藤原北家 米子(西伯耆)・山陰の古代史 
藤原北家(ふじわらほっけ)
右大臣藤原不比等の次男藤原房前(ふささき)を祖とする家系。
藤原房前の邸宅が兄の藤原武智麻呂の邸宅よりも北に位置したことがこの名の由来。 (参照:皇室・有力氏族系図まとめ)
藤原北家嫡流  (摂関家流)
概要
藤原北家は、藤原四家の中では最も遅い時期に興隆し、その結果として、藤原四家の中では最も栄えることになった。

北家始祖=房前
元正朝で他の兄弟に先んじて参議に昇進すると、後に祖父鎌足以来の内臣となり、元正天皇の側近として長屋王と政権を争った。
聖武朝になると、神亀6年(729年)長屋王の変により政権を掌握し、藤原四子政権でも中心人物として政権を主導したが、天平9年(737年)の天然痘蔓延により他の兄弟とともに病没してしまう。

奈良時代(真楯永手、魚名の時代)
その後奈良時代後期~平安時代初期にかけては、光仁朝で房前の子である永手・魚名が左大臣となるが、永手の嫡男家依は早逝し、魚名は氷上川継の乱に連座して失脚したこともあり、南家・式家に押されがちの状態にあった。

平安前期(冬嗣良房基経の時代)
しかし平城朝以後、大同2年(807年)の伊予親王の変で南家、弘仁元年(810年)の薬子の変で式家の勢力が衰えると、52代嵯峨天皇の信任を得た冬嗣が急速に台頭し他家を圧倒するようになった。
さらに、冬嗣が文徳天皇の、その子良房が清和天皇の、そしてその養子(甥)基経が朱雀天皇と村上天皇の、それぞれの外祖父となり、北家嫡流が三代にわたって外戚の地位を保ち続けたことが、同家の優位を確固たるものにした。

平安後期(道長・頼通父子の時代)

969年、安和の変で藤原北家による他氏排斥が完了すると、藤原道長・頼通父子が摂関政治の最盛期を極めた。
これが以後の、北家嫡流 = 藤氏長者 = 摂政関白、という図式を決定づけることになり、この系統による「摂関政治」が後の道長・頼通父子の時代に全盛を極める。


鎌倉時代
藤原北家の子孫は鎌倉時代に五摂家(近衛家・九条家・二条家・一条家・鷹司家)に別れたが、公家の最高家格はひきつづきこの五家が独占した。


北家嫡流系譜

天皇御代  即位年   藤原北家 備 考
   
44代 元正天皇 

45代 聖武天皇
715

724
   藤原房前       不比等の次男 藤原北家の祖(681-737)
                 
46代 孝謙天皇

47代 淳仁天皇

48代 称徳天皇
749

758

764
  藤原真楯       房前の三男
同時代の有力者は仲麻呂(恵美押勝)で、最も栄えていたのは南家であった。
                 
49代 光仁天皇

50代 桓武天皇

51代 平城天皇

52代 嵯峨天皇
770

781

806

809
3  藤原内麻呂 真楯の長男。
伯父である永手の系統に代わって北家の嫡流となる。

平城朝~嵯峨朝初期にかけては台閣の首班を務めた。

   
52代 嵯峨天皇 809 藤原冬嗣 内麻呂の次男。

   
53代 淳和天皇

54代 仁明天皇

55代 文徳天皇
823

833

850
藤原良房 冬嗣の次男

皇族以外の人臣として
初めて摂政の座に就いた。
   
56代 清和天皇

57代 陽成天皇

58代 光孝天皇

59代 宇多天皇

858

876

884

887
藤原基経 摂政であった叔父・藤原良房の養子となる。
天皇から大政を委ねられ、
日本史上初の関白に就任した。
   長男:藤原時平(871-909)
   二男:藤原仲平(875-945)
   四男:藤原忠平(880-949)
   五男:藤原良平
   女子:藤原穏子(885-954)
     醍醐天皇中宮、朱雀天皇・村上天皇の生母
      
60代 醍醐天皇

61代 朱雀天皇

62代 村上天皇
897

930

946
藤原忠平 基経の四男(880-949)
兄・時平の早世後に朝政を司り、延喜の治と呼ばれる政治改革を行った。
朱雀天皇のときに摂政、次いで関白に任じられる。
以後、村上天皇の初期まで長く政権の座にあった。
兄・時平と対立した菅原道真とは親交を持っていたとされる。
平将門は忠平の家人として仕えていた時期もあった。
   
62代 村上天皇
946
藤原師輔 忠平の次男
   
63代 冷泉天皇

64代 円融天皇

65代 花山天皇

66代 一条天皇
967

969

984

986
藤原兼家 師輔の三男。
969年、安和の変に兼家が関与していたとされる説もある。
安和の変で藤原北家による他氏排斥が完了すると、藤原道長・頼通父子が摂関政治の最盛期を極めた。
策略によって花山天皇を退位させて、娘が生んだ一条天皇を即位させて摂政となった。
梅宮祭・吉田祭・北野祭を公祭(官祭)と定めて主催の神社を国家祭祀の対象として加え後の二十二社制度の基礎をつくった。
また、高名な武士の源頼光が仕え、兼家に名馬30頭を献上をしている。
妻の一人に『蜻蛉日記』の作者・藤原道綱母がいる事でも知られている。
     
66代 一条天皇

67代 三条天皇

68代 後一条天皇
986

1011

1016
10 藤原道長 兼家の五男(四男という説もある)(966-1028)
一条天皇に長女の
彰子を入内させ皇后(号は中宮)となす。
次の三条天皇には次女の妍子を入れて中宮となす。
三条天皇とは深刻な対立を生じ天皇の眼病を理由に退位に追い込み、彰子の生んだ後一条天皇の即位を実現して摂政となる。
         
68代 後一条天皇

69代 後朱雀天皇

70代 後冷泉天皇

71代 後三条天皇

72代 白河天皇
  11 藤原頼通 道長の長男。
後朱雀天皇・後冷泉天皇の治世に渡り、関白を50年の長きに渡って務め、父道長と共に藤原氏全盛時代を築いた。
延久6年(1074年)、頼通は83歳の長寿をもって薨去したが、その後白河天皇が譲位した後に開始した院政の時代へと移っていく。
      
72代 白河天皇

73代 堀河天皇
1069 12 藤原師実 頼通の六男。
      
73代 堀河天皇 1086 13 藤原師通 (1062-1099)
堀河天皇と共に積極的な政務を展開する。
堀河天皇の早世により摂関家が天皇の外戚の座を失ったことにより摂関政治の弱体化が進む事となった。
 
      
74代 鳥羽天皇 1107 14 藤原忠実
      
75代 崇徳天皇 1123 15 藤原忠通
   
75代 崇徳天皇

76代 近衛天皇

77代 後白河天皇

78代 二条天皇

79代 六条天皇


80代 高倉天皇

81代 安徳天皇

82代 後鳥羽天皇
1123

1141

1155

1158

1165

1168

1180

1185
16 近衛基実 九条兼実 近衛基実=近衛家の祖
九条兼実
   
83代 土御門天皇 1198 九条良経 鎌倉時代初期に近衛家・九条家の2家に分かれた。
 
  九条道家
         ↓    
      ↓    二条 一条   九条家から二条家・一条家が分立する。
        ↓         
        鷹司家        鎌倉時代中頃に近衛家から鷹司家が分立する。



藤原北家の傍流
派生氏族
派生氏族は公家ばかりではなく、武家の道兼流・宇都宮氏・小田氏、長家流・那須氏、勧修寺流上杉氏、山蔭流・伊達氏、利仁流・斎藤氏・加藤氏、秀郷流・奥州藤原氏・藤姓足利氏・小山氏・結城氏・佐野氏・小野崎氏など、主に関東・北陸・東北に勢力基盤をもった多くの氏族や武家が藤原北家の末裔と称した。


魚名流 (始祖=藤原魚名)
  藤原魚名(721-783)
房前の五男。
淳仁朝・称徳朝に亘って順調に昇進する。
770年8月に称徳天皇が崩御すると、魚名は藤原永手・藤原宿奈麻呂(のち良継)・藤原百川らとともに、天智天皇の孫・白壁王(のち光仁天皇)を皇嗣に擁立、道鏡を排除する。
781年4月に光仁天皇が崩御し桓武天皇が即位、6月に右大臣・大中臣清麻呂が引退すると、魚名は左大臣に昇進する。
しかし、782年6月に突然左大臣を罷免された上、大宰府へ左遷された。
これは氷上川継の乱に連座したものと考えられており、息子たちも同時に左遷(鷹取(石見介)・鷲取(土佐介)・末茂(父とともに大宰府へ下向))されている。
魚名は大宰府に向かう途中、摂津国豊嶋郡で発病し、摂津にあった別荘に留まり治療を行うことを許される、翌783年5月には京に召還されたが、まもなく薨御した。
魚名の死後まもなく、桓武天皇は左大臣の官職を贈り、左大臣免官に関する詔勅や官符等を焼却させ、彼の名誉を回復した。

後裔氏族
魚名流ははさらに分かれて、利仁流、山蔭流、秀郷流、末茂流へと続いていく。
平安時代に入ると魚名の後裔は地方官などを歴任する中級貴族となり、長らく公卿に列せられる者はなかったが、末茂の末裔である藤原顕季やその息子たちが院政期に院近臣となって急速に勢力を伸ばし、再び公卿の地位を占めるようになった。
顕季の子孫は善勝寺流とも称され、嫡流の四条家を始めとして多数の堂上家を輩出した。
鷲取の子孫からは鎌倉時代の有力御家人で秋田城介を世襲した安達氏や戦国大名として有名な伊達氏等、多数の有力武家を輩出した。

山蔭流 (始祖=藤原山蔭)
藤原山蔭(824-888)
四条流庖丁式の創始者で知られている。
これまで12代景行天皇の侍臣であった磐鹿六雁命(いわかむつかりのみこと)の末裔高橋氏が庖丁式を執り行っていたが、光孝天皇の命により今までとは別の新たな庖丁式(料理)を編み出した。

利仁流 (始祖=藤原利仁)
藤原利仁
平安時代中頃の鎮守府将軍。
左近将監などを経て、延喜11年(911年)上野介となり、翌12年(912年)に上総介に任じられる。
祖父藤原高房は受領を歴任したほか盗賊の取締りで名を上げた人物。
父は民部卿藤原時長(中納言藤原山蔭の同母兄弟)。
次男の藤原叙用が斎宮頭となり、斎藤氏の祖となる。

後裔氏族
藤原利仁の後裔は越前・加賀をはじめ、北陸各地に武家として発展した。
斎藤氏は平安時代末から武蔵など各地に移住して繁栄した。
後世、斎藤姓は関東・東北に多くみられ、特に山形県、秋田県、福島県に多いようである。
しかし、旧家でも明確な系図を伝える家系はあまりみられず、地方の土豪で利仁将軍の武名にあやかり、斎藤氏を称した例も多かったものと推測される。
斎藤氏から出た苗字は大変多いが、有力なものとして、加藤氏、富樫氏、林氏等が挙げられる。

秀郷流 (始祖=藤原秀郷)
藤原秀郷(ふじわらひでさと、生没年不詳)
藤原北家・魚名の後裔とされる。
出自を藤原北家魚名流とするのが通説だが、「実際には下野国史生郷の土豪・鳥取氏で、秀郷自身が藤原姓を仮冒した」という説もある(あるいは古代から在庁官人を務めた秀郷の母方の姓とする)。
平将門の乱を鎮圧した藤原秀郷は藤成の子孫を称し、こちらもその子孫からは奥州藤原氏や結城氏・大友氏等、多数の有力武家を輩出した。

後裔氏族
秀郷の子孫は中央である京都には進出しなかった結果、関東中央部を支配する武家諸氏の祖となった。
  
  • 下野国
    • 佐野氏
    • 足利氏 (藤原氏)
    • 小山氏
    • 田沼氏
  • 武蔵国
    • 比企氏
  • 常陸国
    • 那珂氏
    • 安島氏
    • 小野崎氏
    • 小貫氏
    • 川野辺氏
    • 佐藤氏
    • 水谷氏
    • 江戸氏
    • 綿引氏
  • 下総国
    • 下河辺氏
    • 結城氏
  • 上野国
    • 赤堀氏
    • 桐生氏
    • 佐貫氏
    • 大胡氏
    • 山上氏
    • 園田氏












末茂流(六条藤家、善勝寺流、四条家流) (始祖=藤原)
末茂流
魚名の三男、末茂に始まる。
六条藤家、善勝寺流、四条家流などと続く。

1:六条藤家、善勝寺流
平安末期から鎌倉初期にかけて栄えた和歌の家系。
六条烏丸に住んだ藤原顕季(あきすえ)(1055-1123)を祖とし、顕輔(あきすけ)・清輔・顕昭(けんしょう)などすぐれた歌人・歌学者を出した。
顕季から始まる家系は善勝寺流と呼ばれ、四条家を始めとして、7家の堂上家(羽林家)を輩出した。
趣向を重んじる歌風で、藤原俊成・定家の御子左(みこひだり)家と対立したが、南北朝時代に断絶。
源経信・俊頼の六条源家(げんけ)と区別するため、六条藤家(とうけ)ともいう。

2:四条家流
藤原房前の子左大臣魚名を祖とする善勝寺流藤原氏の嫡流。
魚名の13代後裔の藤原隆季(たかすえ)(1127-1185)が平安時代末期に四条を名乗る。
この流は、後裔の隆季が四条大宮に居住するに因り、四条家流とも呼ばれる。
分家を含めて櫛笥家八条家園池家鷲尾家山科家西大路家油小路家などの家がある。

①四条家
院政期に生まれた家。家格は羽林家。
いわゆる四条流庖丁道の家として知られる。
明治維新後は初め伯爵、後に明治維新での活躍を賞されて侯爵に昇叙。

②櫛笥(くしげ)家
四条家の分家。家格は羽林家。明治維新後は子爵。

③八条家
櫛笥家の分家。家格は羽林家。明治維新後は子爵。

④園池家
もと櫛笥家の分家。ただし初代宗朝の子、三代目の公屋が閑院流の正親町三条実昭(おおぎまちさんじょう さねあき)の猶子になったため、園池家は魚名流ではなく閑院流となった。家格は羽林家。維新後子爵。

⑤鷲尾家
四条家の分家。家格は羽林家。維新後は子爵。

⑥山科家
四条家初代の人の弟を祖とする。家格は羽林家。維新後は伯爵。

西大路家
四条家の分家。家格は羽林家。明治維新後子爵。

⑧油小路家
西大路家の分家。家格は羽林家。明治維新後は伯爵。


真夏流(日野流) (始祖=藤原家宗)
日野流
藤原内麻呂の子の真夏の孫にあたる藤原家宗が、伝領地である山城国宇治郡日野(京都府京都市伏見区)に弘仁13年(822年)に法界寺を建立して薬師如来の小像を祀った。
その後代々この薬師如来を伝承し、永承6年(1051年)、子孫の資業があらためて薬師堂を建立し、別名を日野薬師とも称した。
これがその後資業を始祖とする一門の氏寺となり、名字も日野と名乗るようになった。
日野一門はいずれも代々儒学を家業として発展し、院政期以降、名家の家柄として定着した。

後裔氏族


小野宮流(おののみやりゅう) (始祖=藤原実頼)
  小野宮流
平安時代に始まった有職故実の流派。藤原実頼を祖とする小野宮家に伝わる。

藤原実頼(ふじわらさねより、900-970)
藤原忠平の長男。
有職故実(古来の先例に基づき、官職・儀式・装束などを研究することに)通じ、小野宮流を創始した。
摂政関白を歴任した藤原忠平の長男として順調に栄達し、村上天皇のときに左大臣として右大臣の弟・師輔とともに朝政を指導して天暦の治を支えた。

藤原 実資(ふじわらさねすけ、957-1046)
藤原斉敏の四男。後に祖父・実頼の養子となる。

後裔氏族


高藤流(勧修寺流)
   

冬嗣裔諸流
   

閑院流(かんいんりゅう)
  閑院流
藤原道長の叔父・閑院大臣藤原公季に始まる。
三条家・西園寺家・徳大寺家をはじめとする藤原北家支流の公家の一門。
閑院はもともと北家繁栄の基礎を築いた藤原冬嗣の邸宅で、公季がこれを伝領し住み、平安末期から鎌倉初期にかけては里内裏としても使用された。
院政期に外戚の立場を得たことで大きな勢力を獲得した。

後裔氏族
閑院流藤原氏は、三条、西園寺、徳大寺家および西園寺家庶流の今出川家が摂家に次ぐ家格の清華家。
三条家庶流の正親町三条家および三条西家がそれに次ぐ大臣家となって公家中に重きをなした。
他にも羽林家として19家があって一門繁栄した。
一門諸家の当主について、一部を除いて代々「公」と「実」を交互に名前の一字とするのを例としている。
また「季」も通字として用いられた。



参考資料
「日本古代氏族辞典」 (雄山閣出版 1994 佐伯有清)
「古代人物総覧」 (別冊歴史読本21巻50号 1996)
「日本の日記総覧」 (新人物往来社 1994 歴史読本特別増刊)

Wikipedia 「藤原北家」
 「ファンタジ-米子・山陰の古代史」は、よなごキッズ.COMの姉妹サイトです
   米子(西伯耆)・山陰の古代史