第30代 敏達天皇 (主として日本書紀による記載) |
概説 |
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諱、諡号等
幼名
和風諡号 渟中倉太珠敷尊(ぬなくらのふとたましきのみこと)
漢風諡号 敏達天皇 (別名、他田天皇)
生没年
538?(宣化3年)-585年(敏達14年)
即位
即位=572年
皇居=初め百済大井宮(くだらのおおいのみや)
大阪府河内長野市太井・奈良県北葛城郡広陵町百済・大阪府富田林市甲田・奈良県桜井市など諸説あり)
575年 卜占の結果に従い、訳語田幸玉宮(おさたのさきたまのみや)へ遷った。
現在の奈良県桜井市戒重。他田宮)
崩御
崩御=585年
陵墓=河内磯長中尾陵(太子西山古墳、大阪府南河内郡太子町大字太子)が敏達天皇陵に比定されている。
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系譜 |
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父=29代欽明天皇(第二皇子)
母=石姫皇女・・・・宣化天皇の皇女
皇后(前)=広姫(ひろひめ)-息長真手王の娘・・・敏達4年(575年)薨去
皇子①=押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとのおおえのみこ、麻呂子皇子)
皇女①=逆登皇女(さかのぼりのひめみこ、坂騰王)
皇女②=菟道皇女(うじのひめみこ、宇遅王)・・・・伊勢斎宮
皇后(後)=額田部皇女(ぬかたべのひめみこ、後の推古天皇)
皇女①=菟道貝鮹皇女(うじのかいたこのひめみこ、菟道磯津貝皇女・静貝王)・・・・聖徳太子の妃
皇子①=竹田皇子(たけだのみこ)
皇女②=小墾田皇女(おはりたのひめみこ)・・・・押坂彦人大兄皇子の妃
皇女③=鸕鶿守皇女(うもりのひめみこ、軽守皇女・宇毛理王)
皇子②=葛城王(かずらきのみこ、古事記のみ)
皇子③=尾張皇子(おわりのみこ)
皇女④=田眼皇女(ためのひめみこ、多米王) 舒明天皇の妃
皇女⑤=桜井弓張皇女(さくらいのゆみはりのひめみこ)・・・・押坂彦人大兄皇子の妃・来目皇子の妃
夫人=老女子(おみなご、春日臣仲君の女)
難波皇子(なにわのみこ)
橘朝臣・路真人・甘南備真人・大宅真人などの祖
春日皇子(かすがのみこ) 春日真人などの祖
桑田皇女(くわたのひめみこ)
大派皇子(おおまたのみこ、大俣王)
采女=菟名子(うなこ)・・・・伊勢大鹿首小熊の女
太姫皇女(ふとひめのみこ、桜井皇女・布斗比売命)
糠手姫皇女(ぬかでひめのみこ、田村皇女・宝王・島皇祖母命) 押坂彦人大兄皇子の妃・舒明天皇の母
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蘇我稲目--- ┐ 28宣化天皇
↓ ↓ ↓
蘇我馬子 蘇我堅塩姫---29欽明天皇---石姫 息長真手王
↓ ↓ ↓ ↓
蘇我蝦夷 推古天皇----30敏達天皇----広姫
↓ ↓
蘇我入鹿 押坂彦人大兄皇子
↓
茅渟王----吉備姫王
↓ ↓
35皇極天皇 36孝徳天皇
37斉明天皇
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事績 |
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572年(敏達元年)
4月 即位
575年(敏達4年)
卜占の結果に従い、訳語田幸玉宮(おさたのさきたまのみや)へ遷都。
578年(敏達6年)
世界最古の企業とされる金剛組が発足した。
585年(敏達14年)
物部守屋が天皇に働きかけ、仏教禁止令を出させ、仏像と仏殿を燃やさせた。
8月 病が重くなり崩御。古事記では没年は584年とされている。
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敏達天皇業績 |
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外交政策
欽明天皇の遺言である任那復興を目して百済と協議していたが、ほとんど進展は見られなかった。
同時に新羅とも通交し、任那の調を受け取っていたと記されている。
仏教政策
敏達天皇は廃仏派よりであり、廃仏派の物部守屋と中臣氏が勢いづき、それに崇仏派の蘇我馬子が対立すると言う構図になっていた。
崇仏派の蘇我馬子が寺を建て、仏を祭るとちょうど疫病が発生したため、585年に物部守屋が天皇に働きかけ、仏教禁止令を出させ、仏像と仏殿を燃やさせた。
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参考資料 |
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「新訂増補国史大系 日本書紀 前篇」 (吉川弘文館 2000 黒坂勝美)
「新訂増補国史大系 日本書紀
後編」 (吉川弘文館 2000 黒坂勝美)
「日本古代史の100人」 (歴史と旅臨時増刊号23巻2号 秋田書店 1996)
「古代人物総覧」 (別冊歴史読本21巻50号 1996)
「歴代天皇全史」 (歴史群像 学習研究社 2003)
Wikipedia 「敏達天皇」 |
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