯することになった。
これと別に、田中足麻呂が近江と伊賀を結ぶ倉歴道を守る位置についた。

これに対して大友皇子側の将、田辺小隅は、5日に倉歴に夜襲をかけた。
守備兵は敗走し、足麻呂は一人逃れた。
小隅の軍は翌日莿萩野を襲おうとしたが、多品治はこれを阻止し、精兵をもって追撃した。小隅は一人免れて逃げた。
以後大友方の軍勢が来ることはなかった。

旧7月2日 高安城(たかやすのき)の戦い
大伴吹負(おおとものふけい)を大将とする大海人皇子軍は朝廷軍がいる高安城(たかやすのき)に向かう。
すると朝廷軍は米倉に火をつけて逃げました。

旧7月4・5日 当麻(たぎま)の戦い
大伴吹負(おおとものふけい)を大将とする大海人皇子軍は朝廷軍と二上山のふもとで戦って勝利した。

旧7月5日 倉歴(くらふ)の戦い
夜の戦いで敵味方がわからないので,朝廷軍は「金(かね)」という合い言葉を使って敵味方を区別した。
これは大海人皇子軍を混乱させた。

旧7月7日 箸陵の戦い
朝廷軍と大伴吹負、置始菟の軍が戦って勝利した。

旧7月13日 安河(やすのかわ)・栗太(くるもと)の戦い
大海人皇子軍は,13日安河(やすのかわ)の戦い,17日栗太(くるもと)の戦いで朝廷軍を破った。

旧7月22日(8月20日) 瀬田橋の戦い
東側に村国男依の軍、大友皇子率いる朝廷軍は橋の西で構えて双方が対峙。
橋の中程の板をはずして敵を落とすという朝廷郡の仕掛けたわなは、大分君稚臣によって破られた。
稚臣はわなを見破り、弓矢の中に突撃した。その結果、朝廷軍は総崩れとなってしまい近江朝廷軍が大敗。。

旧7月23日(8月21日) 大友皇子自決
大友軍は破れ山前(やまさき)-長等山へ敗走。大友皇子が首を吊って自決し、乱は収束した。


勢力関係

 
近江朝廷
大友皇子側は東国と吉備、筑紫(九州)に兵力動員を命じる使者を派遣したが、東国の使者は大海人皇子側の部隊に阻まれ、吉備と筑紫では現地の総領を動かすことができなかった。
特に筑紫では、筑紫率の栗隈王が外国に備えることを理由に出兵を断ったのだが、大友皇子は予め使者の佐伯男に、断られた時は栗隈王を暗殺するよう命じていた。
しかし、栗隈王の子の美努王、武家王が帯剣して傍にいたため、暗殺できなかった。
それでも近江朝廷は、近い諸国から兵力を集めることができた。

大海人皇子側
東国の豪族の援軍を得た。

  大海人皇子軍  大友皇子軍
指揮官 大海人皇子  大友皇子
戦力 2-3万人 2-3万人

   
主な参戦者 村国男依(むらくにのおより)
和珥部君手(わにべのきみて)
身毛広(むげつのひろ)
大伴吹負(おおとものふけい) 
多品治(おおのほんじ)
紀阿閉麻呂(きのあへまろ)
三輪子首(みわこくび)
置始菟(おきそめのうさぎ)
大分君稚臣(おおきだのきみわかみ)
紀大人
田辺小隅(たなへのをすみ)
佐伯男(さえきのおとこ)
蘇我赤兄(そがのあかえ)
秦友足
社戸大口(こそべのおおくち)
土師千島
犬養五十君
谷塩手
大野果安

参戦氏族 阿拝郡司

美濃、伊勢、伊賀、熊野やその他の豪族

参戦拒否者 名張郡司 筑紫率の栗隈王
その子 美努王、武家王
     


壬申の乱で戦った豪族達 

 
大海人軍
村国小依(むらくにのおより)
大海人皇子が挙兵を決断したとき、男依は吉野にいた皇子のそばにいた。男依は舎人として大海人皇子に仕えたと考えられている。
近江方面の諸将の筆頭として連戦連勝し、最大の功を立てた。
皇子自身が行動をおこす2日前の6月22日に、村国男依は和珥部君手、身毛広と三人で美濃国に先行するよう命じられた。
男依は近江方面の軍の将となった。『日本書紀』は男依をこの軍の主将とは明言せず、総司令官の役目は高市皇子にあったと考える学者もいる。しかし、以後の記述で近江方面の軍をさすときに、書紀は「男依等」と記し、他の将を挙げない。

多品治(おおのほんじ)
海人皇子軍の武将。古事記の撰者太安万侶の父とされる。美濃の湯沐邑の湯沐令。
不破の道を塞いだ後、伊賀に出兵し大友皇子軍と戦った。

大伴吹負(おおとものふけい)
天智天皇の代に、兄である馬来田と吹負は病を称して自宅に退いた。
二人は次の天皇は大海人皇子に違いないと考え、天智天皇の死後、挙兵しようとして、一、二の同族と諸々の豪傑、あわせて数十人を集めた。
大海人皇子が挙兵のために東に向かうと、馬来田はその後を追い、吹負は家に留まった。
倭京の軍の指揮権を奪取した吹負は、成功を大海人皇子に報じ、将軍に任命された。

置始菟(おきそめのうさぎ)
7月9日、紀阿閉麻呂らは及楽山(奈良)で大伴吹負が敗れたことを知り、置始菟に騎兵一千をもって急行させた。
この部隊は墨坂(現在の奈良県北東部)で敗走する吹負に出会い、金綱井で敗兵を収容した。
合流後、置始菟は吹負の指揮下に入った。
さらに後、北の犬養五十君の軍との対戦で、置染菟は三輪高市麻呂とともに右翼の上道にあった。この戦いでは大伴吹負の率いる中軍が廬井鯨の部隊の攻撃で苦境に陥った。菟らは箸陵で自隊の正面の敵を撃破してから鯨の部隊の背後を断ち、敵を敗走させた。
これより後、近江朝廷の軍が来襲することはなかった。

和珥部君手(わにべのきみて)
大海人皇子の命令で身毛君廣・村国連男依らと美濃国へ行き安八磨郡の管理者である多臣品治に兵を集めるように伝えた。
不破道の閉鎖をした。村国連男依らと不破から近江へ進軍した。

出雲臣狛(いずものおみこま)
不破の玉倉部の戦いで大友皇子軍を撃退した。後に三尾城を攻めた。

大分君稚臣(おおきだのきみわかおみ)
分君恵尺とともに大津皇子脱出の手助けをした。瀬田の戦いでは矢を受けながらも勇敢に大友皇子軍に突進したため,それがもとで大友皇子軍は総崩れとなった。


近江軍参戦者
左大臣 蘇我赤兄(そがのあかえ)
壬申の乱で赤兄の活躍は特に伝えられないが、近江朝廷の最高位の臣下として大友皇子を補佐したと思われる。
最後の決戦となった7月22日の瀬田の戦いに、大友皇子(弘文天皇)とともに出陣したが、敗れて逃げた。
23日に大友皇子が自殺し、24日に捕らえられた。
8月25日に子孫とともに配流された。配流の地は不明である。
赤兄をはじめとした倉麻呂の息子達は蘇我連子系の蘇我安麻呂以外は没落する事となり、蘇我氏高位不在の時代が長く続くこととなる。

御史大夫 紀大人
大友皇子を支える重臣になったが、壬申の乱で紀大人の活動について触れない。『続日本紀』慶雲2年(705年)7月19日条、紀麻呂の薨去記事に、「近江朝の御史大夫贈正三位大人の子」とある。
贈位を受けたことからみて、大人は罪人と扱われていなかったと考えられる。

御史大夫 大野果安(おおのはたやす)
大友皇子軍の将軍で不破の攻撃に向かったが,犬上川で内輪もめが生じ、巨勢人(こせのおみひと)とともに山部王を殺す。
その後自害した。

御史大夫 巨勢人
天智天皇に仕えて御史大夫に昇り、壬申の乱で大友皇子側の将軍となった。、
巨勢比等(人)は山部王・蘇我果安とともに、数万の兵力を率いて大海人皇子を討つべく不破に向けて進発した。
しかし7月2日頃、犬上川の岸に陣を敷いたとき、果安と比等は山部王を殺した。
乱後は流罪になった。

山部王
大友皇子の将となったが、味方の蘇我果安、巨勢比等(巨勢人)に殺された。
美濃国に本営を設けた大海人皇子に対し、大津の近江宮にあった朝廷は、数万の軍勢を派遣した。
琵琶湖東岸を進んだ軍の指揮官は、山部王、蘇我果安、巨勢比等であった。
敵の前線拠点がある不破まで約20キロメートルの犬上川のほとりに陣をおいたとき、蘇我果安と巨瀬比等は山部王を殺した。
この混乱で軍の前進は止まり、蘇我果安は返って自殺した。

社戸大口(こそへのおみおおくち)
大友皇子軍の将軍で野洲川で戦い大海人皇子軍に敗れて捕らえられた。

佐伯男(さえきのおとこ)
大友皇子の兵で,筑紫へ徴兵に出るが栗隅王くるくまのおおきみに近江朝からの出兵要請を拒否された。


大海人軍の功臣、近江軍参戦者のその後


大海人軍の功臣
『日本書紀』は12月4日に勲功ある人を選んで冠位を増し、小山位以上をあたえたと記すのみで詳細は不明。

多品治
多品治は美濃国の安八磨郡(安八郡)の湯沐令であった。皇子の生計を支えるために設定された一種の封戸を管理する役職である。
品治を太安万侶の父とする説がある(『阿蘇家略系譜』)。
天武天皇12年(683年)12月13日に、多品治は伊勢王、羽田八国(羽田矢国)、中臣大島とともに、判官・録史・工匠といった部下を引き連れて全国を巡り、諸国の境界を定めた。品治の位はこのとき小錦下であった。
天武天皇13年(684年)11月1日に、多臣など52氏は新たに朝臣の姓を授かった。
天武天皇14年(685年)9月18日に、天武天皇は皇族・臣下と大安殿で博打をして遊んだ。このとき天皇は大安殿の中に、皇族と臣下は殿の前に位置した。多品治はこの日に天皇の衣と袴を与えられた10人の中の一人であった。
持統天皇10年(696年)8月25日に、多品治は直広壱と物を与えられた。
壬申の乱の際にはじめから従ったことと、堅く関を守ったことが褒められたのである。他の例からすると、この贈位記事が品治の死去を意味している可能性がある。

村国小依
美濃国各務郡の豪族である。『日本書紀』では一貫して「連」姓で記されるが、『続日本紀』大宝元年(701年)7月壬申条に「村国小依」とあることから、壬申の乱当時は姓を持たず、乱の功績で連を授かったとする説がある。
120戸の封を賞として与えられた。小依(男依)の120戸は最多である。
だが、地方豪族出身である男依らが、功によって中央の要職を占めることはなかった。

大伴吹負
父は大伴咋、兄に長徳、馬来田、子に牛養と祖父麻呂がいる。
吹負の乱後の活動は『日本書紀』に記されない。
相当の賞があったはずだが、それも見えない。贈位の大錦中は、低くはないが他の壬申の功臣と比べれば決して高くもない。
『続日本紀』の記事から、天武天皇の代に吹負が常道頭(常陸国の守)を務めたことが知られる。

紀阿閉麻呂
倭国守・紀麻呂岐の子で、子に形見・鷹養・仲足・真弟がいた。
天武天皇2年(673年)8月9日、伊賀国にいる紀阿閉麻呂らに、壬申の年の労勲を詳しく述べて誉める詔が出され、賞が与えられた。
天武天皇3年(674年)2月28日に紀阿閉麻呂は死んだ。
天皇は大いに悲しみ、壬申の年の戦争での労によって、大紫の位を贈った。

和珥部君手
美濃国の人で、姓は臣。丸邇部弓束の子で、子に大石・伯麿・弟足がいた。
乱後、80戸の封を与えられた。
文武天皇元年(697年)9月9日に勤大壱から直広壱に昇叙された。
これを伝える『続日本紀』の記事は「壬申の功臣」としか理由を伝えないが、他の例で壬申の功臣への賜位記事は死亡時の追贈であるから、この場合も同じと考えられる。
大宝元年(701年)7月21日に、食封の4分の1を子孫に伝えることが決められた。
霊亀2年(716年)4月8日に、従六位上だった息子の大石が、他の壬申の功臣の子息と並んで功田を与えられた。
このときの君手の冠位は直大壱と記されており、死亡時とされる文武天皇元年(697年)より高いが、理由は不明である。

身毛広
身毛氏は景行天皇の子である大碓命の後裔であるという。
その後の広の活躍は不明だが、乱の後、80戸の封戸を与えられた。
『日本書紀』は12月4日に勲功ある人を選んで冠位を増し、小山位以上をあたえたと記すので、広もこれと同じかそれ以上の位を受けたと思われる。
その後の身毛広については記録がない。

三輪子首(みわこくび)
大三輪真上田子人(おおみわのまかむだのこびと)、あるいは神麻加牟陀児首(みわのまかむだのこびと)ともいう。
死後に大三輪真上田迎(おおみわのまかむだのむかえ)と諡された。
伊勢国の介であったと推測されている。
7月2日に美濃から倭(大和国)に向かう軍の指揮官になったが、そこでの子首の行動については書紀に記載がない。
天武天皇5年(676年)8月に大三輪真上田子人君が死んだ。天皇はこれを聞いて大いに悲しみ、壬申の年の功によって、内小紫の位を贈り、大三輪真上田迎君と諡した。迎とは、大海人皇子を鈴鹿で迎えたことによる。

置始菟
戦後の置染菟の処遇や活動については『日本書紀』に記載がない。天武天皇元年(672年)12月4日に、壬申の乱での勲功者の冠位が進められ、小山以上の位が与えられた。置染菟もこれ以上の冠位を授かったと思われる。死後、置始連宇佐伎が小錦下の位を授かったことが、『続日本紀』霊亀2年(716年)4月の記事から知られる。この冠位が廃止された天武天皇14年(685年)1月21日以前に死んだと推測できる。


近江軍参戦者
佐伯男
帰還後の活動については記録がない。乱の後に赦されたと考えられる。
佐伯連は、天武天皇13年(684年)12月2日に宿禰の姓を与えられた。
和銅元年(708年)3月13日、従五位下の佐伯宿祢男は大倭守(大和国の守)に任命された。翌2年(709年)9月2日に、従五位下から従五位上に昇進した。このときも大倭守であった。

栗隈王
橘諸兄(たちばなのもろえ)の祖父。
天武天皇4年(675年)3月16日に、諸王四位の栗隈王が兵政官長に、大伴御行が大輔に任じられた。
天武天皇5年(676年)6月、四位で病死した。『続日本紀』『新撰姓氏録』に贈従二位とある。

美努王
天武天皇11年(681年)天皇の命令を受けて川島皇子らとともに『帝紀』及び上古における事柄の記録・校定に従事した。
持統天皇8年(694年)筑紫大宰率に任ぜられる(このときの位階は浄広肆)。
大宝元年(701年)大宝律令の施行により位階制が定められると正五位下となり、同年造大幣司長官に任ぜられる。
その後、左京大夫・摂津大夫・治部卿などを歴任し、位階は従四位下に至る。和銅元年(708年)5月30日卒去。

大野果安
大野氏は毛野氏の支族。一説では下毛野尼古太の子で、下野国那須郡大野邑に居住した若古を祖とする。
乱の後、大野果安は赦されて天武天皇や持統天皇に仕えたらしい。
天武13年(684年)大野君は大野朝臣姓を賜与されており、果安も改姓したと想定される。



乱後の経過
  大海人皇子は壬申の乱後もしばらく美濃にとどまり、戦後処理を終えてから飛鳥の島宮に、ついで岡本宮(飛鳥岡本宮)に入った。

673年(天武天皇2年) 2月27日 天武天皇即位
大海人皇子 天武天皇とし飛鳥岡本宮にて即位。
天武天皇は、一人の大臣も置かず、法官、兵政官などを直属させて自ら政務をみた。
要職に皇族をつけたのが特徴で、これを皇親政治という。

皇親政治
大伴氏を除く有力豪族(蘇我、中臣など)はほとんど没落し、天皇の権威は高まった。
天皇、皇后、皇子で政治のトップを固め、従順な中小豪族を官僚に抜てきして政治をした。

外交
親新羅外交をとり、唐には使者を遣わさなかった。
国内的には新羅系の渡来人を優遇したわけではなく、百済系の人を冷遇したわけでもない。

軍事
675年、一時復活した部曲を廃止し、官人には兵馬を装備させる。

国史編纂
「帝紀」「旧辞」の誤りを正して、天皇中心の歴史伝承の整理である国史編纂に着手した。

天武天皇は天皇家の権威を高め、多くの施政を行った。これらが後の律令制の基礎を築いたと言える。


参考資料
「天武天皇 隠された正体」 (NHKベストセラーズ 1991 関裕二)
「壬申の乱の謎―古代史最大の争乱の真相」  (PHP文庫  関裕二)
「壬申の乱―天皇誕生の神話と史実」  (中公新書 1996 遠山美都男 )
「壬申の乱を読み解く」 (吉川弘文館 2009 早川万年)

ウキペディア 「壬申の乱」


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