大和国(奈良県)の神社
大和国一宮  大神神社(おおみわじんじゃ)
所在地
奈良県桜井市三輪1422

社格
式内社(名神大)、大和国一宮で中世には二十二社の中七社のひとつとされた。
旧社格は官幣大社
現在は別表神社。
三輪明神とも呼ばれる。

祭神
主祭神−−大物主大神(倭大物主櫛甕玉命)を
配祀−−−大己貴神(おおなむちのかみ)、少彦名神(すくなひこなのかみ)

歴史
崇神天皇7年に天皇が物部連の祖伊香色雄(いかがしこを)に命じ、三輪氏の祖である大田田根子を祭祀主として大物主神を祀らせたのが始まりとされる。
日本書紀には大物主神が倭迹迹日百襲媛命に神懸かりして、また臣下の夢に現れてした神託に従い大物主神の子である大田田根子に大物主神を祀らせたとある。

補足
大物主大神(おおものぬしのおおかみ)を祀る。
日本神話に記される創建の由諸や大和朝廷創始から存在する理由などから「日本最古の神社」と称されている。
日本国内で最も古い神社のうちの1つであると考えられている。


石上(いそのかみ)神宮
所在地
奈良県天理市布留町384

社格
式内社 大和國山邊郡 石上坐布都御魂神社 名神大 月次相嘗新嘗
旧官幣大社 現在は別表神社。

祭神
主祭神=布都御魂大神
配祀=布留御魂大神、布都斯魂大神、宇摩志麻治命、五十瓊敷命(いにしきのみこと)
 
歴史
古代軍事氏族である物部氏が祭祀し、ヤマト政権の武器庫としての役割も果たしてきたと考えられている。
古くは斎宮が居たという。その中で、本当に斎宮であったかどうか議論が多いが、布都姫という名が知られている。
また、神宮号を記録上では伊勢神宮と同じく一番古く称しており、伊勢神宮の古名とされる「磯宮(いそのみや)」と「いそのかみ」とに何らかの関係があるのかが興味深い。
社伝によれば、布都御魂剣は武甕槌・経津主二神による葦原中国平定の際に使われた剣で、神武東征で熊野において神武天皇が危機に陥った時に、高倉下(夢に天照大神、高木神、建御雷神が現れ手に入れた)を通して天皇の元に渡った。
その後物部氏の祖宇摩志麻治命により宮中で祀られていたが、崇神天皇7年、勅命により物部氏の伊香色雄命が現在地に遷し、「石上大神」として祀ったのが当社の創建である。

補足
この神社には本来、本殿は存在せず、拝殿の奥の聖地(禁足地)を「布留高庭」「御本地」などと称して祀り、またそこには2つの神宝が埋斎されていると伝えられていた。
1874年の発掘を期に、出土した剣(布都御魂剣)や曲玉などの神宝を奉斎するため本殿を建造。
1913年には、本殿が完成した。
禁足地は今もなお、布留社と刻まれた剣先状石瑞垣で囲まれている。


大和神社(おおやまとじんじゃ)
所在地
奈良県天理市新泉町星山306

社格
式内社(名神大) 二十二社 官幣大社 別表神社
神階=正一位

祭神
中殿=日本大国魂大神 左殿=八千戈大神 右殿=御年大神

歴史
創建年代=崇神天皇12年

日本書紀によれば、元々倭(日本)大国魂神は天照大神とともに大殿に祀られていたが、世の中が乱れ謀反を起こすなどするのは、両神の勢い畏れ、崇神天皇6年、倭大国魂神を皇女渟名城入姫を斎主として祀らせた。
しかし、淳名城入姫は髪が落ち体は痩せて祭祀を続けることができなくなった。
崇神天皇7年、倭迹迹日百襲媛命が夢で「市磯長尾市をもって、倭大国魂神を祭る主とせば、必ず天下太平ぎなむ」との神託を受けた。
また同年11月にも同じようなことが起こり、大倭直の祖・市磯長尾市(いちしのながおち)を祭主として、神地が定められ鎮座・創建された。

朱鳥6年(692年)、持統天皇は藤原京の造営にあたって、伊勢・住吉・紀伊の神とともに当社に奉幣し伺いを立てた。
寛平9年(897年)、最高位である正一位の神階が授けられた。
延喜式神名帳には「大和国山辺郡 大和坐大国魂神社 三座」と記載され、名神大社に列し、月次・相嘗・新嘗の幣帛に預ると記されている。
後に十六社・二十二社の一社ともなった。

平安初期までに、天照大神を祀る伊勢神宮に次ぐ広大な社領を得、朝廷の崇敬を受けて隆盛した。
しかし、平安京への遷都や藤原氏の隆盛などにより衰微し、中世には社領を全て失っていた。

補足
創建伝承からアマテラスを天神とし、ヤマトノオホクニタマを地祇とする性格をはっきりさせたことが読み取れる。


葛城一言主神社(かつらぎひとことぬしじんじゃ)
所在地
奈良県御所市森脇字角田432

社格
名神大社 県社

祭神
一言主大神 大泊瀬幼武尊(雄略天皇)

歴史
古くは葛城山頂にあったのを山下に移したという。
『記紀』によれば、雄略天皇四年に、天皇が葛城山に猟をしたとき、対面して同じ様相をした者が天皇と全く同じ所作、言葉を発するものが出現し、天皇は恐れてこれを拝したという。
一種の言霊であろう。
貞観元年(八五九)従二位を賜う。
同年九月幣を奉りて雨風を祈られる(『三代実録』)。
『延喜式』に、名神大社・祈年・月次・相嘗・新嘗の案上官幣、祈雨の祭に預かる。
正暦五年(九九四)中臣氏人を遣わして幣帛を奉り、疫疾放火に祈らしむること『本朝世記』にみえる。


補足
託宣神としての神格の類似性から一言主神と事代主命を同一視するような記述もある。
神社一帯は葛城氏の本拠地で、綏靖天皇の皇居(高丘宮)があったという伝承が残る。


春日大社
  所在地
奈良県奈良市春日野町160

社格
式内社(名神大) 二十二社 官幣大社 勅祭社 別表神社

祭神
武甕槌命 経津主命 天児屋根命 比売神

歴史
奈良・平城京に遷都された710年(和銅3年)、藤原不比等が藤原氏の氏神である鹿島神(武甕槌命)を春日の御蓋山に遷して祀り、春日神と称したのに始まる。
社伝では、768年(神護景雲2年)に藤原永手が鹿島の武甕槌命、香取の経津主命と、枚岡神社に祀られていた天児屋根命・比売神を併せ、御蓋山の麓の四殿の社殿を造営したのをもって創祀としている。
ただし、近年の境内の発掘調査により、神護景雲以前よりこの地で祭祀が行われていた可能性も出てきている。

藤原氏の隆盛とともに当社も隆盛した。
平安時代初期には官祭が行われるようになった。
当社の例祭である春日祭は、賀茂神社の葵祭、石清水八幡宮の石清水祭とともに三勅祭の一つとされる。
850年(嘉承3年)には武甕槌命・経津主命が、940年(天慶3年)には、朝廷から天児屋根命が最高位である正一位の神階を授かった。
延喜式神名帳には「大和国添上郡 春日祭神四座」と記載され、名神大社に列し、月次・新嘗の幣帛に預ると記されている。

補足
藤原氏の氏神・氏寺の関係から興福寺との関係が深く、813年(弘仁4年)、藤原冬嗣が興福寺南円堂を建立した際、その本尊の不空絹索観音が、当社の祭神・武甕槌命の本地仏とされた。



摂津国、河内国、和泉国(大阪府)の神社
摂津国一宮  住吉大社
所在地
大阪府大阪市住吉区住吉2-9-89

社格
式内社(名神大)、二十二社、摂津国一宮、官幣大社、別表神社

祭神
主祭神=住吉三神(底筒男命、中筒男命、表筒男命)、息長足姫命

歴史
住吉神と神功皇后
仲哀天皇9年、神功皇后が三韓征伐より七道の浜(現在の大阪府堺市堺区七道、南海本線七道駅一帯)に帰還した時、神功皇后への神託により天火明命の流れを汲む尾張氏の一族である土地の豪族の田裳見宿禰が、住吉三神を祀ったのに始まる。
その後、神功皇后も祭られる。
応神天皇の頃からの大社の歴代宮司の津守氏は、田裳見宿禰の子の津守豊吾団(つもりのとよあだ、)を祖とする。

補足
住吉三神
(すみよしさんじん)
神道で信仰される神で、底筒男命(そこつつのおのみこと)、中筒男命(なかつつのおのみこと)、表筒男命(うわつつのおのみこと)の総称である。
住吉大神ともいうが、この場合は住吉大社にともに祀られている息長帯姫命(神功皇后)を含めることがある。海の神、航海の神とされる。
八幡神が陸の軍神であるのに対して住吉神は海の軍神ともされる。

住吉三神を祀る神社
最も古いものは宮崎市の住吉神社や博多の住吉神社や壱岐市の住吉神社や神戸市の本住吉神社が有力であるが、どの神社が最古の住吉神社か明確な結論は出ていない。



摂津国一宮  坐摩(いかすり)神社
所在地
大阪市中央区久太郎町4丁目渡辺 3

社格
式内社(大) 官幣中社 別表神社

祭神
生井神 福井神 綱長井神 波比岐神 阿須波神

祭神の五柱を総称して、「坐摩神」と称している。
生井神(いくゐのかみ)…井水の神(生命力のある井戸水の神)
福井神(さくゐのかみ)…井水の神(幸福と繁栄の井戸水の神)
綱長井神(つながゐのかみ)…井水の神(「釣瓶を吊す綱の長く」ともいわれ、深く清らかな井戸水の神)
波比祇神(はひきのかみ)…竃神(屋敷神。庭の神)
阿須波神(はすはのかみ)…竃神(足場・足下の神。足の神であり旅の神)

歴史
当社の始まりは、神功皇后が三韓征伐より帰還したとき、淀川河口の地に坐摩神を祀ったことだという。
今でも旧社地であった坐摩神社行宮には「神功皇后の鎮座石」と言われる巨石が祀られている。
延喜式神名帳では摂津国西成郡唯一の大社に列し、住吉大社と同じく摂津国一宮を称している。

補足
平安時代後期には源融にはじまる嵯峨源氏の源綱(渡辺綱)が渡辺津に住んでこの神社を掌り渡辺を名字とし、渡辺氏を起こした。
渡辺綱の子孫は渡辺党と呼ばれる武士団に発展し、港に立地することから水軍として日本全国に散らばり、瀬戸内海の水軍の棟梁となる。


河内国一宮 枚岡神社(ひらおかじんじゃ)
所在地
大阪府東大阪市出雲井町7番16号

社格
式内社(名神大) 河内国一宮 官幣大社 別表神社

祭神
天児屋根大神 比売大神 武甕槌大神 斎主大神

歴史
社伝より
神武天皇紀元前3年(神武天皇即位の3年前)、神武天皇の侍臣で中臣氏の祖の天種子命(あめのたねこのみこと)が、天皇の命で神津岳の頂に祖神の天児屋根神を祀ったのに始まると伝えられる。
神津岳の頂が平らな丘であったことから「平岡(枚岡)」の社名が生まれたという。
中臣氏の支流の平岡連(むらじ)の氏神として信仰された。
白雉2年(650年)、平岡連によって山頂から中腹の現在地に移された。

補足
天児屋根大神・比売大神が元々の祭神で、春日大社に当社から勧請されたので「元春日社」と称される。
後に春日大社から武甕槌大神・斎主大神を勧請し、春日大社と同じ神(春日神)を祀ることとなった。


和泉国一宮 大鳥大社(おおとりたいしゃ)
所在地
大阪府堺市西区鳳北町1-1-2

社格
式内社(名神大) 和泉国一宮 官幣大社 別表神社

祭神
日本武尊 大鳥連祖神

歴史
伝承より
日本武尊は西征して熊襲を平定し、東征して東国を平定したが、伊吹山で病に倒れ、伊勢国能褒野で薨去する。
遺体はその地に葬られたが、その陵墓から魂が白鳥となって飛んでいき、大和国琴引原で留まり、また飛び立って河内国古市に降りたが、最後に和泉国のこの地に舞い降りたので、社を建てて祀った。

補足
大鳥連は中臣氏と同じく天児屋命を祖神としていたので、大鳥連祖神は天児屋命ということになる。



山城国(京都府)の神社
山城一宮 賀茂別雷(かもわけいかずち)神社
所在地
京都府京都市北区上賀茂本山339

社格
式内社(名神大) 山城国一宮 二十二社 勅祭社 官幣大社 別表神社

祭神
賀茂別雷大神

歴史
社伝では、神武天皇の御代に賀茂山の麓の御阿礼所に賀茂別雷命が降臨したと伝える。
『山城国風土記』逸文では、玉依日売(たまよりひめ)が加茂川の川上から流れてきた丹塗矢を床に置いたところ懐妊し、それで生まれたのが賀茂別雷命で、兄玉依日古(あにたまよりひこ)の子孫である賀茂県主の一族がこれを奉斎したと伝える。


山城一宮  賀茂御祖(かもみおや)神社  (=下鴨神社)
所在地
京都府京都市左京区下鴨泉川町59

社格
式内社(名神大) 山城国一宮 二十二社 勅祭社・官幣大社 別表神社
神階=正一位

祭神
玉依姫命 賀茂建角身命(玉依姫命の父)

歴史
社伝では、神武天皇の御代に御蔭山に祭神が降臨したと伝える。
また、崇神天皇7年(紀元前90年)に神社の瑞垣の修造が行われたとの記録があり、この頃の創建ではないかとの説がある。
一説には、天平のころに上賀茂神社から分置されたともされる。

補足
賀茂別雷神社(上賀茂神社)とともに古代の賀茂氏の氏神を祀る神社であり、賀茂神社(賀茂社)と総称され、両社をもって一社のような扱いをされてきた。
賀茂神社両社の祭事である賀茂祭(通称葵祭)で有名である。



伏見稲荷大社(ふしみいなりたいしゃ)
所在地
京都市伏見区深草藪之内町68

社格
式内社(名神大)、二十二社の上七社の一社、官幣大社

祭神
主祭神=宇迦之御魂大神(うかのみたまのおおかみ)
配祠=佐田彦大神、大宮能売大神、田中大神、四大神(しのおおかみ)

歴史
和銅年間(708?715年)(一説に和銅4年(711年)2月7日)に、伊侶巨秦公(いろこのはたのきみ)が勅命を受けて伊奈利山(稲荷山)の三つの峯にそれぞれの神を祀ったことに始まる秦氏にゆかり深い神社、
秦氏来住以前の原信仰が基礎となったとされる。

補足
ウカノミタマ神
古事記では宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)、日本書紀では倉稲魂尊(うがのみたまのみこと)と表記する。
古事記では、スサノオの系譜において登場し、スサノオとカムオオイチヒメ(オオヤマツミの娘)との間に生まれ、大年神は兄としている。日本書紀では本文には登場せず、神産みの第六の一書において、イザナギとイザナミが飢えて気力がないときに産まれたとしている。



参考資料
「神社辞典」 (東京堂出版 1997)
 Wikipedia 「神社一覧」


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  畿内の神社 
畿内=大和、摂津、河内、和泉、山城の五国