諸言 
 鳥取市福部町は古代においては、「因幡国法美郡服部郷」であった。現在、町内の海士に、式内社の服部神社が鎮座している。祭神の「天羽槌雄命・天棚機姫命」は、『古語拾遺』によれば、倭文氏の遠祖で、天羽槌雄神が文布を、天棚機姫神が神衣を織る神であった。
 その神を祭神とする当社の祭祀氏族も、機織りに関わる人々であった可能性が高いと思われる。福部町の「福部」は、この「服部」からきている。
 一方、因幡国戸籍残簡(『正倉院文書』)には、海部牛麻呂を戸主とする十七人の名前が記録されており、「服部郷」のものと考えられている。「海士」という現在の地名は、この海部との関連が考えられる。
 そうすると、一つの疑問が浮かんでくる。なぜ服部神社は海士に鎮座するのか、あるいは逆に、なぜ海部と関わる地に、海の神を祀る神社ではなく、服部神社が祀られるのか。郷名にしても同様である。
 以下、服部・海部関連の式内社や郷の分布を通じて、この疑問に迫ってみたい。

Ⅰ 福部町海士の地誌

①「和名抄」法美郡服部郷  (福部の町名は「服部」に由来)
 成立時期 6世紀〜7世紀?
 因幡国 
   巨濃郡(こののこほり)
        「高山寺本」蒲(ネ+甫)生・大野・宇治・日野・石井(いわい)・高野
        「東急本」 蒲生・大野・宇治・日野・罵城(とき)・広田
   法美郡(ほうみのこほり)
        「高山寺本」大草(おほかや)・津井(つのい)・稲羽・服部・罵城・広西(ひろせ 広域郷)
        「東急本」 大草・石井(いわい)・高野・津井・稲羽・服部・広西(ひろせ)
   邑美郡(おほみのこほり)
        美和・古市・品治(ほむじ)・鳥取・邑美
 ※参考 水衣評(みよりのこほり)
   伊福部氏の系図である『因幡国伊福部臣古志』の26代都牟自臣(つむじのおみ)の条に水衣評についての記載が
   ある。
     ㋑「難波長柄豊前宮御宇天万豊日天皇(孝徳天皇)二年丙午、水衣評を立て督(かみ)に任じ、
       小智冠を授く。
       時に因幡国は一郡を為し、更に他郡無し」
     ㋺「後岡本朝庭(斉明天皇)4年戊午、大乙上を授く。同年正月、始めて水衣評を懐き(壊し?)、高草郡を作る」
     ㋩水衣評をめぐる諸説
        ⅰ「因幡国は一郡を為し、更に他郡無し」をめぐって
           ⓐ因幡国=水衣評、ⓑ因幡国の一部
        ⅱ「始めて水衣評を懐き(壊し?)、高草郡を作る」
           ⓐ水衣評→高草郡、ⓑ水衣評→邑美+法美、
           ⓒ水衣評→高草+邑美+法美、ⓓ水衣評→高草+その他の評
     ※この問題は、因幡国造氏と伊福部氏との関係を解明する糸口として重要。

 《①についての考察》海を意識した郡名
   福部町は古代においては、法美郡服部郷と呼ばれていた。
   東隣りの岩美町は巨濃郡、西は邑美郡である。
   法美郡・邑美郡いずれも「ミ」が含まれている。
   この二つの郡の元となった水依評(みよりのこほり=『』)の「ミ」も同様で、おそらくは「ミ」は「海」の「ミ」だと
   考えられる(鳥取県史)。
   会見郡の「ミ」も海の「ミ」、「アフミ」である可能性が高い。いずれも海を意識した郡名であろう。

②考古学的要素=砂丘下の遺跡群(『日本の古代遺跡・鳥取』参照)
 直浪(すくなみ)遺跡 
  京都府竹野郡丹後町の平(へい)遺跡との関連性(出土した縄文土器が平式土器とのつながりを示した)。
  遺跡周辺の砂丘形成の層順は、下から
    ①湯山砂層、②褐色火山灰層、③黒ボク状黒色粘土層、④黒スナ層、⑤新砂丘層となっている。
  古墳時代の土器が③黒ボク状黒色粘土層に混入しており、その上層を厚くおおっている⑤新砂丘層は、
  古墳時代以降、とくに奈良・平安時代以降に形成されたと思われる。 
     ※米子周辺の砂丘・弓浜の形成と比較する必要

 栗谷遺跡
  塩見谷の入口に立地。標高は高くなく、低湿地。鳥取砂丘東端部にあったラグーン(細川池)の南岸に位置する。
  前期〜晩期の縄文土器、石斧、石皿、石匙、石鏃など、弥生時代の土器と石斧、古墳時代の土師器、須恵器、
  シャモジや火鑚臼などの木製品などが出土、長期にわたる生活の場であった。
   (栗谷村には寛永年間に金鉱が発見され、短期間採掘された。岩美との類似)

  ※関連事項「荒坂浜に新羅人漂着」
    『日本三代実録』貞観5年(863)に「57人の新羅国人が荒浜(現在の高江・箭渓(やだに)あたり)の浜辺に来着
     した」という記事がある。
  ㋑栗谷遺跡のある塩見谷を形成する塩見川は、高江・箭渓を形成して北流する箭渓川と合流し、駟馳山(しちやま)
    南麓の細川を経て、岩戸で日本海に注ぐ。
  ㋺細川集落の南には江戸時代まで細川池が存在し、享保年間に埋め立てが本格化、寛政頃には埋め立てが完了。
  ㋩こうしたことから、新羅人が漂着した荒坂浜は、塩見谷のあたりまで入海であった可能性をうかがわせる。

 湯山6号墳
  福部町湯山の大谷山先端部にある直径13m、高さ1mの円墳、5世紀初頭。
  出土品には、土師器、鼓形器台転用の枕、鉄刀、鉄鏃など。
  特に注目されるのが、三角板革綴短甲、小札鋲留眉庇付冑(こざねびょうどめまびさしつきかぶと)である。
  高度な鋲留技法、鍛造技術は、朝鮮半島から伝わったか、渡来系の技術者によって作製したものか、いずれかである。

  ※関連遺跡
   岩美町の古墳 
     ㋑穴観音古墳 ㋺砂丘地の古墳 牧谷の熊井古墳群と浦富の砂丘地に5基の古墳 
     ㋩新井銅鐸(神戸市灘区桜ケ丘町出土の14個の内の一つと同笵)

   鳥取砂丘の古墳 
     砂丘地の地層は下から、①基盤岩床、②古砂丘層、③火山灰層、④新砂丘層 ③と④の間に黒色化した
     黒ボク層があり、そこに縄文以後の遺物が多く含まれている。
       ㋑多鯰ケ池北側から縄文や古墳時代の土器 ㋺池の中の小島から水の祭祀と関わる土馬
       ㋩池南側に総数78基の古墳からなる開地谷古墳群 
   各地のラグーン 
     福部―砂丘―湖山池―気多―東郷池(長瀬高浜)―伯耆の海岸線(北栄町、赤碕、名和)―淀江―中海

《②についての考察》ラグーンを利用した交流
主な遺跡としては、直浪遺跡、栗谷遺跡、湯山の古墳群などがあるが、いずれも砂丘の下に形成された遺跡。
『日本三代実録』貞観5年(863)の記事によると、「57人の新羅国人が荒浜の浜辺に来着した」とある。
荒浜は現在の高江・箭渓(やだに)あたりと考えられ、おそらくその辺りまで、入海だったと思われる。
江戸時代まで、細川池や湯山池があり、低湿地を形成していた。
栗谷遺跡のあたりも海がきていた。
したがって古代においては、この辺りはラグーンが形成されており、港の機能をもち、海を通じてさまざまな地域との交流が行われてきた。
 
 ※鳥取県の海岸には、岩美町、福部町、湖山池―気多―東郷池(長瀬高浜)―伯耆の海岸線(北栄町、赤碕、名和)―
   淀江―中海とラグーンがつづく。
   おそらくはこれらの地域が、時には競い、時には協調して、海を舞台に密接な関係を形成していたと思われる。

③二つの式内社
 式内社=『延喜式』(延喜5年905~延長5年927)全五十巻の冒頭の一巻から十巻がいわゆる「神名帳」と呼ばれ、全国の
 神社が列記されている。これに記録された神社で、いわば畿内政権の認めた神社ということになる。

 服部神社
   所在地 鳥取県鳥取市福部町海士(あもう)591
   祭神  天羽槌雄命、天棚機姫命、素佐雄命
 
   ※祭神の天羽槌雄命は、倭文神社の祭神と同じ。天棚機姫命は、地元では「あめのはたおりひめのみこと」と
    呼ばれる。

   ※横山利宮司によれば、
   「①元宮は9号線をはさんだ南の摩尼山山麓の御内谷(おうちだに)にあった。
    ②神社の供え物として「山繭」を奉納していたが、今は廃れた。
    ③大正の頃までは、この辺りは一面、桑畑で養蚕が盛んであった」という。

 荒坂神社 
   旧社地 矢谷(明治4年、摂社荒神宮の旧社地に移転)
   所在地 鳥取県鳥取市福部町八重原328
   祭神  大己貴命・少彦名命・素盞嗚命

 ㋑関連伝承・『播磨国風土記』
讃容郡中川(なかつがわ)の里の条「弥加都岐原」の記事
伯耆の加具漏(かぐろ)・因幡の邑由胡(おほゆこ)の二人、大(いた)く騎(おご)りて節(さだめ)なかく、清酒を以ちて手足を洗ふ。
ここに、朝廷、度に過ぎたりと為して、狭井連佐夜(さいのむらじさよ)を遣りて、この二人を召さしめき。
その時、佐夜、乃ち悉(ことごと)に二人の族(やから)を禁(いまし)めて、参赴(まゐおもむ)く時、屡、水の中に漬(ひた)して酷拷(たしな)めき。
中に女二人あり。玉を手足に纏(ま)けり。
ここに、佐代恠(あや)しみ問ふに、答へて曰ひしく、「吾は此、服部の弥蘇の連(はとりのみそのむらじ)、因幡の国造阿良佐加比売(あらさかひめ)にみ娶(あ)ひて生みませる子、宇奈比売(うなひめ)・久波比売(くはひめ)なり」といひき。
その時、佐夜、驚きて云ひしく、「此は是、執政大臣(まつりごとまをしたまふまへつぎみ)の女なり」といひて、即ち還し送りき。
送りし處を、即ち見置山と號け、溺(かづ)けし處を、即ち美加都岐原と號く。
《考察》
「服部の弥蘇の連」は服部神社の祭祀氏族、「因幡の国造阿良佐加比売」は荒坂神社の祭祀氏族を象徴するか?

 ㋺祭神・天羽槌雄命、天棚機姫命について

ⅰ『古語拾遺』  斎部広成 大同2年(807)撰上
太玉神をして諸部(もろとものを)の神を率て、和弊(にきて)を造らしむべし。
仍りて、石凝姥神(いしこりどめのかみ)[天糠戸命(あめのぬかと)の子、作鏡が遠祖なり]をして天香山の銅(あかがね)を取りて、日の像(かた)の鏡を鋳(い)しむ。長白羽神(ながしろはのかみ)[伊勢国の麻続(をみ)が祖なり、今の俗に、衣服を白羽と謂ふは、此の縁(ことのもと)なり]をして麻を種(う)ゑて、青和弊(あをにぎて)[古語に、爾伎弖(にきて)といふ]と為さしむ。
天日鷲命(あめのひわしのみこと)と津咋見神(つくひみのかみ)とをして穀(かぢ)の木を種殖(う)ゑて、白和弊[是は木綿(ゆふ)なり。已上(かみ)の二つの物は、一夜に蕃茂(おひしげ)れり]を作らしむ。
天羽槌雄神[倭文が遠祖なり]をして文布(しつ)を織らしむ。天棚機姫神(あめたなばたつひめのかみ)をして神衣(かむみそ)を織らしむ。

ⅱ『日本書紀』第九段(本文)国譲り伝承の末尾
一に云はく、二の神(タケミカヅチ・フツヌシ)遂に邪神及び草木石の類を誅(つみな)ひて、皆已に平(む)けむ。
其の不服(うべな)はぬ者は、唯星の神香香背男(かかせを)のみ。故、加(また)倭文神建葉槌命を遣せば服(うべな)ひぬ。
《考察①》
ここには忌部氏が、伊勢国の麻続(績)や倭文など織物に関わる氏族を統率して、伊勢の祭祀や宮中の鎮魂祭、大嘗祭に奉仕する姿が書かれている。
《考察②》
「天羽槌雄命、天棚機姫命」という祭神を倭文と共有する服部氏も、《考察①》の忌部体制の一翼を担ったと思われる。

《③についての考察》 因幡・伯耆における服部神社と倭文神社の分布
この服部郷には、服部神社と荒坂神社の二つの式内社がある。
二つの神社と関連すると思われる伝承が『播磨国風土記』に記載されている。
服部神社の祭神は、天羽槌雄命、天棚機姫命、素佐雄命だが、素佐雄命は後の時代に付近の荒神を合祀したもので、本来は前者の二神。
天羽槌雄命は古事記には登場しない。
大同2年(807)に、斎部広成によって書かれた『古語拾遺』に載っている。
ここには、伊勢や宮中のお祭りに、忌部氏を中心に鏡や衣服などを作成したさまざまな氏族が登場しているが、「天羽槌雄神[倭文が遠祖なり]をして文布(しつ)を織らしむ。
天棚機姫神(あめたなばたつひめのかみ)をして神衣(かむみそ)を織らしむ」とある。
倭文は機織り氏族だから、同じ神を祀ることからして、服部氏も機織りに関わる人々であろう。
因幡・伯耆にも倭文氏の存在が確認できる。
千代川の中流域に「服部」という集落がある。
服部神社が鎮座し、「天御桙命(あめのみほこ)」を祀る。この神については後述するが、大和国の服部連の租神である。
したがって福部の服部と何らかの関係があったと推定できるが、そこから少し上流に、「倭文」集落があり、式内社の倭文神社が鎮座している(祭神=武葉槌神)。また伯耆では、東郷池の東に宮内があり、倭文神社(祭神=武葉槌神・下照姫命)がある。
伯耆一の宮である。
また倉吉の小鴨川左岸の丘陵地に「志津」という集落があり、そこにも倭文神社(祭神=経津主神・武葉槌神・下照姫命)がある。
この丘陵地には「服部」集落がある。ここにも服部神社が祀られているが、この神社は大国主神と保食神を祀り、古くは桑原大明神と呼ばれていた。
おそらくは養蚕に関わる人々が祀ったのであろう。
このように、倭文と服部は、因幡・伯耆においても密接である。
では次に、この地域にはどのような人たちが住んでいたのであろうか。

④服部郷の人々
 海部 海部直 因幡国戸籍残簡(『正倉院文書』)
    戸主海部牛麻呂戸
     男海部小人       年廿四 正丁
     男海部男        年十六 小丁
     女海部刀自売      年廿八 正女
     女海部津村女      年廿七 正女
     女海部足女       年十二 小女
     女海部小女       年六  小女
     従父妹海部稲依女   年五十 正女
     姪女海部小妹女    年卅二 正女
     男伊福部得麻呂    年卅四 正丁
     寄海部身麻呂     年卅四 残丁
     妻伊福部小足女    年卅  正女
     女海部黒女       年七  小女
     弟海部得安       年廿七 正丁 兵士
     妻海部直橘足女    年廿三 正女 (得安の妻)
     男海部長田       年二  緑子
     弟海部真床       年廿一 中男 (戸主の弟)
     妹海部真成女     年廿五 正女 (戸主の妹)

  ㋑以上は神部、海部牛麻呂戸、伊福部小足の戸籍(神部と伊福部省略)
  ㋺「海部直橘足女」、伊福部小足の戸籍中の「海部直羊女」の記述は、海部の中に、「直」姓をもつ有力者が
    いたことを示す。
  ㋩日本海沿岸には、「越前国 海直(天平3・4年税帳)」「丹後国 海部直(天平10年税帳)」「但馬国 但馬海直
   (姓氏録左京神別)」などが見え、その関係性が注目される。
   とくに隣接する巨濃郡は、但馬の影響を強く受けており、但馬や丹後の海部との関連は重要であろう。

 服部 服部直 服部連
    ㋑播磨国風土記の記載=服部連
    ㋺「高庭庄坪付注進」(天平勝宝7年=755)記載の「服部小丸」。この人物が高草郡の人か、法美郡服部郷の
      人かは不明。
    ㋩県内の「服部」関係の地名は、因幡国法美郡服部郷、高草郡の服部、倉吉の服部がある。後の二地区は、
      いずれも倭文神社と近接、祭神も同じ。
    ㊁『新撰姓氏録』「允恭天皇御代任織部司摠領諸国織部因服部連」や『続日本紀』「……
      但馬因幡伯耆出雲播磨…等廿一国始織綾錦」の記事により、因幡や伯耆に機織り集団の配置が確認できる。

   問 題点 因幡国法美郡服部郷で重なる海部と服部の関係
      海との関わりが深く、実際に海部氏の根拠地でもあった地が、なぜ「服部郷」という郷名で、祀られる神社
      も服部神社なのか。

《④についての考察》 「海部と服部」
①海部
因幡国には幸いなことに、極一部だが古代の戸籍の断簡が残されている。
神部と伊福部、そして海部の戸籍であるは。
資料に海部の戸籍をあげたが、これは海部牛麻呂を戸主とする一戸の戸籍である。17人の名が記載されている。
全国的な平均としては、一戸25人とも50人ともいわれており、50戸で服部郷が構成されていたとすれば、約1000〜2500人の人が住んでいたと思われる。
この戸籍でわかることは、
  ①14番目の「妻海部直橘足女」が注目される。「直」は「アタエ」と読み、国造、郡領クラスの人に与えられる姓である。
  ②また10番目の「妻伊福部小足女」は、伊福部氏とも通婚する家柄であったことを示す。
山陰海岸沿いに、丹後国には「海部直」、但馬にも「海部直」がいる。
丹後には籠神社が鎮座し、この神社には、火明命という尾張氏系の神を始祖とする「海部系図」が伝わる。
但馬の「海部直」も火明命を始祖とし、城崎にある海神社や西刀神社などの祭祀に関わっている。
地縁からすれば、因幡の海部もあるいはこれら山陰海岸沿いの海部と関係する可能性は高い。

②服部
①先述の播磨国風土記に登場する「服部連弥蘇(ミソ)」が因幡の住人だった可能性がある。
②千代川左岸から湖山池を郡域とする高草郡の中に、東大寺の荘園・高庭庄が成立するが、度々土地のもめごとがあり、「高庭庄坪付注進」という仲裁の文書が残っている。
そこに「服部小丸」なる人物が署名している。
この人物が服部郷の人だったかどうかは不明だが、証文に署名するくらいの高い身分だった人物である。
③また『新撰姓氏録』の「服部連」には「允恭天皇の時代に服部連が諸国の織部を統括した記事があり、『続日本紀』には「但馬、因幡、伯耆、出雲、播磨など21の国に織部たちが派遣され」という記事により、因幡や伯耆に機織り集団の配置が確認できるのも、因幡国・伯耆国における服部氏の存在を推定する傍証になる。

③疑問点
そこで、諸言にも述べたような疑問がわいてくる。
なぜこの郷は、海部郷ではなく、服部郷、神社も海部系の神社ではなく、服部神社なのか、という疑問である。
そこで参考になるのが、次の隠岐国の氏族構成である。


Ⅱ 隠岐国の戸籍から見えてくる海部・服部

①隠岐国居住者の郡・郷別の分布
(加藤謙吉「隠岐の氏族・部民と畿内政権」『原始・古代の日本海文化』より)
[島前]
智夫郡   大領=海部 主帳=服部

宇良郷    壬生
        由良郷    津守部 壬生部 阿曇部
        大結郷    服部臣
        大井郷    各田部
        三田郷    石部(3)
        郷不詳    海部

海部郡 少領=海部直 主帳=日下部 少領=阿曇部
        布施郷    阿曇部
        海部郷    壬生部(3) 阿曇部 勝部 三□部 物部首?
        三宅郷    日下部(2) 勝部 □部?
        佐作郷    海部直(3) 海部(3) 凡海部 阿曇部(6) 勝部(2)
        佐吉郷    日下部(3) 阿曇部(2)

[島後]
周吉郡    大領=大私直
上部郷    私部(3) 蝮王部 孔王部 日下部
山部郷    服部(2) 壬生部 物部 檜前部 雀部 宗我部
賀茂郷    雀部 鴨部
新野郷    私部(3) 宗我部 日下部
奄加郷    蝮王部 □部
郷不詳    宗我部
隠地郡    大領=大伴部 少領=磯部(3)
        都麻郷    石部
        武良郷    私部 勝部 大伴部 三那部
        河内郷    鴨部
        奈□郷    □棘部
        郷不詳    大田部 日下部

郡不詳   服部(臣)(3) 阿曇 阿曇部

《①についての考察ⓐ》 隠岐国の海部と服部
㋑まず目につくのは、島前における海人系の部民が圧倒的に多い点である。
㋺そこに「服部」も存在し、しかも智夫郡では大領=海部・主帳=服部という体制が成立している。
この重なりは、因幡の海部と服部の重層を考えるうえで重要である。
㋺島後では、海部が見当たらないが、服部は二つの郷に存在する。
㋩また宗我部や物部、大伴など畿内有力氏族の進出が注目される。

《①についての考察ⓑ》 海部設置の二つの側面=御贄の貢進と対新羅の防備
①ⓐの考察に関して、加藤謙吉氏は「隠岐の氏族・部民と畿内政権」(『原始・古代の日本海文化』)の中で、次のような見解を示している。
㋑宗我部や物部、大伴など畿内有力氏族の進出から、部民による隠岐国の畿内政権による支配は6世紀にまで遡れる。
㋺隠岐国の木簡から、中央に運ばれた物資は100%海産物である。
特に隠岐のアワビは珍重された。このことは、隠岐国に配置された海人系の人々は、魚介類を贄として貢納する働きを期待されていた。
㋩「しかし『延喜式』によると、隠岐は旬料や節料として御贄を貢進する諸国のなかには含まれておらず、(中略)志麻や若狭・淡路のような近国とは自ずから立地条件が異なる」とし、「隠岐の特殊性は、御贄の貢進体制そのものにあるのではなく、(中略)御贄の貢進自体は二義的なもの……」とする。
㊁その上で、『延喜式』の「陸奥国・出羽国・佐渡国・隠岐国・壱岐国・対馬国を辺要の地」とする記述を重視し、特に隠岐国は「新羅に対する辺要の地」であったことに注目する。したがって、隠岐の海部は日常的には海産物の捕獲に従事しながら、緊急時には軍事的な働きを期待されていたのである。

《①についての考察ⓒ》 隠岐国の部民・氏族構成からの推論
そのような視点で、隠岐国の氏族や部民の構成をまとめると、以下の諸点である。
第1点は、島前では、海部と服部が混在し、特に智夫郡では大領=海部・主帳=服部という体制が成立しているという事実。
第2点は、「臣」姓や「直」姓の服部、「直」姓の海部が存在し、彼らは隠岐国における統括者としての役割が与えられていたと思われる。
第3点は、宗我部や物部などの畿内氏族の進出があったと思われる。

そこで改めて、隠岐国の氏族や部民の構成をみると、海部・服部・津守部・阿曇部・勝部・鴨部・大田部など、多くが摂津国に縁のある氏族・部民であることが注目される。
このことから、私は、海部氏と服部氏は、摂津を中心とする氏族・部民集団の一員として、山陰沿岸から隠岐へと展開していったのではないかと考えている。
それを確かめるには、服部という氏族について、もう少し掘り下げてみる必要がある。

Ⅲ 服部氏とは?

①『新撰姓氏録』に見る二系統の服部
大和国神別
服部連 天御中主命十一世孫天御桙命之後也
摂津国神別
服部連 熯之速日命十二世孫麻羅宿禰之後也。允恭天皇御世。任織部司。捴領諸国織部。因号服部連
河内国神別
      服連  熯之速日命之後也
分布地 服部連 大和 山背 摂津 和泉 播磨 近江 
        服部  武蔵 安房 美濃 因幡 隠岐 備中 阿波

②各地の服部
  ㋑服部郷
    大和国山辺郡服部郷 摂津国島上郡服部郷 近江国野洲郡服部郷 
伊賀国阿拝郡服部郷 伊勢国奄芸郡服部郷 美濃国安八郡服織郷 
常陸国真壁郡羽鳥郷 越前国今立郡服(勝)部郷 
備前国邑久郡服部郷 備中国賀陽郡服織郷 因幡国法美郡服部郷
参考
武蔵国都筑郡高幡郷・幡屋郷、男衾郡幡々郷、久良郡服田郷
下総国埴生郡酢取郷→この地は、後世、羽鳥村であり、「羽鳥」の誤りか
駿河国安倍郡服職庄
  ㋺式内社
    大和国城下郡・服部神社 祭神・天之御鉾命
    摂津国島上郡・服部神社 祭神・熯之速日命、麻羅宿爾、素盞鳴尊
    加賀国江沼郡・服部神社 祭神・天羽槌雄命 
    因幡国法美郡・服部神社 祭神・天羽槌雄命、天棚機姫命
    遠江国長上郡・服職神社、榛原郡・服織田神社
参考
伊勢國多氣郡 服部伊刀麻神社 祭神・大命津姫命、速佐須良比賣神
服部麻刀万神社二座 祭神・木俣(股)神

《①についての考察》 『新撰姓氏録』に見る二系統の服部
平安時代に成立した『新撰姓氏録』によると、天御中主命十一世孫天御桙命を祖とする大和国の服部連と、熯之速日命十二世孫麻羅宿禰を租とする摂津国の服部連の、二系統の 服部連がいたことが記録されている。
大雑把にいえば、天御桙命は忌部氏系、熯之速日命は尾張氏系ともいえるが、この二系統がまったく関係のない氏族だったのか、元は一つのものが枝分かれしていったのか不明。また二系統が重なり合うケースも多々ある。

《②についての考察》各地の服部

「考察①」 大和の服部連
大和国山辺郡服部郷と大和国城下郡・服部神社の存在から、大和国の服部氏の本拠地とも考えられる。
服部神社は現在、村屋坐弥富都比売神社(みふつひめ=三穂津姫命、奈良県磯城郡田原本町大字藏堂)の摂社として、境内の左奥(本殿域西側)に鎮座する。
祭神の天御鉾命は記紀等には見えないが、神宮雑例集(13世記初頭頃、上古から鎌倉初頭までの伊勢神宮に関する雑記録集)には、「天照大神が高天原に坐せし時、神部(かかむはとりべ)等の遠祖・天御鉾命を以て司とし、八千々姫を織女と為して織物を奉る」とある。
この城下郡に隣接する高市郡には、忌部氏の本拠地があり、天太玉命神社(奈良県橿原市忌部町)が鎮座する。また同郡は蘇我氏の本拠地でもあり、宗我坐宗我都比古神社も鎮座する。さらに葛下郡には葛木倭文坐天羽雷命神社が鎮座し、倭文氏の本拠地である。
これらを勘案すると、蘇我氏の影響下で、忌部氏が服部や倭文などの機織り氏族を統率する体制がみえてくるように思う。
しかし一方で、服部郷は山辺郡に属する。物部の本拠地であり、石上神宮が鎮座する。
隠岐国に宗我部と物部があることと、この大和において近接する忌部・倭文・服部の分布状況は関係するのだろうか。

「考察②」 摂津の服部連
摂津国島上郡服部郷と式内社・服部神社の存在から、摂津を本拠とする服部氏の存在が明らかになる。しかも祭神の熯之速日命は尾張氏の祖神であり、『新撰姓氏録』の記述と矛盾しない。
この服部郷には「塚脇古墳群」と呼ばれる古墳時代後期の群集墳があり、紡錘車など機織りに関係する遺物が出土している。
このことから、服部連一族の墓陵の可能性が強いとされている。
また、芥川をはさんだ対岸に式内社「阿久刀神社」があり、そこにも顕宗天皇の時代に蚕織絁絹の見本を献上したという伝承がある。
このように、服部郷周辺は養蚕・機織りに関係する氏族が集中していたと思われる。
一方、摂津には住吉大社が鎮座地する。津守氏と安曇氏が祭祀する神社であり、中央における安曇氏の拠点でもある。
『日本書紀』応神天皇3年11月によると、「所どころの海人が命に従わないので、安曇連の租、大浜宿禰を派遣して、その騒ぎを治めた。
よって安曇を海人の統率者にした」とある。
九州を本拠とする安曇は中央に進出し、海人の統括をしたと思われるが、摂津はまさに中央における安曇の本拠地であった。
隠岐国の氏族構成に、津守、安曇がある点を踏まえれば、おそらく隠岐国に濃密に分布する海部系の人々は、この摂津の津守氏や安曇氏の影響下にあったと思われる。
このように見てくると、服部、海部、津守、安曇の他、鴨、勝部、日下、太田など、隠岐国の氏族・部民と、摂津の氏族は重なってくる。
中でも、勝部氏の存在はきわめて重要である。以下、その実態を追ってみたい。

「考察③」勝部氏――摂津、因幡、伯耆、出雲、隠岐を結ぶ移動の痕跡
摂津の服部郷は現在でいうと高槻市にある。その隣の茨木市に太田神社という式内社がある。
服部郷とは数キロの距離である。
この太田神社はサルタヒコを祭神とし、この周辺を本拠とする「中臣大田連」、あるいは渡来系の勝部氏により祀られたが神社である。
この勝部氏については、『播磨国風土記』揖保郡大田里の条に「呉の勝が、韓国から渡って来て、紀伊の大田、摂津の太田を経て、播磨に来た」という伝承が記録されている。
実は勝部は因幡にも来ている。
鳥取市青谷町の勝部川流域がかつての気多郡勝部郷で、因幡における勝部の本拠地であった。
この勝部郷に神前神社という神社がある。
祭神はサルタヒコ。
この神社の社伝によると、「当社は、初め大和の葛城に鎮座したが、雄略天皇のころ摂津国神前の里に移り、慶雲4年(707)に鳴滝村美古峯、至徳2年(1385)に鳴滝村亀山(現宮坂)に遷座した」とある。
社伝というものは、あまり信憑性が確かではないが、この社伝が一定の事実を踏まえていると思えるのは、摂津の太田神社はサルタヒコを祀り、その祭祀に勝部氏が関わっている事実と符合するからである。
因幡の勝部郷には、もう一つの式内社・幡井神社があり、まさに機織り集団とも縁の深い地域である。
また勝部氏は伯耆国、出雲国にも痕跡を残している。出雲国大原郡の大領に勝部氏の名が載る。
この郡内には、幡屋神社が鎮座し、その周辺には、幡屋・高麻山(=植麻した山)・古機・御機谷・神機谷・広機・長機など、機織り関連の地名が密集する。
称徳天皇の神護慶雲三年に天下諸神に「神服」をご下賜されたとき、この幡屋神社も含まれていた。
さらに、大原郡の郡家は、初め幡屋神社近辺(現在の大東町幡屋)周辺にあったが、後に斐伊郷(現在の木次町)に移る。この郷の新造院について、風土記は「新造院一所。斐伊郷の中にあり。郡家の正南一里なり。厳堂を建立つ。
[僧五軀あり] 大領勝部臣虫麻呂が造りし所なり」とあり、斐伊郷が勝部氏の根拠地であったことがわかる。
問題は、その斐伊郷について、風土記は「樋速日子命、此の処に坐せり。故、樋と云ふ」と記す。
長々と勝部氏について述べたが、この「樋速日子命」は、摂津の服部連の祖神「熯之速日命」と同じ神である。
この勝部氏の、摂津→因幡→伯耆→出雲→隠岐というルートは、すなわち、隠岐国に多い摂津と関わる氏族の山陰進出コースを象徴しているのではないではないかと思われる。
なかでも、海部と服部という組み合わせは、隠岐国智夫郡の「大領=海部・主帳=服部」にみられるように、統治システムとして機能していることは重要である。

Ⅳ 結語――麻績王(おみのおおきみ)伝承――海部と服部をつなぐもの

因幡国法美郡の服部と海部の重なりから始めた考察は、隠岐国の知夫郡における服部と海部の統治体制の分析を経て、両者の結びつきが偶然のものではなく、大和政権の意識的な配置であった可能性が高まった。
さらに隠岐国の氏族・部民の構成から、摂津との深い関係が見えてきた。特に勝部氏の移動経路に象徴されるように、摂津→因幡→伯耆→出雲→隠岐という日本海ルートが想定されると思われる。
しかし、服部と海部の関係はこれだけではない。
大和から伊勢、紀伊、阿波、さらに三河、遠江、東国へと繋がる太平洋ルートについても考察するのが当然であるが、次回に回したい。
その予告編というのではないが、最後に、海部と服部をつなぐものとして、麻績王(おみのおおきみ)伝承について記しておきたい。
麻績王とは、伊勢の機織り氏族である麻績部と関わる人物であるが、『日本書紀』天武4年4月条に、麻績王を因幡に流すという記事がみえる。
そして、『万葉集』に「打つ麻を 麻績王 白水郎なれや 伊良虞の島の玉藻刈ります」という歌が残されている。機織り氏族の象徴的人物が、「白水郎(あま)なれや」と歌われているのである。
また王とともに流された子どもたちの流刑地は、伊豆嶋、血鹿嶋(五島列島)、伊勢の伊良虞の島、三重県鳥羽市の神島と広範囲にわたり、いずれも海と関わる地である。さらに『常陸国風土記』行方郡条は。同郡板来(いたく)村(茨城県行方郡潮来町)とも記す。
折口信夫は、この伝承を海の民による貴種流離譚とする魅力的な見解を示すが、いずれにしても、この伝承の背後には、海の民と機織り集団との密接な関係が隠されていることは言えるであろう。
この王が因幡国に流されてきたという。因幡国法美郡の岡益石堂は、麻績王の墓とする説がある。またその近くには太田神社が鎮座し、サルタヒコを祀るのも興味深い。

以上、愚考を重ねたが、福部町における海部と服部の重なりは、海の民と機織りの民の深い因縁を語り、その系譜は全国各地に広がっている。




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因幡国法美郡服部郷について──海部と服部の痕跡をたどる
平成27年9月26日 講演   黒田 一正