旧大山町周辺の神社
妻木川・江東川流域
日吉神社
所在地
鳥取県西伯郡大山町赤松943番

社格  村社

祭神
大己貴命、大山祇命、倉稲魂命、豊玉別命、誉田別命

歴史:鳥取件神社誌より
創立年月は不詳。
古来山王宮と号し、氏神と崇敬奉祀す。
明治元年神社改正の際、日吉神社と改称せらる。
合祭大山祇命は村内飛ヶ坪に鎮座せられしを、此時合祀せらる。
大正2年7月
  大山村大字赤松寺屋敷鎮座無格社明間神社(祭神倉稲魂命) 
  同村大字同字池ノ奥鎮座池ノ神社(祭神 豊玉別命) 
  同村大字同字本村屋敷鎮座大谷神社(祭神 誉田別命)を合併す。
大正7年10月31日神饌幣帛料供進神社に指定せらる。

補足:鳥取件神社誌より
建造物 本殿、拝殿、神楽殿
境内坪数=258坪   崇敬戸数=100戸


北野神社
所在地
鳥取県西伯郡大山町安原

社格等  村社

祭神
菅原道真

歴史:鳥取件神社誌より
創立年月不詳。
社伝に曰、往昔山城国北野神社の分霊を勧請すと、古来天神者と号し崇敬せしが、明治元年神社改正の際北野神社と改称、同5年村社に列せらる。

補足:鳥取県神社誌より
建造物 本殿、拝殿、神楽殿
境内坪数=511坪  崇敬戸数=56戸


高杉神社  (孝霊天皇行幸の地)
所在地
鳥取県西伯郡大山町宮内88番

社格  村社

祭神
大足彦忍代別命、大日本根子彦太瓊命(孝霊天皇)、押別命、本媛之命、松媛之命、千代姫之命、小葉枝皇子、根鳥皇子、天照御大神、武速須佐之男命、誉田別命

歴史1:鳥取件神社誌より
創立年代不詳。
往古より藩主の祈願所として社領若干あり、武門武将の崇敬も厚く、社蔵の棟札古書類にも、元汗入郡大社或は高杉郷大社とあり、造営並に修理の費用祭費等郡中より徴収するの例あり。
慶安2年丑11月現社地に移転再興すと記したる棟札、並に寛永七年寅三月由来書き上に、境内に杉生長すること他に異なり、大山金門鳥居の笠木に衆徒より望まれ之を截る、夫より災妖止むときなく云々とあり。
又雄略天皇丙辰の歳近郷衆庶に崇あり恠事年累ね人民之を歎く、其の時神の託宣に二人の官女たる松媛之命、千代姫命の霊魂が細姫に対し嫉妬の崇ありとし、此れを神廟に祭祀し御告の随に宮殿を建造し一ノ御前社(本殿)二ノ御前社(中殿) 三ノ御前社(末殿)と奉祀し、祭日には嬲神事とて三人の仕入物忌神懸りあり幣帛を以て打合せ式あること絶えず。
当社古書類は毛利尼子の平乱の為め焼失したると会見郡美濃村秦某が奪取して美作国玉森明神に隠し納めたりと、孝霊山城陥り尾高城に変遷の際社領宝物貴重品等尾高に奪取せられたるため伝はらず、当時幸いにして兵燹を免れたる随神の古神像二体を現存するのみ。
元禄2年迄は高杉郷八ヶ村の鎮守氏神なりしも、孝霊山牧草採取に関して山論あり、坊領佐摩今在家は大山寺領なりしを以て大山奉行円山源兵衞の裁断にて坊領に神社を創立して氏子を離れ、続いて平、中高、神原、長田も分離せしも、今に祭日等同日に行ひ総氏神と尊信せり。

歴史2:社伝より
孝霊山は景行天皇御草創のにして、皇子忍別命の本居別稲置の首にして当社は皇孫代々の宗廟たりとある。
明治5年村社に列せられ、同41年11月19日神饌幣帛料供進神社に指定せらる。
大正元年11月
  大山村大字宮内字村邸鎮座無格社壱之神社(祭神:本媛之命)
  同大字同村早稲ノ上鎮座無格社弐之神社参之神社(祭神 松媛之命、千代姫之命) を合併す。
大正2年10月
  大山村大字平字村屋敷鎮座無格社平神社(祭神 小葉枝皇子、根鳥皇子、天照御大神) 
  同村大字宮内字屋鋪鎮座無格社荒神社(祭神 武速須佐之男命) を合併す。

補足1:鳥取件神社誌より
建造物 本殿、弊殿、拝殿、神饌所
境内坪数=589坪   崇敬戸数=70戸

補足2:孝霊山の名の由来
孝霊天皇が行幸したからと云われているが、別に高麗山とも表され、所在する村の旧名は高麗村である。

補足3:嫐(うわなり)神事
この神事は氏子中より3名ずつ輪番制で、打神(霊代人)を選出し奉仕する事になっている。
打神は神霊により神懸かりの状態となり、氏子に抱えられてしめを張った祭場におもむき、カヤとススキを絡んだ打杖を持ち地面をたたいた後、次には相互に打ち合うという珍しい神事である。
神事の由来は、雄略天皇丙辰の年神々の怒りに触れ、地方住民が次々と災難に遭って大変心を痛めた。
その時当社の御神託に2人の官女「松姫命」と「千代姫命」の霊魂が「細姫命」に対する嫉妬のたたりであるとの事。
よってこれらをそれぞれ神社に祭祀し、お告げのままに宮殿を建立して奉斉し、祭日にはこの神事を斉行したところ、神慮が和らぎ、その後地方住民は幸せに生活することが、出来る様になったと言う。
明治初頭までは、巫女が行っていたが、現在は男の氏子が行っている。

補足4:伝承
第七代孝霊天皇の御代に、さる高貴な方がこの地に滞在された。
地方ではまれなことなので、この土地で美しい松姫、千代姫の二人を近くに侍らせた。
しかし、都から正妻である細くわし姫がやって来たため、三人の女性の間に嫉妬による闘いが始まった。
遂に松姫、千代姫は恨をのんで亡くなった。
その後、雄略天皇の御代、近郷に悪いことが続き、神のお告げにより、正妻に対する二人の姫のたたりであると知れた。
そこで一の宮(本殿・細姫)・二の宮(中殿・松姫命)・三の宮(末殿・千代姫命)の三殿を建立して祀ることになった。


佐間神社
所在地 
鳥取県西伯郡大山町坊領102

社格等  村社

祭神
天津彦火火瓊々杵尊、湍津姫命、誉田別尊、市杵嶋姫命、田心猛命、倉稲魂命、伊弉諾尊、五十猛命、素盞鳴尊

歴史:鳥取件神社誌より
創立年月不詳。
往古より佐間大明神と称し本村内字岡ノ谷に鎮座せられしを其の後現今の地に移転す。
明治維新の際、佐間神社と改称せられ村社に列す。
此の時、村内鎮座の八幡宮、厳島大明神、稲荷大明神を合祀せらる。
大正2年11月23日
  大山村大字前字宇多川鎮座村社宇多川神社(祭神伊弉諾尊)
  同村大字同字宇川床鎮座無格社山口神社(祭神 五十猛命)
  同村大字今在家字清水坂鎮座無格社今在家(祭神:素盞鳴尊、市杵嶋姫命、湍津姫命、田心猛)
  同村大字佐摩字池田鎮座無格社佐摩神社(祭神 素盞鳴尊)、を合併す。
大正6年11月23日、神饌幣帛料供進神社に指定せらる。

補足:鳥取件神社誌より
境内坪数 1066坪  氏子戸数 


日間神社
所在地
鳥取県西伯郡大山町豊房1342番

社格等  村社

祭神
大日孁命、月読命、伊邪那岐神、高垣神、御妻神、大穴貴神、少彦名神

歴史:鳥取件神社誌より
創立年月詳らざれども、木椀元祖惟高親王の末葉轆轤師山本右近藤原家富なる者、此の地に移住して開業の始に祭りし神なりと云伝ふ。
又世俗伝へて神主塚と云へり、古来日光月光両大明神と称へ崇敬せしを。
大正2年1月日
  大山町大字豊房八斗内鎮座無格社蔵岡神社(祭神:伊邪那岐神、高垣神) 
  同村同大字同字松本鎮座無格社畑神社(祭神 御妻神) 
  同村同大字同字大森鎮座無格社大森神社(祭神:大穴貴神、少彦名神)を合併す。
大正6年10月17日神饌幣帛料供進神社に指定せらる。

補足:鳥取県神社誌より
建造物 本殿、拝殿、神楽殿
境内坪数  231坪   崇敬戸数 100戸


鈑戸(たたらど)神社
所在地 
鳥取県西伯郡大山町鈑戸528番

社格
村社

祭神
大國主神、伊弉諾神、伊弉冉神、須佐之男命、倉稲魂命

歴史:鳥取県神社誌より
創立年月不詳。
古来三社大明神と号す伊弉諾、伊弉冉の二柱は白山神社の分霊にして、大國主神は三輪神社の文体なりと伝ふ。
蓋し往昔該村開けしときに当り人民始めて勧請奉祀せしものなり。
明治元年鈑戸神社と改称村社に列せらる。
合祀倉稲魂命は村内上ノ山にありしを明治元年10月合祀せらる。
大正6年11月23日、大山村大字鈑戸字荒神平鎮座無格社種原神社(祭神 須佐之男命)を合併す。
大正6年11月23日、神饌幣帛料供進神社に指定せらる。

補足:鳥取件神社誌より
境内坪数=208坪   氏子戸数=86戸 


壹宮(いちのみや)神社
所在地 
鳥取県西伯郡大山町(旧大山町)上万1124番

社格等  郷社

祭神
正哉吾勝勝速日天忍穂耳命、萬幡豊秋津師姫命、天饒石国饒石天津日高彦火瓊々杵命
表筒男命、中筒男命、底筒男命、大己貴命、倉稲魂命、罔象女命、菅原道真、天照大御神、稚日女命、少名彦命、素盞鳴尊
境内神社  澤形神社 祭神 素盞鳴命、埴山姫命、
        宮田神社 祭神 下照姫命 勝手神

歴史1:鳥取県神社誌より
創立年月不詳と雖も、郡中の旧社にして、古来壹宮大明神と号し、往昔より神田若干を寄附せられ、元和寛永の頃に至りても旧格に準ぜられ、崇敬他になりしこと古證書等に判然たり。
故に今猶宮田神子森田などの字近傍の耕地に存す。
又一ノ宮と称すること社殿に曰、高木神天照大神の勅命により正哉吾勝命降り坐さんとする時、皇孫瓊瓊杵逸速く御誕生遊ばされし故を以て、古く一ノ宮と称し奉るなりと。
古事記曰、爾天照大御神、高木神之命以、詔太子正勝吾勝勝速日天忍穂耳命、今平訖葦原中国之曰、故随言依賜、降坐而知看、爾其太子正勝吾勝勝速日天忍穂耳命答曰、僕者将降装束之間、子生出、名天邇岐志国邇志天津日高日子番能邇々芸命、此子応降也、とあるを以て証すべし。
又旧記に拠るなしと雖も、古老の口碑に伝ふることあり、往古神祠創設の始原此郡郷の開けし際に方り神社を建つるの濫觴にて、因て人民迎尊して一ノ宮と号すと。
該郡に於ては最も秀抜の社殿なりしが建久以降尼子風土を争闘し兵燹に罹り神器古証書等多く焼失せり。
現今上萬原と称する所の人戸は社地の西辺に断続したる一村落なりしが、灰燼の原野となり、方今の所に転居せし者なり。
今猶此所を上萬原と称するは此故なり。
村内荒神社も其故地に存在せしを神社改革の際廃祠となれり。
従来郡中五穀豊穣登風雨旱疫の災を穣ふの祭祀永年執行すべき旨を以て旧藩中特別崇敬あり、社殿営繕の費額幾分を該郡に賦課すること維新前迄之を例とす。
明治元年10月神社改正の際、大明神の号を廃し壹宮神社と改称せられる。
同5年3月、郷社に列せられる。
明治40年2月3日、神饌幣帛料供進神社に指定せらる、
大正5年5月17日
  高麗村大字平田字村屋敷 鎮座村社津守神社(祭神 表筒男命、中筒男命、底筒男命) 
  同村大字上萬字宮前鎮座 無格社上萬神社(祭神 大己貴命、倉稲魂命、罔象女命、菅原道真 ) 
  同村大字妻木字山根 鎮座無格社富岡神社(祭神 天照大御神、稚日女命、少名彦命) 
  所子村大字野田字上村屋敷鎮座無格社野田神社(祭神 素盞鳴命) 
  同村大字清原字村屋敷 鎮座 無格社清原神社(祭神 素盞鳴命)
  高麗村大字荘田字上ノ田 鎮座無格社庄田神社(祭神 大己貴命)を合併す。

歴史2:
創立年代は不明であるが、西伯郡の旧社で、古くから一宮大明神と崇敬の厚い大社である。
『伯耆民談記』『朝妻縁起』によると、昔、妻木の長者老夫婦には子供がなく、当社に毎日お祈りしたところ、祈願が叶い、玉のような女子に恵まれたという。
本殿の右には老夫婦が休息したという平たい石が二個ならび、安産石とよばれ縁起のよい石とされている。

補足:鳥取県神社誌より
建造物 本殿 幣殿、拝殿 神楽殿 随神門
境内坪数=1477坪   氏子戸数=320戸


長田神社
所在地 
鳥取県西伯郡大山町長田1042番

社格等
旧村社

祭神
高龗神、誉田別命、大山祇命、素盞鳴命、菅原道真公

歴史:鳥取県神社誌より
創立年月不詳、古来貴船大明神と号す。
明治元年神社改正の際、長田神社と改称せらる。
明治5年3月村社に列す。
大山祇命以下の三神は従来本社の末社たりしを明治元年神社改正の際元年合祀せらる。
大正9年10月31日神饌幣帛料供進神社に指定せらる。
本村に名和氏祖先の墳墓あり、当社も名和氏の崇敬の八幡宮なりしとも云へり。


補足:鳥取県神社誌より
境内坪数=312坪  氏子戸数=65戸


中高神社
所在地
鳥取県西伯郡大山町中高152番

社格等

祭神
創立年月不詳。
中津少童命、底津少童命、表津少童命、誉田別命、埴安命

歴史:鳥取件神社誌より
古来龍王大明神と称し、阿彌陀川筋、神原堤防、稲光井手の各村の鎮守神として奉斎し、井手下関係各村の信仰厚し。

補足:鳥取県神社誌より
建造物=本殿、弊殿、拝殿
境内坪数=366坪   崇敬戸数=60戸


加茂神社  (大山町所子)
所在地
鳥取県西伯郡大山町所子107番

社格等  村社

祭神
瓊々杵命、別雷命、神日本磐余彦命、玉依姫命、鵜草葺不合命、伊弉諾命、伊弉冉命、稲脊脛命、誉田別命、倉稲魂命、大日孁貴命、大山祇命、稲田姫命、水象女命、猿田彦命、鈿女命、大己貴命、少彦名命、大??命、菅原道真、五十猛命

歴史:鳥取件神社誌より
創立年月不詳。郡中にて最も旧社なり。
古来賀茂大明神と号し、往昔は神田等数石ありしと、今猶其地名を存す。
古文書等文禄年中焼失す。
明治元年神社改正の際賀茂神社と改称せらる、此の時境内末社熊野権現(祭神 伊弉諾命、伊弉冉命)、鷺大明神(祭神稲脊脛命 )を合祀す。
同5年3月村社に列す。
同40年四月27日、神饌幣帛料供進神社に指定せらる。
同42年12月19日
  同村大字同字神田鎮座無格社糺神社(祭神 神日本磐余彦命、玉依姫命、鵜草葺不合命、倉稲魂命、
  大日孁貴命、大山祇命、稲田姫命、水象女命、猿田彦命、鈿女命) を合祀す。
大正5年11月15日
  所子村大字神原字宮後鎮座村社熊野神社(祭神伊弉諾命、伊弉冉命、五十猛命 )を合併。
同6年10月28日
  同村大字福尾字宮ノ本鎮座無格社福尾神社(祭神 倉稲魂命、厳島姫命) 
  同村大字上野字村屋敷鎮座無格社稲荷神社(祭神 倉稲魂命) 
  同村大字平木字上内田鎮座無格社平木神社(祭神大?鳥?鳥命、菅原道真)を合併す。

補足:鳥取県神社誌より
建造物 本殿、拝殿、神楽殿、随神門
境内坪数  909坪   崇敬戸数 132戸


稲光神社
所在地
鳥取県西伯郡大山町稲光700番

社格等  

祭神
誉田別命、仲哀天皇、武内宿禰、倉稲魂命、稲田姫命、素盞鳴尊

歴史:鳥取件神社誌より
創立年月不詳。
往昔山城国男八幡宮の分霊を勧請すと云ふ。
元数村の産土神にして八幡宮と称せしを、明治元年神社改正の際稲光神社と改称、壱宮神社の摂社に定められる。
倉稲魂命は稲荷大明神と称し境内末社なりしを此の時合祀す。
大正5年10月16日、高麗村大字稲光字六反田鎮座無格社大城神社(祭神:稲田姫命、素盞鳴尊)を合併す。

補足:鳥取県神社誌より
建造物  本殿、、神楽殿
境内坪数 851坪   氏子数  50戸



阿弥陀川・押平川流域
高田神社
所在地
鳥取県西伯郡大山町高田1318番

社格等  村社

祭神
大穴牟遅神、誉田別命、武内宿禰命、海津美命、底筒男命、天照大神、素盞鳴神

歴史:鳥取件神社誌より
当社鎮祭の五柱の祭神は旧八幡宮(誉田別命、武内宿禰命) 山王権現(大己貴命)妙見大明神(底筒男命) 龍王大明神(海津美命)にして、前記妙見龍王の二神を合祭して現社地の北方約八町字宮ノ峯と称する台地に、西高田、東高田両村の氏神社として社号を妙見大明神と称へ奉祀せり。
八幡宮山王権現合祭の神社は、南方約十五町字長塔通り八幡が段と称する窪地の中央に鎮座ありしものなり。
元弘の昔、名和長年後醍醐天皇を船上山に迎へ奉り義軍を起せし時に、参加せる香原林玄蕃允元親、高麗山に拠城し東北鎮護として武運長久を祈る為に建立せしものなりと云ふ。
其後此の地上高田村に属するか故に社殿の修復祭祀は一に上高田村より営み氏神社となせり。
其後該神社野火に罹り由緒等紛失、沿革等詳にするを得ず。
後、万治4年5月11日因伯国守松平相模守の指示により前記妙見大明神と合祀し、現今の地を相し社殿を建て八幡宮と称して高田三村の総氏神と奉祀す。
明治元年4月、上高田神社と改称。
大正2年5月
  庄内村高田字夏目垣鎮座無格社東高田神社(祭神:素盞鳴神)
  同村大字同字堂田鎮座無格社西高田神社(祭神 天照大御神)を合併す。
昭和3年3月28日、神饌幣帛料供進神社に指定せらる。

補足:鳥取県神社誌より
建造物 本殿、弊殿、拝殿、神楽殿、神饌所
境内坪数=672坪   崇敬戸数=66戸


押平神社
所在地
鳥取県西伯郡大山町押平172番

社格等  村社

祭神
御中主尊、大山祇尊、素盞鳴尊、猿田彦命、天鈿女命、大鷦鷯尊、經津主尊、建御雷尊、聖命

歴史:鳥取件神社誌より
創立年代不詳。
往古より西之庄の惣産神にして社号を押平大明神と称す、
明治元年押平神社と改称せらる。
明治40年4月27日、神饌幣帛料供進神社に指定せらる。
大正5年3月
  庄内村大字押平字五反田鎮座無格社阿須波神社(祭神:經津主尊、建御雷尊)
  同村大字大塚中乗木鎮座無格社塚宮神社(祭神 聖命)を合併す。

補足:鳥取県神社誌より
建造物 本殿、拝殿、神楽殿、随神門
境内坪数=287坪   崇敬戸数=228戸


前田神社
所在地
鳥取県西伯郡大山町古御堂378番

社格等

祭神
稚日女命、大山祇命、稲脊脛命、猿田彦命、天鈿女命、素盞鳴命、大己貴命

歴史:鳥取件神社誌より
創立年代不詳。
往古より村社押平神社の摂社にして利壽権現と称す、則ち該村の産神なり。
明治元年前田神社と改称せらる。
大山祇命は山神と称し、稲脊脛命は鷺神と称し、当社の末社として境内に在りしを明治元年九月合祭。
猿田彦命、天鈿女命は字後ロ路に道祖神と称し当社の末社なりしを同時に合祀す。
大正5年3月
  庄内村大字大塚字上屋敷鎮座無格社福田神社(祭神:大己貴命、素盞鳴命) 
  同村大字古御堂字後ロ路鎮座無格社大代神社(祭神:素盞鳴命)
  同村押平字アマゴゼン鎮座無格社畑原神社(祭神素盞鳴尊 )を合併す。


補足:鳥取県神社誌より
建造物=本殿、拝殿
境内坪数=427坪  崇敬戸数=57戸


茶畑神社
所在地
鳥取県西伯郡大山町茶畑418番

社格等

祭神
彦火々出見尊、倉稲魂尊、市杵島姫命、菅原道真公

歴史:鳥取件神社誌より
立年代詳ならず、該社は、往古より村社押平神社の摂社にして王子権現と称す、則ち該村の産神なり、明治元年茶畑神社と改称せらる、合祭の倉稲魂尊は本村内字ケエゾウに稲荷大明神と称し、菅原道真公は字山道に北野神社と称し共に茶畑神社として奉祀せしを、明治元年9月本社に合祀す。

補足:鳥取県神社誌より
建造物=本殿、拝殿
境内坪数=299坪   崇敬戸数=38戸


加茂神社  (大山町加茂)
所在地
鳥取県西伯郡大山町加茂

社格等

祭神
別雷尊、稚日女尊、素盞鳴尊、玉依姫尊

歴史:鳥取件神社誌より
創立年月詳ならずとも雖も、其の再興は元和四年に係れり、当時の棟札に拠れば二十二村の氏神たるを掲げ辺境一帯加茂の郷と称せりと云ふ。
今は僅に二村の氏神たり。
元弘(1331-1333)の頃、名和氏の産神たり、元弘帝蒙塵隠岐を脱して伯耆に御潜幸勅を名和長年に下さる。
長年則ち当社に詣し剣二口を献し書を奉して帝の復辟及ひ戦勝を祈る、其剣及祈願書今猶存す、合祭玉依姫尊は本村地内糺大明神と称し産神と尊崇せしを、明治元年神社改革の際合祀せらる。
明治40年4月27日神饌幣帛料供進神社に指定せらる。
大正元年12月
  名和大字加茂字以屋谷鎮座無格社小林神社(祭神:稚日女尊)
  同村大字名和字天皇平鎮座無格社東谷神社(祭神 素盞鳴尊)を合併す。

補足:鳥取県神社誌より
建造物 本殿、拝殿、弊殿、神饌所、神楽殿
境内坪数=1038坪  崇敬戸数=125戸


唐王神社
所在地
鳥取県西伯郡大山町中高152番

社格等

祭神
須勢理毘売命、菅原道真

歴史:鳥取件神社誌より
創立年月不詳。須勢理毘売命は古来唐王御前神社と号し、普く諸民の尊崇他に異なれる旧社なり。
社伝に曰く、須勢理毘売命は大国主神と共に夜見の国より帰り坐して土地経営の功を畢へ、稼穡の道を立て疾苦の患難を救助の神咒の法則を萬世に垂訓し給ひて、大国主大神は永く日隅宮に鎮座し命は此地に鎮座すと。
故に該神社区域内宏大なりしこと往古の規模を存せり、字御前畑と申所西側にあり、井屋敷とて御手洗の井泉がし側にあり、今は人家の邸内となれども汚穢の輩此の水を汲めば忽ち濁る。
即ち社前の砂を投じて浄むれば自ら清水となる。
社伝口碑に拠るに、此の所正しく 須勢理毘売命の御陵ならむと、太古より一社の伝説あり。
蓋し該地位は大山を距ること三里強其の中間にあり、往古は此地も出雲の国境なるや詳かならざれども、出雲風土記に持曳く綱は夜見島これなり云々 中世海洋を隔つる外国は総て加羅と通称せり。
故を以て夜見国より帰り給ひしをも唐土より来り給へるものとし、又大国主神の后神なるを以て唐王御前神と称へ奉りしなり、亦命の御陵と認むる所以は神験不測の神咒方神蹟今猶此地に存在す。
本殿の下に方一間余の石の玉垣あり、其中に高五尺余の古造の碑石あり、中古仏者の為めに惑はされ命の尊陵たるを知らず、往々祭祀を廃絶し社宇衰頽す、諸人該玉籬内の砂を請ひ或ひ或は之を御手洗の井泉に滌きて其の身を清むれば年中虫毒の難に触るゝこと無く、適其害に遭ふも其水を温湯にし砂を入れて紙に涵し、身体の損傷せし所を摩拭すれば疼痛忽ち止み全癒す。
故に崇敬の信徒日に増し月に加はる、菅原道真は古来天満宮と号し一宮神社の摂社なり。
明治元年10月神社改正の際唐王神社の境内に移転し松籬神社と改称合祀せらる。

補足:鳥取県神社誌より
建造物 本殿、弊殿、拝殿、神楽殿
境内坪数  222坪   崇敬戸数 40戸


國信神社
所在地
鳥取県西伯郡大山町國信920-1

社格等  村社

祭神
誉田別命、帯長足姫命、田心姫命、湍津瘁姫命、市杵嶋姫命、武内宿禰命、稚産霊命、倉稲魂命、保食命、稲脊脛命、素盞鳴命

歴史:鳥取件神社誌より
立年月詳ならざれども、旧記に拠れば欽明天皇元年庚申8月15日霊験に由て勧請すと云ふ。
神功皇后三韓征し筑前国へ凱陣、同国宇美宮に、誉田別命御誕生、御宿願に依て因幡国摩尼山へ御参詣、出雲国三保の関沖にて難風の為め国信村の浜に御着岸ありて上陸せらる。
其所を船礒と唱へ兵器の名を以て今に簱鋒、馬留、太鼓面等の地名を呼べり。
建久二年、源頼朝佐々木高綱をして近国を巡視せしめし時、高綱当社の由来を聞き源家久を祈らしめん為め当社を再建し御供料として神田若干を寄進す。
天正年中末、吉城主山中鹿之助、毛利氏の簱下福頼左衛門尉と戦ひ吉城陥り山中氏は国信村に防戦す。
此の時当社兵燹に罹り一時玉殿を守護して海上に避難し、兵火治まりて後社の西北雄鳩石と称する石上に仮に鎮座し後社殿を建立す、古記宝物等此の時多くは焼失す。
文禄慶長の頃、国主吉川、中村の両氏相次いで尊敬せられ、神田、神馬等を寄附せらる。
寛永年中藩主池田氏神田を寄附し安永年中当社を本郡の惣大社となし、例年風雨旱疫等を祈除すべき事を命ぜられ本郡の神官毎年当社に於て祭酋を執行せり。
故に営繕費及び祭典等は高懸りと称し郡中に,課当す。
明治維新の際村社に列せらる、当社の摂末社を此の時合祀せらる。
明治40年4月27日神饌幣帛料供進神社に指定せらる。
大正5年8月29日
  所子大字末吉字北原鎮座村社末吉神社(祭神:武内宿禰命、素盞鳴命、倉稲魂)
  同村大字末長字村屋敷鎮座無格社末長神社(祭神:素盞鳴命)を合併す。

歴史2:伯耆民諺記より
祭神一座神功皇后なり。
人皇五十六代清和天皇の御宇貞観年中、当郡稲光の庄国信村に鎮座ありと云、御舟にうつらせ此村の灘に着船ある、其地を船礒といふ。
葢聞国山八幡と号する事は国を守るの鎮座の山なるゆへに国山八幡とは称すなり。
御船着岸のとき御簱鋒たちし所を簱鋒と云来れり、当村を国信といふ。
左右に連なる村を末長、末吉といふ。
蓋し爾称す事は当社鎮座のときよりしてなり、神能国に信なるか故に国信とす、末世の神威を寿き末吉と号す、神徳萬齢不易に長なる事を祝して末長と称すると云。
社記に曰く、源右大将頼朝公、建久二年に当社再興、佐々木四郎高綱勉之と言なり、此再興願主佐々木を按するに佐々木四郎高綱は平家滅亡して、後於鎌倉頼朝群将闕国割與あるとき戸井の杉山合戦の日、頼朝佐々木へ闕国堅盟変するに依り、興国を辞し館に帰、入道し高野に入と古戦書に述る事分明なり。
然るに、高綱当社建立のときなき事なり、是は雲州富田の城主佐々木民部大輔尼子晴久当国領するとき建立なるべし、同姓なれば後世に至りて世人社職とも謬り爾か伝来しなるべし。
都て当国の社閣晴久再興造営多し、是又世俗謬りて佐々木四郎高綱と称すなり。

補足:鳥取県神社誌より
建造物 本殿、弊殿、拝殿、随神門
境内坪数=1586坪   崇敬戸数=114戸


富長神社
所在地
鳥取県西伯郡大山町富長823番

社格等

祭神
伊弉諾尊、伊弉冉尊、倉稲魂尊

歴史:鳥取件神社誌より
古来龍王大明神と称し、阿彌陀川筋、神原堤防、稲光井手の各村の鎮守神として奉斎し、井手下関係各村の信仰厚し。


補足:鳥取県神社誌より
建造物 本殿、弊殿、拝殿
境内坪数=366坪   崇敬戸数=60戸




旧名和町の神社
名和神社
所在地 
鳥取県西伯郡大山町(旧名和町)名和556

社格等
別格官弊社

祭神
主祭神=名和長年
合祀=長重など四十二人の一族も祭られている。

歴史
延宝5年(1677)10月、鳥取藩主・池田光仲は名和町に氏殿権現を祀る一社を建てた。
明治11年(1878)1月に別格官弊社となり、名和神社と改められた。
明治16年(1883)には、社殿が現在地に造営された。

補足
社殿の裏手からは焼米が発見されている。
これは、長年が後醍醐天皇を擁護して船上山に立てこもった際に、倉庫を焼いたためであるという説があり、この地が倉跡と示す碑も建っている。


武郷神社
所在地
鳥取県西伯郡大山町小竹1048番

社格等  村社

祭神
經津主命、武甕槌命、五十猛命

歴史:鳥取件神社誌より
建保2年(1214年)以前の創立にして、竹本庄司光忠(猛ノ庄の庄司ならん)平素崇敬せる經津主命、武甕槌命、五十猛命を鎮祭せしが、竹本氏没後其の神霊を合祀し、猛庄の中央なる竹の宮に広大なる社地を設け社殿を建立し猛庄総産土に尊崇し猛大明神と称し、(猛の字竹又は武に書せり)其の従臣二宮新重之尉忠善を神主とし正保三年まで奉仕せり。
其後入江某代りて神職となれり。
当時武宮社地は凡そ三町余りあり、社殿は方八尺爾来再建せるも尚古代の風を存す。
正保三年中該神社の氏子たる東坪を分離し、同地に一社を創建せしめ、而して倉谷村坊垣と称する地に八町余りの山林を氏子より寄付せしめ新社地を設け、猛大明神を移し猛ノ庄四ヶ村の本社寶宮大明神と改称し、同時に倉谷木料前谷よりも各小社を移し三社合殿を建つ。
又倉谷法恩寺の鎮守客大明神をも同社地に移転し一般氏子の経営に属せり(明治五年改正の際此の一社は廃社せらる) 慶応4年、鳥取藩神社改革の際、小竹神社と改称せられ、倉谷木料前谷の祭神を各村社に改められしより、其本末を争論し為に氏子中紛擾を醸し、止むなく明治13年十二月十日許可を得て更に小竹村地内現今の地に移転奉祀す。
大正6年11月23日、神饌幣帛料供進神社に指定せらる。
大正15年4月、武郷神社と改称す。

補足:鳥取県神社誌より
建造物 本殿、拝殿、神楽殿、社務所
境内坪数  472坪  崇敬者戸数 57戸


坪田神社
所在地


社格等

祭神


歴史:鳥取件神社誌より


補足:鳥取県神社誌より


住吉神社  (御来屋)
所在地


社格等

祭神


歴史:鳥取件神社誌より


補足:鳥取県神社誌より



所在地


社格等

祭神


歴史:鳥取件神社誌より


補足:鳥取県神社誌より



所在地


社格等

祭神


歴史:鳥取件神社誌より


補足:鳥取県神社誌より





旧中山町の神社
国石神社
所在地 鳥取県西伯郡大山町下市74番



上田神社
所在地
鳥取県西伯郡大山町住吉975番

社格等

祭神
素盞鳴尊

歴史:鳥取件神社誌より
創立年月不詳、古来御崎大明神と号し住吉村の内旧上田村一村の氏神たり、明治元年上田神社と改称す。

補足:鳥取県神社誌より
建造物 本殿、神楽殿
境内坪数=165坪   崇敬戸数=15戸


逢坂八幡神社
所在地
鳥取県西伯郡大山町松河原233番

社格等  郷社

祭神
誉田別尊、息長帯姫尊、田心姫尊、湍津姫尊、市杵島姫尊、天照皇大神、素盞鳴尊、稲田姫尊、天穂日尊、活津彦根尊、天津彦根尊、熊野久須日尊、天之忍穂耳尊、大山祇尊、木花咲耶姫尊、倉稲魂命、武内宿禰命
境内神社=摂津神社(祭神:池田摂津守利政朝臣)

歴史:鳥取件神社誌より
当社は貞観7年乙酉3月豊前国宇佐八幡宮より勧請せる所。
最初は大坂郷大社宇佐八幡宮と称し、中古は大坂八幡宮と号す。
最も崇敬厚き神社として多数の神田あり。
又神官社僧も多員ありて祭祀を奉ず。
応仁以降国乱に当り神田廃棄神官社僧も共に減ず。
天文12年5月(1543年)尼子晴久当社に祈願し霊感ありて、同年6月5日、神田120石の寄附あり尋で義久勝久皆先規を襲ふ(尼子氏の古文書三通現存す)。
此の時神官社僧も再び増員す。
豊臣氏の時百石を没収せられ僅かに20石を存ししを、後中村伯耆守に悉く没収せらる。
爰に於いて神田再び絶す。神宮寺の僧侶はこの際に廃絶す。
慶長3年4月社殿火災ありて旧記多くは焼失せり。
神宮寺の遺跡として神社境内に一小堂本尊薬師仏の像を安置せしが、慶応4年の秋神社取調べの際廃らられ仏像は一時村内の仏堂に隠したるを今は神社の宝物として保存す。
寛永中橋汗入両郡領主池田摂津守利政郷内岡村に住館、連枝誕生多く因て産土神と厚く崇敬せられ、毎年祭典費若干寄附せらる後国換に因て備前国に移転あり。
同10年11月26日、因伯の大守松平相模守社領高3石5斗8升を永く寄附せらる、池田氏数世の後大蔵少輔知利に至り備前因幡に帰藩あり、旧に依て復厚く当社を崇敬せられ永く祈願所として毎年金若干の奉納あり、弘化三年丙午の秋池田式部利壽幕提灯等を寄附せらる。
是より幕提灯はすべて池田家の紋章を用ふ。
慶応4年神社取調の際社号を逢坂神社と改められる。
合殿武内宿禰命は本社創立の際より相殿に奉祀す。
又倉稲魂命は本社境内に末社と崇敬奉祀せしが慶応四年に合祭す。
明治5年2月郷社に列せられる。
明治40年2月3日、神饌幣帛料供進神社に指定せらる。
大正6年4月
  逢坂村大字松河字宮木鎮座無格社松河原神社(祭神:素盞鳴尊、稲田姫尊、天穂日尊、活津彦根尊、天津彦根尊、
  熊野久須日尊、多紀理姫命、狭依姫命、多紀津都姫命、正哉吾勝々速日天之忍穂耳尊、天照大神) 
  同村大字岡字枝屋敷鎮座無格社岡神社(祭神大山祇尊、木花開耶姫命、倉稲魂命 )を合併す。
同年8月
  同村大字殿河内字谷鎮座無格社殿河内神社(祭神 素盞鳴尊 )を合併す。
大正9年12月社号を逢坂八幡神社と改称す。
当社境外所有地逢坂村大字岡の海岸に接する小丘(雑種地六畝十七歩)に隠岐神塚と称する地あり、往古の大坂港の地なり。
元弘3年閏2月、後醍醐天皇隠岐国より伯耆に御潜幸、この地の海岸に御着船御上陸、此の塚の上に御休息あらせられ、それより名和氏船上山へ奉迎せしと云ひ伝ふ、小祠を存す、後醍醐天皇を祀る。
今此の丘上に後醍醐天皇御着船碑を建つ、往年八代国治博士当社を視察し、或は後醍醐天皇の御祈願所にあらずやと述べられしが、現に船上山智積寺住僧来りて遷宮式を行ひし古棟札を存す。

補足:鳥取県神社誌より
建造物 本殿、拝殿、透塀、神饌所、神楽殿
境内坪数=1803坪   崇敬戸数=410戸


木の根神社
所在地
鳥取県西伯郡大山町松河原

社格等

祭神
男根そっくりの老松の根を御神体として祀っている。

歴史


補足:鳥取雑学本舗第313号(2003年10月10日) 「とっとり豆知識」より
昔、大山の見えるある村に「松助」という生まれつき身体の弱い若者が母親と仲良く暮らしていました。
松助は元気があまりないので、仕事も思うようにできませんでしたが、成人した松助に、母親は美しいお嫁さんを迎えてやりました。
しかし、お嫁さんは二、三日すると帰ってしまい、その後二度、三度とお嫁さんを迎えるのですが、やはりすぐ帰ってしまい、松助はますます元気がなくなってしまいました。
母親は心配して、近くの八幡さん(神様)にお参りして「松助が元気な男らしい若者になるように、仲良くお嫁さんと暮らせるように」とお願いしたところ、立派なおじい様が現れて「この山の中ほどにある大きな松の根にあやかるように」と言いました。
母親は言われたとおりに、険しい山をかき分けて、崖の上の大きな松の木を見つけます。
そしてその下にぽっかり開いた、ほら穴の中に入り、こっそり一本の木の根を持ち帰りました。
数日すると、松助は鯨ほどもある大きな魚や、たきぎを山のように持って帰るようになり、四度目のお嫁さんには、五人の子どもが生まれ、やがては指折りの長者になりました。  
この話はたちまち広まり、体の弱い人や子どもに恵まれない人など、参拝客が訪れるようになりました。



所在地


社格等

祭神


歴史:鳥取件神社誌より


補足:鳥取県神社誌より


参考史料
「鳥取県神社誌」 (澤田文精堂 1934)  
「日野郡誌」 (名著出版社 1926) 
「因伯叢書第4巻伯耆誌」 (名著出版社 1972)
「神社辞典」(東京堂出版 1997)  

「ウキペディア 神社一覧」


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  西伯郡の神社-C:鳥取県西伯郡 大山町  
西伯郡大山町
  旧大山町=旧所子村、高麗村                 河川=妻木川、阿弥陀川 
  旧名和町=旧庄内村、名和村、御来屋町、光徳村     河川=名和川、真子川
  旧中山町=旧中山村、逢坂村                 河川=甲川  
現代の市制
鳥取県ホームページ より引用
米子市(旧米子市、淀江町、西伯郡日吉津村)  境港市

西伯郡
  南部町(旧会見町、西伯町)   伯耆町(旧溝口町、岸本町)
  大山町(旧大山町、名和町、中山町) 

日野郡
  江府町  日野町  日南町
令制下の旧国
伯耆国-河村郡、久世郡、八橋郡、会見郡、入汗(あせり)郡、日野郡 

式内社=6社  

河村郡 2社(並小)  久米郡 2社(並小)  会見郡 2社(並小)