神功皇后 米子(西伯耆)・山陰の古代史
神功皇后
14代仲哀天皇の皇后。彦坐王の4世孫、15代応神天皇の母。応神天皇の成人まで摂政を務める。
実在説と非実在説が並存している。   (参照:皇室・有力氏族系図まとめ)

神功皇后 (主として日本書紀による記載)
概説
諡号
 古事記での呼称
    息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)・大帯比売命(おおたらしひめのみこと)・大足姫命皇后。
 日本書紀での呼称
    気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)

即位
  摂政即位年=201年
  
崩御
  崩御=日本書紀より269年
  陵墓=五社神古墳

祭神となっている神社
  大分県の宇佐神宮
  大阪府大阪市の住吉大社
  福岡県福津市の宮地嶽神社
  福岡県大川市の風浪宮など


系譜
=息長宿禰王(おきながのすくねのみこ、開化天皇玄孫)   
=葛城高顙媛(かずらきのたかぬかひめ)---天日矛(あめのひぼこ)末裔

   第9代開化天皇
     ↓
   彦坐王(美濃を本貫とし、その後裔は常陸・甲斐・三河・伊勢・近江・山城・河内・大和・但馬・播磨
         丹波・吉備・若狭・因幡など広汎に分布している。
     ↓
   山代之大筒木真若王(やましろのおおつつきまわかのみこ)・・・神功皇后の曽祖父・但馬国造の祖
     ↓
   迦邇米雷王(かにめいかずちのみこ)
     ↓
   息長宿禰王(おきながのすくねのみこ)----葛城高顙媛(かずらきのたかぬかひめ)
                             ↓
                           神功皇后

補足
『先代旧事本紀』の国造本紀因幡国造条に「彦坐王児彦多都彦命」と見えるが、詳細は不明である。


事績
仲哀9年(200年)
三韓征伐
夫の仲哀天皇の急死後、住吉大神の神託により、お腹に子供(のちの応神天皇)を妊娠したまま海を渡って朝鮮半島に出兵して新羅の国を攻め、新羅は戦わずして降服して朝貢を誓い、高句麗・百済も朝貢を約したという。

渡海の際は、お腹に月延石や鎮懐石と呼ばれる石をあててさらしを巻き、冷やすことによって出産を遅らせたとされる。

その帰路、筑紫の宇美で応神天皇を出産し、壱岐市の湯ノ本温泉で産湯をつかわせた。
また志免でお紙目を代えた。

神功元年(201年)
3月  
  日本書紀によれば、摂政として201年から269年まで政事を執りおこなった。
  異母兄にあたる香坂皇子、忍熊皇子が畿内にて反乱を起こして戦いを挑んだ。、
  神功皇后軍は武内宿禰や武振熊命の働きによりこれを平定した。

神功5年
3月  
  新羅王の質、微叱旱岐(みしこち)の見張りとして襲津彦を新羅に使わす。
  対馬にて新羅王の使者に騙され微叱旱岐に逃げられた。
  怒った襲津彦が蹈鞴津(たたらつ)から草羅城(くさわらのさし)を攻撃して捕虜を連れ帰った。

神功62年
  襲津彦を遣わして新羅を撃たせる。

神功69年 
崩御


神功皇后に関する諸説
母方系譜の天日矛について
天日矛とは
古事記、日本書紀に見える新羅の王子。
播磨国風土記には神(天日槍命)として登場する。
アメノヒボコは新羅の王家、朴氏、昔氏、瓠公との関連の可能性があるとする説もある。

系譜
    天日矛
     ↓
     子
     ↓
     孫
     ↓
   多遅摩毛理(たじまもり=田道間守)・・・菓子の神
     ↓
   多遅摩比多詞
     ↓
   葛城高額比売命----息長宿禰王(おきながのすくねのみこ)
               ↓
             神功皇后

日本書紀における記載
垂仁天皇3年春3月に昔に新羅王子・アメノヒボコが神宝、羽太の玉、足高の玉、赤石、刀、矛、鏡、熊の神籬の7種を持参した事への言及があり、その渡来の記述がある。
その後、播磨国、近江国、若狭国を経て但馬国の出石に至り、そこに定住して現地の娘・麻多烏(またお)と結婚したとしている。
アメノヒボコは出石に住んでいた新羅系の渡来人が信仰していた神と考えられる。

補足
『日本書紀』では、アメノヒボコの渡来前に意富加羅国王の子の都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)が渡来し、この説話の前半部分、アカルヒメが日本に渡りそれを追いかける部分の主人公である。
都怒我阿羅斯等は3年後に帰国したという。


三韓征伐について
三韓征伐とは
神功皇后が行ったとされる新羅出兵を指す。

三韓征伐の意義
韓国南部の旧伽耶(任那)地域の前方後円墳の発掘で倭国産と見られる遺物が出てきた。
これらから、4世紀後半以降の倭の朝鮮半島進出自体は歴史的事実として立証できるとするのが古代史学界の主流である。
しかし、三韓征伐に関する朝鮮側、中国側の記載がない。
よって三韓征伐が史実であるか否かは同定し難い。


日本書紀 巻九神功皇后摂政66年の記述
「神功皇后摂政66年 是年 晋武帝泰初二年晉起居注云 武帝泰初(泰始)二年十月 倭女王遣重貢獻」

この記載から卑弥呼を神功皇后と重ね合わせ、ヤマト王権と「卑彌呼」を関連づけさせる為に伝承が作り上げられたという説がある。



参考資料
「新訂増補国史大系  日本書紀 前篇」 (吉川弘文館 2000 黒坂勝美)
「新訂増補国史大系  日本書紀 後編」 (吉川弘文館 2000 黒坂勝美)
「継体天皇の謎 古代史最大の秘密を握る大王の正体」 (PHP文庫、2004 関裕二)
ウキペディア「神功皇后」、「三韓征伐」


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