安曇氏 米子(西伯耆)・山陰の古代史
古代の海洋豪族。海人族。 (参照:皇室・有力氏族系図まとめ)
海神綿積豊玉彦命の子、宇都志金折命の後裔と伝えられ安曇部を率いて代々朝廷に奉仕した。
天武天皇13年(685)安曇宿禰を賜姓、持統天皇5年(691)に朝廷に纂記を提出した古代有力18氏の一つ。
 
安曇(あずみ)氏
概説
概要
古代日本を代表する海人族として知られる有力氏族で、安曇氏とも表記する。
阿曇族、安曇族ともいう。
安曇(あづみ)は海積(あまづみ)より生じ、海部(あまべ)の民の長の称なり。 
後世は安住氏、安積氏、阿曇氏、阿積氏、厚見氏、厚海氏、渥美氏、英積氏など多様の表記が起こる。
凡海氏は大海氏とも表記される。


本貫地
 発祥地=筑前国糟屋郡阿曇郷(現在の福岡市東部)志賀島一帯とされる。

安曇氏の移住
古くから中国や朝鮮半島とも交易などを通じて関連があったとされ、後に最初の本拠地である北九州の志賀島一帯から離れて全国に移住した。
この移住の原因として、磐井の乱や、白村江の戦いでの安曇比羅夫の戦死が関係しているとの説がある。
   対馬、伯耆、美濃、三河、阿波、淡路島、播磨、摂津、河内、近江、他

氏姓
 姓=連  その後、685年(天武13年)に安曇宿禰を賜姓




系譜
「古事記」では「阿曇連はその綿津見神の子、宇都志日金柝命の子孫なり」と記されている。
「新撰姓氏録」では「安曇連は綿津豊玉彦の子、穂高見命の後なり」と記される。

安曇氏系譜 兄弟姉妹1 兄弟姉妹2 兄弟姉妹3 備 考
 
始祖 綿積豊玉彦命 海神宮の主。初代神武天皇の外祖父。
宇都志日金折命
(穂高見命)
--豊玉毘売命 --玉依毘売命 --振魂命
  ↓   
多久置命 大倭国造へ
  ↓
穂己都久命
  ↓
摩幣区利命
  ↓
意伎布利根命
  ↓
小栲梨命
  ↓
麻曽杵命
  ↓
大栲成吹命
  ↓
百足足尼命 12代景行天皇が西国を鎮撫巡行した時の「御付人」として登場。
  ↓
10 大浜宿禰 ------ --小浜宿禰 大浜宿禰
15代応神朝に各地の海人を平定し、海部の宰(みこともち)に任命された。
  ↓        ↓
11 安曇連浜子 --前嶋子    凡海氏へ 安曇連浜子
17代履中天皇の即位前紀、淡路の野島の漁師を率いて、履中の同母弟、住吉仲皇子の叛乱に荷担。
  ↓    ↓
12 安曇氏へ   杵都久
      ↓
13   咋子
      ↓
14   鮪子--- --倉海
      ↓    ↓
15  安曇部氏へ  安曇犬飼氏

安曇氏族の系列
  阿曇連(あずみのむらじ)(または阿曇宿禰)
  海犬養連(あまのいぬかいむらじ)
  凡海連(おおしあまのむらじ)
  八木造(やぎのみやつこ)
  阿曇犬養連(あづみのいぬかいのむらじ)


安曇氏の事績
応神期
大海宿禰(おおはまのすくね)が15代応神期に各地の海人を平定し、海部の宰(みこともち)に任命された。

663年
安曇比羅夫が白村江の戦いで戦死。

691年(持統5年)
朝廷に纂記を提出。
古事記、日本書紀の編集に際し、第41代持統天皇、藤原不比等の命により、16家、2神社の家伝・系図を上進させる。
 ①神社古文書
    石上神社古文書、大神神社古文書
 ②系図
    春日氏、大伴氏、佐伯氏、雀部氏、阿部氏、膳部氏、穂積氏、采女氏
    羽田氏、巨勢氏、石川氏、平群氏、木角氏、阿積氏、藤原氏、上毛野氏

792年(延暦11年)
内膳奉膳であった阿曇宿禰継成は、高橋氏との内膳たる勢力争いに敗れ、阿曇氏は内膳たる正当性を失い、以後、中央政界からその姿を没してしまう。


安曇氏に関連した神社
志賀海(しかうみ)神社・・・・福岡県東区志賀島
概要
全国の綿津見神社の総本宮(海神の総本社)
龍の都とも呼ばれ、伊邪那岐命の禊祓によって出生した底津綿津見神(そこつわたつみのかみ)・仲津綿津見神(なかつわたつみのかみ)・表津綿津見神(うはつわたつみのかみ)の三柱(綿津見三神)を祀る。

祭神
表津綿津見神  仲津綿津見神  底津綿津見神

縁起
創建は明らかではないが、現在の志賀島北部の勝馬地区に古くは三社が建てられていた。
筑前国風土記に神功皇后が三韓征伐の際に志賀島に立ち寄ったとの記述があり、阿曇氏の祖神である阿曇磯良が舵取りを務めたとされる。

和布刈(めかり)神社・・・・福岡県北九州市門司区
祭神 比賣大神、彦火火出見尊、鵜葺草葺不合命、豊玉毘売命、安曇磯良

縁起
神功皇后が三韓出兵の際に海路の安全を願って阿曇磯良に協力を求め、磯良は熟考の上で承諾して皇后を庇護したとされる。
関門海峡に面する和布刈神社は、三韓出兵からの帰途、磯良の奇魂・幸魂を速門に鎮めたのに始まると伝えられる。

穂高(ほたか)神社
祭神
本宮:穂高見神 (別名=宇都志日金析命 うつしひかなさくのみこと)
   :綿津見神、瓊瓊杵神、天照大御神、安曇連比羅夫命、信濃中将(御伽草子のものぐさ太郎のモデルとされる)
奥宮:穂高見神

縁起
主神穂高見命は、別名宇津志日金折命(うつくしかなさくのみこと)と称し、海神の御子で神武天皇の叔父神に当たり、太古此の地に降臨して信濃国の開発に大功を樹られたと伝えられる。


安曇氏の移住
安曇族が移住した地とされる場所は、阿曇・安曇・厚見・厚海・渥美・阿積・泉・熱海・飽海などの地名として残されており、安曇が語源とされる地名は九州から瀬戸内海を経由し近畿に達し、更に三河国の渥美郡(渥美半島、古名は飽海郡)や飽海川(あくみがわ、豊川の古名)、伊豆半島の熱海、最北端となる飽海郡(あくみぐん)は出羽国北部(山形県)に達する。

この他に「志賀」や「滋賀」を志賀島由来の地名として、安曇族との関連を指摘する説がある。
また海辺に限らず、川を遡って内陸部の信濃国安曇郡(長野県安曇野市)にも名を残し、標高3190mの奥穂高岳山頂に嶺宮のある穂高神社はこの地の安曇氏が祖神を祀った古社で、中殿(主祭神)に「穂高見命」、左殿に「錦津見命」など海神を祀っている。
志賀島から全国に散った後の一族の本拠地は、この信濃の安曇郡とされる。

移住地
①筑前国
  糟屋郡志珂郷、阿曇郷、志賀海(シカノアマ)神社

②壱岐・対馬
  和多都美神社

③豊後国
  戸为山部牛の妻阿曇部馬身賣(ウマミメ)他、海部郡

④長門国
  下関市安園町富任 長門国豊浦團五十長凡海我孫2
  大津郡向津具村 八木家所有の畑地から有柄銅剣

⑤隠岐国
  海部(アマ)郡 少領外従八位下阿曇三雄、海部郷

⑥伯耆国
  會見(アツミ)郡 安曇郷
  西伯郡宇田川村 和名抄に安曇郷記載、石剣出土

⑦出雲国
  簸川郡大社町杵築に海部が居住していた、銅戈が出土

⑧丹後国
  熊野郡湊村函石濱 和名抄に安曇郷記載、石剣出土
  與謝郡日置村 海部氏が奉斉する籠神社、石剣出土

⑨播磨国
  揖保郡浦上里、石海 安曇連百足

⑩讃岐国
  大内郡入野(ニフノ)郷 安曇茂丸戸他、讃岐是秀 安曇直眉他

⑪阿波国
  男帝の御宇に供奉する神祇官選定阿曇部、名方郡の人安曇部栗麻呂宿禰
  和多都美豊玉比賣神社、海部郡

⑫淡路国
  三原郡南方の野島は海人の本拠地、西南の方に阿萬(アマ)郷

⑬摂津国
  安曇犬養連等の地、難波津の安曇江、安曇寺

⑭河内国
  阿曇連等の地

⑮山城国
  阿曇宿禰等の地

⑯近江国
  伊香(イカコ)郡安曇郷(東北方湖辺の地であるが所在は明らかでない)

⑰美濃国
  厚見郡、厚見郷

⑱三河国
  渥美郡、渥美郷

⑲信濃国
  更科郡氷鉋、斗賣郷 氷鉋斗賣神社 、埴科郡玉依比賣命神社

⑳信濃国
  安曇郡 穂高神社 安曇部百鳥

以上の他に、肥前国、 周防国、備中国、伊予国にも安曇連、安曇部の存在があるという。



安曇氏関連の祖神、人物
阿曇磯良(あづみのいそら、安曇磯良、磯武良
概要
磯武良(いそたけら)と称されることもある。  
石清水八幡宮の縁起である『八幡愚童訓』には「安曇磯良と申す志賀海大明神」とあり、当時は志賀海神社(福岡市)の祭神であったということになる(現在は綿津見三神を祀る)。
同社は古代の創建以来、阿曇氏が祭祀を司っている。

諸説
民間伝承より
阿曇磯良(磯武良)は豊玉毘売命の子とされており、「日子波限建」(ひこなぎさたけ)と冠されることのある鵜葺草葺不合命と同神であるとする説がある(磯と渚はどちらも海岸である)。

八幡宮御縁起より
磯良は春日大社に祀られる天児屋根命と同神であるとしている。

太平記より
磯良(阿度部(あどべ)の磯良)の出現について以下のように記している。
神功皇后は三韓出兵の際に諸神を招いたが、海底に住む阿度部の磯良だけは、顔に牡蠣や鮑がついていて醜いのでそれを恥じて現れなかった。
そこで住吉神は海中に舞台を構えて磯良が好む舞を奏して誘い出すと、それに応じて磯良が現れた。
磯良は龍宮から潮を操る霊力を持つ潮盈珠・潮乾珠(日本神話の海幸山幸神話にも登場する)を借り受けて皇后に献上し、そのおかげで皇后は三韓出兵に成功したのだという。

志賀海神社の社伝より
神功皇后が三韓出兵の際に海路の安全を願って阿曇磯良に協力を求め、磯良は熟考の上で承諾して皇后を庇護したとある。
北九州市の関門海峡に面する和布刈神社は、三韓出兵からの帰途、磯良の奇魂・幸魂を速門に鎮めたのに始まると伝えられる。


安曇比羅夫(あずみのひらふ)
  概要
生没
生年不明-663年(天智2年)?

概要
7世紀中頃の外交官・武将。阿曇氏の系図には登場しない
氏は安曇氏だが安曇山背と表記されるものもある。
姓は連。名は比良夫とも書く。 

生涯
舒明期
在任中に百済に使者として派遣されていた。

641年
舒明天皇の崩御に際し、翌642年百済の弔使をともなって帰国し、その接待役を務めている。
またこのとき百済の王子翹岐(ぎょうき)を自分の家に迎えている。

661年
高句麗が唐の攻撃を受けると、百済を救援するための軍の将軍となり、百済に渡っている。

662年
日本へ渡来した百済の王子豊璋に王位を継がせようと水軍170隻を率いて王子とともに百済に渡った。
大錦中に任じられた。

663年8月27-28日
白村江の戦いで戦死したとされる。長野県安曇野市の穂高神社に安曇連比羅夫命として祀られる。
同神社のお船祭りは毎年9月27日に行われるが、これは安曇比羅夫の命日であるとされる。

安曇比羅夫に関する諸説
安曇比羅夫と阿倍比羅夫 
神功皇后は、阿曇氏の海人と同時に、阿倍氏の吾瓮海人烏摩呂(あへのあまおまろ)も新羅への偵察に出している。
また、安曇比羅夫と阿倍比羅夫(参考:阿倍氏)は名前も経歴も非常に似通っている部分が多い。

延暦11(792)内膳奉膳であった阿曇宿禰継成は、高橋氏との内膳たる勢力争いに敗れ、阿曇氏は内膳たる正当性を失い、以後、中央政界からその姿を没してしまう。
高橋氏には二つの系統がある。まず孝元天皇の皇孫大稲輿命の子磐鹿六雁命の流れで、景行天皇に新鮮な蛤のナマス料理を差し上げた。天皇はいたく喜ばれ、膳(カシワデ)の姓を賜った。
この子孫膳臣の支流が高橋氏を名乗った。
その後、朝廷の食膳を司る家柄として、本家の膳臣をしのぐ勢力となり、高橋朝臣を賜姓された。
もう一つが大和国添上郡「高橋神社」の所在地高橋邑から出た物部氏の流れで、これは地名からきている。

このように何かと接点の多い安曇氏と阿倍氏だが、結局阿倍氏の支流といわれる高橋氏によって安曇氏は中央から姿を消すことになった。

安曇比羅夫 阿倍比羅夫 
624年(推古32年)
大臣の蘇我馬子が推古天皇に葛城県の譲渡を要求し、阿倍内麻呂と阿曇連が遣され天皇へ奏上している。
推古天皇はこの要求を拒否した。
628年(推古36年)
推古天皇が崩御すると田村皇子と山背大兄王が有力な皇位継承候補となった。
大臣の蘇我蝦夷は阿倍内麻呂と議して自邸で群臣と皇位継承について諮った。
群臣の間で意見が分かれたが内麻呂は田村皇子こそが推古天皇の意中であったと主張した。蝦夷の望みも田村皇子であり、結局、田村皇子が即位した(舒明天皇)。
舒明期
在任中に百済に使者として派遣されていた。
 
641年
舒明天皇の崩御に際し、翌642年百済の弔使をともなって帰国し、その接待役を務めている。
またこのとき百済の王子翹岐(ぎょうき)を自分の家に迎えている。
  658年
水軍180隻を率いて蝦夷を討ち、さらに「粛慎」を平らげた。
粛慎は本来満州東部に住むツングース系民族を指すが、『日本書紀』がどのような意味でこの語を使用しているのか不明である。
オホーツク文化人とも取れ、沿海州にまで渡ったとも推測される。
661年
高句麗が唐の攻撃を受けると、百済を救援するための軍の将軍となり、百済に渡っている。
659年
翌年には再び蝦夷を討って、後方羊蹄(しりべし)に至り、郡領を任命して帰った。
後方羊蹄は、北海道の羊蹄山のこととも津軽ともいう。
 
662年
日本へ渡来した百済の王子豊璋に王位を継がせようと水軍170隻を率いて王子とともに百済に渡った。
大錦中に任じられた。 
662年
中大兄皇子(後の天智天皇)の命により、征新羅将軍として百済救援のために朝鮮半島に向かった。 
663年 8月27-28日
白村江の戦いで戦死したとされる。長野県安曇野市の穂高神社に安曇連比羅夫命として祀られる。
同神社のお船祭りは毎年9月27日に行われるが、これは安曇比羅夫の命日であるとされる。 
663年
新羅と唐の連合軍に大敗した(白村江の戦い)。この敗北により百済再興はならなかった。


阿曇稲敷(あづみのいなしき)
天智10年
11月、対馬沖に唐の使人、郭務?らが来訪。
12月、天皇が亡くなったので、その旨を筑紫まで知らせる朝廷の使者となっている。

天武10年(681)
川島皇子ら11人共に「帝記」及び「上古の諸事」を記す任に着く


安曇宿禰継成(あづみのすくねつぐなり)
延暦11(792)年3月18日
内膳奉膳であった継成は、高橋氏との内膳たる勢力争いに敗れ、勅命を承けず人臣の礼無しとして、絞刑に処せられるべきところを特旨をもって死一等を減ぜられ、佐渡に配流された。



安曇氏に関する諸説
米子と九州との関係
  米子市上安曇(かみあづま)・下安曇(しもあずま)
和名抄に會見郡安曇郷の記載あり、現在でもその地名が残る。
近隣には式内社宗像神社、高良神社があり、九州との関連が考えられる遺跡も散在する。
また上安曇には楽楽福神社があり、当社は鉄との関連が深い神社であることから、安曇氏と産鉄との関係も考慮できるかもしれない。

米子と九州との関係
 

参考資料
「安曇族と徐福-弥生時代を創りあげた人たち」 (龍鳳書房 2009 亀山勝)

「日本古代氏族辞典」 (雄山閣出版 1994 佐伯有清)
「古代豪族系図集覧」 (東京堂出版 1993 近藤敏喬)

「新修米子市史」  第一巻 通史編 原始・古代・中世
「新修米子市史」  第六巻 自然編
「新修米子市史」  第七巻 資料編 原始・古代・中世



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