坂上田村麻呂
概説
桓武天皇に重用されて、軍事と造作を支えた一人であり、桓武朝では2度にわたり征夷大将軍を勤める。
蝦夷征討に功績を残し、薬子の変では大納言へ昇進して政変を鎮圧するなど活躍。
死後平安京の東に向かい、立ったまま柩に納めて埋葬され、軍神として信仰の対象となる。
現在は武芸の神として親しまれ、多くの伝説、物語を生んだ。


系譜
父は坂上苅田麻呂、母は畝火浄永の娘。
坂上氏は、前漢の高祖皇帝、後漢の光武帝や霊帝の流れを組む渡来人である阿知使主(応神天皇の時代に百済から日本に帰化したと)その子都加使主の子孫を称し、坂上志拏のとき東漢氏より氏を改めたもの。
祖父犬養と父もそれぞれ武芸をもって知られ、代々弓馬や鷹の道を世職とし馳射(走る馬からの弓を射ること)など武芸を得意とする武門の家系として、数朝にわたり宮廷に宿営してこれを守護した。
田村麻呂登場以前は地方豪族や下級官人であった。
     
    東漢氏
      ↓
      ↓
    坂上志拏 初代
      ↓
    坂上駒子
      ↓
    坂上弓束
      ↓
    坂上首名
      ↓
    坂上老
      ↓
    坂上大国
      ↓
    坂上犬養(さかのうえの いぬかい) (682-765) 正四位上・大和守
      ↓
    坂上苅田麻呂(さかのうえの かりたまろ) (727-786) 従三位・左京大夫
      ↓
    坂上田村麻呂(さかのうえの たむらまろ) (758-811) 大納言正三位兼右近衛大将兵部卿。勲二等。
                                        死後贈従二位
      ↓
    坂上浄野(さかのうえ の きよの) (789-850) 正四位下・右兵衛督
      ↓
    以後坂上氏へ

家督は大野が継いだものの早世したことから広野が継ぐも、広野も早世し、坂上浄野が跡を継いでいる。
浄野には、長男の坂上当宗(鎮守府将軍)、次男の坂上当峰(出羽守)、三男の坂上当道(陸奥守)の三人の男子があったが、それぞれ東北運営に関与した。
田村麻呂流の中でも大野系、広野系、浄野系の三系統を坂上本家という。


生涯
758年  
  坂上苅田麻呂の次男または三男として生まれた。

774年
 按察使、大伴駿河麻呂が蝦狄征討を命じられ、811年まで特に三十八年戦争とも呼ばれる蝦夷征討の時代となる。
 一般的には4期に分けられ。る

780年(23歳)
  近衛将監になった。

780年
  宝亀の乱:伊治呰麻呂は伊治城において紀広純らを殺害、俘囚軍は多賀城を襲撃し略奪放火をした。

789年
  巣伏の戦い:紀古佐美の率いる官軍が阿弖流為の率いる蝦夷軍に大敗した。

792年(35歳)
  田村麻呂、大伴弟麻呂を補佐する征東副使に任じられた。

796年(39歳)
  1月25日に陸奥出羽按察使兼陸奥守に任命され、10月27日に鎮守将軍も兼任する。

797年(40歳)
  征夷大将軍になった。

801年(44歳)
  2月14日 節刀を賜って、4万の軍勢、5人の軍監、32人の軍曹を率いて平安京より出征。
  9月27日 蝦夷の討伏を報告した。

802年(45歳)
  阿弖利為(アテルイ)と母礼(モレ)等500余人の降伏を容れた。阿弖利為と母礼を伴い入京した。

804年(47歳)
  桓武朝4度目の蝦夷征討が計画され、再び征夷大将軍に任命されて3度目の遠征を期した。
  副将軍に百済教雲、佐伯社屋、道嶋御楯、軍監8人、軍曹24人が任命されている。

805年(48歳)
  坂上氏として初の参議に命じられる。
  清水寺の地を賜った。  

810年(53歳)
  薬子の変の鎮圧に出撃した。翌日、上皇の東国行きが阻まれ、変は終わった。
  清水寺に印を賜った。

811年(54歳)
  山城国の粟田の別宅で亡くなる。


事績
蝦夷征討
征夷大将軍として蝦夷征討に寄与。

清水寺との関連
清水寺は、もともと798年に法相宗の寺として建てられたのである。
805年それを全面的に増改築して現在の清水寺になった。

780年、鹿を捕えようとして音羽山に入り込んだ坂上田村麻呂(758年 - 811年)は、修行中の賢心に出会った。
田村麻呂は妻の高子の病気平癒のため、薬になる鹿の生き血を求めてこの山に来たのであるが、延鎮より殺生の罪を説かれ、観音に帰依して観音像を祀るために自邸を本堂として寄進したという。
後に征夷大将軍となり、東国の蝦夷平定を命じられた田村麻呂は、自身が建立した清水寺に平定参拝をしたという。
その後、若武者と老僧(観音の使者である毘沙門天と地蔵菩薩の化身)の加勢を得て戦いに勝利し、無事に都に帰ることができた。
延暦17年(798年)、田村麻呂は延鎮(もとの賢心)と協力して本堂を大規模に改築し、観音像の脇侍として地蔵菩薩と毘沙門天の像を造り、ともに祀った、という。
以上の縁起により、清水寺では行叡を元祖、延鎮を開山、田村麻呂を本願と位置づけている。

805年には太政官符により坂上田村麻呂が寺地を賜り、弘仁元年(810年)には嵯峨天皇の勅許を得て公認の寺院となり、「北観音寺」の寺号を賜ったとされる。

薬子の変 鎮圧
810年に平城上皇と嵯峨天皇とが対立するが、嵯峨天皇側の迅速な対応により上皇が大和国添上郡越田村にさしかかったとき、田村麻呂が指揮する兵が上皇の行く手を遮った。
進路を遮られたことを知り、平城上皇は平城京へと戻って剃髪して出家し、薬子は毒を仰いで自殺したことにより対立は天皇の勝利に終わった。
この事件の時に空海が鎮護国家と田村麻呂の勝利を祈祷している。
空海は嵯峨天皇側の勝利を祈念し、以降、日本仏教界一の実力者になる契機となった。



坂上田村麻呂に関わる刀剣類
1:坂上宝剣 (さかのうえのたからのつるぎ)
坂上宝剣とは
天皇に相伝される護り刀で、朝廷の守護刀として坂上田村麻呂より伝わった御佩剣という
811年(弘仁2年)に坂上田村麻呂が54歳で病死すると、その死を惜しんだ嵯峨天皇は田村麻呂の佩刀の中からこれを選び御府に納めさせた。
これは「坂上宝剣」の名前で後世まで天皇家の重宝の一つになる。

大刀の概要
西園寺公衡記述 『公衡公記(昭訓門院御産愚記)』 1303年(乾元二年)五月九日付 説明およびその裏書により
  
刀身の両面にそれぞれ「上上上 不得他家是以為誓謹思」 「坂家宝剣守君是以為名」と金象嵌の銘が刻まれていた。
刀身は、鯰尾の剣で、鮫柄・銀の鐔・平鞘・白銀の責・石付、黒地に胡人狩猟図を金に蒔く
「頗古物宝物歟」とされる。

来歴
第90代亀山天皇(1249年-1274年)の後は所在不明。

補足壺切御剣(つぼきりのみつるぎ/つぼきりのぎょけん)
日本の皇太子(東宮)に相伝される太刀。
皇室経済法第7条に規定する皇位とともに伝わるべき由緒ある物(いわゆる御由緒物)であり、三種の神器や宮中三殿とともにいわゆる御由緒物の中でも別格の扱いを受けている
「壺切の御剣」「壺切太刀(つぼきりのたち)」ともいう。
後三条天皇の頃に消失した壺切御剣は実検と復元、新造と発見という真偽を超えた対応で処遇され、象徴としてのモノとしてすでに儀礼化の中に位置していた。
それに対して坂上宝剣は『公衡公記(昭訓門院御産愚記)』乾元二年五月九日と裏書に、刀身に彫られた文字まで克明に記録されたように、実物として存在する歴史的実在性が権威化の象徴であった


2:騒速(そはや)
騒速(そはや)とは
坂上田村麻呂が奥州征伐に遠征する際、兵庫県加東市の清水寺に祈願し、無事帰京したことで奉納したと伝えられる大刀
御伽草子などではそはやのつるきそばやの剱草早丸素早の剣素早丸神通剣と表記される。
もともとは「ソハカ(ソワカ)であったものを「ソハヤ」とうつし間違えたという説もある。(ソワカつは、密教で呪文の最後に唱える言葉で、「幸あれ」「祝副あれといった意味)。
騒速と呼ばれる1口の大刀と、その副剣とされる2口の大刀の合わせて3口が「大刀 三口 附拵金具十箇」として1981年6月9日に重要文化財に指定されている。

清水寺の寺伝によると「桓武天皇の頃、征夷大将軍坂上田村麻呂丹波路より参籠、蝦夷の逆賊高麿を討取り、鈴鹿山の鬼神退治を遂げたが、聖者大悲観音の霊験を受けその報謝として佩刀騒速、副剣の2振を奉納す」とある

大刀の概要
 平安期の作 重要文化財 播磨清水寺所蔵(兵庫県加東市) 東京国立博物館保管
   「1号大刀」 刃長41.1cmの切刃造のもの。
   「2号大刀」 刃長43.2cmの鋒両刃造
   「3号大刀」 刃長43.1cmの鋒両刃造。

これら三口は通常の大刀に比べて寸法がやや短いものの、いずれも鎬筋がやや中央により、特色として浅い反りがある。
鍛えは板目肌流れ、刃文は2号大刀が刃を焼き、1号大刀と3号大刀は刃文がない。

拵の金具は金銅製の竹の節のような形で、鎺の中央が刻まれていることから唐鐔風の鐔が付属していた可能。
奈良末期から平安時代中期にかけて直刀から弯刀へと変遷する過程のものとして極めて資料的価値が高い。
坂上田村麻呂の大刀と伝え、『集古十種』にも所載されている。 『集古十種』では「田村丸剣」として身1尺7寸6分強、身1尺7寸5分、身1尺3寸6分強の3口が記載され、附として竹の節を模した鍔金具の竹作大刀拵であったことが確認できる。
「将軍そは矢の剣 作上手也」とあり、安綱作とされる。

履歴
現在まで播磨清水寺所蔵(兵庫県加東市)に所蔵され、腐食が進んでいることから東京国立博物館で保管されている



3:黒漆剣(くろうるしのつるぎ/くろうるしのけん)
黒漆剣とは
坂上田村麻呂が京都府にある鞍馬寺に奉納したと伝えられる大刀。
「黒漆剣〈/(寺伝坂上田村麻呂佩剣)〉」として1911年4月17日に重要文化財に指定されている。

大刀の概要
刃長76.6cm、元幅2.6cm、先幅1.8cmで無銘の大刀。


4:標剣
  標剣とは
「標の太刀」といい、天皇が持節将軍に与えた節刀のこと。

第二次征伐では794年(延暦13年)1月1日に大伴弟麻呂が節刀を賜与されているものの、征夷副使である田村麻呂が賜与された事実は無いことから第二次征伐で標剣を佩用していたとは考えられない。
田村麻呂は第三次征伐で征夷大将軍となった801年(延暦20年)2月14日に節刀を賜与されているが、同年10月28日に帰京して天皇に節刀を返還している。

近年では「坂上宝剣」と「標剣」、「そはやのつるぎ」、「黒漆剣」の4振りの刀剣は同一ではない、または同一であるか定かではないと説明されるのが一般的となっている


5:妙純傳持ソハヤノツルキウツスナリ (みょうじゅんでんじ そはやのつるき うつすなり)
  ソハヤノツルキウツスナリとは
 鎌倉時代の筑後国の刀工・三池典太光世作と伝えられる日本刀。
 ソハヤノツルキともいう。徳川家康の愛刀とされる。

大刀の概要
 「革柄蝋色鞘刀〈無銘(伝三池光世作)
 裏に「妙純傳持ソハヤノツルキ」、表ニ「ウツスナリ」ト刻ス〉」として徳川家康の命日である1911年4月17日に国の重要文化財に指定されている。


6:血吸
  坂上田村麻呂が鈴鹿御前と戦った時に使ったというのが血吸という名の刀。
酒呑童子絵巻ではこの血吸は坂上田村麻呂が伊勢神宮に奉納し、それを伊勢神宮から下賜された源頼光が酒呑童子退治に使ったとある。


田村麻呂伝説
討伐伝説
坂上田村麻呂が鈴鹿御前や鈴鹿山の鬼神・大嶽丸を討伐した話として『鈴鹿の草子』『田村の草子』、奥浄瑠璃『田村三代記』を通じて田村麻呂伝説が広く知られている。

『太平記』巻三十二においては鬼切の伝来について坂上田村麻呂が鈴鹿御前と剣合わせをしたという記述に見られる


縁起伝説
  清水寺を代表に、多くの縁起伝説に関与している。
坂上田村麻呂の建立とされる寺社や奉納したとされる寺社伝説はゆかりの深い東北の岩手県、宮城県、福島県を中心に残されている。


田村麻呂黒人説
坂上田村麻呂が黒人だったという風説である。
遅くとも1911年には北米において発生していた。
この説は説得力のある証拠を何一つ提示できなかったにも関わらず、おもに黒人の学者のなかで21世紀に至るまで引用されており、古代日本におけるネグロイドの存在を証明するものとして考えられていた。


参考資料
『田村麻呂と阿弖流為―古代国家と東北』  歴史文化セレクション  2007
『坂上田村麻呂』 人物叢書  1986

Wikipedia 「坂上田村麻呂」  「田村麻呂伝説」


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坂上田村麻呂
坂上田村麻呂(さかのうえの たむらまろ)
平安時代の公卿、武官。名は田村麿とも書く。姓は忌寸のち大忌寸、大宿禰。
官位は、大納言正三位兼右近衛大将兵部卿。勲二等。贈従二位。