古代人物総論-3 (古墳時代) 米子(西伯耆)・山陰の古代史
古墳時代を便宜的に概ね以下の様に分ける事とする。

  前期 250年-400年  (概ね 10代崇神天皇-14代仲哀天皇の頃)
  中期 400年-500年  (概ね 15代応神天皇-25代武烈天皇の頃)
  後期 500年-592年  (概ね 26代継体天皇-32代崇峻天皇の頃)
古墳時代 前期頃
  大田田根子 御間城姫 都怒我阿羅斯等 天之日矛 日葉酢媛命 丹波道主王 磐鹿六雁命

古墳時代 中期頃

古墳時代 後期頃

 (参照:皇室・有力氏族系図まとめ)

古墳時代 前期頃
大田田根子 (おおたたねこ)
概要
崇神朝において大物主神を祭る神主となった。

生没:不詳

系譜


詳細
崇神天皇7年2月
大物主神、倭迹迹日百襲姫命に乗り移り託宣する。

崇神天皇7年11月
大田田根子(大物主神の子とも子孫ともいう)を大物主神を祭る神主とし(これは現在の大神神社に相当し、三輪山を御神体としている)、市磯長尾市(いちしのながおち)を倭大国魂神を祭る神主としたところ、疫病は終息し、五穀豊穣となる。


御間城姫(みまきひめ)
概要
崇神天皇の皇后。
古事記には御真津比売(みまつひめ)とある。

生没;生没年不詳

系譜
父は大彦命。
また、古事記の崇神天皇の条には、崇神が大彦の叔父と読める部分があることから、夫・崇神天皇と従兄妹関係だった可能性があるが不明。


都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)
概要
日本書紀では、アメノヒボコの渡来前に意富加羅国王の子の都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)が渡来し、この説話の前半部分、アカルヒメが日本に渡りそれを追いかける部分の主人公である。
都怒我阿羅斯等は3年後に帰国したという。

系譜
子孫は新撰姓氏録によれば左京諸蕃に清水首・大市首、大和国諸藩に辟田首がいる。


天之日矛(アメノヒボコ、天日槍)
概要
古事記、日本書紀に見える新羅の王子。
播磨国風土記には神として登場する。

生没

系譜

詳細


日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)
概要
11代垂仁天皇の皇后

生没
生年不詳 - 垂仁天皇32年7月6日

系譜
父=丹波道主王
母=丹波之河上之麻須郎女

詳細
垂仁天皇の皇后狭穂姫命が同天皇5年に薨じた後、その遺志により同15年2月甲子(10日)に丹波(後の丹後国を含む広義の丹波国)から後宮に迎えられ、同年8月壬午(1日)に立后、同32年7月己卯(6日)に薨じたとされる。

またその葬儀に際しては、それまで行われていた殉死を悪習と嘆じていた天皇が群卿に葬儀の方法を問うと、野見宿禰が生きた人間の代わりに埴輪を埋納するように進言したため、その陵墓に初めて人や馬に見立てた埴輪が埋納され、以後も踏襲されるようになったという。


丹波道主王(たんばのみちのうしのみこと)
概要
記紀における皇族(王族)。
日本書紀では丹波道主王、丹波道主命、
古事記では旦波比古多多須美知能宇斯王。。

生没

系譜
景行天皇の外祖父。

祖父=開化天皇
父=彦坐王(ひこいますのみこ)
母=息長水依比売娘(おきながのみずよりひめ。天之御影神の女)。

同母兄弟に、水穂之真若王(近淡海安直の祖)、神大根王(本巣国造・三野前国造の祖)、水穂五百依比売、御井津比売がいる。

一説に彦湯産隅命(ひこゆむすみのみこと、開化天皇の子)の子。

妻は、丹波之河上之摩須郎女(たんばのかわかみのますのいらつめ)。
子は日葉酢媛命(垂仁天皇皇后)

渟葉田瓊入媛(同妃)、真砥野媛(同妃)、薊瓊入媛(同妃)、竹野媛、朝廷別王(三川穂別の祖)。
記には他に歌凝比売命。

詳細
四道将軍のひとりで、丹波に派遣されたとされる


磐鹿六雁命(いわかむつかりのみこと)
概要
12代景行天皇の侍臣で、大彦命の孫と伝えられている。
「料理の祖神」として崇められる。

生没
不詳

詳細
景行天皇は皇子・日本武尊の歿後、その東征の縁の地を歴訪したが、景行53年に安房国の浮島宮に行幸したとき、侍臣の磐鹿六雁命が堅魚と白蛤を漁り、膾に調理して天皇に献上した。
天皇はその料理の技を賞賛し、磐鹿六雁命に膳大伴部の姓を与え、その子孫の高橋氏は代々宮中の大膳職を継いだ。


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概要


生没

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詳細


概要

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詳細

        
概要

生没:不詳

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詳細






古墳時代 中期
飯豊青皇女(いいとよあおのひめみこ)
概要
履中天皇の皇女、または市辺押磐皇子の王女で、第22代清寧天皇の崩御後に一時政を執ったとされる。
清寧天皇崩御後から顕宗天皇即位前までの間、政務をとった。
日本における女帝の先駆的存在とされる。

生没
允恭天皇29年(440年)? - 清寧天皇5年(484年)

系譜
父=17代履中天皇

詳細
日本書紀によれば、執政期間は短くわずか10箇月余りで、清寧天皇5年(484年)11月に薨去(実際は「崩」と表記し、天皇扱いにしている)。
ただし、前後の清寧・顕宗天皇などの実在を否定する立場からは、執政期間がさらに数年に及ぶとの推定もある。
なお、年齢については、水鏡に「御年四十五(45歳)」とあり、これに基づいて逆算すれば、允恭天皇29年(440年)の誕生となるが、どれだけ史実を反映しているかは不明である。

論点
①女帝であったかなかったか
記紀では天皇として認められていないが、後世の史書である『扶桑略記』に「飯豊天皇廿四代女帝」、『本朝皇胤紹運録』に「飯豊天皇 忍海部女王是也」と記される上、偽書の『先代旧事本紀大成経』には「清貞天皇(せいていてんのう)」の諡号まであり、天皇の扱いとなっている。
一説には皇統譜でも天皇とされているというが未確認(また別の一説には、前述の生涯1度だけの性交渉ゆえに歴代から外されたのだともいう)。

②出自:履中天皇皇女か皇孫か
古事記』・『日本書紀』履中紀が父を履中天皇 / 母を葦田宿禰(葛城襲津彦の子。羽田八代宿禰とも)の女・黒媛とするのに対し、『書紀』顕宗紀に引く「譜弟」は父を市辺押磐皇子 / 母を葛城蟻臣の女・荑媛(はえひめ)とする。

③執政者ではなく、託宣の巫女だった?
古事記の解釈はさらにわかれる。
折口信夫の解釈によれば、飯豊皇女は巫女であるか、ないしはそれに近い神秘的な人物であり、執政していたのではなく、清寧天皇崩御後に、巫女として「誰に皇位についてもらうべきか」と神託を仰がれて、その段階ではまだ発見されていなかった億計尊・弘計尊の兄弟の名を託宣したのだという。
ただし、神功皇后や倭姫王などの例があるように古代の女性皇族で巫女的な資質をもっていた人がいてもまったく不思議ではないが、記紀をみる限り、飯豊女王について巫女的な要素が直接うかがわれるような記述があるわけではなく、あまり巫女的な面を強調しすぎることには慎重であるべきとする説もある。


概要


生没

系譜

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詳細




古墳時代 後期
概要


生没

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生没


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系譜

参考資料



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