東伯耆の式内社
伯耆一宮  倭文(しとり)神社 (湯梨浜町宮内)
所在地
鳥取県東伯郡湯梨浜町大字宮内754

社格
式内社、伯耆国一宮、旧国幣小社 別表神社

祭神
主祭神=建葉槌命
配祀=下照姫命 建御名方命 天稚彦命 事代主命 少彦名命 味耜高彦根命

歴史:鳥取県神社誌より
創立年月不詳ならざれど、仁明天皇承和四年従五位下に叙せられ、文徳天皇斉衡三年従五位上を授けらる、延喜の制小社に列し、
朱雀天皇天慶3年、従三位より正三位に進む、後本国の一宮と称す。
白河天皇承歴4年6月御トに倭文神の崇あるを以て社司に中祓を科せらる、後正一位に叙せられしにや現に正一位伯州一宮大明神と刻せる古き勅額を所蔵す。
本社の東南に御座所平、又勅使屋敷と称する所あり、往古勅使参向の遺跡なりと云ふ。
当社には神宮寺ありて天台に属し、堂塔僧帽等多く龍徳寺之れが主管たりしといふ。
現に寺山、正来、堂山、堂前等の字を存し、寺屋敷、龍徳寺屋敷、護摩堂屋敷等の遺跡を存せり。
毛利氏の時寺領地三千石を給せられしが、羽柴秀吉に没収せられ、此の時各寺院も離散するに至れり。
旧記に拠るに、往古の社殿は壮麗にして八十余の末社をも有し、千石の御朱印地を領したりしと。
奉仕の神職も又夥しく正神主は国造なりしとも言ふ。
今猶国造屋敷、国造橋、末社屋敷等の名称残れり。
大永年中、兵燹に罹り社殿焼失、社領も没収せられしが、天文23年尼子豊後入道宗勝之れを復旧す。
天正兵乱の際吉川の諸将馬山に在陣するや、社人を逐うて当社に籠居せしが、羽柴秀吉御冠山に肉薄せしとき、吉川元信当社の霊夢に感じ神威を恐れ幣物を奉りて厚く崇敬せり。
羽衣石城主南條元続当社の荒廃を嘆き再興を計り崇敬浅からず、神領を改め新地を寄せ代官貝屋青木の両人をして社領の監査に従はしむ。
慶長5年、又災火に罹り社殿烏有に帰す。
寛永の始新たに社殿を造営す、同十年十一月国主池田氏社領四万九斗二升を寄進す。
寛永二年本殿再建の工を竣るや国主池田詩り白銀十枚を奉納せらる。
その後、社殿大破し先例に依り宮の允許を得て伯耆国内に資材を募り、文化15年竣工す。今の本殿是なり。
神楽渡御も昔時は春秋二回盛に行ひしが、天正の頃より中絶せしを、延享2年4月再興せしが、山内固めとて藩老和田氏より警護の士鉄砲六人づつを附せらる。
当社の末社は八十余社ありしが、戦乱の為に破壊せられ、嘉永年度には僅かに十二社存せしが、明治維新の際廃せられ更に早稲田社、藤津社、長江社、北野社、宇野社、宇谷社、の六社を付属摂社と定めらる。
続いて社号を倭文神社と改められ、縣社に列す。
明治40年2月3日、神饌幣帛共進神社に指定せらる。
大正4年12月、旧境内字御参所より仏像古鏡経筒等を発掘す、康和五年の銘あり。
大正9年4月、出土品全部を国宝に編入せらる。

歴史
具体的な創建年代は不明であるが、平安時代初期の大同3年(808年)の医学書「大同類聚方(だいどうるいじゅほう)」に記述があり、これが文献上の初見とされている。
機織に携わった氏族である倭文氏が祖神の建葉槌命を祀ったのが起源とされている。
ただし、社伝には下照姫命に関するものが多く、大正時代までは下照姫命が主祭神であると考えられていた。

社伝によれば、出雲から渡った下照姫命が現在の湯梨浜町(旧羽合町)宇野に着船し、御冠山に登って現在地に鎮まったという。
着船したと伝えられる場所には、下照姫命が化粧を直したという「化粧水」や、腰を掛けたという「お腰掛岩」などが残っている。
これについて、『式内社調査報告』では、元々は織物の神である建葉槌命を祀っていたのが、当地で織物が作られなくなったことにより建葉槌命の存在が忘れられ、共に祀られていた下照姫命だけが残ったと記している

補足1:鳥取県神社誌より
建造物 本殿、祝詞舎、拝殿、透塀、神楽殿、神饌所、数寄屋、神輿庫、随神門、社務所、手水台
境内坪数 3915坪   氏子戸数 521戸

補足
随神門右手の丘から高さ1.5m・直径15mの経塚が発見され、中から数多くの埋納品が出土。
その全てが国宝に指定されている。



波波伎(ははき)神社 
所在地
鳥取県倉吉市福庭654

社格  式内社、県社

祭神
主祭神=八重事代主命
配祀=天稚彦神、下照姫神、少彦名神、建御名方神、味耜高彦根命
     市寸島比売命、多紀理毘売命、多岐都比売命
境内神社
 稲荷神社 祭神 保食神、天照大神、素盞鳴尊、稲田姫神、誉田別神
 北野神社 祭神 菅原道真、 素盞鳴尊

歴史:鳥取県神社誌より
伯耆神は国造り坐し大国主大神の御子事代主大神なり。
御鎮座の由来は天祖・天照皇大神、此の豊葦原の瑞穂の国は皇御孫命の天壌無窮に可治国と武甕槌、経津主の二神を出雲国に降し給ひて大国主神に国譲の諾否を問はせ給ふに、吾は答えず我が子事代主答ふべきも、今三穂碕にありと。
すなはち天鳥船神をつかはし召し来て問はせ給ふに、此の豊葦原の国は皇御孫命の可治国と父を諫め位を退き国を譲らしめ、己も天使の旨を諾ひ給ひ。
天夷鳥命の子国夷鳥命に手を組ましめ一ツ木の神玖四浮根に座しし船足を此の青柴の巻籬内にと踏み方むけしめ来入座て宣曰く、吾が心すがすがし幾世福庭ぞ此の青柴のまにまに栄ゆく如く皇御孫命の大御代は栄え大坐ませ。
己が命の神魂は皇孫命の近つ護の神とならむ。
天栄手を青柴籬に柏誓て御隠れましし天栄手の宮なり。
仁明天皇4年正五位上に進む。
延喜の制小社に列す。
平城天皇大同3年(大同類衆方)に、伯耆神は延喜式伯耆国河村郡波波伎神社党国国造祖神を祭る伯耆薬は伯耆国川村郡波波伎神社に伝ふと。
天文12年雷火の為に焼失。
寛永5年まで165年間小祠にてありしが、産子伊藤孫左衛門発願祠を建立す。
後169年を経て明治10年5月産子福井善十郎今の祠を建立す。
其の昔天文年中迄は祭式判然として見ゆ衆人二宮と崇敬す。境内に古墳あり。
明治2年郷社に列す。
明治40年2月3日神饌幣帛料供進神社に指定せら。、
大正5年3月31日、下村大字海田字坂根、鎮座、村社、海田神社(祭神 狭依比売命、多紀理比売命、多岐都比売命)を合併。
昭和4年8月13日、県社に昇格す。

補足1:鳥取県神社誌より
建造物 本殿、弊殿、拝殿、神楽殿、宝蔵庫、参籠殿、随神門、神饌所、神輿庫、社務所
境内坪数 =4129坪   氏子=120戸

補足2
裏手に福庭古墳と呼ばれる円墳がある。古墳時代後期のものとされている。
創建時期は明らかでない。社殿は1877年の再建。
1916年、海田神社を合併。


倭文(しとり)神社 (志津)
所在地
鳥取県倉吉市志津209 

社格  式内社 伯耆国三宮 郷社 県社

祭神
主祭神=經津主神
配祀=武羽槌神 下照姫神、伊弉諾命 、伊弉冉命、 譽田別命、国狭槌尊

歴史1:鳥取県神社誌より
創立年代詳。
文徳天皇斉衡3年8月、従五位上を授けられ、延喜の制小社に列す。
朱雀天皇天慶3年9月、従三位倭文社神に正三位を授けらる(本郡には同神ありて神階のこと何れの神社を指せるにや詳かならず) 
鎮座地志津は社号の倭文と同一なり、随って祭神倭文神武葉槌命を祀れるより起因せること明かなり。
後世に至り志津大明神とも三ノ宮志津大明神とも称したり、往古より武門武将の崇敬厚く多くの社領を有したり八町四方の御免地(神楽田、御供田、籠田王殿、カワケ田、行田、使者田、神田、神主屋敷、灯明田、山田、橘、王代、祭所) 今尚に残れり。
嘉慶二年国主山名時氏社殿建立し、社領18町歩寄進あり。
其の後吉川駿河守元春社領を再興す。
天正2年、南条豊後守宗勝の祈願所として社殿を建立、社領をも寄進す。
慶長中、中村伯耆守社領を没収す。
寛永5年、松平勝五郎内高木斎宮建立。
天和3年、松平相模守光仲金百疋直納、御公儀より玄米15石、竹百束、人夫50人被遺、本殿建立。
正徳5年、地頭高木長兵衛、社殿建立。爾後歴世太守の祈願所として毎年神札を直納せり。
寛永元年には、官許を得て豪族の拝殿建立あり。
享保16年、伯耆一国勸化を以て各大庄屋宗旨庄屋は普く郡中の信仰に訴え社殿造営造営さる。
宝暦2年3月にも同じく伯耆一国の勸化に依りて社殿を造営す。
明治4年郷社に列す。
明治40年2月3日神饌幣帛料供進神社に指定せらる。
大正2年12月
  北谷村大字福本爾峯鎮座村社福本神社(祭神 誉田別命) 
  同村大字尾田字中峯鎮座村社新宮神社(祭神 伊弉冉命) 
  同村大字福富字クラヤ鎮座村社福富神社(祭神 国狭槌尊)を合併す。

歴史2
伯耆国一宮と同じ社名だが、ここは三宮にあたる。
文徳天皇斉衡3年、従五位上を授けられた。
延喜の制小社に列した。鎮座地志津は社号の倭文と同一である。
往古より武門・武将の崇敬が厚く多くの社領を有した。
明治4年郷社に列し、昭和17年県社に昇格した。

補足1:鳥取県神社誌より
建造物 本殿、幣殿、拝殿、中門、廊下、神饌所、社務所、随神門、神輿庫、参籠所
境内坪数 1120坪   氏子戸数 161戸


国坂(くにさか)神社 (式内社)
所在地
鳥取県東伯郡北栄町国坂1500

社格
式内社  郷社
神階=貞観九年(876)正五位上

祭神  
少彦名神

歴史1:鳥取県神社誌より
創立年月不詳。
仁明天皇承和4年2月、従五位下を授けられ(続日本後記) 文徳天皇斉衡三年八月正五位下を加へらる(文徳実録)。
清和天皇貞観9年4月、正五位上に叙さる、延喜の制小社に列す。
白河天皇承歴4年6月、御卜に国阪神の祭を穢せる祟りあるを以て社司に中祓を科せらる(朝野群載)。
古来四宮大明神と称し、部門武将の崇敬篤く、大永年間茶臼山の城主増田元蕃当社再興の擧あり、明治維新の際、国阪神社と改められる。郷社に列す。
明治40年2月3日神饌幣帛料供進神社に指定せらる。
当社の御祭神に就いて大日本史に土人の説として、大己貴命を祀ると云ひ日本地理志科も又大国主命を祀る乃ちその裔の奉祀する所と記す。
元禄7年著の伯陽六社みちの記には、是はいかなる御神ぞといふに書て給はる少彦名尊にておはしましぬとなん記せり。
当社前方に面積約二反歩の神池あり、一面に蓴菜河骨を生ず。
往昔地方に疫病流行し或は難病人ある時当社に祈願し此の水草を煎用するときは神徳の霊験ありとて其の名遠近に高し、現今尚此の水草を刈取り毎年4月8日薬草祭典を行ひ参拝者に頒つ。

歴史2
波々伎神社・大神山神社とともに最も古いとされる。
このことは、地方豪族を中央の統制下に置くための神祇統制策として当地方で最重要視された神社であるといえる。
以後、四宮大明神と称し、この神社を奉護する領主や地方の人々に敬われてきた。
そして明治時代に「郷社」に列せられ、國坂神社(四宮さん)と呼ばれて今日に至った。

補足1:鳥取県神社誌より
建造物 本殿、弊殿、拝殿、参籠所、随神門
境内坪数=1068坪   氏子戸数=153戸


国庁裏(こくちょうり)神社   (伯耆国総社)
所在地 
倉吉市国分寺426

社格等  
伯耆国総社  郷社
従五位下

祭神
大己貴命 少彦名命 木花之開耶姫命 保食神 大山祇命
櫛稲田姫神 素盞嗚神 大國主神 品陀和気命 玉依姫命 天児屋根命

歴史:鳥取県神社誌より
古今の称号、三代実録に「貞観15年夏4月5日巳卯授伯耆国無位国庁裏神従五位下」と見え、平安朝時代には存在せしこと明らかなり。
蓋し国庁設置の当時より存せし国司所祭の神社にして、平安朝の末に到り国内の諸神を此処に集め祀りしより総社と称するに至りしものなるべく。
明治維新前まで総社の名称を以て存せしが維新の際、総社の号を廃せられ、国庁裏神社と改称すると共に社格を郷社に列せらる。
当社は慶安5年壬辰3月、因伯大守松平相模守より人足千人並に材木丈木御寄進あり。
延宝5年丁巳8月従御公儀米85、石材木共御寄進あり。
元禄15年壬午5月従御公儀米十五石丁御寄進あり。
此時御家老荒尾志摩守祝詞を奏せらる。
文政3年庚辰2月鳥取藩士柴野郡左衛門、同柴野専三郎、山林一段七畝八歩を寄進す。
文政13年3月転法輪殿御家森寺長守より祈願料として白銀二十枚永世寄せらる。
明治40年2月3日、神饌幣帛料供進神社に指定せらる。
大正2年10月8日
  村社大字国府字東前鎮座村社国府神社(祭神 木花之開耶姫命 保食神 大山祇命) 
  同村大字大谷字飯野鎮座村社垂井神社(祭神 玉依姫命 天児屋根命 ) 
  同村大字不入岡字宮ノ下鎮座村社清水神社(祭神 稲田姫神 素盞嗚神) 
  同村大字和田字野畑鎮座村社和田神社(祭神 誉田別尊) 
  同村大字横田字下屋敷鎮座無格社横田神社(祭神 大國主命) 
  同村大字福光字代田鎮座無格社福光神社(祭神櫛稲田姫命 素盞嗚尊 )を合併す。
大正4年10月
  社村大字黒見字宮ノ上エ 鎮座村社東谷神社(祭神 誉田別尊)を合併す。

補足1:鳥取県神社誌より
建造物 本殿、幣殿、拝殿、随神門
境内坪数=1122坪   氏子戸数=483戸

補足2
不入岡の国造屋敷と当社とを結ぶ道は、国造道と呼ばれたと伝える。






倉吉市周辺の神社
賀茂神社
所在地 
鳥取県倉吉市葵町586

社格等  郷社

祭神
加茂別雷神(かもわけいかづちのかみ)

歴史1:鳥取県神社誌より
往古山城国賀茂別雷神社より勧請せるものにして、古来神階等のことも国史に見え(清和天皇貞観九年丁丑四月八日伯耆国賀茂神授従五位下と三代実録に記載せるは当社ならんか) 地方に於ける古社なり。
維新前までは賀茂皇大神宮と称へ衆庶の尊信特に篤し。
貞治以後山名氏当国を領するや、当社を厚く崇敬し、社殿を造営し、社領若干を附巣旧社に拠れば現社地一帯を神坂山と称し、山下を繞る神坂邑は往古よりの神領地にし、現に宮内宮川等の地名の遺れば神域内なりしと云ふ。
而して当社隆盛の時代には神坂の東方五丁余の地に神宮寺ありて、多数の僧侶神官と共に社務を執行し、四時の祭典殷賑を極めたりしか、当時の神宮寺は七堂伽藍の構造なりしと云ふ。
現に寺坊の跡より巨大の礎石布目瓦等出づ、その付近に駄經寺、少林寺等の地名あり、何れも神宮寺の末寺のありし所と云伝ふ。
然るに戦国の世となり屡々兵燹に罹り、当社の社殿並に神宮寺も鳥有に帰し、多数の宝物古文書等悉く消失、社領も没収せらるゝに至りしかば、此の頃より神宮寺は自然廃絶するに至れり。
天文年中尼子晴久当社を尊崇社殿を造営す、其の後吉川氏倉吉城を再興するに当り、厚く当社を崇敬す。
慶長年中、中村伯耆守神坂村の地七十に石を社領として寄附せらる、此の時社頭再び隆盛を来たし神宮寺も又当社の前方打吹山の麓に再興するに至れり。
然るに中村氏断絶するに及び社領又缼ぐ、元和三年池田光政因伯二州を領し、長臣伊木長門守此の地を管するや、又厚く当社を崇敬せられ祭祀料若干を寄附す。
寛永9年池田光仲因伯二州を領するに及び厚く当社をを崇敬し社領三十石を寄附し此の地を守護せし家老荒尾氏に命じ、毎年廩米を以て当社に交附せしめられ明治維新に及ぶ。
当社は国守より雷除其の他の祈祷を命せられしこと屡々にして、祭日には国守の命に依り与力、大目付、寺社奉行等出張し諸事を取締り大に警固に努めたり。
享保4年宗源宣旨により正一位を授けらる。
明治維新の際賀茂皇大神宮を賀茂神社と改称郷社に列す。
鳥居下なる御供用水は俗に夕顔の井と云ふ、陰徳太平記には清先の井戸とあり、古へ比の井辺に大なる夕顔ありて天女是に便り昇天すと云伝ふ。
明治40年2月3日神饌幣帛料供進神社に指定せらる。
明治43年12月其の筋の許可を得て当社に光挌天皇の御生母大江磐代君の合祀せし。
同45年月新たに大江神社を創立の許可を受け、大正2年4月14日奉遷す。
当社々殿内に天拝石とて形状恰も鶏卵の如く長さ一尺八寸許径九寸許の石あり往古虚空より墜落せし星石なりと云ひ、又往昔天皇御遙拝の神石なりしを以て天拝石と称すといへり。

歴史2
往古、山城国上賀茂神社の祭神を勧請したと伝えられる。
貞観9(876)年に記された「三代実録」に記されるなど歴史のある古社。
天文年間(1532-1555)尼子晴久が再興、享保4年(1719)宗源宣旨により神階正一位を授かっている。
明治維新の際、賀茂皇大神宮から現社名に改称され、郷社となった。

補足1:鳥取県神社誌より
建造物=本殿、幣殿、拝殿、神輿庫、祭器庫、参籠所、髄神門
境内坪数=1919坪   氏子戸数=1640戸

補足2
京都の上加茂神社を本社とし同じ祭神を祀る。
参道横には、その夕顔のつるをつたって、天女が天に帰っていったという伝説が残る「夕顔の井戸」がある。




大原神社


所在地 鳥取県倉吉市大原619番

社格

祭神 
正哉吾勝勝速日天忍穂耳神、天穂日神、天津彦根神、活津彦根神 素戔鳴神、熊野樟日神、倉稲魂神、天満天神

歴史:鳥取県神社誌より
旧記に拠れば大化三年(647)丁未九月、山城国宇治郡宇治郷社許波多神社より、正哉吾勝勝速日天忍穂耳神を勧請し、社殿を創建して崇敬せし。
明徳二年(1391)、祠官村上尚喬国司の命により神殿を再建し、同時に天穂日神、天津彦根神、活津彦根神、熊野樟日神の四柱の神々を各々別殿に勧請し、本摂共に五社となし以て五社大明神と称し崇敬篤かりし神社なり。
中世の頃、社域の南方に神宮寺を設立して密宗の僧都宥看を社僧となし祭儀を掌らしめしが、大永年中(1521-1527) 神宮寺焼失の後は之に仕ふる僧侶もなく、社殿は年と共に破壊す。
祠官村人共に之を憂ひ天文年間(1532--1554)五社を合併して一社となし、以て尊厳を保つに至れり。
明治維新の蔡、社号を大原神社と改称せられ、同時に末社の神素戔鳴神、倉稲魂神、天満天神の三神を合祭せらる。

補足1:鳥取県神社誌より
例祭日   10月9日
建造物   本殿、弊殿、拝殿、宝物殿、随神門兼神楽殿
境内坪数=851坪  氏子戸数=85戸
 
補足2:鳥取県神社誌より
元禄(1688--1703)の頃には、此の社を伯耆式内六社の一の波々岐神なりと云ひしが如し、元禄七年武内自安子の記せる「伯陽六社みちの記」に大原の里に第二の宮波々岐ノ神社へ先まうて奉らんといへば、あるしともなひ祠官村上氏佐内尚重の家に行縁起なと望みて聞に
神は正哉吾勝尊にておはします。
其の外の神々も御同殿にあかめ申せば五社大明神ともいひしとんなん、文しけゝれば略し侍るそれよりも尚重あなひして社の御戸をひらきてねん比におかませらると記せり。



東伯郡の神社
北条八幡宮
所在地 
東伯郡北条町北尾

社格等


祭神


歴史:鳥取県神社誌より

補足:鳥取県神社誌より



高尾八幡宮
所在地 
東伯郡北栄町(旧大栄町)西高尾

社格等  郷社

祭神
誉田別尊、帯中津彦命、気長足姫命、武内宿禰命、大已貴命、別雷神、素盞鳴尊、瓊々杵命、菅原道真
境内神社  稲荷神社、祭神 倉稲魂神
        道祖神社 祭神 猿田彦神

歴史:鳥取県神社誌より
陽成天皇元慶(877-884)年中の創建にして石清水宮別宮種八幡宮氏して奉祭せられ、佐藤某なる者の献金によりて奉建せるものなり。
爾来武門武将の崇敬甚だ厚く社領も亦多かりしか、平家追討の頃守護武士等社納米を抑留せる事ありしを、元歴2年源頼朝の令によりて是を停止せられ、爾来一般の崇敬特に厚く、殷盛なる神社なりしが、群雄割拠の世に至り兵火に罹り一時祭事微弱に陥りたる時、本国の領主尼子晴久之を慨して社領を奉献して面目を革めたり。
後尼子氏の滅亡とともに社領絶せり。
下りて徳川氏天下一統の後も累代国主の祈願所として奉祭せられたり。
後寛延元年雷火の為め社殿全部烏有に帰したりしが、地方崇敬の者集まりて金穀土地等を寄進し或いは社殿を造営寄進して再興せり。
明治5年郷社に列せられ、高尾神社と改称せらる。
同12年旧社号八幡宮と復旧せり。
同40年2月3日、神饌幣帛料供進神社に指定せらる。
大正4年4月21日 
  栄村大字上種字宮惣鎮座村社 大宮神社 (祭神 大己貴命、別雷神、素盞鳴尊、瓊々杵命、菅原道真)
  同大字東高尾字堂山鎮座 無格社 東高尾神社(祭神 素盞鳴尊)を合併す。
当社に古き経筒を蔵す。
理学博士坪井正五郎、文学博士三宅米吉の鑑定によれば、藤原時代物ならんと、尚当社か石清水八幡宮別宮なりし事、元歴2年正月19日右大将頼朝の社領安堵の下文(石清水所蔵古文書)にあり。

補足:鳥取県神社誌より
建造物=本殿、弊殿、社務所、参籠所、
境内坪数=1636坪   氏子戸数=154戸


方見神社
所在地 
鳥取県東伯郡琴浦町大字上伊勢99

社格等  郷社

祭神
天照大神 伊邪那岐命、伊邪那美命、鵜草葺不合尊、菅原道真尊、素盞鳴尊、稲荷神、品陀和気命、天太玉命、和加産巣日神

歴史:鳥取県神社誌より
創立年代詳ならず。
往古は四至四町除地ありて社記に所在地を明記せり。
其他多くの社領を有し官民の崇敬高く、一に神宮に擬し野ノ宮斉王殿、着到殿等を構へ規模荘厳にして上宮以下被官の社人十七人奉仕、上ノ城戸、西ノ城戸等の名吟に存す、其他伊勢野、鈴鹿野、斉王野等の地名あり、又奈良朝の時土佐より遁れ給ひし池田王は、方見神主の許に隠れさせ給ひしが、遂に神主となり奉仕せられしとの伝説あり。
当社は承久2年(1220)以来数度の炎上に因り次第に衰頽せしが、後宇多天皇弘安の役後報彩賽の為め当国司波多野氏当社を再興。
後大永3年5月兵燹に罹り、社殿再建せしも天正10年春、又炎上同年秋9月領主南條氏僅かに方七尺の社殿造営、本来十斛奉加。
慶長6年9月23日、中村氏外高四石五升寄附せらる、国主池田氏外高四石五升並に幕提灯等寄附せらる、代々の武将の崇敬社にして国守の祈願所なり。
当社には往古より大田小田と称する神田あり、大田は朝日田と唱へ九月一日此の田の稲を神供に炊くぐ、古田は晦日田と唱へ此田の稲を以て部内諸神に供す。
氏子の討ちり13歳未満の女子を挙げ神酒上げ神饌炊ぎとす、此を「三ケノオコラ」と云ふ、永久に相伝ふ。
此田を植る時は御田植祭を行ひ、官丁を課当せられしこと当社の伝記及び古文書に明らかなり。
当社は昔より方見一郷の氏神にして、摂社16社、末社17社付属せしが、明治維新の際此れを廃せられ、天照皇大神宮と称せしを方見社と改号。
明治5年3月、郷社に列す。
同6年12月、方見神社と改称。
明治40年2月3日、神饌幣帛料供進神社に指定せらる。
明治40四年、皇太子妃殿下御不例の際御平癒祈祷神札を奉りしにより同七月東宮大夫九條侯爵より幣帛料として金二千疋御下賜。
大正2年10月1日
  市勢村大字金市字馬場ノ内鎮座村社金市神社(祭神:鵜草葺不合尊)
  同上字天神の上鎮座村社北野神社(祭神:菅原道真尊)
  伊勢崎村大字金星字大田鎮座村社金星神社(祭神:素盞鳴尊、稲荷神)
  市勢村大字下市勢字八幡土井鎮座無格社大野神社(祭神 品陀和気命)
  逢束村字鈴野鎮座無格社鈴野神社(祭神 素盞鳴尊)
  伊勢崎村大字中尾字屋敷鎮座無格社中尾神社(祭神 天太玉命、和加産巣日神 )を合併す。
当社には立體の随神あり、頗る古色を帯ぶ。
大正10年10月帝宝博物館学芸委員新納忠之介の鑑定にて鎌倉初期の制作にて凡七百年を經随神としては日本第二の古神體なりと言へり。
伝へ云ふ往古は、方見村主上官神主ありて祭政の権を司りしが後世の変革に伴ひ、地頭を置れしより神主との権力争ひを生じ、判決を受けたる文書あり。
又天正の職には架橋修理による礼状あり、同八橋域普請につきて奉書の先例により免除ありし文書を有す。
又当社には昔桜ノ馬場駿ノ馬場の二條ありて三月九日花見の神事を行ひ流的馬旺盛なりしと、月下ノ宮を昔より外宮の関係にて雨宮落合ひの神とて両社より十二頭の獅子を出し盛に祭礼を行ひしこと社伝に見ゆ。

補足:鳥取県神社誌より
建造物=本殿、弊殿、拝殿、神饌所、神楽所、神輿庫、随神門、参籠所、手水舎、瑞垣
境内坪数=2259坪   氏子戸数=433戸


諏訪神社
所在地 
鳥取県東伯郡琴浦町大字八橋1681

社格等


祭神
天照大神 伊邪那岐命、伊邪那美命、鵜草葺不合尊、菅原道真尊、素盞鳴尊、稲荷神、品陀和気命、天太玉命、和加産巣日神 

歴史:鳥取県神社誌より

補足:鳥取県神社誌より


神崎神社
所在地 
鳥取県東伯郡琴浦町大字赤碕1467

社格等


祭神

歴史:鳥取県神社誌より

補足:鳥取県神社誌より


船上神社
所在地 

社格等


祭神

歴史

補足



参考資料
「日本の神々 神社と聖地 第7巻 山陰」 (白水社 2007 谷川健一 坂田友宏 川上迪彦他)
「鳥取県神社誌」(澤田文精堂 1934)  
「神社辞典」(東京堂出版 1997)  

ウキペディア 「神社一覧」


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  伯耆国の神社-2 (鳥取県中部)  
現代の市制
鳥取県HPより引用
 倉吉市-(旧倉吉市、関金町)

 東伯郡
   三朝町 
   湯梨浜町(旧東郷町、羽合町、泊村)
   北栄町(北条町、大栄町)   
   琴浦町(旧東伯町、赤碕町)

令制下の旧国
 伯耆国-河村郡、久世郡、八橋郡、会見郡、入汗(あせり)郡、日野郡 

 式内社=6社  

 河村郡 2社(並小)  河村郡 2社(並小)  会見郡 2社(並小)