物部氏について |
概要 |
|
概説
河内国の哮峰(現・大阪府交野市か)に天皇家よりも前に天孫降臨したとされるニギハヤヒノミコトを祖先と伝えられる氏族。
元々は兵器の製造・管理を主に管掌していたが、しだいに大伴氏とならぶ有力軍事氏族へと成長していった。
五世紀代の皇位継承争いにおいて軍事的な活躍を見せ、雄略朝には最高執政官を輩出するようになった。
本貫地
河内国渋川郡(現・大阪府東大阪市衣摺)
氏姓
連の姓(かばね)、八色の姓の改革の時に朝臣姓を賜る。
|
事績 |
|
上古
継体期
九州北部で起こった磐井の乱の鎮圧を命じられたのが物部氏だった。
これを鎮圧した物部麁鹿火(あらかい)は宣化天皇の元年の7月に死去している。
欽明期
物部尾輿(もののべのおこし、生没年不詳)が大連(おおむらじ)になった。
欽明天皇の時代百済から仏像が贈られた。
これの扱いを巡り、蘇我稲目(大臣)を中心とする崇仏派と物部尾興、中臣鎌子を中心とする排仏派が争った。
ただし、近年では物部氏の居住跡から氏寺(渋川廃寺)の遺構などが発見され、物部氏を単純な廃仏派として分類することは難しく、個々の氏族の崇拝の問題でなく、国家祭祀の対立であったとする見方もある。
敏達・用明期
稲目・尾興の死後は蘇我馬子、物部守屋(もののべのもりや)に代替わりした。
572年
敏達天皇の即位に伴い、守屋は大連に任じられた。
守屋は蘇我氏の寺を襲い、仏像は川に投げ入れ、寺は焼くということをしてしまった。そして3人の尼を鞭で打った。
587年4月
しかし、それ以後疫病が流行し用明天皇が崩御した。
推古期
これにより皇后や皇子を支持基盤にもつ蘇我氏が有利になり、また天皇が生前、「仏教を敬うように」といった詔があったこともあり、先代の敏達天皇の皇后(用明天皇の姉。後の推古天皇)の命により蘇我氏及び連合軍は物部守屋に攻め込んだ。
587年7月
物部守屋は有利であったが守屋は河内国渋川郡(現・大阪府東大阪市衣摺)の本拠地で戦死した。
持統期
686年(朱鳥元年)
この頃までに物部氏から改めた石上氏(いそのかみうじ)が本宗家の地位を得た。
同氏は守屋の兄の子孫であると称している。
708年(和銅元年)
雄略朝の大連・物部目の後裔を称する石上朝臣麻呂には朝臣の姓が与えられて左大臣になった。
その死にあたっては廃朝の上、従一位を贈られた。
息子の石上朝臣乙麻呂は孝謙天皇の時代に中納言、乙麻呂の息子の石上朝臣宅嗣は桓武天皇の時代に大納言にまで昇った。
また宅嗣は、日本初の公開図書館・芸亭の創設者としても歴史に名を残している。
石上氏は宅嗣の死後、9世紀前半ころに衰退。
|
物部氏と石川(いそのかみ)神宮 |
|
|
地方の物部氏 |
|
物部氏の特徴のひとつに広範な地方分布が挙げられ、無姓の物部氏も含めるとその例は枚挙に遑がない。
石上氏等中央の物部氏族とは別に、古代東北地方などに物部氏を名乗る人物が地方官に任ぜられている記録がある。
出羽物部氏
所謂「古史古伝」のひとつである物部文書に拠ると出羽物部氏は物部守屋の子孫と称し、扶桑略記、陸奥話記などには物部長頼が陸奥大目となったことが記載されている。
しかし、出羽物部氏が本当に守屋の子孫かどうか確実な証拠はない。
六国史に散見する俘囚への賜姓例の中には、吉弥候氏が物部斯波連を賜ったという記録も見える。
下総国物部氏
また、下総国匝瑳郡に本拠を持つ物部匝瑳連の祖先伝承に、布都久留 の子で木蓮子の弟の物部小事が坂東に進出したというものがある。
これについては常陸国信太郡との関連を指摘する説があり、香取神宮と物部氏の関連も指摘されている。
尾張国
古代尾張の東部に物部氏の集落があり、現在は物部神社と、武器庫であったと伝えられる高牟神社が残っている。
石見国
石見国の一の宮「物部神社」(島根県大田市)は、部民設置地説以外に出雲勢力に対する鎮めとして創建されたとする説もあり、社家の金子家は「石見国造」と呼ばれ、この地の物部氏の長とされた。
戦前は社家華族として男爵に列している。
|
物部氏系譜 |
|
|
物部氏系譜
直系 |
傍系1 |
傍系2 |
配偶者と
その出自
|
兄弟姉妹
|
同時代
の人物 |
備考
|
|
-5 |
天照大神
アマテラス |
|
|
|
|
|
|
-4 |
天忍穂耳命
アメノオシホミミ |
|
|
|
|
|
天忍穂耳命=出雲氏の始祖 |
↓ |
始祖 |
饒速日命
ニギハヤヒ |
|
|
御炊屋姫
長髄彦の妹 |
兄=瓊瓊杵尊?
ニニギ |
瓊瓊杵?
初 :神武 |
饒速日命の出自に関しては諸説あり。
|
1 |
宇麻志麻治命
ウマシマジ |
|
|
|
天香語山 |
|
天香語山=尾張氏の始祖 |
2 |
彦湯支命
ヒコユギ |
|
|
|
|
|
|
3 |
意冨祢命
オホネ |
|
|
|
|
|
|
4 |
出石心大臣命
イズシココロノオミ
|
|
|
|
大禰命
出雲醜大臣命
|
|
|
5 |
大矢口宿禰
オオヤクチ |
|
|
|
大水口宿禰
|
|
|
6 |
大綜杵宿禰
オオヘソキ |
|
|
|
欝色雄命
欝色謎命 |
7:孝霊
8:孝元 |
|
7 |
伊香色雄命
イカガシコオ |
|
|
|
伊香色謎命
|
9:開化
10:崇神 |
開化、崇神天皇の大臣 |
8 |
物部十千根
トヲチネ |
|
|
|
武牟口命 |
11:垂仁 |
垂仁87年
石上の神宝を物部十千根大連が掌る。 |
9 |
物部胆咋
イグイ |
|
|
|
|
|
|
10 |
物部五十琴
イコト |
|
|
|
|
|
|
11 |
物部伊莒弗
イコフツ |
|
|
|
|
17:履中 |
履中2年
平群木莵宿禰と蘇賀満智宿禰と
物部伊コ弗大連と円大使主が
国事を執行した |
12 |
物部布都久留
フツクル |
物部 目
|
|
|
|
2::安康 |
安康3年
物部目が大連となった。 |
13 |
物部木蓮子
イタビ |
物部荒山
|
|
|
|
|
|
14 |
物部麻佐良
マサラ |
物部尾輿
オコシ |
|
|
|
安閑
欽明 |
尾輿
安閑・欽明両天皇の頃の大連。
金村を政界から引退させた。 |
15 |
物部麁鹿火
アラカビ |
物部御狩
|
物部守屋
モリヤ |
|
|
25:武烈
26:継体 |
麁鹿火
武烈、継体天皇の大連。筑紫国造磐井の征討将軍に就任。
守屋
蘇我馬子との戦いで死去。 |
16 |
|
物部 目
|
|
|
|
|
|
17 |
|
物部宇麻呂
|
|
|
|
|
|
18 |
|
石上麻呂
|
|
|
|
|
686年までに物部氏から石上氏へ改名。 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
後裔氏族 |
天照国照櫛御魂饒速日命
↓ ↓
天香語山 宇麻志麻治命
↓ ↓
尾張氏へ 物部氏
↓
↓→熊野氏
↓→穂積氏、伊福部氏
↓→越智氏、氷川神社神主家、石見国造
↓→采女氏、弓削氏
↓
石上氏
|
物部氏の人物 |
物部尾輿 |
|
概説
安閑・欽明両天皇の頃の大連。
事績
531年(安閑元年)
廬城部枳莒喩(いおきべのきこゆ)の娘が尾輿の首飾りを盗み、皇后春日山田皇女に献上した事件が発覚し、この事件とのかかわりを恐れた尾輿は、皇后に配下の部民を献上した。
欽明天皇が即位した際に、大連に再任されている。
539年(欽明元年)
大伴金村が任那4郡を百済に割譲したことを非難し、金村を政界から引退させた。
551年(欽明13年)
百済の聖明王から仏像や経典などが献上された時(仏教公伝)には、中臣鎌子とともに廃仏を主張し、崇仏派の蘇我稲目と対立した。
|
物部守屋 |
|
概説
生年不詳 - 587年(用明2年)
飛鳥時代の大連(有力豪族)。物部尾輿の子。母は弓削氏の女阿佐姫。
事績
572年(敏達元年)
敏達天皇の即位に伴い、守屋は大連に任じられた。
585年(敏達14年)
病になった大臣・蘇我馬子は敏達天皇に奏上して仏法を信奉する許可を求めた。
天皇はこれを許可したが、この頃から疫病が流行しだした。
物部守屋と中臣勝海は蕃神(異国の神)を信奉したために疫病が起きたと奏上し、これの禁止を求めた。
天皇は仏法を止めるよう詔した。守屋は自ら寺に赴き、仏塔を破壊し、仏殿を焼き、仏像を海に投げ込ませた。
馬子や司馬達等(しばのたちと)ら仏法信者を面罵した上で、3人の尼を捕らえ、鞭打った。
疫病は更にはげしくなり、天皇も病に伏した。
ほどなくして、天皇は崩御した。
585年
用明天皇(欽明天皇の子、母は馬子の妹)が即位。
586年(用明元年)
穴穂部皇子は炊屋姫(敏達天皇の后)を犯そうと欲して殯宮に押し入ろうとしたが、三輪逆(みわのさかう)に阻まれた。
怨んだ穴穂部皇子は守屋に命じて三輪逆を殺させた。
587年(用明2年)
4月2日
用明天皇は病になり、三宝(仏法)を信奉したいと欲し、群臣に議するよう詔した。
守屋と中臣勝海は反対した。
馬子は穴穂部皇子に豊国法師をつれて来させた。
守屋は大いに怒り、別業のある阿都(河内国)へ退き、味方を募った。
4月9日
用明天皇は崩御した。
6月7日
守屋は穴穂部皇子を皇位につけようと図ったが、、馬子は炊屋姫の詔を得て、穴穂部皇子の宮を包囲して誅殺した。
翌日、宅部皇子を誅した。
7月
馬子は群臣にはかり、守屋を滅ぼすことを決めた。
馬子は泊瀬部皇子、竹田皇子、廐戸皇子などの皇子や諸豪族の軍兵を率いて河内国渋川郡(現・大阪府東大阪市衣摺)の守屋の館へ向かった。
守屋は一族を集めて稲城を築き守りを固めた。
廐戸皇子は仏法の加護を得ようと白膠の木を切り、四天王の像をつくり、戦勝を祈願して、勝利すれば仏塔をつくり仏法の弘通に努めると誓った。
馬子は軍を立て直して進軍させた。
寄せ手は攻めかかり、守屋の子らを殺し、守屋の軍は敗北して逃げ散った。
守屋の一族は葦原に逃げ込んで、ある者は名を代え、ある者は行方知れずとなった。
廐戸皇子は摂津国(大阪府大阪市天王寺区)に四天王寺を建立した。
物部氏の領地と奴隷は両分され、半分は馬子のものになった。
馬子の妻が守屋の妹であるので物部氏の相続権があると主張したためである。
また、半分は四天王寺へ寄進された。
|
参考資料 |
|
「日本古代氏族辞典」 (雄山閣出版 1994 佐伯有清)
「古代豪族系図集覧」 (東京堂出版 1993 近藤敏喬) |
|
 |
「ファンタジ-米子・山陰の古代史」は、よなごキッズ.COMの姉妹サイトです |
 |
|