武内宿禰尊
概要
生涯
第13代成務天皇と同年同日の生まれという。
『公卿補任』、『水鏡』は同天皇55年、『帝王編年記』所引一書は同天皇78年に薨じたといわれている。
吉田家本『延喜式神名帳』に、仁徳天皇55年、360余歳の武内宿禰が因幡国に下降し、宇部神社の鎮座地である宇倍山中腹の亀金山に双履を残して行方知れずとなったとの註があり、武内宿禰の終焉の地とされる。
年齢についても280歳・295歳・306歳・312歳・360歳などの諸説がある。

墳墓
奈良県御所市室の宮山古墳(前方後円墳・全長238m)は古来「室大墓」と称され、武内宿禰の墳墓とする伝承があるが、その子の葛城襲津彦の墓とも言われている。
その場合は宮山古墳より少し前に造られた巣山古墳が武内宿禰の墓の可能性が高くなる。
この巣山古墳の中心線は、佐紀石塚山古墳の後円部中心を通っている。
平安時代、佐紀石塚山古墳の隣りの佐紀陵山古墳を神功皇后の陵墓として祀っていたが、それが誤っていて祟りがあったとも伝えられている。それに従えば、神功皇后の真陵は佐紀石塚山古墳ということになる。


系譜
:第8代孝元天皇
     
   彦太忍信命
     
=屋主忍男武雄心命(やぬしおしおたけおこころのみこと) (古事記では比古布都押之信命を父とする)
=木国造(紀伊国造)の女・影媛
     ↓
   武内宿禰
     
     子
 ①羽田矢代宿禰(はたのやしろのすくね)
     波多臣、林臣、波美臣、星川臣、淡海臣、長谷部臣の祖

 ②巨勢小柄宿禰(こせのおからのすくね)
     巨勢臣、雀部臣、軽部臣の祖

 ③蘇我石川宿禰(そがのいしかわのすくね)
     蘇我臣、川辺臣、田中臣、高向臣、小治田臣、桜井臣、岸田臣の祖

 ④平群木菟宿禰(へぐりのつくのすくね)
     平群臣、佐和良臣、馬御織連の祖

 ⑤紀角宿禰(きのつぬのすくね)
     紀臣、都奴臣、坂本臣の祖

 ①久米能摩伊刀比売(くめのまいとひめ)

 ②怒能伊呂比売(ののいろひめ)

 ⑥葛城襲津彦(かずらきのそつびこ)
     玉手臣、的臣、生江臣、阿藝那臣の祖

 ⑦若子宿禰(わくごのすくね)
     江野財臣の祖

補足
子の順序は蘇我・石川両氏系図による。


事績
景行期
北陸・東国を視察し、蝦夷の征討を進言。

成務天皇3年(133年)
大臣となる。
神功皇后の朝鮮出兵を決定づけ、忍熊皇子らの反乱鎮圧にも功があった。

応神天皇の時
渡来人を率いて韓人池を造る。

応神天皇9年4月に、武内宿禰が弟の甘見内宿禰の讒言を受けて殺されそうになり、武内宿禰が潔白を主張したので、天皇は2人に礒城川で盟神探湯(くかたち)を行って濡れ衣を晴らした。

仁徳50年
武内宿禰が『書紀』に現われる最後。


武内宿禰に関する諸説
実在・非実在論

記紀の登場人物では最も長命の人間で、1人の人物とは考えられないため、安本美典氏は記紀に記された古代の天皇の存在そのものは信じられるが、皇位を父子で継承した事と在位年数が信頼できないという説を唱えている。
その例証のひとつとして、1代の天皇の在位年数を実際より長くしてしまったため、武内宿禰のような何代もの天皇に仕えた者の年齢が異常に長くなったとしている。

また、父子何代かが同じ名前をついだもの、あるいは個人ではなくある種の人間集団の事跡を1人の人物の事柄に仮託して描かれたものではないかとする仮説も唱えられている。


因幡国 宇部神社 社伝より
吉田家本『延喜式神名帳』に、仁徳天皇55年、360余歳の武内宿禰が因幡国に下降し、宇部神社の鎮座地である宇倍山中腹の亀金山に双履を残して行方知れずとなったとの註があり、武内宿禰の終焉の地とされる。
現在の本殿裏にも「双履石」と呼ばれる2つの石が残っているが、これは古墳の一部が露出したもので、武内宿禰に関する伝説は後世の付会であろうとされる。

また、本殿の後の丘は亀金(かめがね)と呼ばれ、古来、祭神ご昇天の霊跡であるといわれ、宿禰双履の跡と伝えられている。
先年この双履の跡の下から粘土床を有する古墳が発見された。
地下1.2mの所から竪穴式石室が発見され、古墳時代前期末から中期の円墳(もしくは前方後円墳)の1部であることが判明した。
古鏡1、管玉1、小玉1が出土した。



参考資料
「古代豪族系図集覧」 (東京堂出版 1993)


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武内宿禰尊とその後裔氏族
大和朝廷初期(景行・成務・仲哀・応神・仁徳天皇の5代の天皇の時期)に棟梁之臣・大臣として仕え、国政を補佐したとされる伝説的人物。
紀・巨勢・平群・葛城・蘇我氏などの中央諸豪族の祖とされるが詳細は不明。