氏姓制度 |
概要 |
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氏姓制度
古代日本において、中央貴族、ついで地方豪族が、国家(ヤマト王権)に対する貢献度、朝廷政治上に占める地位に応じて、朝廷より氏(ウヂ)の名と姓(カバネ)の名とを授与され、その特権的地位を世襲した制度。
これによって諸氏族を天皇のもとに秩序づけた。
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氏(うじ) |
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もともとは、共通の祖先をもつ血縁関係にある人たちの集団を「氏」と呼んでいた。
しかし、氏姓制度においては、血縁関係のない被征服者も「氏」の構成要員に含まれるようになった。
豪族の場合
氏上(うじがみ)
氏族の首長
氏人(うじひと)
氏の一般構成員のことで、基本的には氏上と血縁関係にある人たち。
部曲(かきべ)(民部)
豪族に隷属する半自由民の労働集団。部民。
職業に関係なく部曲と呼ばれていた。
奴(やっこ)・奴婢(ぬひ)
氏人の家に隷属していた家内奴隷。
大王(天皇)家の場合
伴造(とものみやつこ)の下で大王家に隷属する官人(=伴=トモ=部)がいた。
品部(しなべ/ともべ)
品部というのは農民以外の隷属労働者たちの総称。
それぞれの技能にあわせた部に別れていた。
宮廷官的・・・・・・馬飼部(うまかいべ)、史部(ふひとべ)
生産に携わる・・・鍛冶部(かぬちべ)、錦織部(にしごりべ)、陶部(すえつくりべ)など。
子代(こしろ)、名代(なしろ)、
伴造に統括される一種の品部であるが、特に王家・王族の所有である点が特徴である。
舎人(とねり)・靫負(ゆげい)・膳夫(かしわで)などとして奉仕する
刑部(おさかべ)・額田部(ぬかたべ)など、王(宮)名のついた部のこと。
田部(たべ)
大和朝廷の直轄地のことを屯倉(みやけ)といい、そこを耕作する農民。
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姓(かばね) |
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大和朝廷から諸豪族に与えられた政治的地位や家柄を表す称号で、天皇家を中心とする身分秩序を示すもの。
500年代初頭頃から使用され始めた。
姓は世襲制で、中央豪族には臣や連、地方豪族には君や直などが与えられていた。
また、特に有力な豪族には、大臣(おおおみ)、大連(おおむらじ)といった姓が与えられ、中央の政治に参加することができた
臣(おみ)
天皇家から分かれたという皇別氏族の姓。
ヤマト(奈良盆地周辺)の地名を氏(ウヂ)の名とし、かつては王家と並ぶ立場にあり、ヤマト王権においても最高の地位を占めた豪族である。
葛城氏(かつらぎ)、平群氏(へぐり)、巨勢氏(こせ)、春日氏(かすが)、蘇我氏(そが)
大臣(おおおみ)
臣のうち、蘇我氏ら最有力者が任じられた姓。
連(むらじ)
天皇家とは祖先の違う神別氏族の姓。ヤマト王権での職務を氏(ウヂ)の名とし、王家に従属する官人としての立場にあり、ヤマト王権の成立に重要な役割をはたした豪族。
大伴氏、物部氏、中臣氏(なかとみ)、忌部氏(いんべ)、土師氏(はじ)
大連(おおむらじ)
連のうち、大伴氏や物部氏などの有力者が任じられた姓。
君(きみ)
天皇家から分かれた地方有力豪族に与えられた姓。
伴造(とものみやつこ)
連(むらじ)とも重なり合うが、おもにそのもとでヤマト王権の各部司を分掌した豪族である。
秦氏(はた)、東漢氏(やまとのあや)、西文氏(かわちのあや)・・・帰化氏族
弓削氏(ゆげ)、矢集氏(やずめ)、服部氏(はとり)、犬養氏(いぬかい)、舂米氏(つきしね)
倭文氏(しとり)などの。
伴造氏族の成立は、雄略朝において認められる。
中央伴造、地方伴造の概念がある。
直(あたい)
5~6世紀に服属した国造に対して統一的に与えられた姓。
百八十部(ももあまりやそのとも)
さらにその下位にあり、部(べ)を直接に指揮する多くの伴(とも)をさす。
首(おびと)・・・・地方の伴造や渡来人の子孫など、地方村落の首長に与えられた姓。
史(ふひと)・・・・渡来人の子孫で、文筆の職能に優れた氏族に与えらた姓。
村主(すくり)・・・渡来人の子孫に与えらた姓。
勝(すくり)
国造(くにのみやつこ)
代表的な地方豪族をさす。
一面ではヤマト王権の地方官に組みこまれ、また在地の部民(べみん)を率(ひき)いる地方的伴造の地位にある者もあった。
国造には、君(きみ)、直(あたい)の姓(カバネ)が多く、中には臣(おみ)を称するものもあった。
県主(あがたぬし)
国造より古く、かつ小範囲の族長をさすものと思われる。
いずれも地名を氏(ウヂ)の名とする。
稲置(いなぎ)
律令制や大化の改新以前の古代の日本にあったとされる地方行政単位、県 (こおり) を治める首長。
684年 (天武天皇13年) に制定された八色の姓の制度で定められた姓 (かばね)で最下位の姓。
実際には一度たりとも賜姓されなかった。
このように、氏姓制度とは、連―伴造―伴(百八十部)という、王のもとでヤマト王権を構成し、職務を分掌し世襲する、いわゆる「負名氏」(なおいのうじ)を主体として生まれた。
そののち、臣のように、元々は王とならぶ地位にあった豪族にも及んだ。
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大化改新以後の氏族制度 |
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645年 大化の改新
氏姓制度による臣・連・伴造・国造を律令国家の官僚に再編。
部民を廃止し、公民として一律に国家のもとに帰属させた。
664年 甲子(かつし)の宣
給与制度の改革。
大化以来の官位を改め、大氏(おおうじ)、小氏(こうじ)、伴造氏(とものみやつこうじ)を定め、それぞれの氏上(うじのかみ)と、それに属する氏人(うじびと)の範囲を明確にしようとするものであった。
つまり、官位の改定によって、大錦位(大氏)・小錦位(小氏)、つまり律令の四、五位以上に位置づけられる氏上をもつ氏を定めたものであり、これによって朝廷内の官位制度と全国の氏姓制度とを連動させようとした。さらにこのような氏上に属する氏人を父系による直系親族に限ることとし、従来の父系あるいは母系の原理による漠然とした氏の範囲を限定することとした。
これにより、物部弓削(もののべゆげ)、阿倍布勢(あべのふせ)、蘇我石川(そがのいしかわ)などの複姓は、これ以後原則として消滅することとなる。
670年 庚午年籍
一般の公民については、670年(天智9)の庚午年籍、690年(持統4)の庚寅年籍によって、すべて戸籍に登載されることとなり、部姓を主とする氏姓制度が完成されることとなった。
684年 八色の姓
真人(まひと) 朝臣(あそみ・あそん) 宿禰(すくね) 忌寸(いみき)道師(みちのし) 臣(おみ) 連(むらじ) 稲置(いなぎ)の八つの姓の制度のこと。
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大宝律令以前の地方官制 |
概要 |
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地方の行政組織は大宝律令によってほぼ整備されるが、それ以前にも朝廷が何らかの形で地方行政を掌握していた。
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県(あがた)・・・・古墳時代前期:成務朝の頃? |
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初期ヤマト政権において、服属させた周辺の豪族を県主として把握し、県主によって支配される領域を県と呼んでいたことを伝えていると考えられる。
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屯倉(みやけ)・・・・古墳時代中期:27代安閑朝の頃? |
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屯倉の大量設置・
この屯倉がある程度発達・広域展開した段階で、屯倉を拠点として、直接的に地方を把握・管轄した単位が評(コホリ)であり、のちに律令制における郡(コホリ)へと発展していったと考えられている。
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評(こおり)・・・・大化改新以後(650年頃) |
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国造のクニを廃止し、評(こおり)とする。
今まであった国(くに)、郡(こおり)、県(あがた)、県あるいは評(こおり)などを整理し、令制国とそれに付随する郡に整備しなおした(国郡制度)。国郡制度に関しては、旧来の豪族の勢力圏であった国や県(あがた)などを整備し直し、現在の令制国の姿に整えられていった。
実際にこの変化が始まるのは改新の詔から出されてから数年後であった。
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五畿七道・・・・40代天武朝? |
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全国を、都(平城京・平安京)周辺を畿内五国、それ以外の地域をそれぞれ七道に区分した。
その下に66国と壱岐(いき)嶋、対馬(つしま)嶋が置かれた。
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郡(こおり)・・・・大宝律令以後 |
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国、郡、里を置く。
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大宝律令以前の法令等 |
冠位十二階(603年) (かんいじゅうにかい) |
概要 |
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冠位十二階は、推古11年(603年)12月5日に定められた位階制度。
豪族を序列化し、また氏や姓にとらわれることなく優秀な人材を登用することを目指した。
また官位の任命を天皇が行うことにより、豪族に対する天皇の権威向上を図った。
これによって氏姓制度は崩壊をはじめ、合議制から中央集権制への移行の萌芽となる。
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位階と冠の色 |
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12の位階の冠の色は次のようなものであった可能性が高いと推定されている。 |
大徳 (だいとく) (濃紫) |
小徳 (しょうとく) (薄紫) |
大仁 (だいにん) (濃青) |
小仁 (しょうにん) (薄青) |
大礼 (だいらい) (濃赤) |
小礼 (しょうらい) (薄赤) |
大信 (だいしん) (濃黄) |
小信 (しょうしん) (薄黄) |
大義 (だいぎ) (濃白) |
小義 (しょうぎ) (薄白) |
大智 (だいち) (濃黒) |
小智 (しょうち) (薄黒) |
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十七条憲法(604年) (じゅうしちじょうけんぽう) |
概要 |
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十七条憲法とは、推古天皇12年(604年)4月3日に「夏四月 丙寅朔戊辰 皇太子親肇作憲法十七條」と記述されている17条からなる条文である。
官僚や貴族に対する道徳的な規範を示したものであり、今日の国家公務員法、地方公務員法、国家公務員倫理法に近い性質のものと言える。
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全文 |
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『日本書紀』第二十二巻 豊御食炊屋姫天皇 推古天皇十二年
夏四月の丙寅の朔戊辰の日に、皇太子、親ら肇めて憲法十七條(いつくしきのりとをあまりななをち)作る。
一に曰く、和(やわらぎ)を以(もち)て貴(たふと)しと為し(なし)、忤(さか)ふること無きを宗とせよ。
人皆党有り、(略)
二に曰く、篤(あつ)く三宝を敬へ。三宝はとは仏(ほとけ)・法(のり)・僧(ほうし)なり。
則ち四生の終帰、万国の禁宗なり。
はなはだ悪しきもの少なし。
よく教えうるをもって従う。
それ三宝に帰りまつらずば、何をもってか柱かる直さん。
三に曰く、詔を承りては必ず謹(つつし)め、君をば天(あめ)とす、臣をば地(つち)とす。天覆い、地載せて、四の時順り行き、万気通ずるを得るなり。
地天を覆わんと欲せば、則ち壊るることを致さんのみ。こころもって君言えば臣承(うけたま)わり、上行けば下…(略)
四に曰く、群臣百寮、礼を以て本とせよ。
其れ民を治むるが本、必ず礼にあり。
上礼なきときは、下斉(ととのは)ず。下礼無きときは、必ず罪有り。
ここをもって群臣礼あれば位次乱れず、百姓礼あれば、国家自(みず)から治まる。
五に曰く、饗を絶ち欲することを棄て、明に訴訟を弁(さだ)めよ。(略)
六に曰く、悪しきを懲らし善(ほまれ)を勧むるは、古の良き典(のり)なり。(略)
七に曰く、人各(おのおの)任(よさ)有り。(略)
八に曰く、群卿百寮、早朝晏(おそく)退でよ。(略)
九に曰く、信は是義の本なり。(略)
十に曰く、忿(こころのいかり)を絶ちて、瞋(おもてのいかり)を棄(す)て、人の違うことを怒らざれ。人皆心あり。
心おのおのの執れることあり。
かれ是とすれば、われ非とす。われ是とすれば、かれ非とす。われ必ずしも聖にあらず。(略)
十一に曰く、功と過(あやまち)を明らかに察(み)て、賞罰を必ず当てよ。(略)
十二に曰く、国司(くにのみこともち)・国造(くにのみやつこ)、百姓(おおみたから)に収斂()することなかれ。
国に二君非(な)く、民に両主無し、率土(くにのうち)の兆民(おおみたから)、王(きみ)を以て主と為す。(略)
十三に曰く、諸の官に任せる者は、同じく職掌を知れ。(略)
十四に曰く、群臣百寮、嫉み妬むこと有ること無かれ。(略)
十五に曰く、私を背きて公に向くは、是臣が道なり。(略)
十六に曰く、民を使うに時を以てするは、古の良き典なり。(略)
十七に曰く、夫れ事独り断むべからず。
必ず衆(もろもろ)とともに宜しく論(あげつら)ふべし。(略)
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良賤の法(645年) |
良賤制 |
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国民を良民と賤民とに大別する良賤制を採用した。
良民
官人、公民、品部(しなべ、又はともべ)、雑戸(ざっこ)
賤民
陵戸(りょうこ)、官戸(かんこ)、家人(けにん)、官奴婢(くぬひ)、私奴婢(しぬひ)
賤民は衣服により色分けされていたので五色の賤と呼ばれる。
陵戸は養老律令施行によって賤民となったため結婚以外は良民と同等であった。
官戸は犯罪行為の罰として賤民に落とされた身分で口分田等は良民と同等、76歳になれば良民に復帰できた。
家人は待遇としては私奴婢と同等であるが売買は禁止され仕事に制限があった。
官奴婢には古来からのものと犯罪によって落とされた二種類があり、それぞれ60歳・76歳で良民に復帰できた。
官奴婢の場合、戸は形成されない。
私奴婢は良民の3分の一の口分田が班給され売買・相続された。
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賤民の生業 |
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陵戸は天皇や皇族の陵墓の守衛
官戸と官奴婢は官田の耕作
家人と私奴婢は私家の雑用に従事した。
陵戸は諸陵寮(諸陵司)、官戸と官奴婢は官奴司のちに主殿寮が管轄した。
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賤民の社会的地位 |
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官奴婢や私奴婢は、売買や質入の対象となるなど、非人道的な扱いを受けた。
だが、一定の年齢に達すれば上の階層に上がる事ができる制度などもあり、穢れなどを理由に武士、百姓、町人などと隔絶した一種の身分外身分と言える扱いを受けた江戸時代の被差別民の身分ほど固定されたものではなかった。
一方、奴婢は自らの公認された自立的な共同体を持たず、個人別に良民や朝廷の所有物とされるなど、穢多頭に統率されるなどの形で一定の権利保障の基盤になる共同体組織の保持を保証された江戸時代の被差別民と比べると、権利保障の基盤は脆弱であったとも言える。
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制度の崩壊 |
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朝廷が班田制と戸籍制度を基礎にした人民の人別支配を放棄し、名田経営を請け負う田堵負名を通じた間接支配への移行により律令制が解体していく過程で、この身分制も次第に有名無実化した。
良賤間の通婚も次第に黙認されるようになり、中には賤民と結婚して租税を免れようとする者も現れた。
789年には良賤間の通婚でできた子は良民とされる事になり、907年には奴婢制度が廃止された。
これには、9世紀末の寛平年間に既に廃止されていたとする見解も存在する)よって、古代の賎民と中世以降の被差別民、さらに近代以降被差別部落と呼ばれるようになった江戸時代の被差別民共同体との歴史的連続性はなく、性質の異なる起源を有したと考えられる。
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改新の詔(646年1月) |
概要 |
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大化の改新において、新たな施政方針を示すために発せられた詔である。
これにより、公地公民制、租庸調の税制、班田収授法などが確立したと考えられている。
また、掲載されている文自体は大化当時の詔が改変されたものとの見方もある。
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主文 |
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罷昔在天皇等所立子代之民処々屯倉及臣連伴造国造村首所有する部曲之民処々田荘。
従前の天皇等が立てた子代の民と各地の屯倉、そして臣・連・伴造・国造・村首の所有する部曲の民と各地の田荘は、これを廃止する。
初修京師置畿内国司郡司関塞斥候防人駅馬伝馬及造鈴契定山河。
初めて京師を定め、畿内・国司・郡司・関塞・斥候・防人・駅馬・伝馬の制度を設置し、駅鈴・契を作成し、国郡の境界を設定することとする。
初造戸籍計帳班田収授之法。
初めて戸籍・計帳・班田収授法を策定することとする。
罷旧賦役而行田之調。
旧来の税制・労役を廃止して、新たな租税制度(田の調)を策定することとする。
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各条 |
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第1条
天皇・王族や豪族たちによる土地・人民の所有を廃止するものである。
それまで、国内の土地・人民は天皇・王族・豪族が各自で私的に所有・支配しており、天皇・王族の所有地は屯倉、支配民は名代・子代と呼ばれ、豪族の所有地は田荘、支配民は部曲と呼ばれていた。
第2条
政治の中枢となる首都の設置、畿内・国・郡といった地方行政組織の整備とその境界画定、中央と地方を結ぶ駅伝制の確立などについて定めるものである。
第3条
戸籍・計帳という人民支配方式と、班田収授法という土地制度について定めている
。しかし、戸籍・計帳・班田収授といった語は、後の大宝令の潤色を受けたものである。
また、全国的な戸籍の作成は、20数年経過した後の庚午年籍(670年)がようやく最初である。これらのことから、大化当時に戸籍・計帳の作成や班田収授法の施行は実施されなかったが、何らかの人民把握(戸口調査など)が実施されただろうと考えられている。
第4条
新しい税制の方向性を示す条文である。ここに示される田の調とは、田地面積に応じて賦課される租税であり、後の律令制における田租の前身に当たるものと見られている。
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改革の概要 |
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詔として出された上記の四条を元に、政治制度の改新が行われた。
それまでの豪族の私地(田荘)や私民(部民)を公収して田地や民はすべて天皇のものとする。
(公地公民制)
今まであった国(くに)、郡(こおり)、県(あがた)、県(こおり)などを整理し、令制国とそれに付随する郡に整備しなおした(国郡制度)。
国郡制度に関しては、旧来の豪族の勢力圏であった国や県(あがた)などを整備し直し、現在の令制国の姿に整えられていった。
実際にこの変化が始まるのは詔から出されてから数年後であった。
戸籍と計帳を作成し、公地を公民に貸し与える。(班田収授の法)
公民に税や労役を負担させる制度の改革。(租・庸・調)
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改革されたその他の制度 |
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薄葬令
今まで自由に作れた陵墓を身分に合わせて作ることの出来る陵墓を規定し直した。殉死の禁止や、天皇の陵にかける時間を7日以内に制限するなど、さまざまな制限が加えられた。
この薄葬令によって古墳時代は事実上終わりを告げる。
伴造、品部の廃止と八省百官の制定
従来の世襲制の役職であった、伴造、品部(しなべ、しなじなのとものお)を廃止し、特定の氏族が特定の役職を世襲する制度を廃止した。
(たとえば、物部氏であれば、軍事を司り、中臣氏であれば祭祀を司る)
これと八省百官の制定によって官僚制への移行が行われた。
(しかし祭祀などの面では、中臣氏がこれを行うと言う様に世襲制が残った役職もあった様である)
大臣(おおおみ)、大連(おおむらじ)の廃止
大臣・大連は、廃止になり、代わりに太政官が置かれ、左大臣・右大臣に置き換わった。大臣は臣の姓(かばね)から、大連は連の姓から出されることに成っていたが、左大臣・右大臣(後に付け加わる太政大臣)などでは、臣・連の制約が無くなった
冠位制度の改訂
聖徳太子の制定した冠位十二階を改定した。
大化3年(647年)冠位十三階→大化5年(649年)十九階→天智3年(664年)二十六階へと改めた。
これは従来、冠位十二階に含まれなかった、大臣・大連などを輩出する有力氏族を冠位制度へ組み込み、天皇を頂点とした序列をつける為の改革だと思われる。
冠位の数が年々増加していったのは、官僚制への切り替えにより下級官僚に与える冠位が不足したからと推測できる
礼法の策定
職位に応じた冠、衣服、礼儀作法を制定した。冠位により身につけることの出来る衣服や礼法が決められた。冠位の無い良民は白い衣を身につける事とされ、これは白丁(はくてい)と呼ばれた。
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近江令(668年) |
概要 |
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日本の飛鳥時代(天智天皇の治世)に制定されたとされる法令体系。
全22巻。
古代日本政府による最初の律令法典に位置づけられるが、原本は現存せず、存在を裏付ける史料にとぼしいことから、存在説と非存在説の間で激しい論争が続いている。
両説とも、律が制定されなかったという点では、ほぼ見解が一致している。
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庚午年籍(670年)(こうごのねんじゃく) |
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日本で最初の全国的な戸籍。
現存しておらず、全国的に全ての階層の人民を対象にして造籍したのかどうかも疑われている。
『日本書紀』には670年(天智9)二月条に「戸籍を造り、盗賊と浮浪とを断ず」とみえる。畿内はもちろん、西は九州から東は常陸・上野(こうづけ)まで造籍の実施されたことを示す。氏姓を確定する台帳の機能を果たしたものと思われる。
647年(大化3)から664年(天智3)までの間に一括投棄された飛鳥京の木簡に「白髪部五十戸、◎十口」とある。◎は五と思われる。五十戸を単位として行政的に把握する試みが進められていたことを示している。この統一的造籍・行政的村落把握を実施するには、体系的な法が必要である。弘仁格式序に「天智天皇元年に至り、令二十二巻を制す、世人所謂近江朝廷之令也」と伝えるが、近江令は存在しなかったとみられている。
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飛鳥浄御原令(689年) (あすかきよみはらりょう) |
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飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)
日本の飛鳥時代後期に制定された体系的な法典。令22巻。
律令のうち令のみが制定・施行されたものである。
日本史上、最初の体系的な律令法と考えられているが、現存しておらず、詳細は不明な部分が多い。
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八色の姓(684年) |
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八色の姓(やくさのかばね)
天武天皇が684年(天武13)に新たに制定した八つの姓の制度のこと。
真人(まひと) 朝臣(あそみ・あそん) 宿禰(すくね) 忌寸(いみき)道師(みちのし) 臣(おみ) 連(むらじ) 稲置(いなぎ)
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大宝律令以後 |
大宝律令 |
大宝律令(たいほうりつりょうとは) |
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701年に制定された日本の律令である。「律」6巻、「令」11巻の全17巻よりなる。
唐の永徽律令(えいきりつれい、651年制定)を参考にしたと考えられている。
大宝律令は、日本史上初めて律と令がそろって成立した本格的な律令である。
律=刑法にあたる。
令=行政法および民法などにあたる。
律令選定に携わったのは、刑部親王・藤原不比等・粟田真人・下毛野古麻呂らである。
大宝律令の原文は現存しておらず、一部が逸文として、令集解古記などの他文献に残存している。
757年に施行された養老律令はおおむね大宝律令を継承しているとされており、養老律令を元にして大宝律令の復元が行われている。
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成立経緯 |
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681年
天武天皇により律令制定を命ずる詔が発令された。
689年(持統3年6月)
飛鳥浄御原令が頒布・制定された。
ただし、この令は先駆的な律令法であり、律を伴っておらず、また日本の国情に適合しない部分も多くあった。
700年(文武4年)
令がほぼ完成し、残った律の条文作成が行われた。
701年(大宝元年)
8月3日
大宝律令として完成した。
8月8日
大宝律令を全国一律に施行するため、朝廷は明法博士を西海道以外の6道に派遣して、新令を講義させた。
702年(大宝2年)
文武天皇は大宝律を諸国へ頒布し、10月14日には大宝律令を諸国に頒布した。
大宝律令において初めて日本の国号が定められたとする説も唱えられている。
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意義と内容 |
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中央集権統治体制の成立
この律令の制定によって、天皇を中心とし、二官八省(太政官・神祇官の二官、中務省・式部省・治部省・民部省・大蔵省・刑部省・宮内省・兵部省の八省)の官僚機構を骨格に据えた本格的な中央集権統治体制が成立した。
役所で取り扱う文書には元号を使うこと、印鑑を押すこと、定められた形式に従って作成された文書以外は受理しないこと等々の、文書と手続きの形式を重視した文書主義が導入された。
地方官制
国・郡・里などの単位が定められ、中央政府から派遣される国司には多大な権限を与える一方、地方豪族がその職を占めていた郡司にも一定の権限が認められていた。
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復元大宝令 |
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大宝令と養老令の編目の順序は異なっていたと考えられているが、大宝令の編目順序は明らかでない。
以下は復元の例である。
1:官位令 2:官員令(養老令では職員令) 3:後宮官員令(養老令では後宮職員令)
4:東宮家令官員令(養老令では東宮職員令・家令職員令) 5:神祇令
6:僧尼令 7:戸令 8:田令 9:賦役令 10:学令 11:選任令(養老令では選叙令)
12:継嗣令 13:考仕令(養老令では考課令) 14:禄令
15:軍防令(養老令では宮衛令・軍防令) 16:儀制令 17:衣服令 18:公式令
19:医疾令 20:営繕令 21:関市令 22:倉庫令 23:厩牧令 24:仮寧令
25:喪葬令 26:捕亡令 27:獄令 28:雑令
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養老律令 |
養老律令(ようろうりつりょう)とは |
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757年(天平宝字元年)に施行された基本法令。
大宝律令に続く律令として施行され、古代日本の政治体制を規定する根本法令として機能した。
しかし、平安時代に入ると現実の社会・経済状況と齟齬をきたし始めた。
その後、格式の制定などによってこれを補ってきたが、遅くとも平安中期までにほとんど形骸化した。
廃止法令は特に出されず、形式的には明治維新期まで存続した。
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成立経緯 |
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701年(大宝元年)
藤原不比等らによる編纂によって大宝律令が成立。
その後も不比等らは、日本の国情により適合した内容とするために、律令の撰修(改修)作業を継続していた。
720年(養老4年)
不比等の死により律令撰修はいったん停止することとなった。
757年5月
藤原仲麻呂の主導によって720年に撰修が中断していた新律令が施行されることとなった。
これが養老律令である。
旧大宝律令と新養老律令では、一部(戸令など)に重要な改正もあったものの、全般的に大きな差異はなく、語句や表現、法令不備の修正が主な相違点であった。
桓武天皇の時代
養老律令の修正・追加を目的とした刪定律令(24条)・刪定令格(45条)の制定が行われたが短期間で廃止となり、以後日本において律令が編纂されることはなかった。
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構成 |
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律10巻12編、令10巻30編
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参考資料 |
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