日本書紀   全三十巻の概要について   
日本書紀は日本の正史にして、六国史の第1の書。
古事記と日本書紀の内容には重複する部分も多い。
よって古事記では神代を詳細に、日本書紀では人代を詳細に記載する。
双方の差異について別項(古事記・日本書紀・出雲風土記の相違点)で比較することとする。
書記の内容
卷第一  神代上(かみのよのかみのまき)
第一段 天地開闢:天地のはじめ及び神々の化成した話。

     神代における書記が記す神々は、「一書」によってかなり違いがある。
     1書第4
         1天御中主尊   (あめのみなかぬしのみこと) 
         2高皇產靈尊   (たかみむすびのみこと)    
         3神皇產靈尊   (かみむすびのみこと)

     古事記では以下の様になる。(別天津神)   
         1天之御中主神       (あめのみなかぬしのかみ)・・・・造化の三神
         2高御產巣日神       (たかみむすひのかみ)・・・・・・・造化の三神
         3神產日神          (かみむすひのかみ)・・・・・・・・・造化の三神
         4宇摩志訶備比古遲神  (うましあしかびひこぢのかみ)
         5天之常立神        (あめのとこたちのかみ)

第二段 対偶神 
第三段 神世七世(かみのよななよ):世界起源神話の続き
         1国常立尊   (くにのとこたちのみこと)
         2国狭槌尊   (くにのさつちのみこと)
         3豊雲野尊   (とよくものみこと)
         4?土煮尊    (うひじに)   沙土煮尊 (すひじに)
         5大戸之道尊 (おほとの)   大苫辺尊 (おおとのべ)
         6面足尊    (おもだる)   惶根尊  (あやかしこね)
         7伊奘諾尊   (いざなぎ)   伊奘冉尊 (いざなみ)

第四段 国産み:伊奘諾尊、伊奘冉の婚儀によって大八洲誕生。

第五段 神産み: 山川草木を産む話。その後、3貴子を契約(うけい)によって生む。
         1天照大神
         2月読尊
         3素戔嗚尊

第六段 誓約:伊奘諾が崩御し、素盞嗚は根の国に行く前に天照に会いに行く。
      天照は素戔嗚と誓約し、互いに相手の持ち物から子を産む。
         素戔嗚尊から--宗像3女神
            田心姫、湍津姫、市杵嶋姫
         天照大神---5神
            正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊、天津彦根命、活津彦根命。
            天穂日命。熊野忍蹈命
         
第七段 天の岩戸:素戔嗚尊の数々の狼藉。
    素戔嗚尊は田の畦を壊すなどの狼藉をはたらき、天照は天の岩戸に隠れてしまう。
    思兼神、天鈿女命など神々がいろいろな工夫の末、天照を引き出す。
    素戔嗚は罪を償った上で放たれる。

第八段 素戔嗚尊出雲降臨
    素戔嗚が出雲の鳥髪峰(現;船通山)に降り、足名椎(アシナヅチ)・手名椎神(テナヅチ)に会う。
    素戔嗚が櫛名田比売(クシイナダヒメ)を救うため八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を殺し、
    出てきた草薙剣(くさなぎのつるぎ)を天照に献上する。
    姫と結婚し、大己貴命を産み、素戔嗚は根の国に行った。

    補足:素戔嗚尊出雲降臨の地について
         一書(一)  是時、素戔鳴尊、自天而降到於出雲国簸之川上。(簸の川)
         一書(二)  是時、素戔鳴尊下到於安芸国可愛之川上也。(江の川)


卷第二  神代下(かみのよのしものまき)
第九段 国譲り・天孫降臨
    葦原中国の平定、大己貴命父子の国譲り、
    邇邇芸尊の降臨、猿田彦の導き、ヒコホホデミらの誕生。

第十段 山幸彦と海幸彦

第十一段 神日本盤余彦尊(かむやまといはれびこのみこと)誕生


卷第三   初代神武天皇   神日本磐余彦天皇(かむやまといはれびこのみこと)
父   彦波瀲武??草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと) の四男(または三男)
母   玉依姫命(たまよりひめのみこと)
皇后  媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと=大物主の娘)

立太子(15歳) 皇太子となる。
     その後吾平津姫(あひらつひめ)を妃とし、息子の手研耳命(たぎしみみのみこと)を得た。

神武東征(45歳)
甲寅の歳  45歳のとき日向国の地高千穂宮から東征開始。
 10月 兄の五瀬命らと船で東征に出て、速吸之門に到着。   
      この時、国津神の椎根津彦を道案内とした。
      筑紫国、宇佐に至る。
 11月 筑紫国 岡水門(遠賀川の河口付近の港)に寄航。
 12月 安芸の国(広島県)に進んだ。
  3月 吉備国に入り、高島宮の行宮をつくって3年滞在。

長髄彦との戦い
戊午の歳  吉備国出立つ。
  2月 河内国に入る。
  4月 龍田へ進軍し、東に軍を向けて生駒山を経て中州へ入ろうとした。
      この地を支配する長髄彦が軍衆を集めて孔舎衛坂で戦いになった。
      戦いに利なく、五瀬命が流れ矢を受けて負傷した。
      草香津まで退き、盾を並べて雄叫びをあげて士気を鼓舞した。この地を盾津と名付けた。
八咫烏の道案内
  5月 磐余彦は船を出し、山城水門で五瀬命の矢傷が重くなり、紀伊国竃山で死去した。
      息子の手研耳命とともに熊野の荒坂津に進む。
      丹敷戸畔女賊を誅したが、土地の神の毒気を受け軍衆は倒れた。
      天照大神は武甕槌神と相談して、霊剣(布都御魂)を熊野の住民の高倉下に授けた。
      高倉下はこの剣を磐余彦に献上した。
      進軍を再開しただが、山路険絶にして苦難を極めた。
      そこで、天照大御神は八咫烏を送り教導となした。
      八咫烏に案内されて、莵田の地に入った。
進撃
  8月 莵田(うだ)の地を支配する兄猾(えうかし)と弟猾を呼んだ。
      兄が磐余彦を暗殺しようとする姦計を告げた。
      磐余彦は道臣命(大伴氏の祖)を送ってこれを討たせた。
      磐余彦は軽兵を率いて吉野の地を巡り、住人達はみな従った。

  9月 高倉山に登ると八十梟帥(やそたける)や兄磯城(えしき)の軍が充満しているのが見えた。
 10月 軍を発して国見岳で八十梟帥を討った。
 11月 磯城に攻め入り、八咫烏に遣いさせ弟磯城は降参し。
      兄磯城が兄倉下、弟倉下とともになおも逆らったた。
      椎根津彦が奇策を用いてこれを破り、兄磯城を斬り殺した。
 12月 長髄彦と遂に決戦となった。
      連戦するが勝てず、天が曇り、雹が降ってきた。
      そこへ鵄(とび)があらわれ、磐余彦の弓の先にとまった。
      すると電撃のごとき金色の煌きが発し、長髄彦の軍は混乱し敗走した。
      饒速日命は長髄彦を殺して降伏した。

翌巳未の歳
  2月 磐余彦は従わない新城戸畔、居勢祝、猪祝を討った。
      また高尾張邑に土蜘蛛という者がいたので、葛網の罠を作って捕らえて殺した。 
      これに因んで、この地を葛城と称した。
      これによって、磐余彦は中州を平定した。
  3月 畝傍山の東南の橿原の地を都と定める。
庚申の歳  
      大物主の娘の媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめ)を正妃とした。

即位(52歳)  BC660年
  辛酉の歳(神武天皇元年・紀元前660年)正月
      磐余彦は橿原宮で践祚され、始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)と称した。


崩御(127歳)
  神武天皇76年、127歳にして崩御した。


卷第四    欠史八代
出自、没年の記載が主で、事績の記載はほとんどない。

第2代綏靖天皇  神淳名川耳天皇(かむぬなかはみみのすめらみこと)
   手研耳命(タギシミミ)の反逆
     神武天皇には媛蹈鞴五十鈴媛命(ヒメタタライスズヒメ)との間に3人の子がいた。
        神八井耳命(カムヤイミミ)、日子八井命(ヒコヤイ)、神渟名川耳尊(カムヌナカワミミ)
     日向にいたころに吾平津姫(アヒラヒメ)との間に2人の子がいた。
        手研耳命、岐須美美命(キスミミ)
     天皇が亡くなった後、手研耳命は媛蹈鞴五十鈴媛命を妻にし、その3人の御子を殺そうと計画。
     神渟名川耳尊は母の歌からこのことを察知し、神渟名川耳が矢を射て殺した。

第3代安寧天皇  磯城津彦玉手看天皇(しきつひこたまてみのすめらみこと)
第4代懿徳天皇  大日本彦紹友天皇(おほやまとひこすきとものすめらみこと)
第5代孝昭天皇  観松彦香殖稲天皇(みまつひこすきとものすめらみこと)
第6代孝安天皇  日本足彦国押人天皇(やまとたらしひこくにおしひとのすめらみこと)
第7代孝霊天皇  大日本根子彦太瓊天皇(おほやまとねこひこふとにのすめらみこと)
第8代孝元天皇  大日本根子彦国牽天皇(おほやまとねこひこくにくるのすめらみこと)
第9代開化天皇  稚日本根子彦大日日天皇(わかやまとねこひこおほひひのすめらみこと)


卷第五  第10代崇神天皇    御間城入彦五十塑殖天皇(みまきいりびこいにゑのすめらみこと)
父=開化天皇(第二子)    母=伊香色謎命(いかがしこめのみこと)
皇后=御間城姫(みまきひめ、御真津比売命) - 大彦命女 

開化10年(前148年)  生誕。

開化28年(前130年)  立太子。

開化60年(前98年)   
      開化天皇崩御に伴い翌年即位。

崇神3年(前95年)
  9月  三輪山西麓の瑞籬宮(みずかきのみや)に遷都。

崇神6年(紀元前92年)
  疫病を鎮めるべく、宮中に祀られていた天照大神と倭大国魂神(大和大国魂神)を皇居の外に移す。

崇神7年(前91年)2月、大物主神、倭迹迹日百襲姫命に乗り移り託宣する。
 11月 大田田根子(大物主神の子とも子孫ともいう)を大物主神を祭る神主とする。
      (これは現在の大神神社に相当し、三輪山を御神体としている)
      市磯長尾市(いちしのながおち)を倭大国魂神を祭る神主とした。
      疫病は終息し、五穀豊穣となる。

崇神10年(前88年)
  9月 四道将軍の派遣
      大彦命を北陸道に、武渟川別を東海道に、吉備津彦を西道に、丹波道主命を丹波(山陰道)に
      将軍として遣わし、従わないものを討伐させた
      しかし、大彦命だけは異変を察知して和珥坂(わにのさか、奈良県天理市)から引き返た。
      倭迹迹日百襲姫命の予言から武埴安彦(孝元天皇の皇子)の叛意を知る。
      武埴安彦は山背から、その妻吾田媛は大坂からともに都を襲撃しようとした。
      天皇は五十狭芹彦命(吉備津彦命)の軍を遣わして吾田媛勢を迎え討ち、一方の安彦勢には、
      大彦命と彦国葺(ひこくにぶく、和珥氏の祖)を差し向かわせ、これを打ち破った。
 10月 畿内は平穏となり、四道将軍が再び出発。

崇神11年(前87年)
  4月 四道将軍が地方の賊軍を平定させて帰参、その有様を奏上した。

崇神48年(前50年)
  1月 豊城命(豊城入彦命)と活目命(垂仁天皇)を呼び、どちらを皇太子にするかについて決断した。
  4月 弟の活目命を皇太子とし、豊城命に東国を治めさせた。

崇神60年(前38年)
  7月 飯入根(いいいりね)が出雲の神宝を献上。
      兄の出雲振根が飯入根を謀殺するが、朝廷に誅殺される。

崇神68年(前30年)
 12月 120歳で崩御。


卷第六    第11代垂仁天皇
父=崇神天皇(第三皇子)    母=御間城姫命(みまきひめのみこと)
皇后=狭穂姫命(さほびめのみこと-彦坐王の女) 垂仁5年に焼死
皇后=日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)ー丹波道主王の女


垂仁元年1月(紀元前29年)、即位。

垂仁2年(前28年)
  2月 狭穂姫を立后、
 10月 纒向に遷都した。

垂仁3年(前27年)
  3月 新羅王子の天日槍(あめのひほこ)が神宝を奉じて来朝。

垂仁7年(紀元前23年)
  7月 野見宿禰(のみのすくね)が当麻蹴速(たいまのけはや)と相撲をとり蹴殺す(相撲節会の起源説話)。

垂仁25年(前5年)
  3月 天照大神の祭祀を皇女の倭姫命に託す。
      倭姫は菟田(うだ。奈良県宇陀郡)・近江・美濃を経て伊勢国に至る。
      五十鈴川の辺に祠を建てて、伊勢神宮を興したという。

垂仁27年(前3年)
  8月 諸神社に武器を献納し、神地・神戸を定める。
      この年、来目(橿原市久米町)に初めて屯倉を興す。

垂仁32年(3年)
  7月 日葉酢媛が薨去。野見宿禰の進言に従い、殉死に替えて土偶を葬る(埴輪の起源説話)。

垂仁39年(10年)
 10月 五十瓊敷命が剣千振を作り、石上神宮に納める。
      この後、五十瓊敷命に命じて、神宮の神宝を掌らせる。

垂仁99年(70年)
  7月 崩御。140歳(紀)、153歳(記)、139歳(大日本史)。
 12月 菅原伏見陵に葬られた。


卷第七   第12代景行天皇    大足彦忍代別天皇(おほたらしひこおしろわけのすめらみこと)
        第13代成務天皇    稚足彦天皇(わかたらしひこのすめらみこと)
第12代景行天皇
父=垂仁天皇(第三皇子)    母=日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)-丹波道主王命の娘
皇后=播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ) - 若建吉備津日子の娘

景行12年(82年)
  8月 熊襲が背いたので、これを征伐すべく、天皇自ら西下。
      周防国の娑麼(さば、防府市)で神夏磯媛から賊の情報を得て誅殺した。
      筑紫(九州)に入り、豊前国京都郡(福岡県行橋市)に行宮(かりみや)を設ける。
      豊後国の碩田(おおきた)で土蜘蛛を誅して、

 11月 日向国に入る。
      熊襲梟帥(くまそたける)をその娘に殺させ、翌年夏に熊襲平定を遂げた。
      日向高屋宮(宮崎県西都市か)に留まること6年。
景行18年(88年)
  3月 都へ向け出立。
     
景行19年(89年)
  9月 還御した(なお、この天皇親征について、古事記には一切記されていない)。

景行25年(95年)
  7月 武内宿禰を遣わして、北陸・東方諸国を視察させる。

景行27年(97年)
  8月 熊襲が再叛。
 10月 日本武尊を遣わして、熊襲を征討させる。首長の川上梟帥を謀殺し、翌年に復命。

景行40年(110年)
 10月 日本武尊に蝦夷征討を命じる。
      尊は途中、伊勢神宮で叔母の倭姫命(やまとひめのみこと)より草薙剣を授かった。
      陸奥国に入り、戦わずして蝦夷を平定する。
      日高見国から新治(茨城県真壁郡)・甲斐国酒折宮・信濃国を経て尾張国に戻る。
      宮簀媛(みやずひめ)と結婚。
      その後近江国に出向くが、胆吹山の荒神に祟られて身体不調になる。

景行43年(113年)
      そのまま伊勢国に入るが、能褒野(のぼの、三重県亀山市)で病篤くなり崩御した。
      白鳥陵に葬られた。

景行60年(130年)
 11月 景行天皇崩御、143歳。古事記では137歳。


第13代成務天皇
父=景行天皇    母=八坂入媛命(やさかのいりびめのみこと)
妃=弟財郎女(おとたからのいらつめ)ー穂積臣の祖・建忍山垂根の娘

景行天皇51年(121年)  立太子

成務元年(131年)     
 正月 即位。

成務3年(133年)
  月 武内宿禰を大臣とした。

成務5年(135年)
  9月 諸国に令して、地方行政機構の整備を図った。
     行政区画として国 郡(くにこおり)・県邑(あがたむら)を定めた。
     それぞれに造長(くにのみやつこ)・稲置(いなぎ)等を任命した。
     山河を隔にして国県を分かち、阡陌(南北東西の道)に随って邑里(むら)を定めた。

成務60年(190年)
  6月 崩御。107歳(古事記では95歳)


卷第八  第14代仲哀天皇     足仲彦天皇(たらしなかつひこのすめらみこと)
父=日本武尊(第2子)  母=両道入姫命(ふたじいりひめのみこと9ー垂仁天皇皇女   
皇后=気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと、神功皇后)-息長宿禰王の娘

成務48年 3月(178年)に31歳で立太子。
仲哀元年 1月(192年)13年の皇太子期間を経て、即位。

仲哀2年(193年)、
  1月 仲哀天皇は氣長足姫尊(成務天皇40年(170年)誕生)を皇后(神功皇后)とする。

仲哀8年(199年)
   月 熊襲討伐のため神功皇后とともに筑紫に赴いた。
      仲哀天皇は、神懸りした神功皇后から住吉大神のお告げを受けた。
      それは西海の宝の国(新羅のこと)を授けるという神託であった。
      しかし、仲哀天皇は、これを信じず住吉大神を非難した。

仲哀9年(200年)
  2月 そのため神の怒りに触れ、仲哀天皇は2月に急死してしまった。
      遺体は武内宿禰により海路穴門を通って豊浦宮で殯された。

参照・補足
『天書紀』では熊襲の矢が当たった事が死因だという。

『古事記』に「凡そ帯中日津子天皇の御年、五十二歳。壬戌の年の六月十一日に崩りましき」。
『日本書紀』にも52歳とするが、
これから逆算すると、天皇は父日本武尊の薨後36年目に生まれたこととなり、矛盾する


卷第九    神功皇后       気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)
父=息長宿禰王(おきながのすくねのみこ、開化天皇玄孫)   
母=葛城高顙媛(かずらきのたかぬかひめ)-天日矛末裔         

事績
仲哀9年(200年)
夫の仲哀天皇の急死後、住吉大神の神託により、お腹に子供(のちの応神天皇)を妊娠したまま海を渡って朝鮮半島に出兵して新羅の国を攻め、新羅は戦わずして降服して朝貢を誓い、高句麗・百済も朝貢を約したという(三韓征伐)。

神功元年(201年)
 3月  異母兄にあたる香坂皇子、忍熊皇子が畿内にて反乱を起こして戦いを挑んだ。、
      神功皇后軍は武内宿禰や武振熊命の働きによりこれを平定した。
神功5年
 3月  新羅王の質、微叱旱岐(みしこち)の見張りとして襲津彦を新羅に使わす。
      対馬にて新羅王の使者に騙され微叱旱岐に逃げられた。
      怒った襲津彦が蹈鞴津(たたらつ)から草羅城(くさわらのさし)を攻撃して捕虜を連れ帰った。

神功62年
     襲津彦を遣わして新羅を撃たせる。

神功69年 崩御

参照・補足
百済紀(382年)
「貴国は沙至比跪(さちひこ、襲津彦)を使って新羅を撃たせようとしたが、沙至比跪は新羅の美女に心を奪われ矛先を加羅に向け、加羅を滅ぼしてしまう。百済に逃げた加羅王家は天皇に直訴し、天皇は木羅斤資(もくらこんし)を使わし沙至比跪を攻めさせる。沙至比跪は天皇の怒りが収まらないことを知ると自殺した。」


卷第十   第15代応神天皇    誉田天皇(ほむだのすめらみこと)
父=仲哀天皇    母=神功皇后
皇后=仲姫命(なかつひめのみこと、中日売命)-品陀真若王の娘

事績
出生
 12月 神功皇后の三韓征伐の帰途に宇瀰(うみ、福岡県糟屋郡宇美町)で生まれたとされる。

神功3年(204年)  
     立太子。

応神元年(270年)  
     71歳で即位。

応神14年
     弓月君(ゆつきのきみ)が百済から来て、天皇に奏上した。
     百済の民人を連れて帰化したいけれども新羅が邪魔をして加羅から海を渡ってくることができない。
     天皇は襲津彦を加羅に遣わして百済の民を連れ帰るように命令する。
     しかし、三年なんの音沙汰もなくなった。

応神16年
  8月 天皇は平群木菟宿禰(へぐりのつくのすくね)・的戸田宿禰(いくはのとだのすくね)に命令。
      襲津彦が帰ってこないのはきっと新羅が邪魔をしているのに違いない。
      加羅に赴いて襲津彦を助けろ」といって、加羅に兵を派遣した。
      新羅の王はその軍勢に怖じけづいて逃げ帰った。
      そして襲津彦はやっと弓月氏の民を連れて帰国した。
  
応神20年
  9月 倭の漢直の祖阿知使主(あちのおみ)、其の子都加使主、並びに己が党類十七県を率て、来帰。
      多くの渡来人があったことを伝えている。

応神41年(310年) 
      崩御。111歳。『古事記』では130歳。

参照・補足
実在性が濃厚な最古の大王(天皇)とも言われるが、仁徳天皇の条と記載の重複・混乱が見られることなどから、応神・仁徳同一説などが出されている。


卷第十一   第16代仁徳天皇   大鷦鷯天皇(おほさざきのすめらみこと)
父=応神天皇(第4皇子)    母=仲姫命(なかつひめのみこと)-品陀真若王の娘
皇后=磐之媛命(いわのひめのみこと、石之日売命)-葛城襲津彦の女
都=難波高津宮(なにわのたかつのみや)-現在の大阪府大阪市中央区?

事績
仁徳天皇の治世は仁政として知られ、「仁徳」の漢風諡号もこれに由来する。

仁徳11年
     新羅人朝貢。

仁徳13年(325年)
  9月 茨田屯倉(まむたのみやけ)を設立した。
 10月 和珥池(わにのいけ、奈良市?)、横野堤(よこののつつみ、大阪市生野区)を築造した。

仁徳41年
  3月 紀角宿禰を百済へ遣わし、初めて国郡の境を分け、郷土の産物を記録した。

仁徳53年
     新羅不朝貢

仁徳87年(399年)
     崩御。142歳。

参照・補足
 『宋書』倭国伝に記される「倭の五王」中の讃(さん)または珍(ちん)に比定する説があるが、確定していない。


卷第十二    第17代履中天皇   去来穂別天皇(いざほわけのすめらみこと)
          第18代反正天皇   瑞歯別天皇(みつはわけのすめらみこと)
第17代履中天皇
父=仁徳天皇(第一皇子)    母=磐之媛(いわのひめ)-葛城襲津彦の娘
皇后= 草香幡梭皇女(くさかのはたびのひめみこ)-応神天皇の皇女?
皇妃=黒媛(くろひめ)-葛城葦田宿禰の娘、一説に羽田八代宿禰の娘

事績
仁徳天皇87年(399年)
  1月 仁徳天皇崩御。
      住吉仲皇子が皇位を奪おうとして叛するが、弟の瑞歯別皇子(後の反正天皇)に命じてこれを誅殺。

履中天皇元年(400年)
  2月 即位。

履中2年(401年)
      蘇我満智、・物部伊莒弗(いこふつ)・平群木菟(つく)・円大使主(つぶらのおおおみ)らを国政参画。

履中4年(403年)
  8月 諸国に国史(ふみひと)と呼ばれる書記官を設置し、国内の情勢を報告させた。

履中6年(405年)
  1月 蔵職(くらのつかさ)と蔵部を興す(『古語拾遺』には内蔵を興すとある)
  3月 病気のため稚桜宮で崩御した。『書紀』に70歳、『古事記』に64歳、『神皇正統記』に67歳。


第18代反正天皇
父=仁徳天皇(第三皇子)    母=磐之媛命(いわのひめのみこと)-葛城襲津彦の娘
皇后=津野媛(つのひめ)-大宅臣の祖木事の娘

事績
履中元年(400年)    
     父仁徳天皇の崩後、叛乱を起こした同母兄の住吉仲皇子を誅殺した。

履中2年(401年)
     立太子。

履中6年(405年)
     履中天皇崩御。

反正元年(406年)
  1月 即位。兄弟継承はここに始まる。
 10月 河内丹比を都とする。天下太平であり、何事もなく在位5年。

反正5年(410年)
  1月 崩御。

参照・補足
『古事記』、『水鏡』に60歳。
『古事記』に従えば、崩御した「丁丑年七月」は西暦437年に相当し、生年は逆算して、兄履中天皇より9歳年下の西暦378年に相当するが、定かではない。


卷第十三    第19代允恭天皇    雄朝津間稚子宿禰天皇(をあさづまわくごのすくねのすめらみこと)
          第20代安康天皇    穴穂天皇(あなほのすめらみこと)
第19代允恭天皇
父=仁徳天皇(第四皇子)    母=磐之媛(いわのひめ)-葛城襲津彦の娘
皇后=忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ)-稚渟毛二派皇子の娘

事績
反正5年(410年)
  1月 反正天皇が皇太子を定めずして崩御した。
     群臣達が相談して雄朝津間稚子宿禰尊(おあさづまわくごのすくねのみこと)を天皇(大王)に推挙する。
     尊は病気を理由に再三辞退して空位が続いた。

允恭天皇元年(412年)
 12月 忍坂大中姫の強い要請を受け即位。

允恭3年(413年)
  8月 新羅から医者を招聘、天皇の病気を治療する。

允恭4年(415年)
  9月 諸氏族の氏姓の乱れを正すため、飛鳥甘樫丘にて盟神探湯(くがたち)を実施する。

允恭5年(416年)
  7月 玉田宿禰(葛城襲津彦の孫)の叛意が露顕、これを誅殺する。

允恭7年(418年)
 12月 皇后の妹・衣通郎姫を入内させるが、皇后の不興を買い、藤原宮(奈良県橿原市)に住まわせる。

允恭8年(419年)
  2月 衣通郎姫が皇后の嫉妬を理由に茅渟宮(ちぬのみや、大阪府泉佐野市)へ移る。
     天皇は遊猟にかこつけて郎姫の許に行幸を続けた。

允恭10年(421年)
     皇后に諌められ、その後の茅渟行幸は稀になった。

允恭24年(435年
  6月 皇太子の木梨軽皇子と同母妹の軽大娘皇女の近親相姦が発覚。軽大娘皇女を伊予に配流(→衣通姫伝説)。

允恭42年(453年)
  1月 崩御。新羅王はこれを悲しみ、弔使を送る。
      『古事記』『旧事紀』に78歳、『愚管抄』『神皇正統記』に80歳、
      北野本『日本書紀』に81歳(一本68歳)とする

参照・補足
①允恭天皇豪族出身説
雄朝津間稚子宿禰尊(おあさづまわくごのすくねのみこと)に「宿禰」という皇族(王族)らしからぬ敬称が混ざっている。
宿禰(足尼とも書く)の称号は4世紀から6世紀にかけて、しばしば(王族ではない)有力豪族の名に下接して使われていた(例:野見宿禰・武内宿禰・多加利足尼など)。
このことから、允恭天皇も元来は葛城(奈良県御所市)出身の地方豪族で、反正天皇の崩後に王位を簒奪したのではないかと見る説が存在する。
内宿禰の子として若子宿禰という人物の存在が伝えられ、時代が重なること、さらには、倭王済(允恭)と倭王珍(反正に比定される)の血縁関係を記さない『宋書』の問題などが挙げられる。

②飛鳥の地に宮を設けた初めての天皇。

③中国の歴史書『宋書』・『梁書』に記される倭の五王中の倭王済に比定されている。

④稚渟毛二派皇子について
皇后=忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ)-稚渟毛二派皇子の娘
『釈日本紀』に引用された『上宮記』逸文によると、
若野毛二俣王(稚野毛二派皇子)-大郎子(意富富等王) -乎非王-汙斯王(彦主人王)-継体天皇とある。
継体天皇が「応神天皇5世の孫」とされる系譜を形成する。


第20代安康天皇
父=允恭天皇(第二皇子)  母=忍坂大中姫(おしさかのおおなかつのひめ)。
雄略天皇の同母兄。
皇后=中磯皇女(なかしのひめみこ、中蒂姫命)-履中天皇の皇女

事績
允恭42年(453年)
  1月 允恭天皇崩御。
      皇太子の木梨軽皇子(きなしのかるのみこ)には近親相姦の前科が有ったために群臣は皆従わず。
      弟の穴穂皇子の側に付いた。
      軽皇子は穴穂皇子を討ち殺そうとして兵を集めるが、群臣が離反
      不利な現況を悲嘆して、物部大前宿禰(もののべのおおまえのすくね)の家に潜んだ。
      穴穂皇子が率いる兵に包囲され、大前宿禰の計らいで戦は避けられたが、軽皇子は自裁した。
      (尚、『古事記』では伊余湯に流罪となったと記される)。
 12月 皇位を践祚した。

安康元年(454年)
      根使主の讒言を信じて大草香皇子(仁徳天皇の皇子)を誅殺。

安康2年(455年)
      その妃であった中蒂姫を皇后に立てた。

安康3年(456年)
  8月 天皇は中蒂姫の連れ子眉輪王(まよわのおおきみ)により暗殺された
      『古事記』『旧事紀』に享年56、『帝王編年記』に享年54と伝えられる。

参照・補足
中国の『宋書』・『梁書』に記される「倭の五王」中の倭王興に比定されている。


卷第十四    第21代雄略天皇   大泊瀬幼武天皇(おほはつせのわかたけるのすめらみこと)
父=允恭天皇(第5皇子)  母=忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ)
安康天皇の同母弟
皇后=草香幡梭姫皇女(くさかのはたびひめのひめみこ)-仁徳天皇の皇女

事績
安康3年(456年)
  8月 天皇は中蒂姫の連れ子眉輪王(まよわのおおきみ)により暗殺された。
      これを知った大泊瀬皇子は兄たちを疑い、まず八釣白彦皇子を斬り殺す。
      次いで坂合黒彦皇子 ・眉輪王をも殺そうとした。
      この2人は相談して葛城氏の円大臣(つぶらのおおおみ)宅に逃げ込んだ。
      しかし、大臣の助命嘆願も空しく、大泊瀬皇子は3人共に焼き殺してしまう。
      さらに、市辺押磐皇子とその弟の御馬皇子(みまのみこ)をも謀殺。
     
雄略元年(456年)
 11月 政敵を一掃してに大王の座に就いた。
     平群真鳥を大臣に、大伴室屋・物部目(もののべのめ)を大連に任じた。

雄略7年(463年)
     地域政権吉備に対して反乱鎮圧の名目で屈服を迫った(吉備氏の乱)。
     吉備下道臣前津屋(きびのしもつみちのおみさきつや)を討伐。
     吉備上道臣田狭(きびのかみつみちのおみたさ)を討伐して吉備政権の弱体化を進めた。

雄略8年(464年)
  2月 日本府軍が高句麗を破る。

雄略9年(465年)
  5月 新羅に攻め込んだ。
      しかし将軍の紀小弓宿禰(きのおゆみのすくね)が戦死し、敗走した。
      (『三国史記』新羅本紀によれば倭人が462年5月に新羅の活開城を攻め落とした。
       463年2月にも侵入したが、最終的に新羅が打ち破ったと記載されている)。

雄略13年(469年)
     播磨の文石小麻呂(あやしのおまろ)を討伐。

雄略18年(474年)
     伊勢の朝日郎(あさけのいらつこ)を討伐した

雄略20年(476年)
      高句麗が百済を攻め滅ぼした。

雄略21年(477年)
     大王は百済に任那を与えて復興した。
     (『三国史記』高句麗本紀・百済本紀によれば、475年9月に高句麗に都を攻め落とされ王は殺され、
       同年熊津に遷都)。

雄略22年(478年)
     伊勢神宮外宮を建立。
     豊受大神は葛城氏が代表して奉祀しており、葛城氏没落後、あまり省みられなかった。
     崇敬の声が大きくなり、丹波国にも祀られていたものを外宮を設立することで収拾を図ったとする
     説がある。

雄略23年(479年)
  4月 百済の三斤王が亡くなると、入質していた昆支王の次子未多王に筑紫の兵500をつけて帰国させた。
     そして東城王として即位させた。
     兵を率いた安致臣・馬飼臣らは水軍を率いて高句麗を討った。
  
  8月 大王は病気のため崩御した。

参照・補足
①雄略朝の注目点
『日本書紀』の暦法が雄略紀以降とそれ以前で異なる。
『万葉集』や『日本霊異記』の冒頭に雄略天皇が掲げられている。
これにより、古代の人々が雄略朝を歴史的な画期として捉えていたとみることもできる

②地方政権の弱体化を図った。
    葛城氏を衰退・滅亡に追い込んだ。

    星川皇子(母が吉備稚媛)の乱を大伴室屋らが鎮圧。
    吉備氏を衰退・滅亡に追い込んだ。

③都
都は泊瀬朝倉宮(はつせのあさくらのみや)。
稲荷山古墳出土金象嵌鉄剣銘に見える「斯鬼宮(しきのみや ・磯城宮)」も朝倉宮を指すと言われる。

⑤倭王武
『宋書』・『梁書』に記される「倭の五王」中の倭王に比定される。


卷第十五   第22代清寧天皇   白髪武広国押稚日本根子(しらかのたけひろくにおしわかやまとねこの)
         第23代顕宗天皇   弘計天皇(をけのすめらみこと)
         第24代仁賢天皇   億計天皇(おけのすめらの天皇)
第22代清寧天皇
父=雄略天皇(第三皇子)  母=葛城韓媛(かつらぎのからひめ)
皇后=無し

事績
雄略23年(479年)
  8月 雄略天皇崩御。吉備氏の母を持つ星川皇子が大蔵を占拠、権勢を縦にした。
     そのため、大伴室屋・東漢直掬らにこれを焼き殺させる。

清寧元年(480年)
 正月 即位。

清寧2年(481年)
     市辺押磐皇子の子である億計王(仁賢天皇)・弘計王(顕宗天皇)の兄弟を播磨で発見。
     使者を立てて明石に迎えさせる。

清寧3年(482年)
     2王を宮中に迎え入れ、億計王を立太子に、弘計王を皇子とした

清寧5年(484年)
 正月 崩御。『水鏡』で41歳、『神皇正統記』で39歳。


参照・補足
第23代顕宗天皇
父=市辺押磐皇子(いちのへのおしはのみこ、履中天皇の長子)の第3子。
母=荑媛(はえひめ、荑は草冠+夷)-葛城蟻臣(ありのおみ)の娘。
仁賢天皇は同母兄に当たる。
皇后=難波小野王(なにわのおののみこ、難波王)-丘稚子王の娘

事績
安康天皇3年(456年)
     父が雄略天皇に殺されると、兄の億計王(後の仁賢天皇)と共に逃亡して身を隠した。
     丹波国与謝郡に行き、後に播磨国明石に住む。
     兄弟共、縮見屯倉首(しじみのみやけのおびと)に使役され、長い間牛馬の飼育に携わっていた。

清寧2年(481年)
 11月 弘計王自ら新室の宴の席で、歌と唱え言に託して王族の身分を明かした。
     子がなかった清寧天皇はこれを喜んで迎えを遣わした。

清寧3年(482年)
  4月 清寧天皇は、兄王を皇太子に、弘計王を皇子とした

清寧5年(484年)
     清寧が崩御した後、皇太子の億計弟の弘計に皇位(王位)を譲ろうとする。
     弘計はこれを拒否。
     皇位の相譲が続き、その間は飯豊青皇女が執政した。
     結果的に兄の説得に折れる形で弟弘計が即位。

顕宗元年(485年)
 正月 弘計が即位する。

顕宗3年(487年)
  4月 崩御。『古事記』に38歳(ただし治世8年という)、『一代要記』に48歳。

参照・補足
①顕宗天皇実在否定説
実在を比定する説もあるが、億計・弘計の両天皇の存在を主張する意見も少なくない。

②即位前に志毘臣(しびのおみ、平群氏)との恋争いのもつれから、これを夜襲して誅殺したという話もある(『古事記』)。


第24代仁賢天皇
父=市辺押磐皇子(いちのへのおしはのみこ、履中天皇の長子)の第3子。
母=荑媛(はえひめ、荑は草冠+夷)-葛城蟻臣(ありのおみ)の娘。
顕宗天皇は同母弟に当たる
皇后=春日大娘皇女(かすがのおおいらつめのひめみこ)-雄略天皇の皇女

事績
仁賢元年(488年)
  1月 即位した。

仁賢3年(490年)
  2月 石上部(いそのかみべ)舎人を置いた。

仁賢5年(492年)
     佐伯造(さえきのみやつこ)を置いた。

仁賢6年(493年)
  9月 高麗(こま)へ日鷹吉士(ひたかのきし)を遣わし、皮の工匠などの手工業者を招いたとされる。
      仁賢天皇の時代は国中が良く治まったと評された。

仁賢7年(494年)
  1月 皇子の小泊瀬稚鷦鷯尊を皇太子に定めた。

仁賢11年(498年)
  8月 崩御。『水鏡』に50歳、『帝王編年記』には51歳とある

参照・補足


卷第十六   第25代武烈天皇   小泊瀬稚鷦鷯天皇(おはつせのわかさざきのすめらみこと)
父=仁賢天皇    母=春日大娘皇女-雄略天皇の娘
皇后=春日娘子(かすがのいらつめ)

事績
仁賢7年(494年)
 正月 立太子。

仁賢11年(498年)
     10歳の皇太子は、物部麁鹿火(あらかい)の娘・影媛(かげひめ)との婚約を試みる。
     しかし、影媛は既に真鳥大臣の子・鮪(しび)と通じていた。
     鮪との歌合戦に敗れた太子は、大伴金村をして鮪を乃楽山(ならやま)に誅殺させた。

武烈元年(499年) 
 11月 真鳥大臣をも討伐させた。
 12月 即位して、泊瀬列城に都を定め、大伴金村を大連(おおむらじ)とした.。

武烈2年(500年)
  9月 11歳の天皇は、妊婦の腹を割いて胎児を見る。
     この年以降、猟奇性を帯びた愚行を行ったとされる。
     天下の飢えを忘れ、日夜問わず宮人と酒食に溺れた。

武烈8年(506年)
 12月 後嗣なく崩御した。
     『扶桑略記』『水鏡』などには18歳で崩御とある。また『天書』に61歳とある。


参照・補足
①武烈天皇実在否定説
大悪天皇の記述は雄略天皇にも見られることから、武烈天皇は実在せず雄略の部分伝承との説もある。

卷第十七    第26代継体天皇   男大述天皇(おほどのすめらみこと) 彦太尊(ひこふとのみこと)
父  =彦主人王  母=振媛(ふりひめ)-垂仁天皇7世孫
皇后=手白香皇女(たしらかのひめみこ)-仁賢天皇の皇女
妃  =目子媛(めのこひめ)-尾張連草香の娘

  
事績
允恭39年(450年)    
     近江国高嶋郷三尾野(現在の滋賀県高島市あたり)で生誕(古事記では485年)

武烈8年(506年)
     武烈天皇が後嗣定めずして崩御した。
     大連大伴金村らは越前に赴いて男大迹王を大王に推戴した。
     これを承諾した王は翌年58歳にして即位。

継体元年(507年) 
  2月 樟葉宮(くすばのみや、大阪府枚方市楠葉丘の交野天神社付近が伝承地)で即位。
     武烈天皇の姉(妹との説もある)にあたる手白香皇女(たしらかのひめみこ)を皇后とした。

継体5年(511年)
 10月 筒城宮(つつきのみや、現在の京都府京田辺市多々羅都谷か)に遷す。

継体12年(518年) 
  3月 弟国宮(おとくにのみや、現在の京都府長岡京市今里付近か)に遷す。

継体20年(526年) 
  9月 大倭(後の大和国)に都をおいた。
      磐余玉穂宮(いわれのたまほのみや、現在の奈良県桜井市池之内か)に遷す。

継体21年(527年)
  6月 近江毛野は6万人の兵を率いて、新羅に奪われた南加羅・喙己呑を回復するため、任那へ出発した。
      この計画を知った新羅は、筑紫国造磐井へ贈賄し、ヤマト政権軍の妨害を要請した。
      磐井は挙兵し、火の国と豊の国を制圧した。
      同時に倭国と朝鮮半島とを結ぶ海路を封鎖して、近江毛野軍の進軍をはばんで交戦した。
  8月 物部麁鹿火が将軍に任命された。

継体22年(528年)
 11月 磐井軍と麁鹿火率いるヤマト政権軍が、筑紫三井郡(現福岡県小郡市・三井郡付近)にて交戦。
     激しい戦闘の結果、磐井軍は敗北した。
 12月 磐井の子、筑紫君葛子(つくしのきみくずこ)は糟屋の屯倉をヤマト政権へ献上し、死罪を免ぜられた。

継体22年(529年)
  3月 ヤマト政権(倭国)は再び近江毛野を任那の安羅へ派遣し、新羅との領土交渉を行わせた。

継体24年(531年)
     後継を皇子の勾大兄(安閑天皇)に譲位(記録上最初の譲位例)し、その即位と同日に崩御した。

参照・補足
出自について

継体天皇以降は、大和の勢力と越前や近江など北方の豪族の勢力が一体化し、ヤマト王権の力が国内で強くなった。


卷第十八  第27代安閑天皇   広国押武金日天皇(ひろくにおしたけかなひのすめらみこと)
        第28代宣化天皇   武小広国押盾天皇(たけをひろくにおしたてのすめらみこと)
第27代安閑天皇
父=継体天皇(長子)  母=尾張目子媛(おわりのめのこひめ)。
皇后=春日山田皇女(かすがのやまだのひめみこ)-仁賢天皇の皇女

事績
継体25年(531年)
  2月 継体天皇に譲位されて即位する。そのとき既に66歳であり、わずか4年で崩御した。

安閑2年(533年)
  5月 30ヶ所以上に上る屯倉の大量設置。
  8月 犬養部の設置。

安閑4年(535年)
 12月 崩御。70歳

参照・補足
継体天皇の死後、安閑天皇・宣化天皇の朝廷と欽明天皇の朝廷が並立していたとか、2朝間に内乱があったと見る説もある(「辛亥の変」説)
在位年にも矛盾有り。

第28代宣化天皇
父=継体天皇(第二子)  母=尾張目子媛(おわりのめのこひめ)
安閑天皇の同母弟。
皇后=橘仲皇女(たちばなのなかつひめみこ)-仁賢天皇の皇女

事績
宣化元年(536年
 12月 先の安閑天皇が亡くなったとき、その子供が居なかったために弟の宣化天皇が即位。
      蘇我稲目が大臣となり、子の蘇我馬子以降続く、蘇我氏の全盛の礎が築かれる事となる。

宣化2年(537年
 10月 大伴金村に命じて新羅に攻められている任那に援軍を送った。

宣化3年(538年)
     百済より仏教伝来。(公伝は552年)
宣化4年(539年)
  2月 崩御。73歳。

参照・補足


卷第十九  第29代欽明天皇   天国排開広庭天皇(あめくにおしはらきひろにはのすめらみこと)
父=継体天皇(嫡子)  母=手白香皇女(たしらかのひめみこ。仁賢天皇の皇女
皇后=石姫皇女(いしひめのひめみこ)-宣化天皇の皇女

事績
宣化4年(539年)
 12月 即位。

欽明元年(540年)
     大伴金村失脚する。これにより物部氏と蘇我氏の二極体制ができあがる。

欽明2年(541年)
     稲目の娘である堅塩媛や小姉君を妃とする。
     百済の聖明王の間で、任那の復興について協議。

欽明13年(552年)
     仏教公伝:百済から仏像と経文が伝来する。(伝来は宣化3年AD538年説が有力)

欽明14年(553年)
     暦博士の任期が切れたので交代の博士を派遣するように百済に使者を送る。
     (元嘉暦と思われる)

欽明15年(554年)
     新羅との戦で、聖明王が亡くなる
     百済より、暦博士固徳王保孫(ことくおうほうそん)ら来日。

欽明23年(562年)
     任那を滅亡。 
     新羅に討伐軍を送るが、敵の罠にかかってしまい退却する。

欽明天皇32年(571年)
  4月 崩御


参照・補足
①二朝並立説
『日本書紀』によれば、欽明天皇は庶兄・宣化天皇が崩御した後即位したとされている。
しかし同書の紀年には幾つかの矛盾が見られ、それを解決するための議論がいくつか提示されてきた。

卷第二十  第30代敏達天皇   淳中倉太珠敷天皇(ぬなかくらのふとたましきのすめらのみこと)
父=欽明天皇(第二皇子)  母=皇后石姫皇女-宣化天皇の皇女
皇后(前)=広姫(ひろひめ)-息長真手王の娘・・・敏達4年(575年)薨去
皇后(後)=額田部皇女(ぬかたべのひめみこ、後の推古天皇)

事績
敏達元年(572年)
  4月 即位

敏達4年(575年)
    卜占の結果に従い、訳語田幸玉宮(おさたのさきたまのみや)へ遷都。

敏達6年(578年)
    世界最古の企業とされる金剛組が発足した。

敏達14年(585年)
     物部守屋が天皇に働きかけ、仏教禁止令を出させ、仏像と仏殿を燃やさせた。
 8月 病が重くなり崩御。

参照・補足


卷第二十一  第31代用明天皇   橘豊日天皇(たちばなのとよひのすめらみこと)
          第32代崇峻天皇   泊瀬部天皇(はつせべのすめらみこと)
第31代用明天皇
父=欽明天皇(第四皇子)  母=堅塩媛-蘇我稲目の娘
聖徳太子の父。
皇后=穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)-欽明天皇の皇女

事績
敏達14年(585年)
  9月 即位

用明天皇元年(586年)
  5月 穴穂部皇子は炊屋姫(のちの推古天皇)を犯さんと欲し、殯宮に押し入ろうとした。
     先帝の寵臣三輪逆は門を閉じてこれを拒んだ。
     穴穂部皇子は蘇我馬子と物部守屋に三輪逆は不遜であると相談し、馬子と守屋は同意した。
     守屋によって三輪逆は惨殺された。

用明2年(587年)
  4月2日 用明天皇は病(疱瘡)になり仏法を信奉したいと欲し群臣に諮った。

  4月9日 用明天皇崩御。後嗣が定まらず皇位は一時的に空位となった。
  5月   守屋は穴穂部皇子を天皇に立てんと欲した。
  6月   蘇我馬子は炊屋姫を奉じて、穴穂部皇子と宅部皇子を誅殺した。
  7月   馬子は諸皇子、諸氏族の大軍を派遣して、守屋を滅ぼした。


参照・補足
①新唐書の目多利思比孤について
『隋書』卷81 列傳第46 東夷にでは、
俀王「姓阿毎 字多利思北孤 號阿輩雞彌」とある。
『新唐書』東夷伝日本伝では
「用明 亦曰目多利思比孤 直隋開皇末 始與中國通」とあり用明天皇が多利思比孤であると記述している。


第32代崇峻天皇
父=欽明天皇(第12皇子)  母=小姉君(おあねのきみ)-蘇我稲目の娘
敏達天皇、用明天皇、推古天皇の異母弟にあたる

事績
用明2年(587年)
  8月 大臣蘇我馬子によって推薦され即位した。

崇峻5年592年
 10月 馬子が部下に暗殺命令を下した。
     そして東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)が崇峻天皇を暗殺した。

参照・補足
死亡した当日に葬った。陵地・陵戸がない。


卷第二十二  第33代推古天皇  豊御食炊屋姫天皇(とよみけかしきやひめのすめらみこと)
父=欽明天皇  母=堅塩媛-大臣蘇我稲目の娘


事績
欽明32年(571年)
      異母兄・渟中倉太珠敷皇子(第30代敏達天皇)の妃となる。

敏達5年(576年)
  3月、皇后広姫の逝去を承け皇后に立てられた。

敏達14年(585年)
  8月 35歳のとき、敏達天皇が没した。

祟峻5年(592年)
 11月 崇峻天皇が馬子の指図によって暗殺された。
 12月 馬子に請われて、豊浦宮において即位した。時に39歳。

推古元年(593年)
  4月 甥の厩戸皇子(聖徳太子)を皇太子として万機を摂行させた。

推古10年(602年)
     百済より観勒(かんろく)という学僧が、暦本、天文地理書、遁甲方術の書をもって来日。
     暦法については玉陳(たまふる)という人物が習う。

推古32年(624年)
     馬子が葛城県の支配権を望んだ時、女帝はこの要求を拒絶した。

推古36年(628年)
  3月 小墾田宮において崩御。75歳。

参照・補足
『日本書紀』推古紀によれば、18歳で皇后に立てられたとあり、これを採用した場合には欽明天皇32年(敏達天皇即位の年)に皇后となったことになり、広姫立后の記事と矛盾することになり、広姫立后記事か推古の立后時の年齢のいずれかが誤りの可能性がある。


卷第二十三  第34代舒明天皇  長足日広額天皇(おきながたらしひひぬかのすめらみこと)
父=押坂彦人大兄皇子(敏達天皇の皇子)  母=糠手姫皇女(敏達天皇の異母皇女)
皇后=宝女王(たからのひめみこ、後の皇極天皇)-茅渟王の娘

事績
推古36年(628年)
  3月 小墾田宮において推古天皇が崩御。
      蘇我蝦夷は田村皇子と山背大兄皇子に分かれていることを知り、田村皇子を立てて舒明天皇にした。

舒明元年(629年)
  1月 即位。

舒明天皇2年(630年)
  1月 宝皇女を皇后に立てる。
  3月 高句麗・百済が各々使者を遣わして朝貢する。
  8月 遣唐使(大使犬上御田鍬・薬師恵日ら)を派遣。
 10月 飛鳥岡本宮(明日香村)に遷る。

舒明3年(631年)
  3月 百済の義慈王が王子の豊章を人質として送る。
 
舒明4年(632年)
  8月 唐が高表仁を派遣し、犬上御田鍬らを送る。
 10月 唐の高表仁が難波津に到着。

舒明5年(633年)
  1月 高表仁が唐へ戻る。

舒明6年(634年)
  1月 豊浦寺(明日香村)塔の心柱を建てる(『聖徳太子伝暦』)。

舒明8年(636年)
  6月 岡本宮が火災に遭う。田中宮(橿原市田中町)に遷る。

舒明9年(637年)
     蝦夷が反乱したため、上毛野形名を将軍として討たせる。

舒明10年(638年)
    法起寺(斑鳩町)建立と伝える。
舒明11年(639年)
  7月 詔して、百済川の辺に大宮と大寺(桜井市?)を造らせる。
 12月 百済大寺の九重塔が建つ。

舒明天皇13年(641年)
 10月 49歳で崩御


卷第二十四  第35代皇極天皇  天豊財重日足姫天皇(あめとよたからいかしひたらしひめの)
父=茅渟王(ちぬのおおきみ)-押坂彦人大兄皇子の子
母=吉備姫王(きびひめのおおきみ)-桜井皇子(欽明天皇の皇子)の娘


事績

不明年   高向王と結婚。

舒明2年(630年)
   1月  舒明天皇の皇后に立てられる。

舒明13年(641年)
 10月  舒明天皇が死去。

皇極元年(642年)
  1月15日 即位。
  1月29日 阿曇比羅夫が百済の弔使を伴って帰国。
  4月 8日 追放された百済の王族、翹岐が従者を伴い来日。
  9月 3日 百済大寺の建立と、船舶の建造を命じる。
  9月19日 宮室を造ることを命じる。
 12月21日 小墾田宮に遷る

皇極2年(643年)
 11月   蘇我入鹿が山背大兄王を攻め、数日後に王は自殺。

皇極4年(645年)
  6月12日 中大兄皇子らが宮中で蘇我入鹿を殺す。(乙巳の変)
  6月13日 蘇我蝦夷が自害。
  6月14日 軽皇子に譲位。新しい孝徳天皇により、皇祖母尊の称号を奉られる。

白雉4年(653年)
         中大兄皇子とともに、孝徳天皇を捨てて倭飛鳥河辺行宮に移る。

白雉5年(654年)
 10月1日  中大兄皇子とともに、病に罹った孝徳天皇を見舞うべく難波長柄豊碕宮に赴く。
 10月10日 孝徳天皇が死去。

卷第二十五  第36代孝徳天皇   天万豊日天皇(あめよろづとよひのすめらみこと)
父=茅渟王(押坂彦人大兄皇子の長男)    母=吉備姫王
皇極天皇(斉明天皇)の同母弟で、天智天皇(中大兄皇子)の叔父にあたる。
皇后=間人皇女-皇極天皇の娘

事績
皇極4年(645年)
  6月12日 中大兄皇子が蘇我入鹿を殺害。乙巳の変
  6月13日 蘇我蝦夷が自宅に火を放ち自殺する。
  6月14日 皇極天皇は中大兄皇子に位を譲ろうとした。
         中大兄は辞退して軽皇子を推薦した。
         軽皇子は三度辞退して、古人大兄皇子を推薦したが、古人大兄は辞退して出家した。 
  6月14日 孝徳天皇即位。この年を大化元年とした。
  7月 2日 皇后と2人の妃を立てた。
  7月10日 高句麗、百済、新羅の使者が朝貢した。
         任那の調を代行した百済の使者に対し、調の不足を叱責した。
  7月14日 尾張国と美濃国に神に供える幣を課した。
  8月 5日 東国等の国司を任命し、戸籍の作成と田畑の検校などを命じた。
         朝廷に鐘を備え、訴訟の遅滞に抗議する者が撞くようにした。良民と奴婢の子の別を定めた。
  8月 8日 仏教の援助を約し、僧旻ら10人の僧を選び十師とした。
  9月 1日 使者を遣わして諸国の武器を治めさせた。
  9月 3日 古人皇子が謀反を企んだ。
  9月12日 中大兄が古人皇子を討った(11月30日、11月とも)。
  9月19日 土地の貸借を禁止した。
  12月 9日 都を難波長柄豊碕に遷した。

大化2年(646年)
  1月 改新之詔を宣した。
      諸国に兵庫を修営らせた。
  2月 民の投書を受けるための櫃を設けた。
      高句麗、百済、任那、新羅の使が調賦を貢いだ。
  3月 東国の国司に訓戒する詔を発した。
      国の朝集使に対し、国司の失政を咎め、訓戒する詔を発した。
      中大兄皇子が自らの入部と屯倉を天皇に献じた。
      王臣と庶民の墓制を定め、殉死を禁止した。
  8月 品部を廃止し、旧職を廃して百官を設け、官位を叙する方針を詔した。
  9月 高向玄理を新羅に遣わし、任那の調をやめさせた。蝦蟇行宮に行った。

大化3年(647年)
  1月 高句麗と新羅の使が調賦を貢いだ。
  4月26日 - 皇子、群臣、百姓に対して庸調を与えるむねを詔した。
  この年、七色十三階の冠を制定した。
  新羅が金春秋(後の武烈王)を遣わして高向玄理らを送った。金春秋は人質としてとどまった。
  渟足柵を造り、柵戸を置いた。

大化4年(648年)
  2月 三韓に学問僧を遣わした。
  4月 古い冠を廃した。左右大臣はなお古い冠をかぶった。
  この年、新羅が使を遣わして調を貢じた。
  磐舟柵を治めて蝦夷に備え、越と信濃の民を選んで初めて柵戸を置いた。

大化5年(649年)
  2月 冠十九階を制定した。高向玄理と釈僧旻に命じて、八省百官を置いた。
  3月 蘇我日向が皇太子に蘇我石川麻呂を讒言した。天皇が軍兵を起こしたため、石川麻呂は逃げ、自殺した。
  4月 巨勢徳陀古を左大臣に、大伴長徳を右大臣にした。
  5月 三輪色夫と掃部角麻呂を新羅に遣わした。
  この年 -、新羅が金多遂を遣わして人質にした。

白雉元年(650年)
  2月 白雉を観る儀式を行い、大赦し、白雉と改元し、穴戸国に鷹を放つことを禁じ、同国の調を3年間免除した。
  4月 新羅が使を遣わして調を貢いだ。

白雉2年(651年)
  6月百済と新羅が使を遣わして調を貢ぎ物を献じた。
 12月 大郡から新しい宮に遷り、そこを難波長柄豊碕宮と名づけた(大化元年12月9日に同趣旨の記事あり)。
 この年 、新羅の貢調使の知万が唐国の服を着て筑紫に着いたので、その変更をとがめて追い返した。

白雉3年(652年)
  1月 元日礼を終えてから、大郡宮に行った。
  2月 班田を完了した。
  3月 難波宮に帰った。
  4月 戸籍を造った。
 12月 天下の僧尼を内裏に呼び、設斎、大捨、燃明した。

白雉4年(653年)
  5月 遣唐使を送った。一船の大使は吉士長丹、副使は吉士駒であった。
      別の一船の大使は高田根麻呂、副使は掃守小麻呂であった。
  6月 百済と新羅が使を遣わして調を貢ぎ物を献じた。
  7月  難破した遣唐使船(高田根麻呂)の生存者5人に、その位を進め禄を授けた。
  この年、皇太子(中大兄)が倭京に遷ることを請うたが、天皇は許さなかった。
  皇太子は、皇祖母尊(皇極)と皇后(間人)、皇弟を連れて倭飛鳥河辺行宮に行った。
  公卿大夫、百官の人らが皆随って遷った。
  天皇は恨んで皇位を去りたいと思い、宮を山碕に造らせ、歌を皇后に送った。

白雉5年(654年)
  1月 中臣鎌足に紫冠を授け、封を増した。
  2月 遣唐使を送った。押使は高向玄理、大使に河辺麻呂、副使に薬師恵日(5月とも)。
  7月 西海使の吉士長丹らが、百済と新羅の送使とともに筑紫に着いた。
 10月 天皇の病を聞き、皇太子が、皇祖母尊、皇后、皇弟、公卿らを率いて難波宮に赴いた。
 10月10日  崩御。

卷第二十六  第37代斉明天皇  天豊財重日足姫天皇(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと)
父=茅渟王(ちぬのおおきみ)-押坂彦人大兄皇子の子
母=吉備姫王(きびひめのおおきみ)-桜井皇子(欽明天皇の皇子)の娘

事績
斉明元年(655年)
  1月 飛鳥板蓋宮で再び即位。(皇極天皇重祚)
      政治の実権は皇太子の中大兄皇子が執った。
  7月 北の蝦夷99人、東の蝦夷95人、百済の調使150人に饗応する。
  8月 河辺麻呂が大唐から帰国。
 10月 小墾田に宮を造ろうとしたが、中止。
 
斉明2年(656年)
     飛鳥の岡本に宮を造り始める。
     香山の西から石上山まで溝を掘り、舟で石を運んで垣を造る。

斉明天皇3年(657年)
  7月 覩貨邏国(とからのくに)の男2人、女4人が筑紫に漂着したので、召す。
      須弥山の像を飛鳥寺の西に造り、盂蘭盆会を行った。暮に覩貨邏人を饗応する。
  この年、使を新羅に遣って、僧の智達を新羅の使に付けて大唐に送ってほしいと告げる。
  新羅が受け入れなかったので、智達らは帰国。


斉明天皇4年(658年)
 11月 蘇我赤兄が有間皇子の謀反を通報。
     有間皇子を絞首刑に、塩屋・魚と新田部米麻呂を斬刑にする。

斉明天皇5年(659年)
  3月 吐火羅人が妻の舎衛婦人とともに来る。
     甘檮丘の東の川辺に須弥山を造って陸奥と越の蝦夷に饗応する。
     阿倍比羅夫に蝦夷国を討たせる。
     阿倍は蝦夷集めて饗応し禄を与える。後方羊蹄に郡領を置く。粛慎と戦って帰り、虜49人を献じる。
  7月 坂合部石布と津守吉祥を唐国に遣わす。

斉明6年(660年)
  7月 百済が唐と新羅に攻められて滅亡。
  9月 百済の建率の某と沙弥の覚従らが来て、鬼室福信が百済復興のために戦っていることを伝える。
 10月 鬼室福信が貴智らを遣わして唐の俘百余人を献上し、援兵を求め、皇子の扶余豊璋の帰国を願う。
     天皇は百済を助けるための出兵を命じ、また、礼を尽くして豊璋を帰国させるよう命じる。
 12月 軍器の準備のため、難波宮に行く。

斉明天皇7年(661年)
  1月 西に向かって出航。
  5月 朝倉橘広庭宮に遷る
  7月 朝倉宮で崩御。

参照・補足
卷第二十七  第38代天智天皇   天命開別天皇(あめみことひらかすわけのすめらみこと)
父=舒明天皇    母=皇極天皇

事績
推古34年(626年)
   誕生

皇極 4年(645年)
  6月12日  乙巳の変。
  6月14日  立太子。

斉明 7年(661年8月24日)
  7月24日  斉明天皇が崩御。

天智元年(661年)
  7月24日  称制

天智3年(663年)
      白村江の戦いで大敗を喫っす。
      以後、国防の強化。

天智4年(665年)
  2月 鬼室福信の功によりその縁者である鬼室集斯(きしつしゅうし)に小錦下の位を授けた。
      (天智8年(669年)に近江国蒲生郡に送られる)。

天智6年(667年)
      大津へ遷都。

天智7年(668年)
  1月 大津宮で即位

天智9年(670年)
     我が国最古の全国的な戸籍「庚午年籍」を作成。

天智10年(672年)
 12月3日  46歳で崩御

参照・補足
①天武天皇暗殺説
『扶桑略記』では病死説の後一説として、
「一云 天皇駕馬 幸山階鄕 更無還御 永交山林 不知崩所 只以履沓落處爲其山陵 以往諸皇不知因果 恒事殺害」とある。
すなわち、山中で行方不明になったとされることから天武天皇側による暗殺説もある。


卷第二十八  第40代天武天皇 上  天淳中原瀛真人天皇(あまのぬなはらおきのまひとのすめらみこと)
卷第二十九  第40代天武天皇 下  天淳中原瀛真人天皇(あまのぬなはらおきのまひとのすめらみこと)
父=舒明天皇    母=皇極天皇



天智10年(671年)
   重病の天智天皇に後事を託されるも固辞し、出家して吉野に移る。

弘文元年(672年)
   壬申の乱で天智天皇の息子である大友皇子(弘文天皇)を破る。

弘文天皇2年(673年)
   飛鳥浄御原宮にて即位する。

天武4年4月17日(675年
   部曲を廃止する。
   占星台を設置する。

天武5年(676年)
   新羅使の来朝を受け遣新羅使を派遣、新羅との国交保持のため新羅と対立していた唐との国交を断絶した。
   陰陽寮を設置する。

天武7年(678年)
   官人の勤務評定(考)や官位の昇進(選)に関して考選法を定めた。

天武8年(679年) 吉野に行幸する。
   吉野の盟約-皇后、草壁皇子らに皇位継承争いを起こさないよう誓わせる。

天武9年(680年)
   皇后(後の持統天皇)の病気平癒のため薬師寺の建立を命じる。

天武10年(681年)
   飛鳥浄御原宮律令の制定を命じる。草壁皇子を皇太子に立てる。

天武11年(682年)
   匍匐礼を廃し、立礼にすることを命じる。

天武12年(683年)
   富本銭の発行。

天武13年(684年)
   八色の姓を制定。
   豪族の弱体化策として豪族に与えられていた部曲(かきべ)を廃止し、食封制度も改革した。
   さらに、一貫した皇族だけの皇親政治を行った。
   これに対応して行政機構も太政官と大弁官が並立した。
   上層官僚貴族には実質的な権力を伴わない納言の官職が与えられた。
   天皇の命令は主に大弁官を通じて地方に伝達された。
   また、天武天皇は皇親政治を徹底するためにその治世中、大臣を1人も置かなかった。

天武14年(685年)
   冠位四十八階を制定する。

朱鳥元年(686年)
 9月9日 崩御。

参照・補足
①誕生年について

卷第三十  第41代持統天皇(686 - 697)  高天原広野姫天皇(たかまのはらひろのひめのすめらみこと)
父=天智天皇    母=遠智娘(おちのいらつめ)-蘇我倉山田石川麻呂の娘

事績
朱鳥元年(686年)
  9月 称制。
 10月 親友の川島皇子の密告により、謀反の意有りとされて大津皇子が処刑される。

持統3年(689年)
  4月 草壁皇子が皇位に就くことなく薨去。

持統4年(690年)
  飛鳥浄御原宮で即位。
  勅を奉りて始めて元嘉暦と儀鳳暦とを行う。

持統8年(694年)
  藤原宮に遷都。

持統11年(697年)
  2月 草壁皇子の遺児、軽皇子を15歳で立太子させた。
  8月 祖母である持統天皇に譲位され文武天皇即位。自らは天皇を後見した。
      初めて、譲位後に太上天皇を名乗った。


参照・補足


参考資料   
「新訂増補国史大系  日本書紀 前篇」 (吉川弘文館 2000 黒坂勝美)
「新訂増補国史大系  日本書紀 後編」 (吉川弘文館 2000 黒坂勝美)
「日本書紀 上・中・下」  (教育社 1992年 山田宗睦訳)  
「日本書紀 上・下」    (講談社) 
「古事記 上・中・下」   (講談社 1977年)
「口語訳 古事記」 (文藝春秋社 2002 三浦佑之)
「古事記への旅」 (NHKブックス347 日本放送協会 1979)

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