『補足−俘囚と別所』
『全国「別所」地名事典(上)』 からの引用
著者
  柴田弘武 著
   1932年神奈川県藤沢市生まれ。
   1955?92年 東京都の高校教員。
   えみし学会会長、郷土教育全国協議会・史遊会・たたら研究会・日本地名研究所・日本ペンクラブ等の各会員。
   B5 / 871ページ / 上製定価:9,500円 + 税

  主な著書
     『風と火の古代史』  
     『鉄と俘囚の古代史?蝦夷「征伐」と別所《増補版》』(彩流社)
     『おばけと物語』(現代書館)  
     『東国の古代?産鉄族オオ氏の軌跡』(崙書房)
     『将門風土記』(たいまつ社)がある。

内容紹介
 律令国家の蝦夷“征伐”の真相に迫る。産鉄と密接に関わり、全国に主に「別所」地名として残る、蝦夷の移封地611ヵ所を現地調査によって析出。
 俘囚移配の目的は、主として彼らを製鉄をはじめとした金属工業生産に従事せしめる為であった、という説を実証するために、全国の別所地名の悉皆調査を試みたものである。
 地図と写真を付した膨大な記録を国別に編集した、別所研究の集大成にして画期的「地名事典」。地名索引、一覧付。

前書き
 本書は雑誌「月刊 状況と主体」誌(谷沢書房刊)に、一九八二年八月号から一九九六年八月号まで、一四年間一六五回にわたって連載した拙稿「蝦夷征伐≠フ真相」の第二部にあたるものである。
 その第一部はすでに『鉄と俘囚の古代史』と題して一九八七年に彩流社より刊行された(増補版は一九八九年に刊行)。
 執筆の目的は同書の「はじめに」の項で述べているのであるが、簡単にいえば「別所」という地名をもとにして、いわゆる「蝦夷征伐=vといわれる古代律令国家の東北侵略の真相を明らかにしようとするものであった。
 それは故菊池山哉の「別所と俘囚」という論考で、全国二一五ヵ所の別所を挙げて、そこが蝦夷征伐≠ノよって生まれた俘囚(捕虜)の移配地である、という見解に接したことに始まる。
 私はその菊池説を検証すると共に、ではなぜ別所といわれる所に俘囚が移配されたのか、そこはどういう歴史的・地理的環境の土地であるのかを解明することによって、俘囚移配の目的が明らかになり、ひいては律令国家の蝦夷征伐≠フ真相にも迫ることができるのではないかと考えたのである。
 その答えは第一部、即ち『鉄と俘囚の古代史』で出したつもりである。
 ところで第二部というのは第一部で出した仮説、即ち俘囚移配の目的は、主として彼らを製鉄をはじめとした金属工業生産に従事せしめる為であった、という説を実証するために、全国の別所地名の悉皆調査を試みたものである。
 菊池が挙げた二一五ヵ所の地名(主として大字地名である)はもちろん、小字やすでに消滅した別所地名までを含めて、文献資料ばかりでなく出来る限り現地調査を行ってその特徴を捉えようとするものであった(ちなみにその第二部は『鉄と俘囚の古代史』刊行時点ではまだ執筆継続中であった)。
 幸いなことに私の執筆とほぼ同時並行的に角川書店から『角川日本地名大辞典』(都道府県別)と、平凡社から『日本歴史地名大系』(都道府県別)が刊行され続けていた。
 特に『角川日本地名大辞典』の巻末には小字地名が網羅されており、そのお陰で小字地名の発掘は大幅に増大した。
 結果は菊池の挙げた二一五ヵ所を含めて五五七ヵ所の別所地名が検出できた(ここでは茨城県千代田町、奈良県御所市鴨神、京都府宮津市成相寺などのように、一大字の中にたくさんの小字別所がある場合は一別所と数えてある)。
 そのほか別所の可能性のある地名も六四ヵ所ばかり検出でき、「存疑」として載せた。すなわち本書で取り上げた別所は存疑を含めて総計六二一ヵ所である。そのうち五ヵ所は連載以後発見したものである。
 これら六二一ヵ所の別所は、本文で見られるように、別所そのものか、又はその周辺に多くの製鉄・鍛冶をはじめ、銅、水銀などの古代金属産業の痕跡が認められ、私の仮説は実証できたのではないかと考えている。
 菊池が別所を俘囚移配地と主張する根拠については前著ですでに紹介したが、最近前田速夫氏が『余多歩き 菊池山哉の人と学問』(晶文社 二〇〇四年)という、菊池山哉の生涯とその学問の特異性を高く評価する好著を著した。
 そこには菊池の別所論の要領のいい紹介がなされているので、ここで引用させて戴く。
 
一 共通の名義と共通の特異性を有する別所村は、共通の成因を有する。
二 延喜式に百万束からの正税が計上せられ、普く各国に散在して居った俘囚村が、消えて無くなる筈がない。
三 延喜式所載の俘囚村(引用者註…俘囚料の誤り)の多寡は、別所村の数と大体に於いて合致する。
四 俘囚は早く編戸の民となったが、課役を科する勿れとか平民と同うせしむる勿れとかあるので、必ずや差別感のある村を生ずるわけ   であるが、近畿の別所村は明らかに差別されて居る。(1)
五 俘囚村は、其出入り制禁されたやうであるが、別所村に其名残りが残る。
六 近江以東の諸国に於て白山神を祀るものは、エタ族の長吏村か、奥州の俘囚長かに限られて居るのに、(2)別所村には白山神を鎮守とするものが往々にしてある。東光寺なる薬師本尊の寺院ある事、また同様である。
七 別所に慈覚大師建立の薬師堂が現存するが、夫れは俘囚静謐の宿祷によるもので、右寺院に対し源頼朝の所謂源家累代の祈願とは、源頼義義家の奥州俘囚征伐を指すものである。
八 俘囚で度し難いものは、愈々山奥へ追い込まれた様であるが、別所には農耕の民の住み得られない土地がある。
九 俘囚として当然陥るべき業体、諸芸人に近畿の別所村が従事して居った。
十 俘囚は其の管理上、各郷へ一ヵ所位づゝ配置されたかと推定さるゝに対し、別所村も古郷に一ヵ所づゝ存在する。

  引用者註
 (1)この点は私の調査によれば正確とはいえない。多くの別所は差別されていない。    
 (2)この点も正確ではない。白山神社はもっと広範囲に分布している。

 以上である。(なお文中、現在では不適切な表現があるが、歴史的文献の紹介なので許容して戴きたい。)
 もっともすべての別所が俘囚移配地である訳ではなく、菊池も前記論考で認めているように、寺院の別院としての別所があったことも事実である。

 本稿連載中の一九九一年、吉川弘文館から『国史大辞典』全一二巻が発刊された。
 その中で高木豊氏が別所の項で「寺域内の空閑地、領主のいない空閑地など未開発の地を占定し、そこに造成された宗教施設。占定した土地も開発され、それには地子・地利・官物・雑役・公事などの免除の特権が与えられ、それが別所在住者やその活動の経済基盤にもなった。
 その初見は十一世紀前半にさかのぼるが、中世後期になるとその造成もみられなくなるばかりでなく、別所の名も消えていく例が多く、末寺化していったと考えられる。
 したがって、別所の形成とその活動は中世前期の特徴の一つであった。
 比叡山延暦寺の黒谷別所や、高野山金剛峰寺の東別所などの大寺院の大別所ばかりでなく、地方諸地にも別所がみられる。
 別所には、特定寺院を離去した僧や、寺院の中心的事業から離れた僧が在住して、遁世・隠栖の場とした一方、聖も在住・寄住して、自行・化地の生活をしている。
 別所のなかに往生院を含むもの、あるいは別所と同様に考えられる往生院の呼称をもつものもあり、ともに僧俗の終焉の場でもあった。
 別所の宗教活動としては、迎講・不断念仏・法華八講・涅槃講、仁王講などがあり、別所周辺の人々はこの講会に結縁したり、忌日仏事を委託したりしていて、別所は在地の人々の教化・結縁の場であった。」と記した上で、さらに文献上から検出した八九ヵ所の別所を挙げている。
 これは現在の歴史学会の定説であろう。
 そしてこの八九ヵ所の別所(比定地未詳のものもある)は同説によく合うことは確かである。
 しかし菊池及び私が検出した六〇〇ヵ所以上におよぶ別所をすべてこの説で解釈することは到底不可能である。
 例えば菊池も述べるように多くの別所に共通する白山神社と薬師堂の存在、また東国の別所に多い東光寺の寺号、さらに慈覚大師円仁の伝承、またいくつかの別所にある坂上田村麻呂や報恩大師、あるいは僧延鎮の伝承などの共通性なども高木説では説明しきれない。
 さらに、多くの別所およびその周辺に存在する製鉄遺跡などの金工遺跡の存在、金属関連の地名や神社、伝説の存在などもとても偶然のものとは思われないのである。
 私は全国別所地名の存在、すなわち蝦夷の現住地である北東北には極端に少なく(岩手県には一ヵ所もない)、また平安時代初期にはまだ充分内国化していなかった九州南部の宮崎・鹿児島の両県にも全く存在しないという分布の特異性(日向国に俘囚が移配されたのは確かであるが、承和十四年〈八四七〉には俘囚料を減省した理由として「俘囚死に尽くし、存員少なきを以てなり」〈『類聚国史』〉とある。)等からみても菊池説はやはり妥当性をもつと考える。
 別所地名について多くの市町村史は、柳田国男説(荘園内に本所の承認を得て成立した新開墾地説)や本寺とは別に修行僧(聖)が移り住んだ所という、高木説的な説明を採用しているが、なかには菊池説を採用している郷土史もわずかながら存在する。
 すなわち東京都『町田市史』、千葉県『小見川の歴史』、富山県『氷見地名考』、京都府『天田郡の地名(序説)』、鳥取県『東伯町誌』、山口県『ふるさと小野田』、香川県『おおち夜話』、同『財田町誌』などである。
 「別所」の初出について一言述べておきたい。
 高木説によると別所の初見は十一世紀前半とされているが、『令義解』によると、七〇一年の大宝令「医疾令」に
 「女医取官戸婢十五以上。廿五以下。性識慧了者三十人。別所安置。謂。内薬司側。造別院安置也=v云々とある。
 すなわち律令体制下の女医の養成は官戸婢の中から、十五歳以上二十五歳以下の、性識慧了者の者三十人を選んで別所で養成せよというのである。
 ここで問題は女医を別所で養成するということであるが、「令義解」は注釈を行い、「内薬司」の項では、「別所」ではなく「別院」と書かれているとする。
 その「内薬司」の部分は散逸して見当たらないのであるが、おそらくここは「別所」ではなく「別院」の間違いであろう。
 仮に「別所」であったとしても、医師の養成機関が官営の寺院で行われたところから見て、女医のそれは寺院の別院という意味での「別所」であることは間違いなく、地名としての「別所」の初出とはいえないようだ。
 また承和九年(八四二)に、いわゆる承和の変(応天門事件)に連座して大納言藤原愛発が京外に放逐されるが、愛発は「山城国久勢郡別墅」において翌承和一〇年(八四三)に薨じたと『続日本後紀』にある。
 吉田東伍の『大日本地名辞書』(以下『地名辞書』と略す)は「河田氏曰 藤原愛発別業址 御牧村旧藤和田若宮八幡宮社域其地なりと云」と紹介している。
 即ち現在の久御山町御牧の地がそれだという。
 もしこの「別墅」を「別所」とすれば、これが最も早い時期のものといえるだろう。
 しかし文意から推してこれは地名ではなく、いわゆる別荘(別宅)の意と思われるので、やはり「別所」地名の初出とはいえないようだ。
 同じ『地名辞書』には、承和元年(八三四)に死亡した桓武天皇の第七皇子明日香親王の墓が久世郡大久保村大久保(現宇治市大久保町)の東、旧旦椋社地後にあるとされ、その墓を「別所墓」というと書かれている。
 これが当時からそう呼ばれていたとすれば、別所の初出になるが、どうもそのような感じはしない。
 なぜその墓を「別所墓」というのかも不明である。
 また本文大和国の項(奈良県山辺郡都祁村針ヶ別所)でも触れるが、『日本の神々─神社と聖地」4によると、都祁村の甲岡神社は天延三年(九七五)に甲岡に寺が建てられ、「甲岡別所の観音寺」と称したことに始まるとされる。
 これを当初からの呼び名とすれば、別所の称号は十世紀後半にさかのぼるといえる。
 ちなみに菊池は『古写経綜鑒』にある康和四年(一一〇二)の奧跋「丹後国普甲山別所御房」の記録が「今のところ別所の初見です」としている。

 本書の章別編成は菊池山哉の「別所と俘囚」に敬意を表して同じ形態をとらせて戴いた。
 そのため東国や近畿の章は一般に用いられている国別編成とはやや異なっていることをあらかじめ申し上げておきたい。
 今回原稿を纏めるに当たって、雑誌連載原稿にあった誤りは可能な限り訂正し、また連載後に知り得た事項は書き加えるなり、追記の形で補わせて戴いた。
 なお本書は月刊雑誌の長い連載が元になっているため、引用資料等に重複がかなりある。
 また前半部分と後半部分ではその構成にやや一貫性が欠けた憾みがある。
 これも連載途中から上記『角川日本地名大辞典』や『日本歴史地名大系』などの資料が得られ、より詳細に記述することができるようになったゆえのことであるのでご容赦願いたい。
 また本書は前記『鉄と俘囚の古代史』と重複する部分(特に奥羽の別所)があるが、これは全国「別所」地名事典という性質上やむを得ないことなので、これもご許容戴きたいと思う。
 本文中掲載の写真には日付の入っているものがあるが、それは撮影時点の年月日を示すものである。
 また行政地名は執筆時点のものをそのまま使用している。二〇〇五?〇六年度にいわゆる平成の大合併が行われ、行政地名がかなり変化した。そのため旧地名と現地名の対照一覧をつけたのでご利用願いたい。

  二〇〇六年八月  柴田弘武




参考資料
『鉄と俘囚の古代史』  柴田弘武 1989
全国「別所」地名事典(上)』 柴田弘武 彩流社 2007

『日本古代の国家と農民』 法政大学出版局、1973
「古代豪族系図集覧」 東京堂出版 1993

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