碑 文 米子(西伯耆)・山陰の古代史
碑文(ひぶん)は石碑に記した文、銘文(めいぶん)はそれ以外の金石に記した文と考えられている。 
広開土王碑文(こうかいどおうひぶん)
碑文概要
広開土王碑は、高句麗の第19代の王である広開土王(好太王)の業績を称えるために息子の長寿王によって414年(碑文によれば甲寅年九月廿九日乙酉、9月29日 (旧暦))に建てられた石碑である。
高さ約6.3メートル・幅約1.5メートルの角柱状の碑の四面に総計1802文字が刻まれ、純粋な漢文での記述となっている。

碑文は三段から構成される。
  一段目 高句麗の開国伝承・建碑の由来、
  二段目 広開土王の業績 (倭に関する記述がある
  三段目 広開土王の墓を守る「守墓人烟戸」の規定

碑文では広開土王の即位を辛卯年(391年)としており、文献資料(『三国史記』『三国遺事』では壬辰年(392年)とする)の紀年との間に1年のずれがあることが広く知られている。


広開土王(こうかいどおう)について
広開土王(374年 - 412年)
高句麗の第19代の王(在位:391年 - 412年)
高句麗の領土を拡張させたが、礼成江を境に百済に対しては即位初めから積極的な攻勢を取った。

以下、三国志記、三国遺事より

386年
立太子

392年
即位。石硯城(黄海北道開豊郡北面青石洞)を含めた10城を奪取。

393年
平壌に9寺を創建して、仏教を奨励した。

396年
漢江を越えて進撃して百済の58城700村を攻略し、百済王に多数の生口や織物を献上させ、永く隷属することを誓わせた。

397年
百済の17代阿莘王が王子の腆支(てんし)を人質として倭に送って通好した。

399年
百済が誓いを違えて倭に通じ、新羅は倭の侵攻を受けていた。

400年
歩騎五万を派遣し新羅を救援した。
このとき新羅の王都は倭軍に占領されていたが、高句麗軍が迫ると倭軍は退き、任那・加羅まで追撃した。

402年
新羅は奈勿尼師今の王子未斯欣を人質として倭に送って通交する。

404年
帯方界に倭軍の侵入を受けるが撃退した。

407年
百済に侵攻して6城を討ち、鎧一万領を得た。

410年
東扶余を屈服させることで北と東に領土を拡張し、西は遼河、北では開原から寧安、東では琿春、南へは臨津江流域にまで至った。

412年
39歳で死去した。
埋葬地は定かではないが、広開土王碑の建てられた将軍塚・大王陵(吉林省通化地級市集安市)が王の墓地と比定されている。


碑文内容
辛卯年の条
「百残新羅舊是属民由来朝貢而倭以辛卯年来渡海破百残■■新羅以為臣民」

解釈1
そもそも新羅・百残(百済の蔑称か?)は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。
しかし、倭が辛卯年(391年)に■を渡り百残・■■(「百残を■■し」と訓む説や、「加羅」(任那)と読む説もある)・新羅を破り、臣民となしてしまった。

解釈2
そもそも新羅・百残(百済)は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。
しかし、倭が辛卯年(391年)に海を渡り百残・加羅・新羅を破り、臣民となしてしまった。

その他の条
399年、百済は先年の誓いを破って倭と和通した。
そこで王は百済を討つため平譲にでむいた。
ちょうどそのとき新羅からの使いが「多くの倭人が新羅に侵入し、王を倭の臣下としたので高句麗王の救援をお願いしたい」と願い出たので、大王は救援することにした。

400年、5万の大軍を派遣して新羅を救援した。
新羅王都にいっぱいいた倭軍が退却したので、これを追って任那・加羅に迫った。
ところが安羅軍などが逆をついて、新羅の王都を占領した。
404年、倭が帯方地方(現在の黄海道地方)に侵入してきたので、これを討って大敗させた。


碑文の真偽
1884年に大日本帝国陸軍によって改竄されたものであるという説もある。
1881年に作成された現存最古の拓本と改竄説のある酒匂本とが完全に一致していることが発表された。
これにより大日本帝国陸軍による改竄・捏造説が成立しないことが確定し、倭が朝鮮半島に勢力を伸ばしていた事が証明される結果と成った。



参考資料



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