「孝霊山考」
一.はじめに
 孝霊山(標高751m)は米子市淀江町と大山町の境界線上にあり。古来、高麗山・韓山・唐山・香原山・瓦山などとも表記されてきた。
 山麓には弥生後期の妻木晩田遺跡やいわゆるカラ山古墳群と称される総数四百基以上の古墳の分布が確認されている。
 また石器類も多く出土しており、少なくとも縄文期以降人々が連綿として生活した場所であることがわかる。
 米子から右手に大山を望みつつ国道9号線を東進すればやがて孝霊山が次第に大きくなり、ついには大山の姿がすっぽり隠れてしまう地点が来る。
 丁度そこに妻木の壹宮神社(祭神=シタテルヒメ=オオクニヌシのムスメ神、母はタキリヒメ:古事記)が鎮座している。
 神社から見る孝霊山の山容は主峰を中心に副峰が両側に並ぶ、最も均整がとれた美しい姿を見せる。
 この宮は、古代から孝霊山自体を信仰の対象=神の坐す山=カンナビ山として祭祀を行った聖なる場所であり、また日本海から見れば航海の目当てとなる山でもあったはずである。


二.呼称について
   まず、孝霊山麓の人々(主に年輩の人たち)に山名についての聴き取りを行った結果、実際に地元の人同士の会話の中で通常使われている呼称は「カワラヤマ:kawarayama」あるいは「カーラヤマ:kaarayama」であり、「コウレイザン:koureizann」と呼ぶことは少ないという事が分かる。
 近世(江戸期)の古地図には「瓦山」・「香原山」などと記載され(資料1)、中世の古文書にも「香春山城〜」との記載例があることからすれば、「孝霊山」は近世以降の呼び名であり、中世以前に遡ればカワラヤマと呼ばれていたと考えたい。 

〈資料1〉 地図、文書に見える孝霊山の名称

地図、文書に見える孝霊山の名称
 
   中世           香原山(城)(かわらやま城)
   寛政9年(1797)   高霊山  片山楊谷「大山眺望絵図」
   天保14年(1843)  孝れい山  江戸後期 「会見郡大庄屋村支配図」
   M12年         高麗山 (瓦山)
   M40年        光廉山
   M42年         光霊山
   T13年         孝霊山
   S 7年         孝霊山 

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  2013.10.05 会見町図書館にて新修米子市史 資料編 閲覧
  M42 鳥取県全図  光霊山
  1843(天保14年)会見郡大庄屋村支配図  孝□山     深田、吉村、八田、細田                       
  寛政9年 大山眺望絵図 片山楊谷  高霊山



三.カワラ地名について
   国内の「カワラ」と名が付く山には、福岡県田川郡香春町(豊前)の香春岳(カワラダケ)が著明である。
 香春岳は「豊前の国風土記」に「昔、新羅国の神が渡ってきてこの河原に住む。
 名づけて鹿春の神と申す。」とある。
 香春岳は古代より銅を産出することが知られており、風土記は、この銅を産出する山を開発したのは、新羅からの渡来した神であるというのである。何故渡来人をカミと呼んだかと言えば、古代には金属を精錬する技術者(あるいはそれを擁する集団=秦氏、息長氏等)は高度な技能を持つがゆえに神として畏敬されたためである。香春岳の「採銅所跡」(地名)には現人(あらひと)神社が鎮座し祭神はツヌガアラシト(意富加羅「大加羅」の王子 (資料2・3・4である。
 また、香春岳を神体とする香春神社の祭神は、第一座辛国息長大姫大目命(カラクニオキナガオオヒメオオメノミコト)、第二座忍骨命(オシホネノミコト)、第三座豊比売命(トヨヒメノミコト)であって、それぞれ香春岳の第一、第二、第三ノ岳の神とされている。辛国は韓国、オキナガは「息長」で「ふいごを吹く」の意、オオメは「大目」すなわち大眼で「一つ目」を言う。「目一つの神」はいわゆる鍛冶製鉄(精銅)技術者が信奉するカミであり、その巫女ということになる。二座、三座は後世の付会であり、香原岳の本質は第一座のみと思料する。(資料5) 




〈資料2〉


魏 志  @狗邪
(クヤ)国
A安邪
(アヤ)国
B戸路
(ホロ)国
C彌鳥耶馬国
ミアヤマ
D半路国
 ハンロ
E古資彌凍国
コシミドン
F不斯国
プシ



記 

金官加羅
クムガンカヤ

阿羅加耶
アラカヤ(※)

古寧加耶
コニョンカヤ

大加耶
デガヤ(※)

星山加耶
ソンサンカヤ

小加耶
ソガヤ

非火加耶
ピファカヤ


金海(キメ) 咸安
(ハナン)
咸昌
(ハンチョン)
高霊
(コリョン)
星洲
(ソンジュ)
固城(コソン) 昌寧
(チョンニョン)

考 
南加羅
(ありひしのかや)「神功紀」
安羅(あら)
「神功紀」
晉洲
(チンジュ)
比定説もあり
加羅(から)
「神功紀」
伴跛(はへ)
「継体紀」
久嗟(クサ)・古磋(コサ)
「欽明紀」
比自火(ひしほ)「神功紀」・
非火「本朝史略」



注 
下加耶とも 上加耶とも
澤田洋太郎著 「伽耶は日本のルーツ」 P113の表をもとに補注

   〈資料3〉





  〈資料4〉



  〈資料4〉


四.地名以外の共通点と相違点
   次に、孝霊山(瓦山)と香春岳の、地名以外の共通点について考えてみる。
   @古代から神奈備山として信仰の対象であった。
   A朝鮮半島(特に新羅)との交流を想起させる伝説(大山との背比べ、現人神社等)が残る。
   B山の形が特異 1山3峰形成

 しかし、相違する点もあり
   @  孝霊山には銅を産出しない。
   A  孝霊山は海岸にあり航海との関連が想起されるが、香春岳はかなり内陸に入っている。(資料6・7) 



〈資料6〉


 
〈資料7〉




五.山名の起源
   以下に三つの仮説を提示してみよう
  @  豊前の「香春」から孝霊山に移住してきた人々が名つけた。
  A  伯耆の孝霊山の麓にいた人々が豊前香春に移ってつけた。
  B  双方、直接の関係はないが、新羅あるいは伽耶に「カワラ」と呼ばれる源郷(伽耶山?)があって、そこに元々住んでいた人々
     が日本に渡来して故郷の山の名を付けた。

 最も可能性の高いのはBである。
 それを証明するには新羅(あるいは伽耶)に「カワラ」山ないしそのように呼ばれる土地が古代にあったことが必要条件となる。
 しかし、古代の高句麗、百済、新羅、伽耶諸国で使われていた言語、古代朝鮮語については解明されておらず、現代朝鮮語や中期朝鮮語をもって直ちに比較することは出来ないといわれている。
 現代において遡れる最も古い文献資料は11世紀に著された「三国遺事」「三国史記」および新羅時代の「郷歌」(わずかに20首)である。これらにより単語ベースで復元推測可能なものがあるが残念なことに文章レベルの解読には至らないとされている。
 よってカワラの語源をたどることは容易ではなく、意味を探ることも困難である。ただ、朝鮮半島に由来する可能性は高いと言わざるを得ない。


 
   【閑話休題】一ノ岳のカミであるカラクニオキナガオオヒメオオメノミコトはオキナガタラシヒメ=神巧皇后と同一と考える見方もある。

 香春町HPより
香春町 福岡県北東部 福岡県田川郡香春町 北九州市に隣接町の西部にある香春岳は主に石灰岩で形成された山であり、五木寛之の小説「青春の門」の舞台となって有名になった。
8世紀東大寺大仏建立のため、採銅所の銅を使う。町章 香春岳をシンボル化 




黒田会員による補足・追加
   三原さんの「孝霊山考」は、いろいろな意味で、重要な問題点をはらんでいます。
 まず孝霊山は、一名「かわら山」とも呼ばれ、また「こうれい」の漢字表記も高麗、孝霊などの変遷が認められます。
 あらためて「コウレイ」山麓の歴史環境をみてみると、伯耆の古代全般がそうであるように、常に海を介しての東西からの流れ、河川を通じての南からの流れが交錯する形で展開してきたことを実感します。

いくつかの仮説があります。

T:カワラ=高良(コウラ)説
これは主に川上廸彦氏による説。
 大山町宮内に鎮座する高杉神社(祭神=景行天皇・孝霊天皇)を重視する説。
 『文徳実録』斉衡3年(856)に「伯耆の大帯孫神が従五位上を授かった」とある。
 景行天皇は別名「大足彦(おおたらしひこ)」で、「大帯孫神」は当社の祭神に比定される。
 この景行天皇の子孫と称するのが、福岡県三潴郡を中心に強大な勢力をふるった水沼(水間)の君である。
 彼らは久留米市御井町に鎮座する高良大社の祭祀氏族でもあるが高良大社の祭神「高良玉垂命」は、景行天皇と同性格の神とされる。
 このような九州の高良の神と、山陰の高杉神社の神が重なるのはなぜか?
 そこで注目されるのが、高杉神社の背後にある宮内古墳群である。
 108基の古墳が密集する古墳群であるが、これらの古墳の石室は、5世紀から6世紀にかけて、山陰各地で多く造られる九州地方の影響を受けた石室と同様の傾向を示している。
 おそらくは磐井の乱前後に、九州系の氏族の全国的規模の移動があったと思われ、山陰にもその影響を受けたと思われる。
 そうした視点でみると、孝霊山の麓に6世紀代の古墳群を形成し、景行天皇=タラシヒコを祭祀した氏族として、水沼氏系の氏族を想定することは可能である。
 高杉神社は、孝霊山山頂に元宮・大内神社があったとも、宮内古墳群に接して元宮があったともいわれるが、社伝によれば、「孝霊山は景行天皇の草創の地で、皇子押別命が居住したという。 近くの山麓には皇族代々の宗廟といわれる古墳群(宮内)がある」

U:カワラ=香春説 
 これは坂田先生が「日野川の鬼」(『神・鬼・墓』今井書店)のなかで展開された説。
 論旨は多岐にわたるが、日野川流域に分布する楽々福神社の分析を通じて、以下のように推論されている。

@楽々福の信仰は、鉄に関わる人々によって、基本的には吉備の影響下に形成されたこと。

Aしかし応永5年(1398)成立の『大山寺縁起』などの孝霊天皇伝説、とくに「伯州日野郡楽々福大明神記録事」には、天皇の行程を、隠岐→日吉津の海路を経て、日野川を遡上する形で語っていること。

B米子周辺には宗形神社、安曇郷、高良信仰、『和名抄』の日野郡阿太郷など、九州系の海の民の痕跡が多く認められること。

Cとくに日野郡阿太郷は阿多隼人と関連するのではないかということ。

Dあるいは『新撰姓氏録』には「宗形君大国主命六世孫吾田片隅命之後也」とあり、宗像氏も阿太氏に繋がる可能性があること。

E以上のABCDの背景には、6世紀に九州で起きた磐井の乱が影響した可能性があり、乱の平定に貢献した物部集団が、乱後に海の民を伴い山陰へ移動してきたと考えられること。

F以上の考察を経て坂田先生は、「西伯耆の海岸部には、物部集団の足跡が多く見られるのであるが、……私は一応それを六世紀中頃と見ておきたい。
 あるいは、そのころ北九州に起こった磐井の乱平定のために派遣された物部麁鹿火に従軍した畿内の豪族たちが、乱平定の後、新しい開拓地を求めて諸国に分散していった、その一派が西伯耆にも及んだのではないか、というような想像もしている。
 西伯耆に上陸した物部集団は、もっている製鉄技術を生かして、砂鉄を求めながらしだいに日野川上流にも進出して行った。
 その痕跡が楽々福神社に見られるのである」と結論されている。

Gこうした視点から坂田先生は、「カワラ」山=高良説も評価しながらも、もう一つの「カワラ」山=香春説の可能性も考慮すべきであると指摘されている。

Hその根拠も多岐にわたる。しかし重要なので、列記すると、以下の諸点である。
  高良神と香春神は同体とされ、関係が深い。

  香春岳は孝霊山と同様、三つの峰をもち、形がよく似ている。

  孝霊山にはムカデ退治の伝説があり、ムカデは鉱脈を意味するともいわれ、銅山である香春岳と通じる。
 
 これらの背景には、西伯耆に展開する物部集団の存在が重要である。
  ○朝妻氏 
    孝霊山麓の大山町長田に朝妻伝説を伝える玉簾山観音寺があり、名和町大雀の周辺には朝妻姓が多く残っている。
    高良神社にも朝妻の泉などがあり、神功皇后伝承を残す。
    朝妻氏は大和国葛上郡を本拠とした渡来系氏族で、金属に関わり深く、さらに近江国坂田郡に朝妻郷がある。、
    ここは同じく渡来系の息長氏の根拠地でもあり、鉄・神功皇后伝承が重なる。
  
  ○新家氏  淀江町上淀から出土した須恵器破片に「新家」の文字が刻まれていた。
   この「新家」は、磐井の乱に活躍した「新家連氏」の可能性が高く、この氏は物部系氏族である。
    さらに汗入郡「新井」郷は、この新家氏と関連する郷の可能性もある。

  ○坂戸物部氏 汗入郡には尺度郷(現、大山町所子辺り)があるが、物部系氏族に「坂戸物部」があり、これと関連する可能性がある。  ○入沢氏 日南町東楽々福神社の境内社である今宮神社は鬱色雄命(うつしこおのmこと)・大水口命・大矢口命など物部系の神を祀るが、『伯耆誌』によれば、これらは入沢氏の祖神であった。
 この入沢氏は古くは那沢氏であったが、これは孝霊天皇の従者として「那沢仁奥」の名がみえ、楽々福伝説と物部系氏族の関連が推察される。  
  ○進氏と物部 江府町の江美神社は、進氏が大和の石上神宮を勧請して祀られた神社であり、進氏も物部と関連する氏族であったかもしれない。

 ★こうした考察をへて、坂田先生は「現在見られる楽々福神社に関する鬼退治の伝承は、その原型は吉備から伝えられたものであることは間違いないが、後に北九州から移動した物部集団がそれにかかわることによって、彼らが、自分たちの出自と海路移動の事実を原話に結びつけ、再構成したものであると思われる」と結論されている。
 坂田先生の説は、従来、楽々福神社に象徴される製鉄の系譜を吉備に比重をおいて考察してきた傾向に対し、海からの視点を提起されたことの先駆的な意義は大きいと思われます。

 当会では、この坂田先生の示された方向性を重視しながら、さらに検討を深めていく必要があると思います。
 例えば、「吾田片隅命」をめぐっては、『新撰姓氏録』大和国神別に「和仁古 大国主六世孫阿太賀田須命之後也。」とあるように、和邇氏の祖神であり、隼人とは無縁と思われます。
 また「物部集団」として括られた個別の氏族についても、より正確な分析が必要であろうと思います。
 いずれ私案をお話したいと思っています。
     
                                                             黒田 一正






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「孝霊山考」
平成27年3月21日(土) 講演 三原 アキラ