大和伝について
大和伝
奈良時代以前
当時は飛鳥、奈良が首都であり、佩刀あるいは帯刀した国外からの使節を目にすることもあったであろう事が想像できる。
そのような環境にあり、かつ政権の庇護のもと刀剣の製作が行われたと考えられる。
しかしこれらは直刀であり、上古刀と呼ばれている。

奈良時代初頭
古文献には刀工天国(あまくに)が銘を切った、いわゆる日本刀を作成したと見られるが、現存していないので詳細は不明。

平安京へ遷都後
遷都によって大和国の鍛冶は置き去りにされ、注文主がいなくなって衰退していった。
しかし、平安後期になって、実質的に政権を握っていた藤原家の仏教重視の製作によって奈良の寺院はその力を盛り返す。
そして僧兵を抱えて、時の政権を悩ますほどの勢力となった。
これらの寺院のお抱え鍛冶として門前に住し、僧兵の武器を作成したのが大和鍛冶の特徴と言える。
そして大和鍛冶の多くは、抱え主である寺院の名をその流派の名として呼ばれていた。
しかし、度重なる内戦などによって、あるいは実践に使用されたためその現存作は少なくなっている。

鎌倉中期
ここ至って大和鍛冶にも需要が増大し、相次いで千手院、手掻、当麻、尻懸、保昌などの各派が興って大和伝が再興された。

大和五派
平安時代後期以降、大和の国に栄えた刀工集団。
千手院(せんじゅいん)、尻懸(しっかけ)、手掻(てがい)、当麻(たえま)、保昌(ほうしょう)を指していう。
大和伝最大の顧客は寺院を護る僧兵で、東大寺や千手院、当麻寺などの門前や、近隣、寺院同士を繋ぐ街道の辻などで作刀していた。


大和伝の特徴
実用本位の造り
重ねを厚くし、その分重さを軽減するために鎬(しのぎ)の重ねを薄くしているため鎬が高いのが特徴。
棟は、庵棟となり、棟が高くなっている。
地肌は、板目に柾目が混じるもの、全体的に柾目肌となるものなど柾目が混じるのが特徴。
刃文は、柾目の肌に沿った縦の働きが多くなっている。

無銘のものが多い
多くの大和鍛冶はそれぞれの寺社に専属し、それら寺社のための刀などを製作していた。
そして直接納品していたので、銘をわざわざ切る必要がなかった。
また、当時は抱え主に直接納める場合や、高貴な人に献上する場合は、作者の名を入れないのが礼儀であった。
大和伝の現存する作刀は少なく、またほとんどが鎌倉後期以降のものとなる。


大和伝と刀工について−1:大和五派
千手院派
千手院派とは
平安時代の後期、あるいはさらに以前に興ったと考えられる大和国の日本刀刀工の一派。
若草山麓の千手谷で鍛刀していた。
その地に千手院が存在していたことから、千手院派と呼ばれるようになる。
大和5派の中で、最古の流派であるとされる     
千手院派の刀鍛冶達は、大和国奈良の東大寺に隷属する僧形の承仕法師であった。
よって、もっぱら東大寺の僧兵達の為に鍛刀を行なっていたという。
  
始祖
平安末期の行信重弘を祖とする二派の系図をあげている。

作風の特徴
造り込み−腰反りで踏ん張りが強く、小鋒でこころもち猪首風となる。
地鉄−板目に流れ柾が混じり細かな地沸つく。
刃文−焼幅の狭い直刃調に小乱れが混じる。

著名刀工及び作品
大和物の例に漏れず無銘の作が非常に多い
特に、時代の上がる古千手院の在銘は皆無である。
かつての徳川家をはじめとする諸侯の蔵刀中でも、在銘正真のものはみられなかったという。
鎌倉期までの作は無銘、在銘問わず少ないものの、南北朝期を下る作品は相当数現存している。

 国宝       大太刀   銘「貞治五年丙午千手院長吉」  (大山祇神社)
  
 重要文化財   太刀     銘「力王」(栃木県足利市鶏足寺)
 重要文化財   三鈷柄剣  銘 「重吉入道作 元亨二二正月七阿闍利頼宣」 (個人蔵)

 重要美術品   太刀     銘 「康重」
 重要美術品   太刀     銘不明 伝千手院義弘

 特別重要刀剣  太刀     無銘 伝古千手院

その他、名前だけが知られているものに、行信、重弘、行正。
現存作があるものに、重行、義弘、國吉、などがある。


当麻(たえま)派
鎌倉時代中期頃の国行をを祖として鎌倉後期ないし南北朝期にかけて栄えている。
有俊、友清、友行等が知られている


尻懸(しっかけ)派
尻懸派の居住地は手向山(たむけやま)八幡宮,天理市岸田町尻懸,宇陀郡御杖村尻懸など諸説があり,

建治年間(1275年‐1278年)の則弘を祖としている。
しかし則弘の作刀は現存せず、その子則長から室町時代まで代々の作を残している。


手掻(てがい)派
東大寺に所属した刀工集団で、東大寺西の正門、転害門(てがいもん)の門前に居住していたことから、手掻と呼称されている。
大和五派のなかでは最も規模が大きく繁栄しかつ技量が安定している一派として知られ、手貝町、包永町などの地名を今に残している。

手掻派の始祖は鎌倉時代中期の正応(1288年)頃の包永とされる。
名物『児手柏』(大正十二年の関東大震災で焼失)や岩崎家所蔵品の国宝、他に重要文化財6口が知られている。
しかし、これらの指定品は磨り上げられて茎尻に二字銘が残されたものである。

手掻派の刀工達はほかに、包吉、包清、包友、包利などがおり、正宗十哲の一人、兼氏(初銘包氏)も手掻派に属したといわれている。
手掻派は南北朝期を経て室町時代まで続いている。
南北朝時代までの作品を『手掻』、応永以降室町時代の作品を『末手掻』と呼称している。
大和五派中でもっとも沸が強く、地鉄が冴えるのが手掻の特徴とされている。


保昌(ほうしょう)派
  保昌派は作刀に〈大和国高市郡住人金吾貞吉〉と銘したものがあり,作刀地が明らかである。
この派では貞継,貞吉,貞清,貞興など〈貞〉の字を冠する者が多く、鎌倉末期から南北朝期にかけて栄えた。



大和伝と刀工について−2
天国
  人物
日本刀剣の祖
日本刀剣の祖とされるが、その出身、経歴には謎が多く、大宝年間(701年〜704年)の大和国の人とも、平安時代後期の人とも、複数人存在したとも言われ、諸説あるものの、実在の人物であるかどうかは定かではない。

日本国現存最古の刀剣書である『観智院本銘尽』では、「神代鍛冶」、「日本国鍛冶銘」、「大宝年中」、「神代より当代までの上手鍛冶」の各項目で取り上げられており、当時から名工として扱われていることが窺い知れる

また一伝承によれば、天国は日本刀初期の名工である三条宗近の師であったともされる。
1784年(天明4年)の『彩画職人部類』の「鍛冶」の項では、天国とともに鍛冶を行う年若き三条宗近の挿絵が掲載されている。


居所に関する伝承
@奈良県高市郡高取町字清水谷の芦原峠北側にあった尼ヶ谷集落(大和国高市郡清水谷村字アマクニ
天国が作刀した地としての伝承が残されており、刀工の名が尼ヶ谷の地名の由来とも伝えられる。
現在同地の集落は消滅したが、作刀の際に使用したとされる井戸が、当地に存在した元・天国三輪神社に残されている
同社は天国の守護神である大神神社の大物主の分霊を祀っていたとされており、現在、同字にある高生神社に遷され合祀されている

A奈良県宇陀市
天国が作刀した地としての伝承が残されており、市内の菟田野稲戸にある八坂神社には作刀の際に使用したとされる井戸が残されている

作刀
天国が作成したとされる刀はいくつか現存するが、そもそも天国の実在が確認できていないことから、真偽は伝承の域を出るものではない。
以下、天国作刀の伝承又は記録が残されているものについて、真偽を問わず記載する。

天叢雲剣
『観智院本銘尽』「神代鍛冶」の項目では天国について「帝尺之釼 村雲の釼作」と注釈がなされている
三種の神器である天叢雲剣の作者であると解読されるが、熱田神宮ないし皇居に現存する草薙剣(形代も含む。)がそれに当たるかは不明である。

小烏丸
奈良時代末期から平安時代中期の間に作られたと推定される鋒両刃造。
斬るよりも刺す事に適した形状となっている。
『観智院本銘尽』「大宝年中」の項目では、平家一門の宝刀として伝えられる小烏丸の作者と記載されている
現在、小烏丸と号する太刀としては、伊勢氏から宗氏を経て、1882年(明治15年)に宗重正から明治天皇に献上された大和国天国御太刀(小烏丸と号す)(いわゆる御由緒物、御物番号29)があるが、無銘であるものの、天国作と伝えられる
なお本太刀は、その製作は奈良時代まではさかのぼらず、日本刀が直刀から反りのある湾刀へと変化する平安時代中期頃の作と推定されている。
本太刀も、他のいわゆる御由緒物と同様に宮中祭祀での役割を担っており、同じくいわゆる御由緒物である山城国国綱御太刀(名物鬼丸)とともに、毎年11月23日に行われる新嘗祭にて使用されることとされている

大和国天国御太刀(小烏丸)

古今伝授大和国天国御太刀
皇室経済法第7条に規定する「皇位とともに伝わるべき由緒ある物」(いわゆる御由緒物、御物番号35)であり、現在、皇室の私有財産(御物)として宮内庁侍従職が管理する
いわゆる御由緒物の太刀の多くは明治以降に明治天皇に献上されたものであるが、本太刀は歴代天皇御譲品として代々皇室に伝わる太刀である
いわゆる御由緒物の刀剣の多くは宮中祭祀など皇室内の私的儀式で役割を担っており、本太刀は、御物名からも明らかであるとおり、代々古今伝授の節に佩用されることとされている
本太刀の持つ性質のためか、これまで一般に公開された形跡は見受けられない。

亀戸天神社の宝刀
東京都江東区亀戸の亀戸天神社に社宝として伝わる太刀。
『江戸名所図会』では、天国作の太刀として菅原道真が佩刀していたものが同社に伝わったと記載されている
本太刀には「一度鞘から抜き放てば決まって豪雨を呼ぶ」という伝承が残されている。

山名八幡宮の宝刀
群馬県高崎市山名町の山名八幡宮に社宝として伝わる刀剣
山名義範が本社を創建する際に本刀剣を奉納したと伝えられる
両刃の直刀であり、鎌倉時代末期のものとされる

成田山新勝寺の宝刀
千葉県成田市の新勝寺に霊宝として伝わる刀剣
平将門の乱の平定のため開祖寛朝が朱雀天皇より賜ったものが同寺に伝わったと伝えられる
現在、毎年7月に行われる成田山祇園会では、本刀剣を用いた息災・魔除けの加持が行われている。

補足:鋒両刃造り(きっさきもろはづくり)、小烏造り(こからすづくり)
切先に近い部分のみが、剣のように両刃になっているもの
特に、小烏造りは刀身の2分の1以上が両刃になった擬似刀と呼ばれる剣の造りを指す。
現存する刀では小烏丸がこの造り込みでできている。
新々刀期の刀工、明治期の刀工が写しを作刀している。
鋒両刃造





初載2018-9-30

参考資料等
「図解 日本刀事典―刀・拵から刀工・名刀まで刀剣用語徹底網羅」 (歴史群像編集部 2006)
「図説・日本刀大全―決定版 」 (歴史群像シリーズ 2006 稲田和彦
「写真で覚える日本刀の基礎知識」  (2009 全日本刀匠会)
「日本刀の科学 武器としての合理性と機能美に科学で迫る」  (サイエンス・アイ新書 2016)
「日本刀の教科書」 (東京堂出版 2014 渡邉 妙子)

『日本刀図鑑』 (宝島社、2015、別冊宝島2646号)

『銘尽』(めいづくし) 国立国会図書館 (http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1288371)

Wikipedia 「天国」 「小鴉丸」 

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