伯耆の古代を考える会 現地視察会-その1回目
2016-7-23(日)
「アヅミ族」の原点を探るという観点から、西伯耆の旧天万郷、安曇郷、巨勢郷付近を中心に現地視察会を行いました。


会見郡と安曇郷、天万郷、巨勢郷について
 



1: 『和名抄』(931 - 938年)と会見郡および各郷について
「和名類聚抄」は、勤子内親王の求めに応じて源順(みなもとのしたごう)が編纂した辞書。
当時の全国の国名・郡名。郷名が記録されているが、写本により若干の違いがある。
8世紀の『出雲国風土記』と『和名抄』の郷名には若干の違いがあり、会見郡についても、資料的に絶対視は禁物。
会見郡については、以下の12の郷名が記載されている。

《会見郡の郷名》
 日下郷(県・大高周辺)

 細見郷(大幡周辺)

 美濃郷(日吉津・大和と厳の一部)

 安曇郷(尚徳周辺)
 
 巨勢郷(「地名辞典」旧岸本町坂長を中心とし、その北西下流部の八幡など旧五千石村の一部も含む地域、
       「米子市史」は長者原を巨勢郷とし、会見郡衙を同郷域に推定)

 蚊屋郷(厳と春日の一部)

 天万郷(手間・天津・大国周辺)

 千太郷(米子市古豊千周辺)

 会見郷(「地名辞典」五千石周辺で郡衙所在郷、「市史」は駅名の誤写説?)

 星川郷(賀野周辺)

 鴨部郷(法勝寺・上長田・東長田周辺)

 半生郷(旧成実村陰田から、旧西伯町との境界にあたる母塚山周辺)

《会見郡郷名研究の課題
 ㋑会見郷、巨勢郷の郷域について説が分かれる。
 ㋺半生郷をめぐる問題、誤写説=米生説、半生(はにゅう)=黄赤色の粘土説。
 ㋩米子中心部は何郷か、省略か?
 ㊁『伯耆国風土記』逸文の「余部」の解釈。
 ㋭古墳群との対比を通じて考察する必要。

≪補足≫
伯耆国風土記逸文、和名抄などでは相見と記され、「あふみ」(おうみ)の訓が付けられている。
古代から中世にかけては会見もしくは相見と両方の表記が存在し、会見(あいみ)の表記に統一されたのは近世以降。

地名由来
 ①イザナギとイザナミの再会に関して、古事記に「妹伊邪那美命を相見むと欲ひて」とある。
   この地方にイザナギがイザナミに会いに行ったという伝説があり、この町の名前が付いたとする説。
 ②海湾を抱擁する地であって、「大海」の意から会見としたする説。

2:安曇郷について 
 ㋑遺称地=米子市上安曇・下安曇周辺、法勝寺川と小松谷川の合流点以南の地域が想定される。
 ㋺郷名の由来=海の民の安曇部にちなむと考えられる。
 ㋩文献資料=正倉院宝物の調布墨書銘に「伯耆国会見郡安曇郷戸主間人安曇□調狭絁壱匹□□」とある。
 ㊁『伯耆志』は「古墳多し」と記す。
   下安曇古墳群=7基(円墳3、方墳4)、上安曇古墳群=18基(円墳18)、
   諸木古墳群
     米子市分=上安曇の大亀塚古墳・前方後円墳の1
     南部町分=諸木の後﨏山古墳・前方後円墳を含む3基
    伯耆町分=岩屋谷の二子塚古墳・前方後円墳の1基。
 ㋭産土神=天万村の大神宮(現天万神社)と弁財天(現宇賀神社=南部町境村)。



楽々福神社 

所在地
米子市上安曇

祭神 大日本根子彦大瓊尊(第七代孝霊天皇)、細媛命、福媛命

補足1:米子市HP 「米子の民話散歩道」より
門松を立てない村:上安曇(かみあずま)
上安曇の氏神さんは、なかなかの美男子で村の中に彼女がおられたそうな。
ある年の大晦日(おおみそか)の晩にも、明日は元旦だがマア鶏の鳴く前にお宮に帰りやぁ良いわい、と思って彼女の家に行って泊まらんしたそうな。
とこうが、まんだ夜が明けん真夜中に鶏が鳴いてしまった。
神さんは、やれコリャしまった寝過ごした、と慌てて彼女の家を飛び出っさったところ、暮れからこしらえてあった門松の松で眼を突かれ大怪我(おおけが)をされた。
出てみると外はまだ真っ暗闇。お気の毒なことで。
それで上安曇の氏神さん(楽楽福(ささふく)神社)は片眼がつぶれたそうだし、それから後は村では門松を立てんようになったし、憎っくき鶏を飼うことも、鶏の卵を食うことも戦後のしばらくまでしなかった。
今は鶏も飼うし卵も食うが、門松だけはいまだに作りませんぜ。

補足2:
日南町を中心に日野川流域に、12の楽々福系神社が分布する。
祭神は基本的に大日本根子彦大瓊=孝霊天皇、吉備津彦など吉備系の神々であり、吉備の先進的な製鉄技術を携えた人々の影響によると考えられる。    
しかし孝霊天皇の山陰臨幸伝承を伝える『大山寺縁起』(了阿、応永5年=1398)、「伯州日野郡楽々福大明神記録事」(『日野郡史』所収)、「東西楽々福神社略記」などには、孝霊天皇が西国巡幸の折、隠岐の黄魃鬼を退治し、伯耆に上陸、日野川を遡上して溝口の鬼住山、日野の鬼林山の鬼を退治したとある。
この伝承を重視した坂田会長は、物部氏、あるいは海の民と鉄の関係を強調されている





最初から此の場所に鎮座されていたのとは違うそうです。


紀成盛関係
㋑長者屋敷遺跡・郡家跡 標高50mの長者原台地にあり、古くから平安時代末期の紀成盛の屋敷跡の伝承が残る。1979年、圃場整備に先立ち試掘調査がおこなわれ、東西170m、南北80mにめぐらされた溝跡、中央部に2棟以上の掘立柱建物跡、東部に梁間3間、桁行9間の長大な掘立柱建物跡2棟が確認された。奈良時代から中世初頭に存続したと推定され、会見郡家と考えられる。   

㋺坂中廃寺跡 伯耆町坂長、平安初期の寺院跡。塔基壇の一部と心礎が残る。 大寺には白鳳期の大寺廃寺(石製鴟尾)があり、奈和駅から会見駅に至る古代山陰道は、大寺廃寺→坂中廃寺→長者屋敷の道筋を通った可能性が高い。


大亀塚古墳
  米子市上安曇字谷尻、上中峯、大亀塚、標高30mの丘陵にある全長53mの前方後円墳、6世紀の古墳。
箱式石棺(盗掘により破壊)、鉄製馬具、須恵器、円筒埴輪などが出土。


素人が見ても、一見ではどこが古墳が分かりません。


後﨏山古墳
  南部町諸木、全長56mの前方後円墳、墳丘周囲に深さ1mの周溝、周溝から円筒埴輪、人物埴輪出土、中でも人物埴輪は三角帽子のようなものを被る独特のもので注目される。諸木には弥生時代から古墳時代にかけての集落跡と墳墓群の諸木遺跡がある。
 ⑥⑦⑧は地域的にも近接し、しかもこの安曇から長者原周辺が首長の墓所となっていることは重要である。



「いい形の前方後円墳だ」と言われてます。
でも、やはり素人目では言われてみないと分かりません。


三崎殿山古墳
  南部町三崎、標高83mの独立丘陵頂部にある全長108mの前方後円墳、墳頂からは法勝川流域を眼下に見下ろすことができる。
古墳時代中期、西伯耆最大の古墳で、この周辺を広域に支配する首長の墓であろう。



頂上に前方後円墳があるそうですが。
未盗掘、「掘ってみたい」、学者さんの本心だそうです。


普段寺古墳群
  会見郡域の最初の首長墓である
。南部町寺内の大安寺脇の丘陵に位置する7基の古墳群。
普段寺1号墳は、全長23mの前方後方墳。
後方部から県内最古の三角縁神獣鏡が出土(安来市大成古墳、大阪市高槻市阿威神社所蔵のものと同笵)。また一辺20mの方墳である2号墳からも三角縁珠文帯四神四獣鏡が出土。





赤猪岩神社
  所在地
鳥取県西伯郡南部町(旧会見町)寺内232番地

社格
無挌社

祭神
主祭神=大国主命
比女尊(くはしひめのみこと)、須佐之男命、刺国若姫命、奇稲田姫命

歴史
創立年代は不明。
古くは手間山(標高三二九メートル)山頂にあった。
しかし、西暦712年に編纂された古事記には以下のように記されていることから、712年以前の創建と考えられる。
明治4年、無挌社に列せられる。
大正6年久清神社、同9年に山頂の赤猪岩神社を合祀。

補足1:鳥取県神社誌より
建造物 本殿、幣殿、拝殿、神楽殿、隋神門、神輿庫
境内坪数  622坪
崇敬戸数   64戸

補足2:古事記より
「兄弟の八十神(やそがみ)達と因幡の国の八上比売(やがみひめ)をたずねる途中、怪我をした兎がいました。
八十神はその兎を更に苦しめるようなことをしたのですが、大穴牟遅(おおなむじ)神は可哀想に思い治療法を教えました。
喜んだ兎は「八上比売は、八十神の言葉には耳を貸さず、貴方を選びます」と言いました。
実際その通りとなり、腹を立てた八十神達は大穴牟遅神殺害の計画をたてました。
伯耆(ほうき)の国の手間(てま)の山の麓(ふもと)にさしかかった時、八十神達は大穴牟遅神に「この山に赤猪がいる。
俺達が追い出すからお前は待ち伏せて捕まえろ。
失敗したらお前を殺すぞ」と言い、猪に似た大石を火で焼いて転げ落としました。
大穴牟遅神は、その石を捕まえた時に火傷を負い、亡くなりました。これを知った母親の刺国若姫命(さしくにわかひめのみこと)は嘆き悲しみ、天に上り神産巣日之命(かみむすびのみこと)に嘆願しましたところ、神産巣日之命は蚶貝比売(きさがいひめ)《=赤貝》と蛤貝比売(うむぎひめ)《=はまぐり》とを遣わし、治療させました。
蚶貝比売が赤貝を焼き削って作った粉を、蛤貝比売が清水で母乳のようにして塗ると、大穴牟遅神は完治して元気になり、歩き出しました。

補足3
近くの旧西伯町清水川には、この焼石によって死んだ大国主命を蘇生させたという清水井がある。
また、米子市大袋は大国主命が肩にかけていた大きな袋を置いた所と伝えられている。古事記のオホナムチ神話の舞台 現在、赤猪岩神社は膳棚山のふもとに鎮座。
社伝脇に古墳の石室とおぼしき平らな大石があり、この石を神話と結びつけて祀ってきた。
しかしこの神社は大正6年に、近くの寺内字屋敷にあった久清神社を移し祀ったものであり、さらに3年後、天万山(要害山)にあった赤岩神社を合祀して、現在の赤猪岩神社になった(『因伯のみやしろ』)。
『伯耆志』は
 ①天万山の山頂南方に赤岩権現という小さな祠がある、
 ②しかしそこに岩はない、
 ③寺内村には神山から転げ落ちた石があった、
 ④これに登る者などがあり、村人が相談して、石に土を被せ、目印として平石を上に置いた」と記す。
さらに周辺の奇石をいくつか紹介し、
 ①膳棚山の近くのシヲレ谷の赤児岩という人の手形のついた岩、
 ②三崎村の山に御石という赤石、
 ③手間山の西面にある猪石」などを列記し、「この山は多くの岩があり、そのなかには獣の形をしたものもあって、八十神の計略につながった」と推察している。






昔は細いたんぼ道を通って参拝したもの。
今は、駐車場、トイレ、売店も整備されていました。


清水井
  ウムギヒメが大国主(オオクニヌシ)を蘇生するための薬を作るために水を汲んだとされる。
八十神たちの策略で命を落とした大国主(オオクニヌシ)を蘇生するために遣わされたウムギヒメが、母乳とここ清水井の水で練った薬を大国主の体に塗りつけたところ、大国主は息を吹き返しました。
生き返った大国主の姿は、元のままの麗しい姿であったという。







阿陀萱神社
  所在地 鳥取県米子市橋本623番

社格  村社

祭神
 主祭神  阿陀加夜奴志多岐喜比売命(父神大国主命、母神八上姫命)
 合祀   宗像大社祭神(市杵島姫命、田心姫命湍津姫命)
       大山祗命、素戔鳴命、誉田別命、武内宿禰命、八ツ耳命(神武天皇の皇子)
       宇迦之御魂命(稲荷大社祭神)”

歴史1:鳥取県神社誌より
多喜妓比売命は大己貴命の御子なり、母は八迦美姫命と申す、神代の昔出雲国直会の里にて誕生あり。
八迦美姫命因幡へ帰らんととて大己貴命と共に歩行し給ふ時に、御子多喜妓姫命を榎原郷橋本村の里榎の俣に指挟て長く置き給ひしときに、我は木俣神なりと申給ひて寶石山に鎮座し給へり、(郡家正南十二里八十歩、保荷神恵比原を開給ふ故、恵野喜原と云ひしを、神亀三年榎原の庄と改む正倉にあり。
)往古よりの大社にして延慶元戊申年京都北野に王城建築の時、三公家の内東家関白公勅使たり、長く伯伎国へ逗留の内社児司となり神領数多ありしが、後百四十二石となり(御図帳に神田が谷と号す)。
天文元年壬辰尼子伊予守経久より八幡宮と両社へ七十二石寄附ありて永く祭祀の式厳重なり。
其後文禄元年秀吉高麗陣の時諸国高知行の神々を勧請し、日本勝利の記念を仰られし時に、社司山川剣撿校十三にして父に離れ御供致さず神領差出せしが、慶長六年辛丑七月五日米子城主吉川氏御供田高三石一斗九升二合寄附あり。
然るに山川相馬火災に逢ひ、吉川氏寄附の証今に焼残りあれど神領地敷等寛永十一年甲戌年堤になり後替地なし。
多記理毘売、市寸島比売、多岐都比売命三神は人皇四十七代淳仁天皇の御宇、天平寶字六年壬寅九月十五日安芸国市杵島神社より勧請す。
産石神は神代の昔寶石天降り一夜の中に出現せし故此山を寶石山と称す、此の石社伝秘訣有り、異名石似て側に小社を建て産石神社と崇敬せしを、明治元年神社改正の際合祀す。
明治40年4月27日神饌幣帛料供進神社に指定せらる。
大正5年12月
成実村大字橋本字漆原鎮座無格社漆原神社(祭神 誉田別尊、武内宿禰命、妙美井命、大田神、倉稲魂神、大宮女神) 同村大字古市字宮ノ谷山鎮座無格社古市神社(祭神 八ツ耳命、大山祇命) 
同村大字吉谷字ハデ場鎮座無格社中島神社(祭神 建速須佐之男尊) 尚徳村大字榎原字方鎮座無格社大谷神社(祭神 素盞鳴尊)を合併す。


歴史2:米子の民話散歩道より
神代の昔、宝石天降り一夜の中に(石が)出現せしゆえ、この山を宝石山と称す。
この石社伝秘訣あり。 異名石にて側に小社を建て、産石神社と崇敬した。
この石を産石神と崇めたことからわかるように、安産祈願の石として拝まれてきた。
なぜ産石といわれるようになったのかは、「社伝秘訣」で語られていませんが、ある人は大国主命伝説にあると説かれます。大国主命は、兄神たちに妨害されながらも美女八上姫を得ましたが、八上姫は大国主の正妻スセリ姫のしっとにいたたまれず、娘阿陀萱奴志喜岐姫を連れて、因幡に帰ることになりました。
帰路、橋本を通られた時、娘の姫が榎の枝に手の指を挟まれて抜けなくなりました。
そこで娘の姫は「私はこの地で住むから、お母さんは因幡に帰って」といわれました。
その娘姫の住居が阿陀萱神社で、この阿陀萱姫はまことに安産で生まれられたので、それでこの石を産石というのだ。

補足:鳥取県神社誌より
境内坪数=1595坪  氏子戸数=180戸

《考察》 (黒田記)
阿陀加夜奴志多伎喜比売命は『出雲国風土記』によれば、神門郡多伎郷の条に「所造天下大神の御子、阿陀加夜努志多伎吉比売命坐しき。故、多吉と云ふ」とあり、同郷の多吉社はこの神を祀る。
この神は東出雲町に鎮座する阿太加夜神社の祭神でもあり、加藤義成氏は「神名は初め意宇郡出雲郷の守護神であったのを、後この多伎に来て鎮まられた神の意」とする。
この「タキ」について、関和彦氏は「滝」との関連を推定しているが、加藤義成氏も、楯縫郡の多久神社の祭神・多伎都比古命について、「多伎は滝に通じて水のたぎる意」で、「水のたぎり流れる滝や早瀬の神」と分析する。
多伎都比古命はオホナムチ命の御子・アジスキタカヒコ命とアメノミカジヒメ命の間に生まれた神である。
どうもオホナムチ命の御子神たちは水と深く関わっている。因幡のヤガミヒメ命も曳田川沿いに鎮座する売沼神社の祭神で親水的な神性をもつ。だから出雲でのヤガミヒメ命の神話は、井戸の神を祀る御井神社を舞台に語られることにもなる。
米子の阿陀萱神社も「水の奔流を鎮める霊験」をもつ神とされる。
以上から、阿陀加夜奴志多伎喜比売命は、ヤガミヒメ命、アメノミカジヒメ命などと同じく、水辺の巫女のイメージで捉えるべきであろう。


 




参考:西伯耆の首長墓の変遷(会見郡と汗入郡の比較)に関する各種考察
  『新修米子市史 第1巻』『向山古墳群』(19903)   中原斉・角田徳幸・山中和之氏らによる考察
45世紀――首長権の萌芽  
下図は石野博信著『全国古墳編年集成』所収の西伯耆の古墳編年表である。
日野川流域では、弥生の後期に尾高浅山の四隅突出墓が出現した後、日野川右岸では石州府29号墳・30号墳が築かれるが、左岸では同時期に日原6号墳(一辺20mの方墳)が現れる。
この古墳は「山稜上に単独で立地する点や墳丘規模から、青木F地区古墳群などからは一段上の首長と推定され、青木地域や福市地域、下安曇地域などの法勝寺川下流域を治めた首長と推定され」、そして「これら中地域の首長を束ねていたのが普段寺1号墳の被葬者と考えられる」(『米子市史』)。  

5世紀前半――広域首長権の成立
5世紀前半には天万地域において会見町殿山古墳に代表される西伯耆全体を支配する広域の首長権が確立する。
一方、新井地域の上の山古墳以外には著名な古墳が見当たらず、同古墳においても墳形が帆立貝形を示すなど何らかの、規制を受けていることがわかる。
5世紀後半においても同様な支配が継続し、安曇、天万地域では浅井11号墳が築造される」(『向山古墳群』)

5世紀後葉――広域首長権の解体と単位地域の表出
5世紀後葉段階になると西伯耆全体を支配するような広域の首長権は解体方向に向かい、替わって単位地域が表出する。
この背景には旧来の広域首長権を解体し、より小さな単位で地域支配を強めようとする大和政権の動向と深く関わっているものと考えられる。
このような状況の中で汗入地域の中で名和町ハンボ塚古墳、中山町高塚古墳、淀江町向山3号墳が築造される。
なお、汗入地域では阿弥陀川、甲川などの山麓を解析し、流れる中小河川が形成されており、流域単位で完結する傾向が強く、強力な広域の首長権は確立し難い状況にあったといえる。
しかし、淀江町向山3号墳は前段階において墳形の規制を受けていたものが、この時期に至って前方後円墳という祭式を採用することから汗入地域において優越性を確立したことが推察される。また、会見地域においても半生地域においても米子陰田41号墳、西伯町春日山古墳で同様な傾向がみられる」(『向山古墳群』)  

6世紀前半――首長権の分散と単位地域の抬頭  
6世紀前半代には首長権分散、すなわち会見地域の安曇、汗入地域の2極化構造がみられるが、他の単位地域においても地域色がみられる。
安曇地域では大亀塚古墳、後﨏山古墳、新井地域においては向山4号墳が対峙するような状況がみられる。
また、半生地域の米子市東宗像2号墳に代表される東宗像古墳群では九州にその祖元を求められる竪穴系横口式石室を埋葬主体とするなど各単位地域において独自の交流がみられるようになる(これにつては、最近の発掘におり、東宗像の竪穴系横口式石室の初現は5世紀後半が定説化)。これは淀江町長者ケ平古墳の横穴式石室についても畿内系の要素を基調としながらも九州系の要素を具備するという交流状況がみられる」(『向山古墳群』)  

6世紀後半――広域首長権の相対的低下・単位地域の抬頭
 「6世紀後半では単位地域の抬頭、首長権の相対的低下がみられ、次の律令体制への胎動がみられる。
このような状況の中で新井地域の淀江町石馬谷古墳は西伯耆の中でもその規模が突出しており、さらに、鳥取県内においても比肩されるものはなく、福岡県の岩戸山古墳においてみられる石馬が同古墳に樹立されていたと伝えられ、単位地域のみの交流に係わらず首長間交流があったことが推定される。
新井地域では向山4号墳→石馬谷古墳の時期が絶頂期であり、この後に続く岩屋古墳は出雲地方の影響を受ける石棺式石室を埋葬施設としており、この形態は細かいところは異なるものがあるが汗入地域に広く分布していることから、汗入地域において緩やかな広域首長権を持っていたと推定される。(この石馬をめぐっては、当時の発言者たちが、九州や磐井との関係を否定的に捉えなおしている)
 また、会見地域においても羽子板プランを持つ横穴式石室が広く分布するが、前代より卓越した在り方を示していた安曇地域では二子塚古墳にみられるように縮小傾向にあり、広域の首長権は相対的に低下している。
この状況と期を同じくして、前代で表出してきた単位地域は半生地域の東宗像1号墳の他、日下地域の石州府31号墳、細見地域の岸本7号墳、巨勢地域の越敷山19号墳など各単位地域で小首長が生まれる
。この動きは汗入地域でもみられ、高住地域の妻木山
3号墳、宮内2号墳、束積地域の束積3号墳、山村1号墳がみられる」(『向山古墳群』)  → こうした流れの中に、横穴墓や群集墳など、墳墓造営可能な層の拡大が生じていく。





会員 黒田一正氏による考察
①日野川左岸地域の最初の首長墓である日原6号墳は、在地性の強い方墳を採用し、法勝寺川下流域の安曇、青木、福市、宗像周辺を支配下に置く王であったと推定される。

4世紀初頭の普段寺1号墳は、県内最古の三角縁神獣鏡を副葬しており、畿内政権とも関係を結んでいた。
日原6号墳の支配下地域をも含む、この地域全体の首長権を確立し王であったと思われる。

4世紀末〜5世紀初めの段階においては、普段寺古墳と隣接する殿山に西伯耆最大の前方後円墳が築かれる。
したがって、この天万地域の王が西伯耆全体を支配下に置く首長権を継承したと思われる。

5世紀中頃になると、首長墓は天万地域から後の星川郷地域に移る。淺
井11号墳である。全長40mの前方後円墳で、画文帯環状乳四神四獣鏡を副葬。

6世紀前半から後半には、首長権が分散し、広域首長権が相対的に低下する傾向がみられる。
日野川左岸では、首長墓が安曇郷周辺の後﨏山古墳→大亀塚古墳→二子塚古墳→別所1号墳と変遷する。
それに対し、日野川右岸の汗入地域にも、向山古墳群が活発化し、安曇地域と汗入地域の2極化構造がみられ、安曇地域の大亀塚古墳、後﨏山古墳などと、新井地域の向山4号墳が対峙するような状況がみられる。
また他の単位地域においても地域色がみられる。

安曇郷の重要性
この⑤で述べた「6世紀前半代には首長権が分散」する時代は、安曇郷や巨勢郷など部姓郷が成立する時代である。
汗入地域においても新井郷が成立した。
これらの動きは、畿内側からみれば、地域勢力の分断化であり、在地側からみれば、大首長を介して畿内勢力と結ばれていた関係から、「部」を通じて畿内勢力と直接的な関係むすぶ、新たな中小首長の伸長を促した。
特筆すべきは、その新たな時代の波が、まさに安曇郷周辺の後﨏山古墳・大亀塚古墳・二子塚古墳・別所1号墳の造営を可能にしたということである。
その時代の変化の要因が、当地域への安曇族の登場であった可能性は高いのである。


諸木古墳出土の幻の金銅製冠  
今は所在も図も残らない金銅製冠が、諸木古墳から出土している。
この諸木古墳というのも諸木1号墳の後﨏山古墳なのか、2号墳の二子塚古墳、あるいは5号墳の大亀塚古墳なのか不明である。
この冠について、かの有名な小林行雄は「金銅製で広帯式の二山式の冠で、透かし彫りによって蓮華文そのほかの文様を表したもの、……と述べ、諸木古墳出土冠と長者ケ平古墳出土冠は、ほぼ同形式としている」(『新修米子市史 第1巻』)。
淀江の向山古墳群にある長者ケ平古墳は全長64mの前方後円墳、6世紀中頃の築造とされる。
この時期、対峙する関係にあった会見郡安曇地域と汗入郡新井地域に、大陸的・海洋的な要素をもつ同形式の金銅製の冠が副葬されていた意味は大きい。 


現地視察後記
  とにかく暑い一日でした。
何分、高齢者が多いので、体調の変調が気になりましたが、各人元気で視察を終えることが出来ました。








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